藤の花の家紋の家で

「ああ、俺たちは夫婦なので同室でかまわない!」
 不要な気遣いだったと理解したらしい藤の花の家紋の家の女将は心得たと一礼した。時折世話になった屋敷の主や息子などから言い寄られることのある義勇なので、はっきり伝えておくのが最善なのである。最初こそ言い触らすのやだと恥ずかしがっていた義勇だが、子が生まれてからは気にならなくなったようだ。
「しかし、疲れたな。被害は大きくなかったが」
「酷い血鬼術だった……」
 甘露寺が柱となってから義勇と臨んだ任務だったが、なかなかに骨の折れる指令だったと振り返る。鬼自体はそう強くはなかったものの、異能は催眠を促すものでそこかしこで隊士同士の諍いが始まった。心の小さな暗い点を無理やり悪意に仕立て上げ、大きく肥大させてぶつけ合う。そうやって仲間割れを楽しんでいたようだった。
 潜んでいる場所を見つけるまでが長く、杏寿郎たちも随分な言葉で様々に罵倒された。見た目が主だったのはあまり関わりのない隊士だったからかもしれないが、それはそれで少々傷つきもした。目つきが人間離れしていて近寄りたくないとか。義勇が一人殴ったのは止めるべきだったが、止める間もなく杏寿郎への悪口に憤ったのだから仕方ないと思う。
 鬼を斬った後は当人が口走ったことの記憶は残らないらしく、まあ彼らに遺恨が残らなければいいかと落ち着いた。とりあえず蝶屋敷へ行くようには伝え引き上げたのである。
「うむ、俺のことで怒ってくれるのは嬉しいが、手を出すのは駄目だ。びっくりしたぞ!」
「杏寿郎に暴言を吐いておいて罰がないのは許せない」
 まあ、義勇が貶されたら杏寿郎とてただでは済ませないのでこれも仕方ない。判断が早すぎるがそれも杏寿郎への想い故だ。嬉しいものである。
「蒼寿郎は良い子にしてるだろうか……」
「うむ、父上も千寿郎もいるから大丈夫だと思うが。随分暴れん坊になってきたからな!」
 杏寿郎がよく障子や襖を破る子供だったとは父から聞いたが、義勇は物心つくと庭の木に登ったり落とし穴を掘ったりとなかなかにお転婆だったともいう話だ。両親のやんちゃぶりがしっかり受け継がれているような気がして、今から庭で遊ぶのが少し楽しみでもある。父には悪いが。
「しかし、きみもすっかり頼りになる母親だ」
「……理想には近づけない」
「そうか? よくやってくれている。……そろそろきみを甘やかしたいと思うくらいにな」
 入浴を済ませ、食事も終えた二人にあてがわれた部屋には布団がすでに敷かれている。あとは眠るだけというところでそっと肩を引き寄せ髪を撫でると、ほんのり頬を色づかせて頭をすり寄せてくる。
「充分甘えてる……」
「足りんなあ。きみは昔から役に立とうとそればかりだ。身重の間すらなかなか甘やかされなかった。寂しいぞ」
 宇髄の家庭は三人の妻が居るが、定期的に一人ずつ甘えさせる時間を取っているらしい。潜入任務もさせているからその労いも込めているのだとか。いつ聞いても妻が三人は多すぎると思うが、そのような時間を作っているのは参考にさせてもらいたく思う。
 寝衣の袖から手を忍ばせて、滑らかな肌の肘に触れた。そのまま二の腕までするりと撫でる。眼前で色づいた頬のまま伏せた睫毛がふるりと揺れた。
「、ん……も、もう……他所様の屋敷で」
「普段からそればかり考えてるわけではないから、蒼寿郎がいない時は許してくれ」
 その手の目的があろうとなかろうと、愛しい妻と触れ合っていたいとは思っているが。視線をそわつかせている様子が初心な許婚であった頃を思い出させて、いつまでも少女のようで愛らしいなあ、と杏寿郎をときめかせるのである。
 それに煽られたと言っても義勇は理解しないだろうが、杏寿郎はもう理解を得られないことを理解しているので気にはしない。間近にある薄桃色の唇へと吸いつくと、縋りつくように杏寿郎の腕へと白い指が触れた。
「……その。……いつも我慢、してるのか?」
「! ま、あ、その。……蒼寿郎が起きてる時は、我慢してることもある」
「む……してたのか……」
 子が起きている時は駄目と義勇が言ったからでもあるが。休息を取りに寄るだけの藤の花の家紋の家で不埒なことをしでかすなど普段ならあまり考えないのだが、なんだか今日はそういう気分にもなってしまったのだ。押し倒して覆い被さってからは頭を撫でられているので、どうやら我慢していたことと任務の時の慰めも込めているのかもしれない。甘やかすつもりだったのだが甘やかされているようである。
「俺を甘やかす前に、きみが甘えてくれないか」
「先にした者勝ちだ」
「何故……あー、そうかきみ……甘える前に甘やかされてきたんだったな……」
 一度会っただけでも伝わってきた、妹が大事だという義姉からの空気。きっと甘やかすことに慣れきっていたのだろうと杏寿郎は理解していたので、見てきた義勇も義姉のようにしてみたのだろう。目の前でむふふと含み笑いをする義勇の衿を肌蹴させて白い胸を顕にさせながら、柔らかな双丘へと手を伸ばす。勝ち負けがあったとは初耳だったが。
「油断してると逆転してしまうぞ。……ん?」
 家人がぱたぱたと玄関へ向かう足音が聞こえ、少しばかり騒がしくなった廊下の音を耳が拾う。奥の間へ通された杏寿郎たちのところには来ないのだろうが、どうやら隊士が寄ったようだ。
 少々気が削がれたのは杏寿郎だけではなく義勇もらしく、杏寿郎へどうするのかと目線で訴えながら肘をついて上体を起こそうとした。柱が滞在していることに気づいて最中に挨拶にでも来られてはたまらない。致し方ない、静かになるまでは添い寝で済ませようかと義勇をまた寝かせるために肩を布団へそっと押しつける。その気になってほんのり色を纏う義勇が不満げにしたが、杏寿郎とて不満なのでどうしようもない。溜息を吐きながら胸元を仕舞うために義勇の衿を正した時、気配のない足音にも気づけぬまま障子がすぱんと開いたのだった。
「よお、煉獄! 居るって聞いて同室にしてもらったぜ! ……あっ、お邪魔しましたー」
 障子が開いて閉まるまで一体何秒だったか定かではないが、固まったまま杏寿郎と義勇は閉められた障子を凝視していた。開けると同時に声をかけては意味がないというのに、そこへの苦言すら発せなかった。
 宇髄と、奥にも誰か居た。柱と同室を選ぶのは同じ柱か懇意にしている隊士くらいだ。せめて女性であればいいと願いつつ、こめかみに青筋が立つのを自覚しながら杏寿郎は身体を起こした。
 義勇の胸元は杏寿郎の手で隠れていただろうが、布団を被る前だったので何をしようとしていたかは一目瞭然だっただろう。ちらりと義勇の様子を確認すると、真っ赤になったまま涙目で小さく震えていた。先程までの色気が霧散して幼子のようだった。
「すまない、不徳の極みだ……」
 いつぞやの隊服で半泣きだった頃を彷彿とさせる表情である。子の親となっても愛らしさが募る義勇を抱きしめて今こそ甘やかしてやりたいものの、まず先にやることがあった。待っていてくれと頭を撫でて額へ口づけてから、杏寿郎は布団から抜け出し障子へと手をかけた。
「――うおっ! 危ねえな、殺す気か!?」
「いや、記憶を消すつもりだな!」
 部屋を飛び出し廊下の端へと移動していた宇髄の頭を殴ろうとしたところで気づかれ、瞬時に避けられてしまった。
 夫婦の色事(未遂)を見られてしまったのだから致し方ない措置である。義勇の色気はそれはそれは凄いものなので、忘れてくれねば困るのだ。そう告げると不可抗力なのにと不満を顕にする。何がなんだかわかっていないらしい不死川がそばに居たが、この様子では見ていないようだったので一先ずは安心した。
「いや、悪かったって。甘露寺も一緒だから男女別部屋だと思い込んでたぜ、あいつ柱になったんだった。ま、俺だって嫁連れて休む時は致したりするし」
「きみは藤の花の家紋の家でそんなことしてるのか!?」
「今さっき致そうとしてたくせに説教すんなよ? 忘れるから勘弁してくれ」
「如何わしい話してんじゃねェ! 宇髄はさっさと風呂行ってこい!」
 会話内容で薄っすら把握したのか、先ほどまでとぼけていたはずの不死川が顔色を真っ赤にして怒り出した。除け者にするなと宇髄が不死川の首を締めるが、なんとか抜け出した不死川は話があるのだと一言告げた。
 その言葉で杏寿郎が目を瞠ったことに気がついたらしく、ちらりと視線を向けた宇髄は溜息を吐いて了承した。こういう時宇髄は察しが良く話が早い。
「人妻は色っぽいから変な気起こさねえように別室使えよー」
「殺すぞォ……」
 強面を更に凶悪にさせた不死川は真っ赤なまま宇髄の捨て台詞に物騒な返事をし、やがて咳払いをして気を取り直し杏寿郎へと向き直った。
「……お前と嫁さんに話がある」
「ああ、かまわんが……しかし、あとは休むだけなんだ」
「手短に済ませる」
 捨て台詞を吐いて去られてから数ヶ月、言葉を交わすことも目が合うこともなかった相手だ。以前よりは落ち着いているようなので再び同じことを繰り返すことはないだろうが、杏寿郎は不死川の要件が何なのか図りかねた。
「出てきてくれ、義勇。不死川が用があると」
 布団の虫を揺すりながらそう告げると勢い良く飛び出してきた。とはいえよほど恥ずかしかったのだろう義勇は未だ頬が赤いまま、焦りながら寝乱れた髪を必死に整えている。廊下から部屋の中が確認できる状態ですべきではなかった。乱れているのは髪だけではなく衿も緩んで少し谷間が見えていたからである。それをぎゅぎゅっと隠すように締めながら、杏寿郎は不死川を呼んだ。
 呼ばれた不死川もまた赤くなった強面を更に凶悪にさせながら足を踏み入れ、障子を閉めて畳の隅へ座り込む。座布団を差し出そうとしたところでふいに白髪頭が視界の下方へと向かった。瞬いてようやく不死川が頭を下げていると認識した。
「……言い過ぎたことを謝りにきた。すまなかった」
 目的があったとはいえ、特に家族を鬼に殺された者たちにとって到底看過できぬことをしたと思ってはいたので、まさか謝られるとは考えもしていなかった。
「お前んちの意向があったのはわかってたが、殆ど八つ当たりみてェなもんだった。冨岡のことも……失礼なことを言っちまった」
 驚愕のあまり無言で慌てふためく義勇を視界に収めつつ、杏寿郎は不死川の旋毛を眺めた。
 謝らず放置する者だって居るだろうに、なにより許し難かった言葉を撤回して謝罪に来た不死川は、やはり鬼が絡まなければ理性的で律儀な男だ。
「あの時の言葉は撤回する。煉獄の言うことはもっともだった。あんたが煉獄の親父さんの依頼を遂行するにはそれしかなかったのも、理解はした。……だが、それでも俺は鬼を許さねェ」
「……はい。当然の反応です」
「鬼には関わらなくていいんだ、それは俺たちに任せてくれ。――ただ、兄には関わってもらうことになるだろう」
 不審そうにした不死川へ笑みを向けた杏寿郎は、現在湯を借りている宇髄にも話すべきと考え彼が戻るのを待ってからと口にした。ついでなので不死川にも風呂へと向かうよう促し、家人には食事を用意してもらうよう告げておくと進言した。

「面食い同士の会合終わったんだな」
「とんだ言いがかりだな! なんだ突然!」
 空きのあった隣室を不死川と宇髄の部屋にしてもらった杏寿郎は、準備された膳を眺めつつ二人を待っていたところだった。他の隊士たちは少し離れた部屋を借りているらしく、比較的元気そうな声が漏れ聞こえてくる。怪我の程度はさほど重くはないようで安心していたところ、家人に案内されてきた宇髄の言葉が飛んできたのだった。後ろには汗を流してきた不死川も戻ってきている。
「いや、噂があってな? 炎柱は面食いっていう」
「何故だ!? いや妻を見て言われているのはわかるが!」
 面食いと揶揄われるほど許婚を選り好みしたわけでも、取っ替え引っ替えしたこともないのに。邪魔になるからと同席を断ろうとした義勇へ華がないと飯が美味くない、などと遊び人も顔負けの口説き文句を口にした宇髄へ笑みを浮かべつつ睨みながら隣室へ移動すると、悪びれずににかりと笑みを返してきた。
 美人侍らせて良い御身分だよなあ。そら柱だし、継子の片方は嫁さんだし。美人娶る時点で面食いだ。ま、どうせ娶るなら目の保養したいもんな。
「――なーんて羨んでる奴らが居たもんでよ。ド派手な継子連れてる上に、冨岡が復帰してから更に炎柱は面食いって噂が立ち始めたんだよ。もしや炎柱は侍らせたい者を顔で選んでいるのかな? と」
「とんでもないな!」
 そんな噂話を聞いたままの声音で真似て教えてくれた宇髄だったが、義勇は話の内容より声真似が凄くて驚いたようだ。そういえば妊娠する前は父の継子だったし、杏寿郎は義勇が休暇に入る頃に柱となったのだったと思い出したが、だからといってその噂は如何なものか。
「義勇は顔だけではない! 顔よりも内面が美しく、だから俺は惚れたのであって」
「わかったわかった」
「そもそも子供の頃から許婚だったのであって、我ながら一途だと自覚している! いやまあ鈍い鈍いと言われてはいたが、義勇以外を見たことなどないから一途なのは間違いない! 俺を想うあまりともに鬼狩りとなって支えてくれるような心根の清い義勇をだな、」
「―――! そんなこと言わなくていい!」
「むう! しかし面食いなどと思われたままでは納得いかん! いやこの世で一等美しくはあるが!」
 なおも言い募ろうとした杏寿郎の背中に思いきり張り手を食らわせてきた義勇だが、悶絶しかけるほどの痛みよりもまず言いたいことがあるのでやはりそれどころではない。背中紅葉になってるのでは、と気の毒そうな顔を見せた宇髄だが、元凶は妙な噂を聞かせてきた彼である。涙目で真っ赤な義勇から背骨をごつごつ殴られても意に介さなかったところで呆れ顔に変化した。不死川から「これは人妻これは人妻……」と不穏なことを呟いていたのが聞こえたが。
「人妻にしちゃ初心すぎるわな。胡蝶カナエが好みの面食い不死川にも刺さっちまった?」
「……はっ!? なわけねェだろ!」
「どちらに対しての否定だ!?」
 確かに生前胡蝶カナエは隊内でも美しいと評判だったようだが、故人を悪く言うつもりはないがそれでも杏寿郎にとっての一等は義勇であり、不死川が妻にときめくのも致し方ないことであろう。いやいや、このように愛らしい妻を見られてはやはり困る。
「うわー、俺でもこんな惚気ねえよ」
「惚気たくなるから仕方あるまい」
「嫁はへそ曲げたけどな。なんか惚気たくなってきたわ。俺の女房は見た目も気立ても色気も完璧だし?」
 ひたすらに言葉を続けながら義勇を背中へ匿うと、宇髄は呆れつつも三人の妻の話を聞かせようとしながら食事を楽しんでいる。黙りを決め込み始めた不死川はただ秋刀魚をおかずに白米を掻き込んでいた。背後へ匿った義勇はといえば、抱えた膝に顔を埋めて拗ねている。子の前ではしっかりした母で居てくれるので、こんな姿も今では珍しいものだ。
「しかし、どんどん素が出てくるな。こんなん澄まし顔してた頃はわかんなかったわ」
「うむ! 良からぬ虫ではないとすでに判断したのでな!」
 上官である彼らとは顔も何度か合わせるようになっていたし、人となりもわかっている。だから錆兎も小芭内も何も言わなかったのだろう。とはいえ失礼をしてはまずいという緊張や混乱を治めたい時などの義勇は誰にでも表情を消すのだが。杏寿郎にだけはやらないでほしいところである。
「そんで? なんか言うことあるんだろ?」
 あらかた食べ終わり、酒を嗜みながら宇髄が一言口にした。そうそう、本題はそこであった。不死川も姿勢を改め、背後に居た義勇も座り直して顔を出し向き直る。
「うむ、日の呼吸の見取り稽古についてだ。あの兄妹一族に伝わってきた神楽舞が本当に剣技なのかと本人も訝しんでいたが、呼吸使いが見ればわかる。あれをもう一度日の呼吸として扱えるようになれば、父の言う最強の御業が鬼殺隊に戻ってくる。見取りだけでも力になるだろう」
「それなあ……正直こっちは眉唾なんだよな。岩の呼吸なんかは使用者も限られるような型だし、誰も扱えなかった、あれより難しい呼吸てのは想像つかねえ。煉獄さんがいじけてるだけじゃねえの?」
「父がというより先祖がだがな! 他の呼吸と明確に強さが違うかどうかは俺もまだわからん。本人も未熟だから父君の足下にも及ばないと言っていたものでな」
 使い手によって力量差があるということだ。そのあたりは今の隊士を見ていてもよくあることとわかる。刀の色が変わる限り呼吸は扱えるはずだが、それすらもできなかったということだろう。
 刀の色が変わる限り。先祖は適性のある色へと変化し炎の呼吸を繋げてきた。変わらなかった弟には呼吸使いとしての才覚はない。
「なんだよ、じゃあそいつは最強じゃねェのか」
「彼自身はまだどうにも、鱗滝さんに勝てないからな。扱う呼吸は最強だと父は確信しているが……まあ、なにぶん相手は子供だからな。まだ精進も足りんのだろう。余計にその父君の神楽舞が見たかった!」