逃亡
鬼の亡骸は灰となり崩れていくので残らない。殺された人の身体は残ったまま。警察が現場と遺体を調べても、出てくるのは他殺か事故のどちらかだろう。誰に殺されたかの選択肢は複数あったとしても、決して鬼に喰われたなどという結論はない。
法要もきりがつくまでは列席させるだろうと父も予想を立てていたそうだが、念のため鎹鴉に昼間観察させて一先ず冨岡家に留まっていることを確認しているという。もちろん任務とは無関係のため、報酬の胡桃をたんまりと鴉に支払っている。どんな様子かと問いかけても、父は口を噤んで教えてはくれなかった。
子供の足では逃げられないこともあるだろうと、父はあらゆる想定をしているのだと言った。逃げきれなければ少女はどうなるのだろうと杏寿郎は想像してみたが、なんとも気分が落ち込むばかりだった。
冨岡の屋敷で少女と再会してからひと月あまりが経っていた。
いつものように弟を起こして二人で母に挨拶をしに部屋へと赴き、朝食の準備をする使用人を気にしながら腹の虫を鳴かせて父の帰りを待つ。鴉が戻ってきたらまた今日も観察に向かわせるだろうかと考えていると、珍しく慌ただしい足音を立てて父は帰宅したようだった。
「おかえりなさいませ父上、」
「挨拶はいい。すまんが朝餉より先に頼みたいことがある。ハナを呼んでくれ」
常にない様子で使用人を呼ぶよう頼む父は大事な炎柱の羽織で包んだ何かを腕に抱えていた。
犬や猫のような大きさではない。慌てて厨で鍋をかき混ぜる年配の使用人に声をかけると、ばたばたと玄関へ戻った。
「何事でしょう、旦那さま」
「保護してきた。この子を頼む」
羽織に包まれていたのは怪我を負い眠っている冨岡家の少女だった。痛々しい傷が頭や頬、見えている首元にもあり、使用人が驚いたように声を上げる。
「杏寿郎の隣の部屋が空いてたな。そこで休ませてやってくれ」
「来客用の布団をお出ししてよろしいですか。酷い怪我、たくさん汚れて可哀想に」
「杏寿郎は医者を呼んできてくれるか」
「わかりました!」
頼まれるがまま杏寿郎は家を飛び出し、かかりつけ医の下へと駆けていった。
父は少女を迎えに行ったそうだ。鴉の報告で普段と違う動きがあることはわかっていたから、任務の合間に様子を見に行った。夜目が民間人より効くのは夜を駆ける鬼狩りだからだ。逃げ出していく影が見えたのだと教えてくれた。
「急な傾斜で滑り落ちるのを止められなくてな、怪我を負わせてしまった。本当に度胸のある子だ」
他者から暴行を受けたわけではなく、ただ転がり落ちて怪我をしたそうだ。逃亡を図っていることを知っていた上に、男を説得できたなら療養と称して保護できたものを、と父は悔やんでいるようだった。それでも三度会えたのだから杏寿郎にとっては有り難いことだ。
「お転婆な子なのですね」
怪我の具合を医者に見せ、使用人が着替えさせてからもう大丈夫と落ち着いたところだ。体調が良いからと母もわざわざ部屋へ足を踏み入れ、眠る少女を優しげな目で眺めている。
その時誰かの腹の虫が存在を主張した。
何が起こっているのかわからないままに、普段と違ってばたばたと皆が慌ただしくしているものだからぐずる暇もなかったのだろう。杏寿郎ではなく弟の腹が鳴いてしまい、少々恥ずかしそうに顔を俯かせた。つられた杏寿郎の腹の虫は更に大きな音で鳴いた。
「そういえばお食事がまだでしたね! すぐ準備いたしますので」
「ああ……すまんな」
支度の途中で呼び出してしまったので、厨には放置された料理が残っているだろう。この音を聞いて目を覚ましてくれればいいと思ったが、安らげなかったとしたら休ませてあげたい。朝餉の支度が整うまで少女の眠る部屋で待っていた。
*
ふいに浮上した意識の奥で、なにやら騒がしさを感じた。
暗く陰鬱とした格子の中ではなく、決死の覚悟で走った夜の暗闇でもなく、明るい陽のあたるどこかの部屋だった。きょろりと目を彷徨わせると、騒がしさは高い声色が誰かを呼んでいる声であることに気がついた。
「ありがとう、千寿郎。起きたか、具合はどうだ?」
見覚えのある大人が眉根を寄せて義勇を覗き込んでくる。そのそばには似た顔の幼子がいて、大人にしがみつきながら見つめていた。
煉獄家。見合いの日と葬儀に来てくれた人たちのいる場所へ辿り着いていたらしい。
「落ち着きなさい、そのままで大丈夫だから」
飛び起きようとしたところを大人に制され、あえなく布団に逆戻りした。
しかし、何故ここまで無事来られたのか思い出せない。暗い夜の道ともいえない場所を走っていたところまでは覚えているが、それがどこかもわかっていなかったのに。
「きみが傾斜を滑り落ちたところを保護したのだが、覚えてるか?」
「………、なんとなく……」
叔父の追跡を逃れることばかり気にしていたから、無我夢中だったのでどこを走っていたかも定かではない。目的としていた人に見つけてもらえるとは、運を使い果たしたのではないかと思ってしまった。
「ありがとうございました。このご恩は……」
「そこは気にせず療養してくれ。腹は減っているか? 痛みはあるか? ああ、起きなくていいから」
「父上!」
ばしんと襖を勢い良く開けた音につい驚いてびくりと身体を震わせ、思わず布団をぎゅうと握った。
「こら、杏寿郎。静かにしなさい、起きたばかりだ」
「申し訳ありません! 起きたんだな、義勇さん」
父譲りの焔色を持つ少年が満面の笑みを見せて覗き込んできた。何も言わずにひとつふたつ瞬いただけだったからか、少年は少しばかり不安げに眉尻を下げた。
「急に詰め寄るものではありませんよ。義勇さんでしたね、大変な思いをなさって来られたのだとお伺いしました。ここは安全ですから、心配せずともよいのですよ」
部屋にいた焔たちを制して現れたのは、黒髪の綺麗な女の人だった。杏寿郎の母だと名乗り、見合いと葬儀に顔を出せず失礼をしたと頭を下げられ、義勇は慌てて布団から抜け出そうとしたがやはり止められてしまった。
「そういえば千寿郎に会うのも初めてだな! 俺の弟だ、四つになる。仲良くしてくれると嬉しい!」
「こ、こんにちは……」
「冨岡義勇です……」
伏せったままでしかできなかった挨拶に義勇は申し訳なさを感じたが、そそくさとすぐに兄の後ろへ隠れてしまった幼子に少しばかり親近感を覚えてしまった。
義勇も覚えがある、初めて会う人がどんな人かわからずつい家族の後ろに隠れてしまう癖。引っ込み思案であった義勇は毎度姉の後ろで裾を掴んでいたものだ。彼が同じかはわからないけれど、隠れ方が似ていた。
「……あの……本当に……良かったのでしょうか」
住所を教えてもらって、頼ってくれと言われたから目指して逃げ出したものの、いざ辿り着いて優しくされるとどうしていいかわからなくなった。優しい人たちだからこそ迷惑をかけてしまっては義勇も今より更に申し訳ない気分になってしまう。
「あてがないから来てくれたんだろう? 母上はいつも弱き人を助けよとおっしゃるし。きみは逞しいけどたいへんな怪我だったから……父上に保護されてよかった」
「女の子に向かって逞しいとは……杏寿郎……」
「あー……俺も窘めたんだが……」
逞しい。義勇に逞しさが今よりもっとあれば姉を助けられたかもしれない。それこそ義勇を見つけて保護してくれるほどの杏寿郎の父のように強くあれば、鬼を倒すこともできたかもしれないのだ。布団を引き上げて顔を隠した。
「逞しくなりたい。姉さんを助けられなかった……」
「……それは我々鬼狩りが間に合わなかったせいだ。謝って済む問題ではないが……申し訳ない」
あの夜、この人がもし冨岡家の近くに居たら。
杏寿郎の父から深く頭を下げられ、旋毛すら見えた義勇はついに布団から飛び退いた。向かい合って座った膝の上に置いた手が、無意識のうちにぎゅっと浴衣を握りしめていた。
「大丈夫です……助けてくれてありがとうございました」
「……こんなことで償えるとも思わんが、好きなだけうちに居るといい。完治するまでの間、きみの面倒は杏寿郎が見る。なんでも聞いてくれ」
「よろしく!」
落ち込んだ空気に割り込む返事が快活で少しばかり気が紛れた。
義勇が着ていた着物と羽織は汚れていたから洗濯してくれているらしい。懐に入れていたものはこちらにあると籠に仕舞われたものを見せてくれ、人知れずリボンがどこにいったのか不安になっていた義勇はほっと安堵し礼を口にした。
しかし、これほど世話になっておいて好きなだけと言われても。もしもの想像は一先ず置いておいて、頼ろうとしておいて更に面倒を見させるなど迷惑以外の何ものでもないだろう。気を遣われるのは本意ではないし、下女として雇ってもらえたら有り難いくらいだった。姉のようにはいかないが、それなりに教え込まれているので炊事も洗濯もやればなんとかなるはずだ。怪我が治るまでは少し時間がかかるかもしれないが。
と、どうにか働かせてもらおうと口を開いたところで、疲れただろうと杏寿郎の父は義勇に休むよう促した。
「まだ本調子じゃないだろう。話は回復してからでも大丈夫だ」
布団へ入るよう促され、正座していた義勇は大人しく従うことにした。大人とのやり取りは全部姉がやってくれていたから、話下手な義勇に交渉できるか不安だったが。
陽のあたる部屋で過ごすのはいつぶりだろうか。潜り込んだ先からきっちりと布団を被せられ、恐縮しながらも瞼が段々落ちてくるのに抗えなかった。閉じ込められてから急に走り回ったせいか、それとも病院に行かなくていいと安心したせいだろうか。うとうととし始めた意識はすぐに夢の底に落ちていった。
そうして食事を与えてもらい、医者に傷の具合を確認してもらい、使用人がさっと着替えさせてくれて、いたれりつくせりで療養していた時のこと。湯に浸かってもいいだろうということで、浴場への案内についていったところだった。
数日したら杏寿郎は義勇をさん付けから呼び捨てに変えていて、お互いそうしようと言われたので義勇も杏寿郎を呼び捨てにするようになった。他人行儀でこそばゆいのだと顔を顰めていたのがなんだか可愛かったのだが、義勇も呼び捨てのほうが慣れていたから有り難かった。
「ここが湯殿だ!」
浴場に到着した義勇は持たされた手拭いと着替えを置き、そっと中を覗いた。一人で入るにはなんだか広すぎる気がしたが、杏寿郎も父や弟と一緒に入っているのかもしれない。
「腕の怪我は洗うのに大変そうだ。洗うの手伝おうか」
そうして覗くのをやめた義勇はとんでもない提案を突きつけられ、思わず困り果てた顔をした頬が熱くなる。
相手は杏寿郎だ。迷惑をかけたのは自覚しているが、だからといって女であることを捨てたわけではなかったので狼狽えた。
頬の熱が治まらないままむっとしかめ面を披露した義勇は、疑問符を浮かべてとぼけた表情の杏寿郎へ睨むように目を向けた。
「自分でできる」
「しかし怪我はまだ、」
「できる!」
ぐいぐいと背中を押して脱衣場から追い出せば、廊下には驚いた顔の使用人、ハナが通りがかった。洗濯物を集めようとしていたらしい。
義勇によってぴしゃりと締め出された杏寿郎に何を思ったのかは知らないが、閉める間際の彼女はなんとも呆れたような顔をしていたようだった。
「杏寿郎坊っちゃん……女の子なのですから、殿方に裸なんぞ見られたら恥ずかしくてお嫁に行けません。お嬢さんのお怪我のことはハナにお任せください」
「………!」
バラされてしまった。杏寿郎が息を呑んだことすら扉越しに聞こえた気がして義勇はしかめ面のまま熱くなった頬を両手で押さえた。
「………っ、申し訳ない! わかっていたはずなのに、面倒を見ると張り切ったせいかすっかり頭から抜けていた!」
扉越しから大きな声で謝られたが、なんとも顔を合わせ辛くなりそうだ。やっぱり慣れない同年代の少年に世話を焼かれるのは照れてしまう。着替えや包帯を変える際は杏寿郎が来る前にハナは終わらせてくれていたから、彼がすっぽり性差を忘れているなど気づかなかった。
「でも!」
終わったと思っていた言葉が続き、更なる大きな声でつい義勇の肩は震え上がった。杏寿郎は声が大きい。本人も自覚しているようで、葬儀の際は努めて小声で話すよう気をつけていたのだそうだ。
「許婚だし、俺がきみを娶るから見たとしても大丈夫だ! お嫁には行けるぞ!」
「大声で何を言ってる杏寿郎!」
杏寿郎の父の焦りを滲ませた怒号が響き、義勇はつい大丈夫だろうかと心配になってしまった。
浴衣を脱いで風呂場に足を踏み入れたところで使用人がそっと現れ、風呂で身体を洗ってもらい、災難でしたねえ、悪気はないのですよと苦笑いを漏らされた。
「あー……まあその、……きみも了承したと聞いたが……はあ……。……杏寿郎との縁談はそのまま進めても大丈夫なんだな? 嫌になったりしてないよな」
風呂上がり、杏寿郎の母の部屋へ来てくれと要請があり顔を出すと、彼の父と母――槇寿郎と瑠火が揃って出迎えた。そうして不安げに問いかけてきた内容に義勇は慌てて頷いた。先程は恥ずかしくて困ってしまったが、杏寿郎が嫌になったなんてことはない。
「そうか、それならいいが……ならばきみはこのまま居候してくれればいい」
少し前に働かせてほしいと頼んだことについての答えなのだそうだ。それでは今のいたれりつくせりに返せるものがないのだが、槇寿郎は息子たちと遊んだり瑠火の話し相手になってやってほしいと口にした。
「ハナの手伝いは息子たちもやってることだから頼むことはあるかもしれないが、下女として雇うようなことはしない。そうでなければ杏寿郎が納得しないからな」
「好きに甘えてくださってかまいません。ご両親の代わりとはいかないかもしれませんが、同じようにしていただけるなら私も嬉しいです」
私としては娘も欲しかったのです、と微笑む瑠火を眺めていると、隣で槇寿郎が少し複雑そうな表情をした。
「……両親のことを、私はあまり覚えていません。どうすればいいのか、わからなくて……」
「……そう。かまいませんよ。あなたの思うとおりに過ごし、それを家族の形にしていけばいいのです。ごめんなさいね、言い難いことを言わせてしまいました」
もう少し寄るようにと促されて布団近くに膝を置くと、瑠火は手を伸ばして義勇を正面から抱きしめた。柔らかい、弱いくらいの力加減で背中を叩き、擦られ、頭を撫でられる。姉はもう少し力を込めていたなあと思い出すと、散々泣いたはずなのにじわりと涙が滲んできていた。
「失礼します、母上。義勇の、」
「静かに、杏寿郎」
慌てたように口元を塞ぐ杏寿郎を義勇が見ることはなかった。
いつの間にやら瑠火の膝で眠ってしまっていたことに気がつくのは半刻後に目覚めた時で、慌てて謝る義勇に瑠火はまたおいでなさいと微笑んでくれた。