耳飾り
「――徹夜で長期の任務こなすより疲弊した気分だ。……なんでこいつこんなぼんやりしてるんだ」
「ん? ああ、大仕事が無事済んだからな」
縁側で眠る息子に膝枕をしたまま、ハナから手渡された生姜湯を飲みながら意識がほわほわしている義勇を不審そうに眺めつつ、小芭内は大きな溜息を吐いた。
「此度のことはさすがに絶交が脳裏を過ぎったようだから」
鬼殺隊からの除隊も処罰も。幸い離縁とは言わなかったし父からの要請だったからには破門とまではいかないのではないか、という可能性には辿り着いていたようだが、錆兎と小芭内――ひいては鬼殺隊に対して裏切りともいえる行為をしたと考えたのだろう。
「とんでもないことしでかしておいて絶交で済むと思ったのかあいつは」
「義勇にとっては大事なことだぞ」
絶縁といったほうが伝わるだろうか。なにぶん友が少ないとも言っていたし、仲間であり家族のようでもある錆兎と小芭内から見放されては心も傷つくだろう。杏寿郎とてそう思う。
「皆が鬼に憎悪を抱いているのだから、彼女も度し難いことをした自覚はあった。それでも父の言いつけと例の子供の行く末を加味した結果だ。小芭内の四時間説教で済んだのだからな」
「……ふん。憎悪など義勇とて同じだろう、ぼけっとしおってからに……。……要らぬゴミがついてきたことは間違いないが、日の呼吸を質に取られては致し方あるまい。俺だってそうなれば一先ずは拘束で済ませるだろうと、冷静になれば確かに考えはするからな。もちろん耳飾りがなければ即斬るが」
「………。昔の義勇のようで愛らしいな!」
説教疲れでぼんやりしているとも取れるが、一先ず錆兎と小芭内が言い分を聞いてくれたことに安堵して気が抜けたのだろう。含み笑いをする時以上にぽやんとしているのが現在の義勇である。
隊士からの救援要請と次の指令が来たのは同時だった。要と寛三郎を見やり、互いに無事で戻るよう言い合って杏寿郎は救援に向かい、義勇には指令地へと向かわせた。
任務を終えた杏寿郎に寄ってきたのは寛三郎だった。
急かす寛三郎に不安を掻き立てられながらも任務地であった雲取山に到着した時の義勇は、表情こそ平静を装っていたが顔色は蒼白だった。
見たところ怪我もない様子に安堵して、耳飾りを見つけたと聞いた時は良い報せではないかと不思議に思ったのも束の間、痛ましい事実を告げてきた。
――妹を鬼にされている。
何度も見てきた光景だ。家族を殺されるよりも苦しいことかもしれぬと思えるような地獄。庇おうとする家族の眼前で頸を斬れば憎悪は鬼狩りに向けられることもあり、それに耐えきれず逃げる隊士も少なくなかった。もしやその耳飾りを持つ者から何かを言われたのだろうか。
「耳飾りの剣士は?」
「あれは剣士ではない。……今は、家族の埋葬を」
「そうか」
遺体が残っただけましだと杏寿郎は知っている。しかし、日の呼吸は継承されていないということだろうか。耳飾りだけが伝わって、剣技はもう忘れ去られてしまったのかもしれない。だが今はその子孫の保護が重要だ。鬼の被害者でもあるのだから、煉獄家で面倒を見ることも可能である。
「……義勇?」
「妹を生かしてほしい」
積もる雪の上に膝をつき、義勇は杏寿郎に向かって頭を下げた。
妹とは耳飾りの剣士の子孫である者の妹だ。義勇の友で妹がいるのは胡蝶カナエだったが、亡き彼女の話題がここで出ることはないはずだ。雲取山に到着して最初に情報を渡されたのは、耳飾りを見つけたこととその者の妹が鬼にされたということ。人を殺すようなことは鬼狩りにあるまじき行為であるのだから、彼女が頭を下げてまで願うのは。
「取り引きでも持ちかけられたか?」
鬼に加担するような人間の中には、命惜しさに取り引きを持ちかけることもありはする。耳飾りの剣士としての協力を要請したら代わりに生かせと見返りを要求されでもしたかと思ったが、義勇は頭を下げたままかぶりを振った。
「独断だ」
「―――。何があった? きみが理由なくそのようなことをするはずがない」
「………」
座り込み、顔を覗き込む。伏せた表情はよく見えないが、寒さ故か唇の色が悪かった。それとも彼女も今までにないことをして混乱しているのかもしれない。
何を見たのか、それを知らぬままで判断は下せない。膝の上で拳を握り白くなっている手の甲へ触れた。
「見たことを教えてくれ。きみの話を聞きたい。信じたいんだ」
ようやく上げた顔は今にも泣きそうで、まるで義姉の葬儀の頃を思い出させるようだった。
「――なるほど、兄を庇った、か。それはまた妙な鬼だ! こればかりはお館様に報告が必要だな。耳飾りの剣士の子孫故か、もしや鬼となった妹にも何かあるのかもしれん」
父からの要請で日の呼吸の継承者を探していたのだ。父の説得はなんとかしてみせようと思っているが、錆兎と小芭内はやはりひと筋縄ではいかないだろう。納得してもらわねば最強の御業が鬼殺隊に立ち戻ることはできないだろうが、大半はそれでも反対するのが人の常だろうな、と杏寿郎は諦めている。だからこそ産屋敷に報告を上げなければならないのだ。
「怒りはするだろうがな! ……まだ不安は消えないか?」
「……杏寿郎がいるから大丈夫」
「そうか! ではその鬼と少年に会いに行くとしよう」
蒼白だった顔色は少し戻り、表情も怖張りが解けている。よほどの恐怖だったことは察するが、それが杏寿郎の返答によって治まったのなら重畳だ。義勇を安心させるのは杏寿郎しかいないという証のようでこちらも嬉しい。今こうして義勇がここにいて兄妹を二人きりにしている時点で鬼に殺意はないと証明してもいるので、錆兎と小芭内にはこの光景を見てもらえばそれなりの評価を下してくれたのではないかとも思うが、そう簡単にはいかないだろうな、と杏寿郎は思いを改めたのだった。
「だったら藤襲に送れ!」
「それはできない。斬られては困る」
「鬼が斬られて困るのは鬼とその身内だけだ!」
血みどろの小さな家から逃げ出した気配を辿り兄妹を見つけた義勇は、最初こそ鬼を斬ろうとした。弱々しく蹲っていた子供に何を思ったかは言わなかったが、子供の耳に覚えのある飾りがついていることに気がついたのと、問答の末に鬼の妹が兄を背に義勇を威嚇したのを目にしたのがほぼ同時だったようだ。
日輪の耳飾りは子供の家に代々伝わるものだと聞き、また鬼であるはずの娘の異常さにも一縷の光を見出し、斬らぬ代わりに協力を要請しようとした。
鬼はすべからく斬るもの。その理解と憎悪があるからこそしでかしたことが異質であると、義勇自身もわかっていた。
そんな葛藤があったことなど小芭内たちにもわかっていただろうが。
鬼狩りは鬼に容赦をしない。水の呼吸の伍ノ型があることすら小芭内は忌々しげに理解できぬと呟いていたことがあった。錆兎も使うことはないだろうと口にしていたことがある。人を喰わない鬼など見たことがなく、皆鬼によって人生を狂わされたからだ。
藤襲に送らせようとするだけ小芭内は温情があった。結局は怒り、呆れ、説教と半日かけて爆発したものの、納得はしきれずとも理解を示してくれたのだった。
まあ、それでも父の言葉には目を剥いていたわけだが。
「そうか、でかした義勇。ありがとう」
耳飾りの少年の協力を得られるなら、鬼一匹監視の下に生かしておくことくらいはなんでもないだろうと言い放った父の言葉には義勇も驚くしかなかっただろう。
離れで軟禁しておくかと口にしたものだから、孫すら危険に晒すのかと錆兎が気色ばんだ。父にとって重要なのは日の呼吸の情報であり、殺しては子供の協力が得られないと考えたからこその措置だったが。
「あの方は鬼舞辻無惨を滅するためなら何であろうと利用なさる」
義勇が見逃すことを産屋敷はわかっていたのかもしれない。
彼にはすでに日の呼吸についても父から報告している。
家族を鬼に喰われた者にとって鬼は憎しみの対象だ。煉獄家のように稼業でもない人間が鬼狩りになるのには、家族を殺された憎悪という理由があるのが大半だ。あの娘鬼がまだ人を喰らっていない事実があったとしても、鬼狩りにとっては受け入れ難い。日の呼吸とはそこまでして会得しなければならないものなのかと、激昂した錆兎が食ってかかったのも当然の反応であった。
「そうだ。あれは呼吸の起源、鬼舞辻無惨を滅するために必要なものだ」
父の頑なにも思える返答は、予想外だっただろう。
その後の柱合会議はやはりというべきか、混乱を極めていた。
特別に退役した父も参加となった今回だが、事情を知らなければ悲鳴嶼とて狼狽えるということがわかった。特に不死川は産屋敷が去った後も、今にも父へ噛みつくのではないかと思えるほど殺気立っている。
「私も柱となってそれなり経ちますが……そも、日の呼吸というものを聞いたことがありません……」
「炎柱の書によれば、呼吸の源となった技だ。鬼舞辻無惨滅殺に不可欠の剣」
生まれながらの才覚に恵まれた剣士の手によって編み出された日の呼吸は、受け継ぐことができず滅びたと考えるほど影も形もなかった。鬼殺隊とは無関係の場所で、近しい者がいたことは喜ぶべきことだと父は言う。
「派手に興味深くはあるが……」
「けど、だからって鬼まで生かす必要はねェでしょう」
「それがある。ある場所で匿ってしばらく経つが――鬼は人を喰っておらず、今は眠っている」
色々と考慮した結果、狭霧山で匿ってもらえないかと父は鱗滝へ打診した。彼にも日の呼吸についてある程度説明していたこともあり、ぜひ知りたいから協力は惜しまないと言うことだったので。
とはいえ鬼まで匿うよう頼まれたのは想定外だったようだ。しかし現役を退いて長いとはいえ、餌を一人も喰っていない鬼など鱗滝にとっては赤子の腕を捻るようなもの。そばに置いても対処できるだろうという理由で打診するに至った。主に錆兎が推していたのもある。一部始終を知った鱗滝はお前の判断を信じると義勇に告げたが、ある意味最大の責務を背負った義勇の顔色は青く、しかし信頼されたのが嬉しかったのか口元は緩むという器用な状態になっていた。
ともかく現状その危険は見られない。即ち人を襲っていない鬼を斬る必要はないのである。
「お館様が容認なさったとはいえ、何かあった場合は如何なさるのか」
追及は続いている。岩柱の悲鳴嶼は鬼はもとより子供に対しても良く思っていないと聞いていたので、此度の話は気分的にも最悪の情報だったのだろう。こめかみに青筋が浮き上がっていた。
「最悪の場合は私が責任を取って腹を切る。まあ……隠居した私の腹に価値があるかといえばないが」
「そんなことは、」
「だから俺も腹を懸けている!」
その瞬間、周りは更なる混乱が渦巻いた。柱の面々とは良い関係を描けていると自負していたが、それは間違いではなかったようだ。当主と元当主が二人もいなくなれば煉獄家はどうなるのかと、律儀にも家のことまで気にしてくれるほどに。
「千寿郎もいるし、すでに蒼寿郎がいる。問題にはならんな」
「冨岡には?」
「話は済んでいる」
静かな宇髄の問いかけに杏寿郎は笑みを見せて答えた。顛末を知る錆兎や小芭内は複雑そうな顔をしながらもただ様子を見守っている。
話は済んでいる。ともに腹を切ること。覚悟はしかと決まっているが、我が子を思えばそうさせるわけにはいかない。だからあの鬼が人を襲うなどあってはならない。最強の御業であるという日の呼吸は煉獄家にとっても必要ではあるので、結局鬼を監視下に置くことは不可欠であったのだ。
「とりあえず、納得してもらえただろうか?」
「するわけねェだろ! してねえけど……仕方ねェ……人を襲う素振りを見せたら即斬る。用が済んだ後も斬るからなァ」
他でもない産屋敷の命もあり、柱の面々は一先ず静観する形に収まってくれたようだ。腹を懸けた甲斐があるというものである。
*
「義勇、どこへ行くんだ?」
「狭霧山に様子を……」
青空の下隊服のまま玄関から現れた義勇に声をかけると、どうやら例の兄妹の様子を伺いに狭霧山へ向かうつもりのようだった。
「俺も行こう!」
「いい。私が連れてきたから」
「きみだけの責ではない。さあ行こうか!」
そうでなくとも杏寿郎と義勇は夫婦で、一蓮托生だ。ともに居ることを誓った仲なのだから、何があっても寄り添うつもりだ。もちろん人道に悖るようなことがあれば正しき道へ戻してやるつもりも、その逆も。今回は煉獄家に寄り添ってくれたから起こった出来事でもあるのだ。そう思うとなんとも言い表し難い想いが湧いて溢れてくるが。
「それに甘露寺を迎えにも行かないとな」
「そうだった……」
何故か未熟としょんぼりしている義勇の肩を叩いて同じ方角へと歩を進ませる。鬼狩りの道に悖る行為だったと思う者もいるだろうが、杏寿郎にとって、煉獄家にとってはその限りではないのだ。義勇としてはあの兄妹が鬼殺隊にとって重要な存在である前に、子供を鬼殺に引き入れた責任を感じているのかもしれない。
門の外へ足を踏み出した時、ふいに人影が見えて杏寿郎は視線を向けた。気配を殺していたらしい不死川が驚愕したようにこちらを凝視していたのだった。
「不死川。手合わせの用でもあっただろうか?」
「………。……そうかァ……おかしいと思ってたんだ。継子の尻拭いってことかよ」
不死川自身に盗み聞きするつもりがあったとは思わないが、どうやら気配を殺して会話を聞いていたようだ。誰に聞こえるともわからぬ場所で不用意に話した杏寿郎にも問題がある。義勇は表情を消しているものの、顔色が悪くなっている。
「親んなったら鬼にまで情けをかけられるようになったってかァ? 随分殊勝なお考えを持ってるこった。それとも……」
忌々しげに表情を歪めて歯噛みした不死川が吐き捨てるように口にした言葉に杏寿郎の眉がぴくりと反応した。義勇のことは見舞いに来てからは会えば口を利く程度には落ち着いていたが、それだけでは度し難かったのだろうと理解はしたが。
「お前、とんでもねェ女抱えちまったんじゃねェのか。鬼殺隊に仇なす人間……そういう意図があって嫁いできたことだって、」
「いくら不死川でも、それ以上妻を貶めるのはやめてもらおう」
人を恨むこともしない義勇を捕まえて鬼殺隊を陥れるために嫁いできたなど、冗談でも看過できるものではない。煉獄家のしたことで頭に血が上っていることは察するが、それとこれとは別だ。
「義勇は煉獄家の意向で依頼を遂行したに過ぎない。その中で必要だと判断しただけだ」
「……ああそう。他とは違う判断を下して従えさせたってか、煉獄家の選ばれたお坊ちゃんは凄えなァ。更にご慧眼の嫁貰って良かったな?」
「……冷静ではない今、対話を試みたところで無駄になりそうだ。一度頭を冷やすといい」
父や杏寿郎の前で特に何かを言われたことはなかったが、そもそも煉獄家のような稼業を良く思っていないのかもしれない。そういえばみっちり受けた修行のことも不満そうだったから、整えられた環境を与えられている杏寿郎が温室育ちに見えて不快だったか。確かに恵まれていたことは認めるが。
「恩を仇で返されてなけりゃなァ」
鬼のことか、義勇のことを言っているのか。後者であれば到底許すことはできないが、どうやら本格的に仲違いとなってしまったかもしれない。
「……大丈夫か? すまない、軽率だったな」
しょんぼりしながら山へ足を進ませる義勇がかぶりを振る。元々不死川に緊張していた義勇には、本気の怒りを向けられて少し堪えたかもしれない。
「……でも、小芭内も似たような感じの剣幕だったから……」
「小芭内はきみを敵視しないし、言ってることももう少し違った」
情を含んだ小芭内と敵意ばかりの不死川を同じにしては可哀想だ。
――問題は要らぬコブ付きだったことだ。……あいつは優しすぎる。
煉獄家の意向を踏まえてようやく理解を示せる判断だったと小芭内は言っていた。義勇の人となりを知っている小芭内だからこそ、鬼に対してそれこそあり得ないほど優しい反応だったのだろうが。
「言われるのは仕方ないと思ってる。お前や義父上ばかり矢面に立たせるつもりはない」
「それは違う。――俺がきみを守りたいだけだ」
翳っていた横顔がふいにほわりと赤みを灯すのを目撃した。
「余計な世話なら申し訳ないが、こればかりは耐えてほしい」
どうやら杏寿郎の言葉は無事きちんと伝わったようで、追撃すればそのぶん義勇の頬は赤みを増やしていった。その様子に少しばかり安堵した杏寿郎は、義勇の肩を柔く叩いた。
「あっ、師範、義勇さん!」
そんな反省会をしつつ狭霧山の麓へ辿り着くと、あばら家の外で刀を握っていた甘露寺が手を振って駆け寄ってきた。
少し前から鱗滝の下で受けていた出稽古も、予定より早く岩を斬ったと報告があったので様子見ついでに迎えに来たのである。
「調子はどうだ?」
「とっても楽しかったです! 罠を避けて走るのうまくなりましたし! まだ降りてきてないけど炭治郎くんも良い子だし、禰豆子ちゃんは眠ったままだからちょっと心配ですけど……話してみたかったなあ」
鬼を見るのが初めて。あんなに可愛いなんて知らなかった。炭治郎が良い子なのだから、妹のあの子もきっと良い子だったはず。鬼狩りであれば思いつきもしないことを口にする甘露寺に、ひっそりと義勇が驚愕しているのがわかった。
「……きみは誰より肝が据わっている気がするな! 言っておくがあれは例外だ。油断してはならないぞ」
「はいっ!」
人を殺して喰う鬼が大半であることは理解している。けれど眠る鬼が見つかったのなら、他にも逸脱した鬼が居たっておかしくないのではないか。そんな疑問が甘露寺の中に灯っているらしい。
「あっ、もしかして迎えに来てくださったんですか!? すぐ荷物まとめてきます! 鱗滝さんにもお顔見せてあげてください!」
あばら家の戸を開けて飛び込むように中へと入った甘露寺の後ろ姿は、揺れる髪も相まって飛び跳ねているようにも見えた。顔を見せたいのは山々だが、一先ずは甘露寺が離れるまで我慢していたのを落ち着かせてからである。
「……大丈夫か?」
敵意や打算、向けられた言葉の中でもひと際無邪気な言葉を寄越した甘露寺に、どうやら心を打たれたらしい。ほろりと零れ落ちた涙を無理やり隊服の袖で乱暴に拭う姿が子供のようだった。黙ったままこくりと頷いた義勇の頭を撫でながら、あばら家の引き戸から少し外れた隅へと連れていく。
「我慢強いきみも俺の前でくらい弱音を吐いてほしいんだが」
「……不甲斐ない」
痛めぬよう腕を離させ杏寿郎の指で涙を拭う。義勇の涙はいつだって己が拭うものでありたい。目を瞑ってなすがままになっている彼女を眺めながら、ここまで我慢させた己に対して自省する言葉を呟いた時、眼前の唇からも同じ言葉が発せられた。不甲斐ない。瞑っていた瞼を持ち上げ、濡れたままの睫毛が震えて杏寿郎へと視線を向けられた。
「……何故杏寿郎が……」
「きみの不安に気づいていたが、今になるまで放置してしまった。不死川からの言葉も聞かせてしまった」
「風柱様は……当然の言葉だ」
「あれは煉獄家へ向けられたものだ。きみだけではない」
共犯者といえば響きは悪いが、夫婦は一蓮托生、一心同体でもある。しかし同罪とするには煉獄家の非がありすぎる気がするので、やはり夫婦だからと思ったほうが杏寿郎も嬉しかった。
「鱗滝さんに挨拶を」
「彼には?」
「降りてないならしない」
涙を拭って顔を上げた義勇は、小さく笑った杏寿郎へ不思議そうに首を傾げた。その背を促しあばら家へと足を踏み入れる。
他人が聞けば冷徹な人間と言われるのかもしれないが、杏寿郎には温かな言葉に聞こえたからだ。厳しさはあれど優しさが混じっていることに気づけるのは家族だからだろう。理解してもらえず義勇の情け深さに気づかず心無い言葉を投げつけられることもあるが、それでも彼女の心根は変わらないのである。
「はあぁ〜……この馬鹿者め!」
「すまん、つい!」
額を押さえて表情を歪め盛大に溜息を吐いた小芭内に、杏寿郎はにこやかに謝罪を告げた。そういえば祝言を挙げた頃から呆れた視線を向けられることがなくなっていたものだから、なんだか久しぶりにこの顔を見た気がする。
「あの子供のせいだと言えば不死川もそこまで怒りはしなかったろうよ」
日の呼吸について協力する代わりに妹を生かせ、なんて交換条件があれば確かにそれしか選択肢はなかったかもしれない。
「小芭内はずっとそう信じているが、しかし実際取り引きはされてないのでな! 当人は素直な子供だ、嘘はよくないだろう? そもそもそれでは問題を後まわしにしてるだけで結局不仲は起こることになる。年長者としてもそれではいけない」
「………。……本っ当に……お前たちは……。まあ、そういうお前たちだからこそ……そうでなければ俺とて関わりはしなかったろうが、……仕方ない……」
「よく聞こえん! なんの話だ?」
「いいや……聞くかはわからんが俺も少し口添えしておこう」
「うん、頼む!」
不死川と仲の良い小芭内の話なら聞いてくれるかもしれない。義勇を貶められて黙ってはいられないが、杏寿郎とて仲間である者と仲違いしたいわけではない。そしてそれは義勇も本意ではないのだ。人の手を借りるのは未熟だと思いはしても、相手が友であるなら頼りたくなってしまうのである。
*
「……んだよ、言い訳でも伝えに来たかァ?」
「まあ、そうだな」
手合わせと称して風柱邸に足を向けると、庭で汗だくになりながら鍛錬をしていたらしい不死川は振り向きもせず呟いた。幹を蹴飛ばして舞ってくる葉を真っ二つに切り裂く鍛錬。まるで義勇がやるような鍛錬だと小芭内はふいに考えた。荒々しい男がこれほど繊細な鍛錬の仕方をするとは意外だったが。
「へェ。てめェは俺と同じだと思ってたんだが、そうじゃなかったらしいなァ」
「俺だけではない、鬼を憎んでるのは皆同じだ。確かに煉獄家は生業だからではあるが……一先ず稼業は置いておけ。そも、義勇の身の上は他とそう変わらん」
小芭内がそれを聞いたのは狭霧山で修行をしていた頃だった。四人で眠る間際、煉獄家が鬼狩りの家系であることを知った錆兎が驚いたことで、他は違うと話が続いたのだ。小芭内自身は当時つい濁してしまったが、錆兎と義勇が同じく鬼に家族を殺されたということは聞いていた。
姉を鬼に喰われたこと、それも目の前で。そして信じてもらえぬ周りから逃げたこと。それが煉獄家にいる理由だ。とはいえ、姉が生きていたとしても義勇は煉獄家に嫁ぐ予定だったとは聞いているが。
不死川と違って守られる側であった義勇は助けられなかったと悔い続けてもいるが、杏寿郎たちのおかげで前を見ている。弟を一人でも助けたはずの不死川も、母を助けられなかったと悔いているのがなんとも似た者同士のようだった。小芭内はそんなことを考えられる良心も出ないような悍ましい一族だったが。
「会議でも言ったとおり、日輪の耳飾りの剣士を探すことが槇寿郎さんの依頼だった。だがようやく見つけた手がかりのそばには鬼になった妹が居た。鬼を殺して目当てを連れてくることもできたが、そうなればあの子供が鬼狩りに憎しみを向けて協力しないこともあり得ただろう」
「………」
「あいつにとっては取る手段など一つだ。恩のある煉獄家……槇寿郎さんに委ねるために子供の協力を得なくてはならん。だからまとめて保護することにした」
まあ、根本は最初に鬼から異質さを義勇が感じ取ったからなのだが、それを不死川に言うのはまずいと小芭内も考える。仲違いを諌めたいのに傷口を開いては元も子もない。小芭内は杏寿郎ほど素直で実直ではないのだ。嘘はつかずとも誤魔化す方法はいくらでもある。
「受け入れろとは誰も言っとらん、俺とて鬼は信用ならんし憎んでいるからな。ただ、煉獄家には事情があったとだけわかってもらえればいい」
「……そうかい」
四時間の説教で済ませたのは義勇だったからだ。これが別の隊士、たとえ柱だったとしても小芭内は軽蔑して怒りを顕にし拒絶するだろう。
「まあ……きつい言い方はしちまったなァ」
「何を言ったかは知らんが、冷静ではなかったのだろうしそれも仕方なかろう。……ま、悪いと少しでも思うなら、一言謝ってみるのも手だ。同じ隊士だからな」
「……おー」
短気ではあるが、少し冷静になれば不死川も理性的な判断をするだろう。杏寿郎が我慢できなかったと言ったくらいなので、恐らくは心無いことを口走ったのだろうと思う。過保護すぎると自分でも思いつつ、それに対して思うこともなくはないが、不死川がそうなった原因はすべてにおいて憎き鬼であり、詳細を知らぬ小芭内には何を言うこともできない。鬼さえ絡まなければ不死川とてもっと落ち着いた話ができたはずなので、彼だけが悪いわけではないのだ。
年季の入った縁である故に、思考が煉獄家贔屓になるのは致し方ないことだとも考えているが。