留守番のリボン

 鬼のこと、鬼狩りのこと、知ってから日に日に考えることがある。姉を殺したあの鬼、鬼狩り、とりわけ槇寿郎のような柱と呼ばれる人の背中の広さ、それから。
 安心して過ごせるようにと、鬼を斬ると約束してくれた杏寿郎の言葉と簪が脳裏を過る。皆が立派で義勇のような者にも優しい。怪我を負った鬼狩りは、動けるようになると挨拶をして煉獄家を出ていった。柱の迷惑になるからと、鬼狩りが世話になれる屋敷へ転居していったのだそうだ。誰もかれもが他者のためを考えて行動しているのだ。
――では自分は?
 煉獄家で世話になっている現在、義勇は誰かのためになるようなことをしていない。姉に守られたから生きているのに、それを何の役にも立てることなく、未だぬくぬくと守られているだけで本当にいいのだろうか。そう考え続けていた。
 ならば今現在迷惑をかけてしまうとしても、一度鬼狩りになってしまえば辞めるまで役に立つことができるのではないかと思いついたのだ。だからのんびり本を読んでいた槇寿郎の部屋へ行き、深く頭を下げて鬼狩りになりたいと志願した。大した仕事ができない可能性のほうが高いかもしれないが、今よりはよほど世のために生きられるだろうと思ってのことだった。
 そもそも居候の身で、更に稼業の大事な剣術や呼吸を教わろうというのが間違いかもしれない。義勇には煉獄家しか鬼狩りの知り合いがいないものだから、まるで歓迎されてやってきたかのように良くしてくれるものだから、随分欲深くなってしまっていたのだと思う。
「きみは杏寿郎の許婚だ。わざわざ鬼狩りになって命を危険に晒す必要はない」
 そう言われて納得しかなかった。
 槇寿郎ははっきりと言わなかったが、鬼狩りになるなら許婚、ひいては煉獄家の嫁としての義務を果たせなくなるかもしれないのだ。その立場を放り出したらもう他人であり、こうして居候を許してもらえなくなる。
 そうだ。許婚だから今ここでのんびりと過ごせていて、許婚だから杏寿郎も安心して過ごせるよう鬼を斬ると言ってくれたのだ。
――でも。
 義勇は姉に守られた。何もできずに殺させてしまい、きっと罰が当たるはずなのに、こんな義勇にも優しくしてくれる人が現れた。このまま優しさに甘えてしまっては、いずれは何もできない人間になってしまう。
 杏寿郎のそばにいるために、恥ずかしくない人間になりたいのである。
 いや。そばにいられなくとも、杏寿郎が頑張ると言うなら義勇も一緒に頑張りたい。隣同士や背中合わせなんて贅沢は言わない。三歩後ろでなくともかまわないとさえ考えていた。
 けれど。
 私室に戻った義勇は髪に結んでいたリボンを解き、それから卓上の引き出しを開けた。
 紅梅色のリボンは元々姉が好んでつけていたものだ。姉の羽織を着て逃げ出す際にこれもと持ち出したものだった。色んなものを持っていきたかったが、悩みに悩んで亡くなる前日までつけていた、姉のお気に入りだったリボンをお守りのように持ってきた。
 開けた引き出しには煉獄家に来てから何かと増えた小物が入っている。瑠火に貰ったものと、それから杏寿郎に貰ったもの。義勇はそっと白藤の簪を手に取った。
 藤の花は鬼が嫌う。簪は魔除け。渡してくれた杏寿郎の顔を思い出して、項垂れて溜息を漏らした。
 思い出すと恐ろしい、強くなりたい、役に立ちたいのにと焦燥に苛まれている。しかし己のちっぽけな思いで、煉獄家に迷惑をかけてはいけない。姉は叔父に窘められてから、楽しんでいたという木登りもしなくなったと言っていた。人には引き際があり、すべき役目があるということだと、この時義勇は思い知ったのだった。
 槇寿郎もきっともっと強い言い方で言い聞かせたかったのではないだろうか。駄目などとは言わず、ただしなくていいとだけ口にしていたけれど。
 解いて畳んだリボンを結び直す。白藤の簪も挿してから、向き直った鏡台に映る己に言い聞かせる。
「……私は、杏寿郎の許婚」
 煉獄家の嫁として、姉のような女性にならなければならないのだ。鬼狩りでなくとも、どれだけ焦燥しようとも、杏寿郎を支えられる人間にならなければならない。それがきっと槇寿郎の望むことであり、煉獄家に望まれていることのはずだ。

*

「あの子は本来鬼など知りもしない子だったんだ。あの男の計らいで関わりを持ってしまったが……鬼狩りになどならずともいい子なんだ」
 怪我も完治したばかりで、何かに感化されたか思いついたか。いずれ煉獄家うちに嫁ぐのだからと我儘を促してみるのもいいかもしれないと瑠火と相談していたが、まさかこんなことを打診されるとは思ってもみなかった。
 彼女の身の上を考えれば充分あり得るのだろうが、煉獄家で息子たちや妻と触れ合っていくことで家族を失った子供の療養に繋がると思っていたから、何の力にもなっていないことがわかって情けなくもあった。
 なにせ鬼の被害に遭った子供を直接引き取ったのは初めてだったものだから、軽く考えていたことは否めないだろう。それが言い訳にしかならないことも理解しているが。
「……心身共に強くなれるのですから、鍛錬くらいはいいのでは? 義勇さん、運動がとてもお得意のようですし」
「……む、そうなのか」
「ええ、女傑と呼ばれるほど強くなられるかもしれません」
「ああ……義母上は薙刀の名手だったなあ」
 女傑という言葉でふと己の義理の母を思い出す。さすが瑠火の母というべきか、とにかく凛としてひと筋縄ではいかない方だった。むしろ義父よりも手強かった気がする。きっと瑠火も身体が弱くなければ恐ろしく強かったのではないかと思うほどだ。
「確かに稽古は悪くないな。杏寿郎の稽古を見てることもあるし、興味はあるだろう」
 鬼狩りになることを打診してくるくらいだ、もしかすると両親が生きていれば冨岡家でも何か武道をしていた可能性もあるかもしれない。剣など野蛮だの何だのと敬遠するような子ではないようだし。
 義勇は隊士として出会ったのではなく許婚候補として縁談を組んだ娘だ。稼業でもなく、本来なら鬼の存在すら知らずにいられるはずだった。命のやり取りをさせるのは情も移って乗り気にはなれないが、鍛えてやるくらいならば。
「ええ、あの子は身体を動かしているほうが楽しそうにも見えます。姉君も木登りを嗜んでいたとか」
「お転婆姉妹か」
「ふふ。病床にいるよりよほどいいでしょう」
「瑠火」
「失礼しました。お気になさらないで」
 自虐のように口にした瑠火を咎めるつもりで名を呼ぶと、すぐに彼女は謝ってきた。無意識だったのかはわからないが、槇寿郎にとっては笑い話にはできないことだ。
「けれど……女にも、守りたいものはあるのです。きっとあの子にも」
 弱き者を助けよと、瑠火は常日ごろ杏寿郎に言い聞かせてきた。杏寿郎の守るべきものは弱き者たちであり、しかしそれは守りたいものとは違うかもしれない。義勇にはもうあるのだろうか。
 槇寿郎は教えること自体は好きだ。素直な子供がすくすく吸収して強くなる、失敗ばかりして泣いてしまうことも、癇癪を起こすことすら愛おしいと思えるものだ。煉獄家の男であるが故の使命として、息子二人には命を懸けさせることになるが、簡単には死なぬよう鍛えに鍛えて最終選別へ送り出すのだ。子を死なせたい親などいない。そのためにどんな鍛錬でも与えてやりたいくらいである。
 命を懸ける必要のない稽古がどれほど楽しく実のあるものか、槇寿郎は知らない。

*

 父に呼ばれた部屋には先に小芭内が居た。
 彼は少し前に父が任務中に保護してきた子供だ。杏寿郎の一つ上で、義勇と同い年。なのだが、どうにも女性に苦手意識があると聞いた。彼は女性が苦手なのだと父が言った時、自分も大人が苦手だったと理解を示した義勇に目を瞠ったのが印象的だった。そんな小芭内がいることに気づいた義勇は杏寿郎の右隣、小芭内の反対側へと腰を下ろす。
「考えていたことがあるんだがな。狭霧山に知人の育手がいるということは教えたな」
「はい! 鬼狩り講習の際に伺いました」
 気になったのか小芭内の視線が杏寿郎に向けられたが、頷いて話を進める父の前では何も言わなかった。
「あちらには現在お前たちと歳の近い子供が弟子入りしているそうでな。良い刺激にもなるかと出稽古を申し出た」
「出稽古……ですか?」
「ああ。狭霧山で修行をつけてもらい、育手の許しが得られたら煉獄家での稽古を再開する。うちと違う教えを受ければ勉強にもなるだろう」
「わかりました!」
 父の稽古しか知らない杏寿郎にとっては未知のものであるが、各地に存在するという育手に教授してもらえるとはなんともわくわくする話である。
「義勇、きみもついていきなさい。杏寿郎と共に稽古を受けてくるように」
「え――」
「なんだ、一緒に鍛錬できるんだな!」
 弟から木登り話を聞いた後も運動している姿は見なかったから、これもまた楽しみな話だった。単純に誰かと共に修行に励めるというのも弟以外では初めてだったのも影響しているだろう。
 しかし義勇は、困ったように狼狽えてしまっていた。
「でも……」
「瑠火とも話したんだが、女といえど腕っ節は強くて困ることはないし、心身共に成長もできるだろう。思うことはあるだろうが、まずは鍛錬に励んでみるといい」
「は、はい……」
「共に成長しよう!」
 曖昧な表情で杏寿郎へと頷いた義勇だったが、不安そうな様子は消えなかった。
「小芭内と三人でな」
「え? でも小芭内はまだ……」
 不安を吹き飛ばせるようにと義勇の背中を叩こうとした時、父の言葉が続けられた。
 小芭内へ目を向けたが、彼は静かにその場に座っているだけだ。
 保護してきた朝に医者を呼んで診察してもらっていたが、小芭内は栄養失調と発育不良で同い年のはずの義勇よりも小さい。いや、杏寿郎も義勇の背丈をまだ越えられていないが、稽古に打ち込んでいるため義勇よりもしっかりと肉がついている。杏寿郎より細い義勇よりも更に細いのが小芭内だった。
「まあ、まだ充分な体力がついたとはいえないが……保護した時点で鬼狩りになると決めていたものだから、説得する隙もなかった。……ならば存分に鍛えてやろうということだ」
「……ありがとうございます」
 杏寿郎と義勇を向かわせるなら、共に行かせてみようと考えたのだそうだ。一人増えようが変わらぬと育手からも了承を得られたらしい。
 小芭内を退出させた父は、残った杏寿郎と義勇へ向き直る。
「杏寿郎は今十一だが、煉獄家は代々十五になったら祝言を挙げる。義勇は今のような居候ではなく、煉獄家に輿入れすることになる」
「はい」
 杏寿郎は幼少の頃から、義勇はここに来て煉獄家のことを色々と聞かせていた頃に伝えた話だ。今時としては早すぎるなんて言葉も一部の親族から上がらなくもなかったが、稼業を考えると早くて問題はないと杏寿郎も思う。代々炎柱を輩出している煉獄家であろうと、鬼との死闘は命懸けだ。跡継ぎがいなければ血は絶えてしまうからだ。
「それまでの間、色々なことを経験するといい」
「……はい。ありがとうございます」
 荷物を纏めておきなさいと父が告げて話は終了した。
「鍛錬は厳しくて最初は辛いかもしれないが、何かあれば俺に教えてくれ! 力になろう!」
「……うん」

 義勇まで修行に送り出してくれるとは驚いた。この修行は杏寿郎と小芭内のためのものだろうが、おこぼれに預かれた義勇も精一杯経験を積むことができる。
 髪のリボンを解き、丁寧に畳んだ義勇は卓上の引き出しを開け、簪の下にそっと仕舞った。
「待ってて姉さん、強くなって帰ってくるから。煉獄家の強い嫁として頑張るために」
 未来の炎柱の嫁になるのだから、半端な人間では駄目だ。鬼狩りになるためではなく、義勇は煉獄家のために修行をしに行こう。そして心身共に成長する。姉が挙げられなかった祝言を挙げることに思うことはたくさんあるけれど、義勇の勝手な感情でしたくないなどと言えない。言いたくない。
 だって、嫁ぐことは嫌ではないからだ。
 姉のような嫁になるには並大抵の努力では足りない。姉にも煉獄家にも恥をかかせてはいけない。ならばせめて、槇寿郎の言うように腕っ節の強い嫁になっておこうと決めたのだった。

*

「あれ。リボンはどうした?」
 纏めた荷物を背負い、狭霧山へと出発する頃。三人揃うのを待っていた杏寿郎は出てきた義勇の髪にいつものリボンがないことに気がついた。姉の形見であったそれは、杏寿郎にとっては義勇の目印のようにもなっていたものだ。
「待っててもらう」
「……そうか!」
 汚れや破れを嫌って置いていくことを選択したらしい。しかしそれでは心許ないのではないかと、杏寿郎は背負っていた風呂敷を下ろして中を改め始めた。不思議そうに眺めていた義勇に、見つけたものを差し出す。
「なら修行の間はこれを使うといい!」
 杏寿郎が普段使っている朱色の髪紐だ。換えをいくつか忍ばせていたが、早速出番があったようだ。自分も持ってきていると不思議そうに義勇は答えたが、手のひらに持たせて笑みを向けた。
「お守りだ。きみは修行が初めてだろうし、リボンを置いてきて心許ないかと思ってな!」
 瞬いた目が髪紐を見つめ、緩く口角を上げてありがとうと告げられた。喜んでくれたのなら良かったと杏寿郎もほっとする。
「私も……なくなったらあげる」
「髪紐のことか? ああ……ならひとつ今くれないか?」
 またも不思議そうにしながらも、義勇は頷いて髪紐を荷物から探し出し渡してくれた。リボンで普段隠れている色は青だったが、渡されたものは藍色だ。本来は青系統が好きなのかもしれない。
「ありがとう! 俺もお守りだ」
「……なんにも守れないと思う……」
「そんなことないぞ。義勇のものだと思えば汚さないよう頑張るから、怪我をしなくなるかもしれない!」
「……杏寿郎のがよほど恩恵がある……」
 視線を逸らしてもじもじする様子に胸の奥がどうにもむずむずしてしまい、なんだか落ち着かなくてぎゅっと胸元を掴んだ。前にもこんなふうにむずむずしたことがあったような気がするが、まあ、義勇が嬉しそうだったので忘れることにした。
「あ、小芭内来たな!」
「すまない、手間取って」
 荷物が重くて置いていくものを精査していたのだそうだ。確かに義勇の荷物よりも格段に小さい小芭内の荷物だが、不足があれば杏寿郎も貸すことができるし狭霧山で調達してもいいだろう。きっと鬼から逃れ、着の身着のままで狭霧山に辿り着いた者もいただろうし、さほど問題はないだろう。
「あの……これ」
 壁に立て掛けていた杖を小芭内へおずおず差し出した義勇に、彼は不思議そうに首を傾げる。口数もさほど多くない上に、義勇は女性が苦手という小芭内に自ら話しかけることをあまりしていなかった。
「前に怪我してた時の……」
「ああ、あの時の杖か! 義勇が怪我してた時に千寿郎と一緒に作ったんだ」
 見覚えがある杖だと思った。とはいえ義勇は自力で動こうとしていたので、あまり出番のなかった杖だ。今思えば千寿郎が心配してしまうから、弟の前では使うようにしてくれていた気がする。
「……俺にか? お前が貰ったんだろう、俺などに渡しても……」
「今は使わないから、使ってくれたほうがきっと嬉しい」
「俺もそう思う!」
「邪魔になるなら置いていく……」
 余計な世話だったとしょんぼりしてしまった義勇に、小芭内はなんとも複雑そうな顔を曝け出した。どちらもなんとなく思うことが理解できた杏寿郎は、あって困るものではないだろうし、と助け舟を出すことにした。
「義勇や俺も使うかもしれないしな! 荷物に入れよう、貸してくれ」
「私が持っていく」
「使うか? 荷物にするなら俺が持つ」
 風呂敷に無理やり括りつけておこうとしたけれど、義勇もそうして持っていくつもりのように思えた。使うなら邪魔にはならないだろうが、木に引っかかってしまったりもして危ないだろうから杏寿郎が持つと言ったのに、自分の物だから自分が持つと譲らない。頑固だ。
「……あの、……山歩きは不安だから……やっぱり貸してほしい……」
 やり取りを見ていた小芭内が眉根を寄せながら呟いた言葉に、一瞬止まった義勇はやがて嬉しそうに破顔した。こくこくと何度も頷きながら、小芭内の手に触れないよう杖を差し出す。その様子に杏寿郎も笑みを浮かべた。
 小芭内の不本意ながらも悲しませないようにと気遣う姿も微笑ましいが、こういうささやかな義勇の気遣いが好きだなあと、折につけ杏寿郎は思うのだった。