千年続いた悪夢の先に
きょろりと周囲を見渡してみても記憶にない場所だった。小川が流れる辺りには一面に花が咲き誇っている穏やかな場所。此処が何処なのか、一人で考えたところで思い至ることもできなかっただろう。杏寿郎が気づいたのは、己の他にも人影があったからだった。
「あなたは……、義姉上か?」
ほろりほろりと大粒の涙を溢れさせて泣いている妙齢の女性。艶のある長い髪を三つ編みにして、馴染みのある紅梅色のリボンを結んでいる。
まさか己の前に姿を現してくれるとは思わなかったが、同時に義勇は無事なのだと漠然とだが予感した。そしてようやく、己は死んで此処は彼岸であることに気がついたのだった。
杏寿郎へ視線を向けては嘆くように涙を流す。葬儀で会った義勇を思い出して、似ているなあとぼんやり微笑ましくなった。たった一度しか会っていないのに、それでも義弟となった杏寿郎のために泣いてくれる。一等優しい義勇の姉、冨岡蔦子だ。
必死に涙を拭うのも、嗚咽を堪えようとするのも、仕草は義勇にそっくりだった。やがて涙は止まらぬままだが、蔦子は柔らかく笑みを見せてくれた。
妻の姉が迎えに来てくれるとはなんとも不思議な気分だが、親族であればあり得ぬことではないのだろう。近づこうと立ち上がった時、凛とした声が杏寿郎を止めた。
「まだ成し得ていないことがあるでしょう」
「……母上」
「必ず成すべきあなたの責務です」
凛とした声は立ち姿にもよく馴染んで、懐かしい姿にこみ上げるものがあった。しかし母はぴしゃりと杏寿郎を制して蔦子の前で立ち塞がっている。
成すべき責務。そうだ、鬼舞辻無惨の滅殺。志半ばで死してしまうとは未熟だ。勢い良く振り向いてから、はてと杏寿郎は瞬いた。
いや違う。己はあの時朝陽を見た。悍ましいほどの鬼舞辻無惨の変体を目にし、誰も彼もが必死に戦って勝ち得た朝だった。鬼の首魁は滅び、ようやっと平和が訪れてから。
「――炭治郎は」
ふらふらと義勇を探していたら、彼女のそばに居た炭治郎が鬼に変貌した。そうだ、鬼舞辻無惨の残滓が炭治郎を襲い、鬼となったことで周りへ攻撃を仕掛けようとした。だから義勇は殺す判断をした。それが継子であろうと、妻であろうとも、鬼と成り果ててしまっては杏寿郎とてそうする。人を襲う前に元凶を殺す。己の腹を切るより辛い所業だ。だがそのような感情は襲われる人々には関係がない。覚悟を持って竈門兄妹を引き入れたのだ。
任せて死んでしまったか。いや、それも違う。継子たちが必死に声をかけては攻撃を食い止め、栗花落カナヲが薬を打ち込んだのを見た。人へと戻った炭治郎と禰豆子が泣いていたのを見たのだ。そうして力尽きて膝に倒れ込んだ義勇を抱えてから、……そこから記憶が今度こそない。ということは、すべてを終わらせてから死ねたのだろう。良かった。
未練がないとは言わないが。
鬼狩りたる者、心残りがあるなど覚悟が足りない。けれど己の生きた証は杏寿郎が死んだとしても残っていくものだ。心残りはきっと、父と弟が継いでくれるはずだ。そも、鬼舞辻無惨を討ち取ったのだから、杏寿郎の責務は果たされたはずである。
「鬼は滅びました。鬼殺隊の悲願は果たされたのです」
「知っていますよ、見ていましたから。……よくぞ、果たしてくれました」
では他に何を責務としていたか。
母はずっと、弱き者を助けよと言い含めてきた。煉獄家の男児たる者、鬼を滅して弱きを助けるのは当然のことだ。だからこそ鬼舞辻無惨を討ち取った今、杏寿郎は心から安堵しているし、母も褒めてくれたのだ。
「伴侶と添い遂げること。嫁いでくださったあの子のために、必ず成すべきことです」
「―――っ、しかし、」
死んでしまってはそうもいかない。
そう考えてからふと杏寿郎は足下に注意を向け、己と母たちとの間を隔てるように穏やかな川が流れていることに気がついた。
「あなたがあの時なんと言ったか、母は今でも思い出せます」
「あの時……あの、時は」
母の言うあの時がいつを指しているのか、杏寿郎は何故か悩むことなく思い浮かんだ。
蔦子の葬儀から我が家へと戻った時、両親は杏寿郎を呼んで今後についてを問いかけた。もしも連れ出したいと言うのなら、彼女の一生に責任を持たねばならぬ。そう諭された時、杏寿郎が宣言したことはしっかりと現実になったのだった。
――一人前になるまで待っていただければ、俺が。
「互いに思いやり、最期までそばに居ておあげなさい。子は両親の背中を見て、強く優しい子に育ってくれます」
あなた自身が証明してくれたのだと母が口にして、凛とした表情から一転して柔らかな笑顔を見せてくれた。嬉しいことがあった時、母は褒め言葉とともに破顔してみせるのだ。幼い頃に見たものはどんどん記憶が薄れていくのに、目の前の笑顔が記憶の底からも浮かび上がってくるようだった。
「……義姉上は……義勇を見てらしたのですか」
「妹の幸せを見ていたの」
母の隣に立った蔦子はにっこりと笑みを見せ、力強く頷いた。
「ごめんなさいね、泣いてばかりで。鬼と戦うあなたたちは本当に見ているだけでも苦しかった。死んでしまうと気が気じゃなかった。今もそう」
たくさんの人が傷ついて倒れ、命を落としていく様子は冷静なままで見ていられなかったと蔦子は言った。誰がこちらへ来てもおかしくないあの状況で、義勇と杏寿郎が来てしまわないか怖ろしかった。本人たちは覚悟をしていても、残された子はどう思うか。
「あの子にはとても可哀想なことをしたわ。私がもっと強ければあんなに泣かせることもなかったけれど……でも、あなたが一緒に居てくれたから心配ないと思えたの」
妹を大事に想ってくれてありがとう。そう告げて笑みを向けられて、どんな表情も義勇に似ていて杏寿郎は眩さについ破顔した。きっと面立ちは違いのある二人なのに、佇まいも仕草も彷彿とさせて微笑ましかった。
「おい」
和やかさに時間を忘れかけた時、ふいにかけられた声に杏寿郎が振り向いた先には、むすりと不機嫌さを隠しもしない見慣れた顔があった。
「錆兎……」
「早く戻れよ」
杏寿郎はもう此処がどこか理解していた。すでに此岸から去った母と蔦子を隔てるように流れている川が、三途の川であることをしかと理解していたのだ。
錆兎がこの場所に居るということは。
「さっさとしないと、……攫ってしまうぞ」
「―――、」
なんだか意地悪く笑みを見せた錆兎に手を伸ばしたがどうにも触れられず、視界の奥で手を振る母と義姉に気づきながらも、杏寿郎はなによりも言いたいことを呟いた。
「………、……それは嫌だ……」
「父上!」
「――おい、起きたぞ! なんか嫌がってる、神崎!」
「杏寿郎!」
「待て、義勇も……目を、」
静かな川の辺りから一転して、たくさんの声が聞こえてくる。頬に触れる柔らかな感触はどうやら我が子の手だったようで、視線だけを向けると嬉しそうに笑っているのが見えた。その近くに父の顔と、弟と、その背後で騒がしくばたばたしているのが宇髄であることに気がついた。それから慌ただしく父と弟は後ろを振り返り、我が子もまた顔を背けて叫んでいた。誰より愛おしいはずの名を、誰かが先程呼んでいたからだと気づいたが、うまく身体が動かなかった。
――俺は間に合ったのだろうか。
そう口にしてみたが、掠れて声は音にならなかった。
「兄上、義姉上も今目を覚ましてくださいました! 錆兎さんも戦いの翌朝に目を覚まされていますよ!」
ぼんやりする頭に弟の言葉が流れ込んでくる。そうか。真意に気づいて杏寿郎はふと口元を緩ませた。
攫うどころか呼び戻してくれたのだ。杏寿郎を引き止めて此岸へ立ち戻らせるための叱咤だったのかもしれない。なんともはや、杏寿郎は大層周りに恵まれてしまったものである。
*
「ありがとう錆兎!」
「……何が?」
人によっては嫌味かと詰め寄りたくなるくらいには後悔していた錆兎だが、相手が杏寿郎ならば裏のある言葉ではないと確信できる。しかしまあ、謝罪をするべき錆兎に対して杏寿郎から礼を言われる筋合いはない。各部屋を見舞った帰りに呼び止められ、錆兎は立ち止まった。
「俺と義勇を呼び戻してくれた!」
うん、理由を言われてもまったく心当たりがない。錆兎と同様何ヶ月も眠っていた杏寿郎だから、記憶が混濁していてもおかしくないかと思い至った。錆兎と違い杏寿郎はしかとその手で上弦の参を討った上、鬼舞辻無惨との戦闘で身体は相当な重傷だったのだ。それは他の柱も炭治郎たちも同じだったが。
不甲斐ない。情けない。男ならば刺し違えてでも頸を斬るべきだった。むしろそれしか選択肢はなかったのに、結局錆兎は杏寿郎たちにあとを託す形となってしまったのだ。
そんな葛藤を宇髄は見抜いていたようで、言葉無く慰められながら、なんの役にも立たないと悔いながら目覚めを待っていたのだ。
そういうわけで、無力を噛み締めていた錆兎は礼を言われるような資格がない。本当に理由もよくわからないし。
「知らん。夢でも見てたんだろう」
「いいんだ夢でも。相手は確かに錆兎だったからな」
三途の川でも渡りかけたのだろう、無事戻ってきてくれて本当に良かった。志半ばで杏寿郎と義勇が錆兎より先に死んでしまっていたとしたら、後悔してもし足りなかったところだ。今だって言いたいことはあるというのに。
「はあ……。……礼は俺の台詞だ。鬼を討てもせず死にもせず、ただ寝台を占領するだけした愚か者だ。肝心な時に役に立たなかった。面目次第もない」
「役には立ったぞ」
「見え透いた慰めは要らん」
嘘は得意なほうではないが、杏寿郎は人を慮る言葉を紡げる人間だ。頭を下げた錆兎の思いに気がついて否定を口にしないこともある。錆兎にとっては、余計に苦しい優しさだ。
「慰めではない。確かに錆兎は剣士として強いが、戦うだけが役立つ方法ではない。きみはずっと義勇を守ってくれていた。……見ただろう? 羽織」
「………っ、あんなの形見みたいなものだろう! なんの役にも立たん!」
ふいに告げられた事実に錆兎は言葉に詰まりつい顔を上げた。熱くなった耳がどうなっているのか、自分のことなので見なくたってわかる。錆兎は照れた時、顔色を隠すのがあまり得意ではない。
「形見ではなくお守りだ! 小芭内や甘露寺のものも交換してある!」
子供のようなことをしていると呆れたが、気休めでどうにかなるような戦いではなかったことくらい重々理解している。彼らは彼らの実力で鬼の頸を斬り、鬼舞辻無惨を討ち取り、しかと炭治郎を連れ帰ってきたのだ。それは決して羽織やお守りに縋ってどうにかなるものではなかった。
げんを担ぐには縁起が悪いだろうに、それでもお守りとして持ってくれていたと言うのだからなんとも複雑だ。
「とはいえ、きみに攫わせるつもりはないがな!」
「はあ? 攫うって何が……」
「良い天気だ。外に出ないか錆兎、小芭内も誘って」
「それは、かまわないが」
思いきり話を逸らされた錆兎は首を傾げたものの、三人揃えば話してくれるのかと判断して素直に頷いた。
「お前……寝こけていたと思ったら起きずに化けて出たのか」
「杏寿郎が勝手に夢を見ただけだろ!?」
「まあな。よほど攫われるのが嫌なようだ」
「それはもう絶対に嫌だな!」
このおしどり夫婦に割り込んで間男になろうなんて奴が居るわけがないだろうに。そもそも錆兎は不届き者を排除したい側の人間だというのに、まったく杏寿郎はわけのわからない夢を見ているものだ。それに、たとえ義勇を攫おうと錆兎が画策したところで、彼女は確実に抵抗するのが目に見えている。それを杏寿郎がわかっていないはずがないのだが、まあ、ちょっとした揶揄いのつもりなのだろう。
「錆兎が恋敵では大層難敵だったと思うんだ」
「………。はあ……安心しろ。お前以上に似合う奴はいないよ」
「そうだと嬉しい!」
「……お前より先に出会ってれば、どうなったかはわからんがな」
「……むっ!」
揶揄われたなら返してやるのが筋である。和やかだった杏寿郎の視線が急に強みを帯び、隣で聞いていた小芭内がほうと相槌を打った。何を隠そう、やきもきしていたのは錆兎だけではなく、小芭内だってそれを守りたくて憎き鬼を懐に入れようとすら考えたのだ。今までの右往左往を踏まえれば、多少揶揄ったところでまだまだ釣りを貰ってもいいくらいだ。
「やはり女として意識していたしな」
「まあな。仲良くなった女の子っていうのは義勇が最初だったし……可愛かったからな。今も可愛いが」
「!!!」
「ふっ……お前が臆面もなく可愛いと言うのは義勇くらいか?」
「そうだったかな。まあ、俺は女の基準が義勇になってしまったものでな、どう考えても弊害だ。鱗滝さんは身を固めろとおっしゃるが……比べるのは失礼とわかっていながら、つい考えてしまうんだ。……相手は義勇のように愛らしいのか、とな」
「それはそれは。難儀なことだ」
「絶対に嫌だ!」
小芭内すらも揶揄いが調子づいてきたところで、突如叫んだ杏寿郎の声に錆兎は耳を塞いだ。ばさばさと鳥が飛び立つ羽音がそこかしこで鳴る。容体を考えると大きな声を出すのは控えるべきだろうに、しかし過去一番声が大きかったのは祝言の翌日だったなあと思い出し、今回も原因は義勇であることに気づいて錆兎は苦笑いしつつ言い返した。
「夢での会話の返事を現実でするな! そいつはお前の妄想の俺だろう!」
「いやどうだろうか! 今も冗談に聞こえない気がする!」
「冗談だよ!」
冗談でなければ、錆兎は二人を見守りたいなんて思いで鬼狩りになったりしないのだ。あれだけ鈍かった杏寿郎がこれほど独占欲を発揮するのは素晴らしく成長した証なのだろうから、耳が痛いより微笑ましさが勝るのだが。
「きみは早く身を固めるべきだな! 鱗滝さんが選び抜いた素晴らしい女性と所帯を持つべきだろう!」
「そんな女性はすでに相手が居て結婚してるよ」
「義勇のことか!?」
「義勇から離れてくれ。相手のいない俺よりまずは小芭内のことだろう」
ぎくりと隣で肩を揺らした小芭内の耳はじわじわと赤く染まり出し、袖口で口元の包帯を弄りつつしどろもどろに言葉を濁した。
大層珍しい様子だ。口から先に生まれてきたといわれても納得しただろう小芭内のネチネチした口撃が、今は鳴りを潜めて義勇のように大人しい。
「それはそうだな! 祝言を挙げる気になった話を聞きたい。……禊は済んだと、そう思えるようになったんだろうか」
「………。そういうわけではない、が……彼女自身が……自分のためにそばに居てくれと言ってくれたからな……」
心を通わせるには穢れすぎているからと、今生で甘露寺と結ばれることなどあり得ないと考えていた小芭内の意志は要塞の如き堅牢さを誇っていたはずだ。陥落させるには一体何をすればいいのか錆兎たちもわからなかったのだが、やはり惚れた相手には弱い。というよりこの場合、甘露寺が凄いのだろう。
残り短い人生となってしまったけれど、その分幸せを感じて胸を張って生きたい。そのために小芭内がどれほど甘露寺に必要であるかを目一杯教えられたのだそうだ、擬音ばかりの騒がしい言葉で。
それが彼女の良さであることくらい、錆兎とてよくよく理解している。杏寿郎と義勇然り、小芭内のような人間には正反対の彼女が似合いなのだ。
「また家族扱いで列席できるとはな」
「ああ、楽しみだ!」
錆兎は杏寿郎と顔を見合わせて小芭内からそっぽを向くことにした。
すっかり黙り込んでしまった彼が照れていることは、顔を見なくともわかったので。
「私が言ったの、私の人生には伊黒さんが必要だって。そうでもしなければ、手を取ってくれはしなかったもの。私のしたいこと全部やりたいから、死ぬまでの間付き合ってほしいと言ったのよ。だから祝言も……私のために挙げてくれると言ってくれた」
勇気を出して良かったと、蜜璃は大層嬉しそうに破顔してみせた。普段の朗らかな笑顔も眩しいが、今ばかりはひと際美しく輝いていた。恋をした乙女の笑顔とはこれほどに目を奪われるものなのだ。思い返せば己の姉も、婚約者と話している時は普段よりも笑顔が美しかった。
「義勇さんが羨ましかったの。好きな殿方と結ばれるのがこんなに幸せなんて知らなかった。私もこの気持ちを知ることができて本当に嬉しい。祝言はきっと不格好になっちゃうけど……それでも楽しみだわ!」
「不格好になんてならない」
腕を失くしたのは義勇だけではなく蜜璃もだった。小芭内は両目を傷つけられ、視力を完全に失った。誰も彼もが傷を負い、不自由な身体を抱えることとなった。それでも今までの終わりのない戦いなどと比べものにならない。腕がなかろうと目が見えなかろうと、鬼の脅威に怯える必要がもうないからだ。残り数年の人生を彩って生きていくためには、蜜璃に必要なのはただ一人、小芭内という存在だった。
「蜜璃は綺麗だ、小芭内が惚れるくらいに。朗らかで優しくて、頼りになって、話してると楽しい。あいつはずっと蜜璃しか見てなかった」
ぶわわと蜜璃の頬が薔薇色に染まる。乙女というのはこれほどに、目が眩むほどに色鮮やかだ。照れる様子は誰より愛らしく、恋柱の名を冠する蜜璃だからこそかもしれない。
「……ただ、化粧は……自信がない。お母上に頼むべきじゃないか」
「ううん、義勇さんにしてもらいたいの。あなたが私の目標だったから、どうしてもやってほしくて」
目標だなんて恐れ多い。蜜璃は最初からいろんなことを義勇に教えてくれもしたというのに。
「煉獄家で過ごした時間も大切なものだから、先輩のお嫁さんにお願いしたいの。目を奪われてしまったとも言ってたし、どうしてもあやかりたくて」
「、は? め、目? また杏寿郎が馬鹿なことを宣ってたのか? あんなの参考にならないから忘れて」
「違うよ、違う! 伊黒さんが言ってたの!」
「へ……」
「お友達の幸せが本当に嬉しかったんだって。女の人のこと、苦手だって教えてくれたけど……義勇さんのことは本当に綺麗に見えたって。恋をしていない自分すらそう見えたんだから、私を義勇さんより美しいと思える自信も、見たら昇天する自信もあるなんて、キャー! 言われちゃったけど! ごめんなさい!」
「い、いやそこは事実だ」
目が見えなくなっていて良かっただの、でなければ祝言と同時に昇天して一瞬で離れ離れになっただろうだの、小芭内から言われたのだろう言葉を騒ぎながら口走っている。
杏寿郎並に熱烈な言葉で思わず照れてしまったが、これは聞いてよかったのだろうかと義勇は焦った。いやそれよりも、他でもない蜜璃相手にどうして義勇を褒めるなんて所業になったのだろう。小芭内の言葉に込められた真意を汲み取ることもできるようにはなっているが、それでもこれだけは理解し難い。
「好きな人の前で私を褒めるのはおかしい。杏寿郎が乗り移ったに違いない。やり直しを求めてくる」
「違うよ、違うったら! 見た時の感想だったのよ!」
立ち上がろうとした義勇の手首を掴んで引き止めた蜜璃は慌てたように弁解する。
曰く、杏寿郎から祝言の写真を見せてもらい、夢見心地のまま小芭内を定食屋に誘って昼食を摂っていた時のこと。素敵だったとはしゃいでいた時、隣に居た小芭内が同意したのだという。本当に無意識に、当時の感想を思い出したように。
「とっても優しい顔してたのよ。もしかしたら……はつ恋だったりして?」
「あり得ない絶対にない天地がひっくり返ってもない」
「そ、そんなに」
「杏寿郎に離縁されるほうが現実味ある」
「一番ないやつだわ!」
禰豆子を斬らなかった時点で頭に過ぎりはしたので、一番ないかどうかは怪しい。目まぐるしく思考を働かせた結果、義父の依頼が離縁の可能性を上回ったので当時は収まったのだった。今その結論が出るのは確かに九分九厘ないかもしれないが。
「そんなことがもしあったら私怒るから!」
「う、うん。愛想を尽かされなければ……」
「一番あり得ないやつだわ!」
残りの一厘、いや己に愛想を尽かす原因はいくらでもあり得てしまうので、九分九厘問題ないとはやはり言えないなと脳内で考えを改めたのだが、ふうふうと肩で息をする蜜璃をどうどうと宥めながら、言うのは駄目そうだと義勇は口を噤むことにした。
「とにかく、小芭内のは恋とかでなくて……たぶん、身内の扱い」
「身内……」
「姉……扱いではない気がするから……妹……?」
「………! 素敵!」
己の姉への対応を思い出すと、やはりあの辛辣に聞こえる物言いは姉扱いではないだろう。とはいえ竈門兄妹を見ているとまた違う気もするが、そこは恐らく生まれ育った環境の違いが影響している。きっとそれは錆兎もそうなのだ。
義勇には姉しかいなかったが、もしも兄がいたら、あんなふうに窘められたり嫌味ったらしかったり、わかりにくい褒め言葉をくれるのかもしれない。そしてそれは間違いなく義勇を思って口にしている言葉なのだ。
「……小芭内は私と蜜璃への態度はまったく違う。自惚れでなければ……私には家族の情を向けてくれている。蜜璃」
「なあに?」
きょとんと首を傾げる蜜璃は花が綻ぶよりも愛らしい。もしも義勇が蜜璃に恋をしていたならば、いつだって眩しくて目を細めてしまうことだろう。見ていると自然に笑みが溢れてしまうような鮮やかさを持っているのだ。
「一等好きな人には、殊更に優しくしたくなるものだそうだ」
義勇が杏寿郎から優しくされているように、小芭内も蜜璃にひどく優しい。それはもう家族すら驚くほどに優しいのだ。治まっていた頬の色がまた薔薇色に染まっていく様子を見せながら、蜜璃は嬉しそうに寝台へ寝転がり足をばたつかせた。
「ふふ……もうすぐ夢が叶っちゃう……」
「……蜜璃は凄い」
蜜璃の寝台に頭を預け、ぱちりと瞬いた彼女の布団を抱え込んでいる手を握った。最初から添い遂げる殿方を探しに来たと言っていたのだ。最初こそ驚いたけれど、やり遂げるためにこの手が掴んで離さなかった。
「格好良い」
眩しくて綺麗で、義勇はやっぱり目を細めて笑みを浮かべるとそう口にした。
「………」
「……え、ど、どうした? 嫌だったか」
大きな目が義勇を捉えたまま、ほろりと涙が零れ落ちるのを目の当たりにした。褒め言葉のつもりで口にしたけれど、乙女である蜜璃には嬉しくない言葉だっただろうか。いつも義勇をあらゆる言葉で褒めてくれるから、義勇も本心が伝わってほしくて口にしたのだが。
「、違うの。違う。……ふふ、嬉しくて。他でもない義勇さんに格好良いって言われたのが、すごく嬉しいの」
花が朝露でも被ったようだと涙を零しながら笑う蜜璃の柔らかな頬を、残った左手でそっと拭う。それが義勇相手に言っていたというのは納得がいかないものの、恋をしていなくても目を奪われる感覚というものを理解できたような気がした。
「本当はね、……悔しかったの。私の白無垢は、伊黒さんの想像の中でしか見えないんだもの。それはきっと目一杯美化してくれるだろうけれど……」
小芭内がただ一人白無垢を見たのが義勇だったなんて。
それでも蜜璃は義勇へ笑みを向けてくれる。残った手で残った手を繋ぐ。傷だらけの身体を嘆く者はたくさんいるだろうけれど。
「伊黒さんの見えなくなった目も、私の腕も、鬼舞辻無惨を倒した誇りだもの。私、難しいこと言えないからなんて伝えればいいかわからないけれど……生まれ変わったらまたお嫁さんにしてくれるって約束してくれたから、楽しみなのよ」
写真をたくさん撮って、残して、生まれ変わった後も見られるように。生まれ変わった小芭内の目で見てもらえるように、繋いで残していく。今後どころか今生を終えた後のことまで見据えているなんて、やっぱり蜜璃は凄かった。
「きちんと見てもらうのは、来世におあずけするわ! だからね、義勇さん。お化粧、お願いできるかしら。目一杯綺麗にして写真に残したいの」
「……当日まで練習する。失敗は許されないから、頑張る」
「ほどほどにって言いたいけれど……うん、よろしくお願いします」
「承知した」
姉の祝言は見ることが叶わなかったけれど、絶対に失敗したくない。今度こそ美しい花嫁を送る側で見たいからだ。