父と母と子

「蒼寿郎、そろそろ父上が帰ってくるから。そうしたら抱っこしてもらおうな」
 言葉になっていない唸り声を発する我が子へあやすように話しかけながら、抱き上げた小さな背中を優しく叩く。
 朝陽とともに帰ってくる夫はいつも真っ先に妻子の姿を探し、義勇の腕から子を受け取って抱きしめるのが日課だ。それが今日は少し時間が遅く、日課がないことに子がぐずりかけていた。
 これが夫であればきっとぐずる暇もなくあやせるのだろうが、義勇は赤子と接することなど子が産まれるまでなかったので、慣れないままどうにか助けられながら必死に奮闘していたのだった。
 朝の食事を終わらせた子の背中を叩いていれば、けふ、と小さく空気を吐き出した音がした。その直後に慌ただしく玄関が開く音がして、驚きのままに義勇は部屋の障子を開けた。
「朝からすまねェ、炎柱を連れてきた!」
「――は、はい! 今医者を呼んできます」
「隊士を庇った際に、錯乱した別の隊士が斬りつけちまいまして」
「きみも怪我をしてるな、休んでいきなさい」
「いや、俺は……」
 夫を連れてきたのは不死川だった。出迎えた千寿郎が医者を呼びに走り、顔を出した槇寿郎が不死川を奥へと促した。厨から現れたハナは慌てたようにまた引っ込んでいき、騒がしさに驚いたのか腕の中の我が子がむずかりながら再び唸り声を上げた。
「あ、ご、ごめん。大丈夫だ、父上は怪我をしてるから、もう少し待って蒼寿郎」
 決まった時間に父から抱っこされないのがよほど嫌なのか、それとも家族以外が家に居るのが気になったのか、どうにもむずかる様子は治まらない。うるさくするのもまずいと考えて障子を閉めようとしたのだが、夫を背負いながら不死川が通りすぎる時、静かに声をかけられた。
「……悪かったなァ」
「え?」
「俺のほうがその庇った隊士に近かったんだ。出遅れちまった」
 夫に怪我を負わせたことを謝る不死川は己の責任だと思っているようだった。しかし、休んでいるとはいえ義勇も鬼狩りの端くれだ。隊士を庇う選択をしたのは夫であり、避けられなかったのは不死川のせいではない。
 そりゃあもちろん、まさか夫がそのような怪我の負い方をするなど気が散っていたのかと疑問には思ったけれど。
「………。他に怪我人は」
「戦闘での怪我はあるがその隊士が斬った奴はいねェ。俺のは単に自傷だ」
「ならば最小の被害ではないのですか」
「……そりゃ……そうだが……気持ちの問題だァ。悪かった」
 律儀な人だ。怒りっぽいなどと思っていたが、義勇にまでこうして声をかけてくれるほどに杏寿郎を気にかけてくれているようだ。
「いいえ。お疲れでしょう、あちらの部屋へ」
「あー、うう」
「あっ、も、申し訳ありません」
 腕の中から子が涎にまみれた小さな手を不死川へと伸ばしたため、義勇は慌てて抱え直して廊下へと出て足早に部屋へ先導しようとした。赤子のすることに目くじらを立てられても困るが、さすがに上官――夫からすれば同僚だが――へ差し向けていいものではない。
「……煉獄の子かァ……そっくりだなァ」
「あ……」
 身重の間に儀式を見続けた義勇が産んだ子は、しっかりと煉獄家の血筋である焔色を受け継いでいる。愛嬌があるのは義勇譲りだなどと夫は笑っていたが、赤子は皆愛嬌があるのでどうだろうかと首を傾げもした。そもそも愛嬌は夫にこそあったものだ。
 その愛嬌を受け取りでもしたのか、子が伸ばした涎付きの手に躊躇いなく不死川は触れ、思わず義勇は目を丸くしてしまった。
「んー? はは、物怖じしねェなァ。父ちゃん譲りかァ? 母ちゃんも肝座ってるだろうけどよ」
 見た目で大抵恐がられるのになァ、などと柔らかく笑いながら子へ話しかける。こんな優しげな笑顔など初めて見た義勇がぽかんとしていることに気づいたらしい不死川は、目が合うと罰が悪そうに表情を歪めて子から手を離そうとしたが、人差し指を掴まれてできなかったようだ。
「い、いや……兄弟多かったもんだからよ……」
「そうなのですか。……私は……わからないことも多くて……周りに頼りきりで」
「………。そりゃ俺だって最初から知ってたわけじゃねえよ。段々覚えていくもんだろォ、なんか……あー……その、子育てってなァかなり大変だもんなァ。誰かを頼れるんならそれでいいだろ。特に煉獄なんかあんたに頼られるの喜ぶだろうしよォ」
「……はい」
 なんだか慰められてしまったようで申し訳なくもなったが、不死川の指を掴みながら振り回そうとする子の手を離し、部屋へとようやく案内することができたのだった。
「すぐに医者が来られると思います。……なんだ、ご機嫌になったな」
 水を張った桶と手拭いを傍らに置いたハナが準備した布団に夫を寝かせ、不死川にも促してみたが座布団へ腰を下ろすに留められた。不死川にあやされて機嫌が戻ったらしく、子は腕の中で指を吸いながらむふむふ笑っては落ち着きなく蠢いた。
 下を気にしては手を伸ばして笑うので、降りたいのだと気づいた義勇が畳へ下ろすと、小さな身体が這いながら眠る父の元へと近づいていく。ぺちと赤子の手が夫の額へと触れた。
「もうすぐお医者様がいらっしゃいますからね、蒼寿郎坊っちゃん」
 怪我をしたことまでは理解できないのか、子は何度か額や頬をぺちぺちと触ってからむ、と眉根を寄せて不満を顕にした。への字になった口に慌てて義勇が再び抱き上げると、今度は胸へうずまるように抱きついてくる。不死川のおかげで機嫌も良くなったのに、父からの反応がなくて即座に機嫌を損ねてしまったらしい。
「……なんつうか……ちゃんと母親になってると思うぞォ」
 独り言のように呟かれた言葉が己に向けてのものだと気づいた義勇は、ひとつ瞬いて不死川へ顔を向けた。
「心配しなくても子供は母親ってなァきちんと認識するもんだし、今だって……母親らしいと思う」
「………」
 慰められているらしい。怒りっぽくて気難しい人なのだろうとは思っていたが、義勇にまでわざわざ気遣ってくれている。そういえば見舞いに来てくれた時も気遣いからか謝ってくれていたのだった。再び不死川の優しい心遣いに触れた義勇は、嬉しくなって笑みを溢した。
「……ありがとうございます」
「っ、」
「風柱様に朝食をお持ちいたしますので少しお待ちくださいね。あとはハナが致しますので、どうぞお戻りに」
「申し訳ありません、長々と。お願いします、ハナさん」
 ぱたぱたと子供の足音が近づいてくる。部屋を出ると玄関を開けて待っていた槇寿郎が千寿郎と医者を出迎え、客間へと案内していく。医者と槇寿郎たちが居れば二人はもう安心だ。
 落ち着きをなくした不死川へ何事かと問いかけた槇寿郎に、大体を察していたハナが義勇に照れたのだ、と告げ口の如く伝えていたことを義勇は知らないままだったが。

「……起きたか」
「……義勇? 蒼寿郎……」
「うー」
 目を覚ますと見覚えのある天井と妻の顔が視界に映り、ぺちと頬を叩く柔らかいものが我が子の手であることに気づき、杏寿郎は手当された肩を確認して起き上がった。
 浅くはないからあまり動くなと制止されたが、隊士の錯乱に気づかず不覚を取ったのは杏寿郎だ。
「不徳の致すところだ。避けられないとは情けない」
「そうでもない。……無事で良かった」
 伸ばした手が我が子と同じ場所を擦るものだから、杏寿郎はつい笑みを漏らしてその手に触れた。手刀で落とした隊士を隠へ任せた杏寿郎にまで、何故か腹へ一撃入れて動けなくした不死川が我が家まで連れてきただろうことは理解した。殺の一文字が入った羽織を義勇が持っているのが証拠である。
「ほら蒼寿郎、父上だ。抱き上げなくていい、」
「片腕でも問題ないぞ、遅れてすまない蒼寿郎! しかしご機嫌だな」
 帰宅とともに抱き上げるのが日課になっていたためか、ぐずって仕方なかったと義勇が微笑ましげに教えてくれた。それは申し訳ないことをしたが、杏寿郎が抱き上げるよりも前から機嫌が良いのは何故だろう。
「風柱様にあやされて機嫌を治したんだ。その後すぐに不機嫌になったが……遊んでくださって機嫌を持ち直した。今は入浴していただいている」
「ああ、彼は七人兄弟の長男だったらしいしな。それは何を?」
「そんなに……。破れていたから、繕おうと」
 あまり上手くはできないが、ハナさんは他に仕事があるからと謙遜しつつ、杏寿郎が起きるのを待ちながら針仕事をしていたようだ。彼女はいつも自分の能力を低く低く見積もるが、杏寿郎には繕い物の上手くない部分がどこなのかさっぱりわからない出来である。義姉上の教えが良かったのだと言えば、嬉しそうに頷いてくれるが。
「うー」
「ん? どうした蒼寿郎! 不死川に慣れて父では不満になったか!?」
 しばらく機嫌良く抱かれていた我が子が腕の中でうごうごと蠢いては杏寿郎から距離を取るように胸を押してくる。自分で悲しくなる問いかけをしておきながらひっそり傷ついてしまった。押していた胸を叩いたり義勇へ手を伸ばすものだから、彼女は繕っていた羽織を置いて杏寿郎から子を受け取った。
「それともご飯か?」
「ああ、ちょうどその時間だな」
 壁際の時計を見上げて問いかければ、義勇は相槌を打ちつつ片方の乳房をさっと露出させて我が子を吸いつかせた。そういえば杏寿郎自身も、空腹時は泣くより騒ぐ子供だったと聞いたことがあったなあ、と思い出した。我が子は騒ぐというより不満げにしているが、満足そうに飲んでいる姿にやはり腹が減っていたかと眺めつつ随分眠ってしまっていたと反省していると、じとりと睨むような目を向けた義勇が眉根を寄せていた。
「見すぎだ」
「む、すまん! 取られた気分でちょっと恨めしくてな」
 頬が赤くなるのをへの字になった唇が誤魔化そうとしているようだが、杏寿郎の前ではうまくいかないようだ。そのうち不要になるとぼやくので、それまでの辛抱かと杏寿郎は頷いた。
「うん、そうしたら俺のものに戻るわけだな」
「……助平」
「違いない! 子ができると嬉しいが、義勇を貸し出さねばならんのが辛いところだ」
「なんだそれ……」
 もちろん本気で言っているわけではないつもりだが、義勇を独り占めできないことがなかなかに辛いのも事実である。今は子にかかりきりで、杏寿郎とこうしてゆっくり話すのも頻度は高くない。朝方の帰宅時だけは起きて待ってくれているが、杏寿郎が食事や風呂に行っている間に眠っていることが多いのだ。夜泣きやら何やらで纏まった睡眠は殆ど取れないようで、眠れる時に眠るのが一番だとハナからの助言があったのである。疲れているところを起こすのも忍びないし、杏寿郎が寝ている時は義勇も起こそうとしない。
「ご馳走様だな!」
 しばらくのんびり乳を吸う子を眺め、やがて口を離したところで義勇が衿元を正して子の背中をぽんぽんと叩く。母が千寿郎にやっていた姿が重なったような気がして、なんとも神聖な行動のように見えた。
 そうしてけぷ、と空気を吐き出した子を今度は畳へ下ろすと、全身で這いながら杏寿郎の元へとやってきてくれた。
「そろそろ私も鍛錬を再開しようと思う」
「そんなに急がずともいいだろう? 蒼寿郎もまだ赤子だ」
「合間に始めるところからだ。早いうちから慣れて戻しておかないと足手まといになってしまう」
 充分な休息すら取れているか怪しいものだが、何に対しても全力で努力していく義勇は自分にひどく厳しい。腕や腹のたるみを引き締めなければ、となにやら気になっているらしく自らの身体を触っているが、見ている分にはさっぱりわからなかった。
「成程、確かに以前より柔らかくはなったか」
「どこ触ってる」
 とはいえ鍛錬を控えている現在は確かに筋力は落ちただろうが、そう急ぐこともないだろうと思うのに。復帰もできることならという話だったから、無理して戻らなくてもいいはずだ。もちろん義勇がしたいことを止めたいわけではないのだが。
 そう考えながら頬を摘み、二の腕を摘み、乳房をむにゅんと摘んだせいで、眉根を寄せた義勇がまたもじとりと睨みつけて杏寿郎の手をぺしんと叩いた。
「いやなに、最近触れてなかったものだからつい」
「………。蒼寿郎が起きてるだろう。繕い物もある」
「なんと。寝ていればいいのか?」
「………」
 目を逸らされてほわりと色づいた頬が杏寿郎の眼前に晒され、つい本能のまま喜びそうになったものの、我が子の手前なんとか黙り込むことに成功した。照れている義勇はなにより愛らしく、手を伸ばしてしまうのは仕方のないことだと考えている。繕うものが不死川の羽織というのが少々気に入らないくらいには、杏寿郎は目の前の妻が愛おしくて仕方なかった。それと同時に二人の血を引く子の存在も。
 錆兎と小芭内を散々やきもきさせていたらしい己の鈍感さ具合もどこへやらだが、これもまた大人へと成長した証なのだろう。