母の死

「……よく戻った。精悍な顔になったな」
 杏寿郎たちが煉獄家に戻ることを許可されたのは、狭霧山に向かってから約一年後のこと。四人全員が岩を斬ることに成功してからだった。
 久しぶりに戻ってきた杏寿郎たちにハナは喜び、はきはきと挨拶する錆兎にもしっかりした坊やだと褒めていた。坊やと呼ばれたことで錆兎はなんとも複雑そうな顔をしていたが、不満を飲み込んで世話になると頭を下げた。弟は初対面の相手に少々人見知りしていたが、錆兎が歩み寄って先に話しかけてくれたので難なく打ち解けたようだ。
 錆兎は初めて会った父を見て、空気が違うと緊張していた。元柱とはいえ現役を退いて長い鱗滝とはやはり違って感じるのだろう。
 そうして客間に案内された小芭内と錆兎はハナに連れられていき、杏寿郎と義勇は父に呼ばれて母の私室へと足を向けた。
「あの二人には後ほど話す。瑠火」
 杏寿郎まで息を呑んでしまったのは、情けない限りだった。
 長くは生きられないということは、杏寿郎はもとい義勇も教えられて知っていた。辛さをおくびにも出さない母に心労をかけないよう、杏寿郎も顔に出さないようにしていたというのに。
 一年ぶりに会った母は、痩せ細り補助なしでは起き上がれないほどに病が進行していた。
 それでも目の光だけは強く凛としていて、そのおかげで杏寿郎は呆けた状態から我に返ることができたといえるだろう。
「……おかえりなさい。このような格好でごめんなさいね、少し見ない間に……二人とも凛々しくなりました」
 あなたたちなら煉獄家は安泰です。父に背中を支えられながら上体を起こし、そう囁くように口にして笑みを浮かべる。
「長く生きられないとわかっていたわりに、随分生き長らえたような気がしますが……祝言だけは、見られないのが残念です」
 強く優しい子の母になれて幸せでした。そう伝えてくれたのは狭霧山に行く前だった。その頃から覚悟をしておくようにと医者に言われ、本当に随分持ち堪えてくれたのだろうと思う。
 人の命は尊いもので、人が死ぬのは悲しいものだ。死期が見えている母ですら辛いのに、突然の別れだった義勇たちはもっと混乱して辛かっただろう。
 鬼に喰い物にされるばかりの弱き人を助けよと、母は常日頃言い聞かせていた。鬼を斬る。安心して過ごせるように。それが杏寿郎の煉獄家に生まれた者の使命であり、果たすべき義勇との約束であり、母に報いるための責務だ。
 それは、母がいなくなっても引き継いでいくべきものなのだ。

*

 何度も狭霧山から杏寿郎を呼び戻すことを提案していたが、瑠火は頑なにそれを拒否してきた。
 息子の成長の妨げになってはならぬと言って、奇跡のように今まで持ち堪えてくれた。杏寿郎たちが戻った翌日、呼吸の浅い瑠火に気づいてハナに医者を呼びに行かせた。
 強いひとだ。槇寿郎たち家族の精神の支えになっている。瑠火がいなくなるだけで均衡は崩れると容易に想像できる。すでに槇寿郎は耐えられる気がしていない。
 行かないでくれと、みっともなく泣き叫んでしまいそうだった。
「……考える間もないほど、忙しくするのは良いことですよ。……あなたは……考えすぎて、思考が落ちていく節がありましたから、今も……」
「……気づいていたのか」
 決して瑠火には見せないようにしていたつもりだが、呼吸術で思い悩んでいたのは事実だ。先祖の手記は槇寿郎の精神を痛めつけるのに充分なほどの威力を持ち、瑠火がこうして生き長らえてくれているから踏み止まっている。心の支えがいなくなったらきっと、槇寿郎はもう立ち上がれないほどに打ちのめされるだろう。
「……ずっと見てきたものですから……あなたのようにお強い方でも、思い悩むものだと」
「俺など大したものではない。所詮大したものにはなれなかった……」
「……私が見てきた煉獄槇寿郎は、強く優しく凛々しく、妻と子にたくさんの愛情を注ぐ素敵な殿方でした」
 何があっても見守っている。己のしてきたことを疑わず、子を疑わず、弱き人のために。子供たちの稽古は気が紛れるだろうから、是非倒れない程度に情熱を注ぐべきである。子に過ぎたる宝なし。そう途切れ途切れに瑠火は口にした。涙声で抱きしめながら何度も頷くと、腕の中で小さく笑った気配がした。
「申し上げたこと、……忘れないでくださいね。あなたが成してきたことは、紛れもない事実として積み重ねてある。……弱き人を助けてきたことも、父の背中を見て強く優しい子が育ったことも、……紛い物でも猿真似でも、ありませんから」
「………、見たのか……?」
「……一度、廊下に落としていたことがおありでした。拾われたハナさんに仕舞い場所を聞かれて、気づかれぬよう戻していただいたのです……」
 本当に気づいていなかったとは素晴らしい、と嬉しそうな声が掠れて鼓膜を揺らす。
「あの子たちの指標となってあげてください。約束ですよ」
「………、……ああ」
 瑠火との約束は破れない。見守っているというなら、彼女は本当に見ているだろう。怠けていればきっと喝を入れに来る。会えるのならそれでも望んでしまいそうになるが、そうすれば瑠火は幻滅してしまうに違いない。
 私が愛した槇寿郎さんでいてくださいね、と暗に釘を刺されてしまっては、裏切るわけにもいかなかった。

「……千寿郎?」
 厠から戻ると部屋の前に千寿郎が立っていた。
 迷子のような顔をして、今にも泣きそうに表情を歪めているが涙は出ていない。どうしたのかと自分で問いかけておきながら、理由などわかりきっているものを、と自嘲した。
「……僕がいると兄上は悲しめないので……」
「………、誰かが言ったのか?」
 小さな頭が横に振れる。杏寿郎がそんなことを言うわけがなく、千寿郎がそう感じただけのようだが、義勇には心当たりがあった。
 両親のことは殆ど覚えていなくとも、姉の痛々しい笑顔だけは覚えているからだ。
 強く印象に残ったのだろう。両親がいた頃なら姉が義勇の世話をする必要もなく、苦労をかけることなどなかった。それでも記憶にある母代わりをしていた姉は、辛そうな顔も涙を見せることもなかった。だからこそ、記憶に埋もれている中での痛々しい笑顔が焼きついたのだろうと思う。
 もしかしたら杏寿郎も、姉と同じ笑顔をしていたのかもしれない。
「部屋に戻ろう。杏寿郎が心配するから」
 手を差し出すと泣きそうな不安顔が見上げてくるが、そっと小さな柔らかい手が掴んでくる。母が亡くなってもう会えないということを、聡明な千寿郎は一夜も経っていないというのに理解して悲しんでいる。家の中がばたばたしていて、いつもと違う様子にも落ち着かないのだろう。兄や父に泣きつきたくても、二人とも同じように辛いのだということまで理解して気遣ってしまっているのだ。
 部屋の前まで辿り着くと、またも立ち尽くした千寿郎に目線を合わせるため膝をついて顔を覗き込んだ。
「……千寿郎は優しいな。私はただ泣くだけで、何も役に立てなかった」
 姉が泣けないなど考える間もなく義勇の目は涙を流し、それを止めることなく抱きしめてくれたように思う。姉に甘えていたのは義勇で、千寿郎のように泣けないことを気遣おうともしなかったのに。
「……でも姉さんは、一人だったら耐えられなかったと言ってくれていたから。きっと杏寿郎も千寿郎がいて救われてると思う」
「そうでしょうか……」
「うん。だからお前は泣きたいなら兄の胸で泣けばいい。胸に押しつけておけば兄の顔は見えないだろう? それなら杏寿郎だってこっそり悲しめる」
「本当だ!」
 気づきを得た千寿郎は落ち込んでいた様子を一変させ、少しばかり大きな声を出してしまい慌てて口元を両手で覆い隠した。その直後に立ち止まっていた部屋の戸がすらりと開く。
「あ……ご、ごめん、騒いで……」
「……いいや」
 杏寿郎が笑っている。力なく、義勇の目には姉のように痛々しく。しゃがんだ義勇には千寿郎の表情がよく見えた。彼は先ほどとうって変わって、兄を見上げながら目を潤ませ始めていた。
「おいで」
「……千寿郎」
「……兄上……」
 千寿郎の背中を押して促してやると、おずおずと足を進めていく。部屋へと招き入れた杏寿郎は先ほどよりも笑みを深めて弟へ笑いかけた。
「すまなかったな。千寿郎も一緒に送り出す準備をしよう。……別れの日は、ちゃんと泣かずに送り出せるようにな」
「……はい」
 我慢できずに流れ落ちてしまったのか、腕でごしごしと目元を擦る千寿郎を抱き寄せた杏寿郎を見届け、義勇はようやくほっとして立ち上がった。挨拶をして戸を閉めようと手をかけたところで、杏寿郎がこちらへ手招きした。
「でも……」
 躊躇っていると今度は布団を叩いて義勇を呼ぶ。正面から抱きつかれた結果、千寿郎の頭が腹のあたりでぐすぐす泣いているせいか、身動きが取り難いのだろう。
「今日だけここにいてくれないか」
 声を出さないように泣いている千寿郎の背中をゆっくり優しく叩きながら、杏寿郎は義勇に向かって頼みごとを口にした。男の子と同じ布団は姉が見たら悲鳴を上げるかもしれないけれど、狭霧山で散々隣で寝ていたのだから今更だ。いつもより鮮明に思い出した姉の姿は、義勇を抱きしめながら一緒に眠るものだった。
「……もう寝たのか」
 室内に足を踏み入れて、戸を閉めて布団へ近づく。杏寿郎の腹に埋もれている千寿郎からは、いつの間にか静かな寝息が立てられていた。
「よほど気疲れしたんだろう。すまなかったな、義勇にも気を遣わせてしまった」
「………」
 ゆるりとかぶりを振る。
 その気遣いの言葉は結局のところ杏寿郎は兄で、義勇はどこまでも妹でしかないと思い知らされるようだった。
 けれど、義勇は年長者で許婚だ。杏寿郎を甘やかして慰めたってきっと、罰は当たらない。
 千寿郎ごともぞもぞ寝転がろうとしている杏寿郎に掛け布団をかけ、その隣に義勇も潜り込む。千寿郎を挟んで両手を伸ばした。杏寿郎の正面から抱きしめるように。
「無理じゃないか? 千寿郎が真ん中にいるのに」
 父上なら二人まとめて抱きしめてくれるけれど、と義勇の体格では足りないと暗に言われて少しばかりむっとした。
 千寿郎にくっつき、杏寿郎の胸のあたりに顔がくるようにして体勢を落ち着かせ、再度手を伸ばして杏寿郎の寝衣を掴んだ。抱きしめるまではいかずとも手が届けばいいと妥協した。
「顔は上げないでいてくれるのか?」
「……うん」
 千寿郎の後頭部に顎を埋めつつ目を瞑る。普段の溌剌とした声とは似ても似つかない声音で礼を告げてくる様子に、姉はどんな気持ちで一緒に寝てくれたのだろうと考えた。きっと邪魔だったこともあったろうに、何があろうとおくびにも出さなかった。瑠火のように。
 二人のような女性になりたい。そうしたらもっと、杏寿郎も頼ってくれるかもしれない。どれほど遠い道のりかなど想像もつかないけれど、ひっそり目標にするくらいはいいだろう。それほどに姉と瑠火は義勇にとって手本のような女性だった。