かすがい
悪鬼滅殺を果たした今、二人目を身篭った義勇に観篝の儀式は不要ではないかと父とも話し合ったのだが、煉獄家の嫁である義勇にとってはすべきものだという意識があったようだった。とはいえ此度は体調が悪い時は動くこともままならないことが多く、満足に遂行することはできなかった。それが腹の子にどう影響するのかと義勇は不安だったようだが、どんなことになろうと杏寿郎は受け入れると決めている。
たとえ出産と同時に命を落としたとしても。その代わり、分娩の時は義勇の手をずっと握っていることを条件にした。
いくら生を産み出すためのことだといえ、伴侶が苦しむ姿を見続けるだけというのは随分と無力さを突きつけられてくるものだ。杏寿郎では子を産む義勇の肩代わりはできない。
それでも杏寿郎が手を繋いでいることで、これ以上ないと義勇が言うのだから励みになれるよう振る舞わなければ、情けない姿を見せるわけにはいかないのである。
「――女の子ですよ!」
控えめな泣き声が部屋に響き、やがて産婆が教えてくれた。この間拝み続けてくれていたハナは喜びに飛び跳ねて腰をやり、長年勤め続けてくれた煉獄家の使用人をその後に辞することになってしまったことは、なんとも複雑だったが。ハナの娘と禰豆子、真菰までもが手伝いに来てくれるようになるのだが、その厚意がありがたいことだった。
「凄いぞ義勇、初めてだ」
男系一族である煉獄家に女児が生まれるなどと、きっと先祖は思いもしなかったろう。生まれたばかりの赤子は髪の産毛も黒く、薄っすらと開いた目は蒼みがかっているようだったが、陽の光に当たると一瞬だけ焔が見えたような気がした。どうやら観篝の影響は薄いようで、それに気づいた義勇は小さく申し訳ないと呟いた。
「命はそれだけで尊いものだ。義勇との子なら尚更」
「……うん」
「きみに似て美しくなる」
「……似ては困るけど……娘は義父上が、過保護になるかな……」
「義勇より更に心配性になるかもしれんな」
満身創痍で疲弊している義勇の左手をしかと握りしめて赤子を覗き込み、よく頑張ってくれたと髪を撫でては義勇を労った。
鬼狩りになってともに戦い、鬼を匿い、悪鬼滅殺を果たした。その義勇が更に女児を産むなど、本当に驚かされることばかりだ。
「蒼寿郎、おいで」
息子は恐る恐る部屋を覗き込み、てちてちとそばへ寄ってくる。義勇の隣に寝かせられた赤子を見つめる息子の目は輝いていて、まだまだ小さいと思っていた手は赤子よりも随分と大きいことに気がついた。
「お前が言ってたとおり、妹だよ」
「……可愛いです」
「うん」
「母上に似てる」
「蒼寿郎が守る相手が増えたな」
「………。絶対守ります」
そっと指で赤子の手に触れると、反応した紅葉がきゅっと息子の人差し指を巻き込んで握られる。目を丸くしては輝かせた息子は感動に打ち震えていて微笑ましく見守りながら、不安げに外から様子を見ていた父と弟も呼んだ。
「義勇は無事か? 子も……元気そうだな。良かった……」
「はい」
「義姉上お疲れ様です。可愛いですね、姪っ子かあ……」
息子が妹だと騒ぐから杏寿郎と義勇は娘の名前も一応考えていたが、名付けることになれるとは。父も弟も男児が生まれるだろうと考えていたようで、随分とそわそわしている。その様子を微笑ましげに義勇は眺め、疲れたと静かに目を瞑った。小さく上下する胸が、生きていることを告げてきていた。
「良かった……」
「………。……良かったけどさ……」
別室で待機していた元継子たちと元柱の二人は家族の許可が得られるまで顔を見ることは控えるつもりだった。炭治郎や善逸、伊之助が居れば離れていてもある程度の様子はわかるので、非常時であるか否かはそこで判断していた。今は穏やかな匂いが漂っていて、無事生まれたみたいだと錆兎たちへ伝えると、特に蜜璃と宇髄は騒がしくはしゃいだ。
安堵した炭治郎だったが、善逸の暗い表情の理由もよく理解できた。伊黒は蜜璃を宥めつつ大人しくしていて、不死川も宇髄の尻を叩いて黙らせようとしている。
「……義勇さんの音、小さくなったよ」
「……うん。産む前と比べて匂いも希薄だ」
その言葉を告げるのは今にすべきだったか、炭治郎としては少し考えてしまう。めでたい空気を壊すのは確かに野暮だと思うけれど、喜ばしいことが起きていてもその裏には悲しいことが起こっている。それを知らぬままはしゃぐのは、なんだかないがしろにしているみたいで嫌だった。
まるで生の大半を子へ明け渡したみたいに、義勇の匂いは以前よりも薄くなっていた。善逸の耳にもそう聞こえるのなら、そういうことなのだ。
義勇はもう長くない。きっと遠くないうちに、遠いところへ向かうのだ。
「湿っぽいなあ、おい! 子が生まれたんだからめでたいだろうがよ。そういう態度はあいつらも望んでねえんじゃねえの?」
少しすれば涙が零れ落ちるのではないかと思っていた善逸の目は、潤んだまま不機嫌そうに宇髄へと向けられる。
「だからってでけえ図体ではしゃぎすぎだァ。お前んとこも子が生まれんだから、もうちょい落ち着けや新米親父」
「はあ、不死川にそんな諭されるとは驚くわ」
「やんのかコラァ!」
「はあ〜……本当に騒がしい奴らめ。今ここには生まれたばかりの赤子と命懸けで子を産んだ母親が居るんだから大人しくしろ馬鹿ども」
「さっき女の子って聞こえたよなあ……杏寿郎似なのかなあ……二人目は義勇に似てると良いよな」
ぱちりと瞬いた炭治郎は、柱であった彼らが悲観した様子ではなかったことに気がついた。居候であったはずの錆兎も伊黒も蜜璃も、それよりも今はめでたいことを祝うべきだとでも言うようだった。
「二人が決めたのは産むことなんだから、先に祝うほうが喜んでくれるよ」
懸念していたことだった。痣も呼吸の常中も身体に負担を強いるものだったから、更には文字どおり死にかけの状態まで戦い続けたものだから、いつ不調が来て倒れてしまってもおかしくない。そんなことは可能性として皆予想していたことだ。
「それにね、薄くなってもあるんでしょう? だったら大丈夫よ、義勇さんだもの!」
「あいつの逞しさは杏寿郎に太鼓判を押されてるからな」
「むしろ逞しさに惚れたところあるだろ」
「ああ、面食い否定してたけどそこなんだっけ?」
「なんか色々言ってたけどそこなんかい……」
「……そうですね。義勇さんは凄い人ですから」
彼らが悲観しないのならば、炭治郎たちが勝手に悲しむのもなんだか違う。善逸へ目を向けると、呆れたような顔をして毒気を抜かれていた。
「つうかよ、あいつどこ行ったんだ? 伊之助」
「いつの間にかいねェな」
「……まさか義勇のところに行ってないだろうな?」
「応援しに行ったのかしらね!」
少し見てくると錆兎が立ち上がり襖を開けたところで、部屋へと戻ってきたのは件の伊之助だった。何をしていたのかと問いかけると、なにやら大事などんぐりを蒼寿郎へ渡しに行っていたらしい。
「あいつも母ちゃん心配だろうからな! 一番つやつやのどんぐりやった!」
「そっか、蒼寿郎くん大丈夫そうだったか?」
「おう、妹が可愛かったってよ。妹ってのは弟とどう違うんだよ」
伊之助らしく気遣ってきたようだ。意外に面倒見良く蒼寿郎と遊んでいる伊之助には、彼がどれほど不安だったかがわかったのかもしれない。義勇の気配の薄さを伊之助も感じ取っていただろうけれど、それに言及するようなことはなかった。炭治郎より、善逸よりも、伊之助は杏寿郎と義勇の想いを汲むことができていたのだろう。ちょっと、悔しい。
「どっちも可愛いことに変わりないけどなあ。伊之助も一緒に遊ぶようになればわかるかもしれないな」
きっと蒼寿郎とその妹とも遊ぶようになるだろうから、そうすれば妹の可愛さも伊之助にわかるようになるだろう。言葉で教えるよりも、伊之助には肌で感じるほうが理解できるだろうから。
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「じじ上、これ読んで」
「……いや、それは読み聞かせるためのご本じゃないぞ……」
蔵で何をしているのかと思えば、持ち出してきたのは炎柱の書だ。古いものではなく、一番新しい巻。槇寿郎の次の代、息子である杏寿郎の書いた手記である。
もうすぐ初盆ではあるので確かに頃合いかもしれないが、どうにも気が進まない。炎柱の書と銘打たれていたとして、中身は赤裸々な手記なのである。断言しよう。杏寿郎の書いているものの中に義勇が出てこないわけがないと。継子だったのだから当然ではあるが、それとは別に絶対想いの丈を書き連ねているはずだ。理由は己もそうだからである。己が死ぬ時は自分の巻だけ棺に入れて墓まで持っていこうと決めた。
「父上が読んでいいって言ってました!」
「ええ? あいつそんなことを」
いくら娘相手とはいえ、曝け出しすぎではないだろうか。それとも本当に鬼殺のことしか書いていないのか。そして娘は良くても父は嫌かも知れんなあ、と槇寿郎は悩み込んだ。焦れた孫娘が唸って地団駄を踏む。
「母上のことたくさん書いてるから、どんな人だったか知りたい時は読むといいって!」
やっぱり書いていた。
だんだんと床板を踏み鳴らす姿は兄が幼い頃にもたまにしていた不満の示しだ。まったく兄妹揃って不機嫌になる仕草が似ている。顔は全然似なかったのに。
「すまんすまん。そうか、やっぱり書いてるんだな。まあ……確かに、父上の目から見た母上と、俺から見た嫁は別物だからなあ」
知りたくなったのなら仕方ない。とはいえ息子夫婦の想いのあれこれを父が読むのもなんだか複雑なので、槇寿郎は孫娘の機嫌を取りつつ抱き上げながら、目当てを探しに廊下を歩いた。
「千寿郎、炎柱の書を読んでやってくれ」
「えっ、私がですか?」
炎柱じゃなかったんですけど、と元炎柱に困った顔を見せた千寿郎に、腕の中で機嫌を取り戻した孫娘が書物を差し出す。
「うーん……これ兄上の手記ですよね……いやなんとなく予想はしてるんですが……父上のもそうだったし……」
「ちょっと待て。お前俺の読んだのか?」
「ええまあ、兄上が炎柱に就任した後くらいに二人で」
先祖の手記を読みながら、これからは兄も一冊書くのだよなあと思い出し、父がどんなことを書いているのか気になって兄とともに読んだのだそうだ。せめて槇寿郎が死んでからにしてほしかった。
「じじ上のも読みたいです!」
「勘弁してくれ……」
「何やってるんですか?」
不思議そうな顔をして部屋を覗き込んできたのは兄の蒼寿郎だ。大きくなってからは障子を破ることもなく良い子に育ち、妹を大事にしつつ少しばかり揶揄ってみたりと仲良くやっている。長男は生まれる前から妹を守ると決めていたし、孫娘にとっても自慢の兄だと言っていた。
「兄上、ご本読んで!」
義勇のお転婆ぶりを受け継いでいる孫娘は、渋る祖父の腕から飛び降りて今度は兄へねだっている。なんだか振られた気分で寂しくなったが、相手が兄では槇寿郎に勝ち目はない。
「父上の手記? いいけど……ん?」
「何か落ちた!」
書物の間からぱさりと落ちた二つの封書を小さな手が拾い上げる。兄へ見せた時、表に宛名が書かれていたのが視界に映った。
孫宛てだ。兄と、妹へ。流れるような筆跡は槇寿郎もよく見ていたものだった。
「……義姉上の字ですね」
「ああ、これは手紙か。蒼寿郎と、お前に」
「お手紙」
「母上からの手紙だ」
「わあ……」
返された孫娘宛ての手紙を両手で陽にかざすように持ち上げて感嘆の声を漏らす。きらきら輝く目は蒼みがかっているように見えるが、陽に当たると焔が顔を出す。目を輝かせた兄は手記と手紙を大事そうに両手で持ちながら眺めている。父親そっくりな兄も陽に当たれば蒼が瞳に映ることを、可愛がる者は大抵知っている。兄と妹は見た目こそまったく似ていないが、両親の特徴を色濃く受け継いでいる。そして仕草は兄妹らしくそっくりだった。
「……今から読もう。二人で」
「母上のお手紙!」
「うん。父上もきっと書いてくれてる!」
手を繋いでばたばたと自室へ戻る兄妹を見送った槇寿郎は、やはり自分が読まなくてよかったと安堵した。それを察したのか千寿郎は、肩を震わせて小さく笑っていたのだった。