番外―良家のお嬢さんが隊士になるまで―

「継子を取れということですか? 復帰する義勇を継子にと言っても……駄目なようですね。しかしその者はまだ隊士ではないのでしょう」
 体力も戻ってきた義勇の復帰はもうすぐと決まっている。心配ではあるが、子を持つ母は強いものだと父も言うので、一先ずは炎柱である杏寿郎の継子として戦線に復帰することとなったのだった。水柱の継子ではないことを突っ込む者はもはや隊内にはいないだろう。
「ああ。まあ、錆兎たちは煉獄家に弟子入りしていたようなものだから、あの頃と同じだと思えばいい。今度は炎柱であるお前が剣を教えることになるがな。実は若い娘なんだが、うちなら義勇も居るし迎えられるだろうという打診だ」
 花柱の胡蝶カナエの殉死から約二年、継子であった妹の胡蝶しのぶが現在甲、もう少しで柱に登り詰めるといったところだ。彼女が柱であればそちらに話がいったのかもしれない。
「成程、そういうことならかまいません! 俺にとっても勉強になります」
「わかった。では伝えておく」
 義勇には話を通しておくとして、錆兎と小芭内はいい顔をしないだろうなと杏寿郎は考えた。そもそも女性が戦うことを良しとしない錆兎は義勇が復帰することもあまり良く思っていないし、小芭内は女性が苦手だ。義勇とハナ以外だと蝶屋敷の面々には慣れてきたようだが、見知らぬ女性と会うのは警戒してしまうようだし、女隊士はとにかく気を遣うのだとも言っていた。現在も極力近づかないようにしている。
 個人的に仲良くなってもらうしかない。その娘が義勇と仲良くしてくれればなんとかなりそうな気もするが、煉獄家に足を踏み入れる以上はやはり個々の仲も気にしてしまう。千寿郎も息子も見ているのだから、少し頑張ってもらおうかと杏寿郎は考えた。

「はっ、初めまして! 甘露寺蜜璃と申します!」
 これは葉桜色というべきか。ゆくゆくは隊士として、継子として経験を積むために煉獄家へ弟子入りに来た女性は、桜と緑の長い髪がよく目立っていた。
 といっても、煉獄家の一族も焔色を有しているので他人の髪色に何かを言うことはできない。錆兎も宍色の髪だし、不死川も宇髄も白い髪だし、鬼殺隊には意外と黒ではない者がいるのである。
「うむ、俺は鬼殺隊炎柱を務めている煉獄杏寿郎という! きみは今日から煉獄家に弟子入りして研鑽を積むことになる! 厳しい道のりになるが大丈夫だろうか!」
「はっ、はいっ! 頑張ります!」
「良い返事だ! さて、まずは我が家の紹介からだな! 上がってくれ」
 元気がある娘でなかなか好印象だ。来客を出迎えにきた千寿郎が顔を見せると、初対面故か少しばかりよそ行きの表情ではにかみながら挨拶をした。
「俺の弟だ、千寿郎という!」
「わあっ、こんにちは!」
「こ、こんにちは」
 ハナとも義勇とも違う雰囲気の女性に圧倒されたのか、千寿郎はまごつきながらも客間へと案内する。まずは父へ挨拶をするために顔を合わせたが、父もまた甘露寺を見て少々目を丸くしていた。とはいえそこはさすが父というべきか、杏寿郎にしかわからない程度の一瞬であった。
 弟子入りするのだからとしっかり彼女は煉獄家で生活するための荷物を背負ってきたらしく、生家でも花嫁修業を済ませているので炊事も洗濯も可能であると意気込んでいる。まあうちにはハナがいるし、義勇も、なんなら千寿郎もよくやってくれている。彼女一人に任せることはないが、今後は一緒にやることにもなるだろう。
「おかえりなさいませ」
 玄関戸が開く音とハナの声がしたから誰かが帰ってきたのはわかったが、すたすた歩いていた足音が客間へと近づくにつれてどたばたと騒がしくなった。覚束ないもう一人分の音が増えている。
「……駄目だ、蒼寿郎! 待っ」
「む!?」
 障子を突き破ってきたのは息子であり、唖然とした義勇の顔色が蒼白になったのを視界に捉えた。弟子入りする予定の者が来ると伝えていたし、来客時に粗相をするわけにはいかないと気をつけていたはずだ。まさか突撃してしまうことになるとは思わなかった。まあ煉獄家の男児たる者、元気があるのはたいへんよろしい。
「今日も元気だな蒼寿郎!」
「申し訳ありません、ほら蒼寿郎、ごめんなさいして」
 むにゃむにゃ母の口調を真似ながらぺこりと頭を下げた我が子を褒めてやりたいところだが、来客の彼女が頬を押さえて震え始めた。頬を紅潮させて、目が潤み始めている。泣くのか? と一瞬困ったが、直後の台詞に杞憂であったことを気づかされた。
「………っ! か、可愛いっ! 素敵……! えっ! あ、あの、こちらの方々は……?」
「俺の妻と息子だ!」
 急いで息子を抱き上げた義勇は恐縮したように何度も頭を下げている。障子は一部ばりばりに破けて廊下側が見えていた。せめて客人には見えないよう義勇が身体で隠しているが、まあ、無意味だろう。
「………! そ、そうなんですか!」
「義勇と蒼寿郎だ。妻は今度隊士に復帰する! 何かあれば彼女を頼るといい」
 あまりの醜態に混乱したのだろう、表情をすんと消した義勇はそれでも甘露寺へ挨拶をし、息子の紹介もきちんとしていた。ここ最近の息子は以前より更に元気になっており、夫婦の私室の襖も一部凹んでいたりする。杏寿郎もよく動きまわる子だったと父から遠い目をされたので、わんぱくなのは杏寿郎譲りなのだろう。
「凄い……い、いいなあ……」
「二人とも、話をしないか。障子はあとで直そう。彼女も居候するのだから、取り繕っても無意味だしな!」
 ありのままを見てわかってもらえばいい。少し話しただけでも甘露寺が良い娘であることは伝わってきたくらいだから、義勇ともきっと仲良くできるだろう。
「いいなあとは、結婚しても戦いたいということか? 失礼だがきみは鬼の脅威をまだ知らないのだろう」
 気になったらしい父が神妙な空気で甘露寺へ問いかける。確かに彼女の素質には紹介者から太鼓判を押されていたようだが、家族は皆健在であり、しかも良家の令嬢である。わざわざ戦いに身を投じるには何かしらの理由がありそうだ。
「私……私は……、私と添い遂げてくれる殿方を探したいんです」
「……添い遂げる?」
「はい! 奥様のように添い遂げる殿方と結ばれて、お子様が生まれてからも身を呈して役に立とうとする姿が理想です。私も自分の力を役立てたいんです! ……私、力が強くて……見た目もこんなだし……」
 桜餅を食べすぎてこんな髪色に変わってしまい、見合いをしても体格を含めた風貌ですぐ駄目になってしまう。両親は褒めてくれるけれど、きっと怖ろしいと感じたこともあったはずだ。せめて将来は心配させることのないようにしたいが、かといって今の自分を隠してまで嫁ぐことがいいのかといわれれば、それは違う。
「私は……私のまま好きになってもらいたい、私の力を必要としてくれる人と添い遂げたいんです。……あ、あわよくば守ってもらえる人だったらとっても嬉しいなあとは思ってますけど……」
「………。……そうか……」
 父はなんと言っていいのかわからなかったのか、神妙な顔をしつつも相槌を打った。まさか添い遂げる相手を探して命を懸けにくるなどと思いもよらず、杏寿郎も驚いてしまったが。
 しかし、彼女にとっては生きることと同様に重要なことなのだ。確かに自分らしい自分を受け入れて、そのままでいいと言ってくれる人は貴重だ。杏寿郎は深く考えたことがなかったが、それもきっと恵まれていたからだ。家柄によっては見た目や力を気にしてしまうこともあるのかもしれない。
「大丈夫。鬼殺隊は皆強く逞しい。特に柱は最高位の剣士だから」
 彼女の溢した本心が琴線に触れたのか、義勇が慰めるように甘露寺の隣に座り込み、手を握って言葉を紡ぐ。それに感化されたらしい甘露寺はまた目を瞠るようなことを口にした。
「……じゃ、じゃあ、柱になれば素敵な殿方に会えるんですね!」
「ああ、皆素晴らしい方々だ」
「いやいやいやいや、柱になるのにどれほどの鍛錬が必要かちゃんとわかってるか!? 失礼だがきみ、武道の嗜みはあるのか」
 せめて武道の精神を学んでいれば鍛錬にも挫折せずについてこられるだろう。煉獄家のように稼業ではない上、今まで戦うこともしたことがなければ、突然命を懸けて戦えと言われても恐らく難しい。話を持ってきたのは父だったが、どうやら大層不審がっている。
「はいっ! 華道、茶道、書道、香道、それから舞踊とひと通り嗜んでおります!」
「それは芸道だ……」
 見合いじゃないんだからと、ついには頭を抱えた父を義勇も心配そうに見つめるが、指摘されて真っ赤になって汗だくになってしまった甘露寺も気になるようだ。悪い子ではない。素質があるとも聞いている。だがどうも父の目には普通のお嬢さんに見えて仕方ないのだろう。義勇に対しても鬼狩りにさせることを悩んでいたし、特に家族が存命である一般家庭の娘など引き入れていいものかと考えてしまうのも致し方ない。
「すっ、す、すみません……で、でも、体力や腕力には本当に自信あります!」
「では義勇と腕相撲でもしてみるか?」
「えっ。奥様と腕相撲なんてやったら骨を折ってしまうかも……」
「よもや、復帰前とはいえ鍛錬をしてる義勇の骨を折るのか!? 面白い、やってみよう!」
「……まあ、手っ取り早いかもな。確かに街にいるような娘よりは力もありそうだが、やはり義勇よりあるかと聞かれるとそうは思えん。いや、素質があるのは聞いているんだが」
 否定的な言葉に目を瞬いた甘露寺が気分を害したかと焦ったらしい父は慌てて言葉を繋いだが、彼女はさほど不快そうにはしていなかった。むしろ嬉しそうに笑みを見せ、杏寿郎へ子を託して腕を捲った義勇へ目を向けた。
「で、では……よろしくお願いします!」
 卓を挟んだ二人が手を掴み合うと、ふと義勇の目が真剣さを増した。そして甘露寺もまた息を呑む。二人ともに掴んだ手と相手の顔を見つめていた。
「………、……本気で来ていい。私も本気でやる」
「は、……はい! よろしくお願いします!」
 互いの目が本気である。どうやら掴み合った手から大体の腕力を汲み取ったらしく、そして復帰前とはいえ鍛錬をこなしている義勇が本気になるほどの素人だということだ。義勇の腕力は女隊士の中でも強いようなので、これはとんでもない逸材かもしれない。
「始め!」
 掛け声とともに二人の手に力が篭もる。
 お遊びではない本気の勝負だ。胡蝶姉妹は義勇の腕力に歯が立たなかったと聞いたことがあるが、芸道を嗜むだけの良家の令嬢とまさか良い勝負をするなどとは予想していなかった。呼吸を使っていないとはいえ、現在勝負は膠着状態である。鍛錬も任務中も表情を隠してばかりの義勇だが、今はよほど力を篭めているのか歯を食いしばって耐えている。甘露寺もまた令嬢にあるまじき表情だった。父は拳を握りながら固唾を飲んでいる。稀に見る白熱勝負であった。
「………っ、あっ!」
「勝者、義勇!」
「なんとか体裁は保ったな……」
「っ、は、……はい……」
「まさか芸道だけで義勇に苦戦を強いらせるとはな!」
 鍛錬以外でこれほど疲れている義勇も珍しい。ゼエゼエ息を吐く義勇の姿に驚いたのか、息子は母を呼びながら手足をばたつかせ杏寿郎の腕の中から出ようとした。離してやると慌てたように義勇のそばへと寄っていく。
「大丈夫だ、びっくりしただけ」
「鍛えてどれほど強くなるのか楽しみだな!」
「ああ……失礼をした、甘露寺くん。きみの力を存分に発揮できるよう努めよう。杏寿郎が」
「よもや。父上は稽古をおつけにならないのですか!?」
「俺は隠居したからな……あと蒼寿郎の世話で忙しい」
 ハナや千寿郎に任せることだって可能なのに、恐らく父は孫と遊びたいだけだろうと最近杏寿郎は気づいてきた。しかしまあ、千寿郎の鍛錬は父が見ているし、合間に子の面倒を見てくれるならそれは有難いのである。
「さて、では屋敷を案内しよう! 甘露寺の部屋は用意してある!」
「あ、ありがとうございます!」

「ああ、やっと来たか二人とも。普段なら昼前には顔を出すのに来ないから長期任務かと思ったぞ!」
「俺も迷ってたんだ、小芭内も渋ったしな」
 夕方に差し掛かる頃、ようやく顔を見せた錆兎と小芭内を出迎えたところ、二人はなんとも複雑そうな顔をした。
 そもそもすでに煉獄家を出ている身の上であるのだし、と考えもしたようだが、杏寿郎の弟子ならばこの先いくらでも顔を合わせることになるからと、やはり足を向けることにしたそうだ。女性が苦手な者がいると先に伝えるのもなんだか違う気がして、元継子が顔を見せるかもしれないとだけ甘露寺には伝えていた。
「まあ、良い子だからあまり心配はないと思うがな」
 身体面で楽しみになるほどの素質があり、義勇と話している時も明るく朗らかな子だ。杏寿郎はあまり関わったことのない性質たちの女性だが、人となりも好ましく思える相手だった。
「来たのか? よかった、蜜璃さんは客間にいる。これから買い出しに行ってくる」
「なんだ、どうした? 蒼寿郎は?」
「いや……蜜璃さんはあやすのがとてもうまくて凄いから……醤油を買ってくる」
「いや、凄いから醤油を買ってくるってなんだ。なにを落ち込んでるんだお前、蒼寿郎置いてお前が一人で買い出しに行く気か? ハナさんはどうした、千寿郎と二人で行ってくれるだろうに」
 街に出る時は護衛と一緒。在りし日から続く決まりごとであり、年配のハナに荷物を持たせるのも悪いという理由もある。そんな決まりごとを放り出して行きそうな落ち込む義勇をネチネチ慰めるのは小芭内だが、その様子を錆兎は苦笑いを漏らしながら眺めていた。
「わあっ、凄い蒼寿郎くん! とっても強いわ、素敵! ――あっ、いけないそこはっ!」
 ばりばりと紙の破れる音とともに客間の障子から我が子が現れ、両親と見知った姿を見つけたからか玄関へと身体の向きを変えた。どうやら障子破りがお気に入りになってしまったようで、父が嘆くだろうなあとぼんやり杏寿郎は考えた。
「あのっ! ご、ごめんなさい義勇さん、止められなくてその、」
「ああ……まあ、張り替えれば済むから大丈夫」
 今にも廊下を這ってきそうだった息子を抱きかかえた甘露寺がそのまま義勇のそばへと駆け寄ってきたので、一先ず子を受け取っている。醤油は結局千寿郎に任せることになりそうである。
「こちら水柱様の錆兎と蛇柱様の小芭内だ。よく来る」
「父の元継子だからだな! 二人とも屋敷はあるんだが手合わせはやはりうちでやることが多いんだ」
「紹介が言葉足らずすぎるな。まあいいけど、俺が水柱だ」
「は、はい! 甘露寺蜜璃と申します!」
 散々思春期を揶揄われてきた錆兎だが、十九にもなると落ち着いて名を名乗ることができている。錆兎の髪を見つめつつ甘露寺は差し出された手に頬を紅潮させたが、照れながらもなんとか錆兎と握手ができていた。
「ええと、蛇柱様……ですね! よろしくお願いします!」
「ああ……よろしく」
 小芭内も錆兎に倣うように手を差し出し、二度目の彼女は先ほどよりは落ち着き払って握手ができたようだ。まあ、手を離した後に頬を押さえて照れ始め、それを目にした錆兎は少々面食らっていた。
「任務まで時間はあるか? 少し話すのはどうだろう!」
「あっ、でもさっき醤油がないとおっしゃってたので……私走ってすぐ買ってきます! 義勇さん、蒼寿郎くんと遊ばせてくださってありがとうございます! 弟たちの小さい頃思い出してとっても楽しかった!」
「待った! 千寿郎を呼ぶから一緒に行くといい! うちは女性陣が街に出る時、護衛をつけることにしている!」
「ご、護衛……!」
 以前店で良からぬ虫が義勇に近づいたのが理由だと言うと、義勇自身は非常に嫌そうな顔を晒した。言わなくていいだろうという無言の抗議である。
 それを聞いた甘露寺自身は目を輝かせ、そして大層嬉しそうに頬を染めて喜んだ。なにやら女の子扱いが嬉しいそうだ。女性なのだからそう扱っただけで他意はなかったが、気分を害したわけではないのならよかった。
「あー、義勇、きみも行ってくれるか。指令が来るまで三人に見させる」
「はい」
「すみません、行きましょう!」
 客間から疲れた表情の父が声をかけてきて、その後ろから財布を持ってぱたぱたと千寿郎が現れこっそり義勇へ謝っている。初対面の相手、それも女性と二人で何を話せばいいかわからず粗相してしまいそうだから、というのが理由だったと三人が出ていった後に父から聞かされた。甘露寺ならばあまり気にせずとも大丈夫そうだと感じたのだが、千寿郎にはまだ早かったようだ。申し訳ないことをした。
「―――、」
「うおっ! ど、どうした小芭内!」
 その直後、ふらりと身体が傾いで廊下へ膝をついた小芭内に錆兎同様杏寿郎も驚いた。胸を押さえて険しい表情を見せており、どうしたと父さえも慌てている。
「なんだ、胸が痛むのか?」
「な、何かの病か? だってさっきまでは普通に……」
「……な、……なんだ……あれは……、桜の精か……?」
「は?」
「俺の目はついに駄目になったか……それとも現世に居ない者が見えるようになったか……?」
 なにやら小芭内は胸ではなく目に違和感があるらしいが、苦しげに狼狽える様子はやはりただごとではない。指令はまだ来ていないようだが、急いで医者を呼びに行くべきだろうかと悩んでいると、何かに気づいたらしい父がそっと小芭内の肩に触れた。
「小芭内、きみはもしや……甘露寺のお嬢さんに見惚れたのか?」
「へ?」
「桜の精とは彼女のことだろう」
「っ、」
 ぎくりと肩を震わせた小芭内が俯き、表情を隠すように鏑丸までが視界を遮ってくる。どうやら図星なのかもしれない。
「惚れた相手は精霊に例えたくなるものな……」
「え……そうなんですか? 杏寿郎も?」
「いや、俺は例えたことがな……あ、」
 精霊ではなかったが、簪の蒔絵を見て義勇を思い浮かべたことは経験がある。あれが例えるという扱いになるなら確かに杏寿郎もその道を踏んでいる。別に恥ずかしいことをしたとは思わないが、誰かに教えることはしたくない夫婦の秘密である。しかしこの口ぶりだと父は母を精霊に例えたことがあるとばらしているのだが、おかげで錆兎がまたしんみりした目を向けていた。
「えー、ということは、まさか……この小芭内が……」
「甘露寺に惚れたということか!?」
「ば、ば、馬鹿を言うな杏寿郎! 俺がそんな、あんな無垢な桜の精に惚れるなどあってはならんことだろう穢らわしい言葉を交わすことすら烏滸がましいというのに調子に乗って握手などして俺はなにをふざけたことを」
「落ち着け落ち着け」
 少なくとも混乱していることは間違いない。あまりの狼狽ぶりに錆兎は慌てて小芭内を宥め、帰ってくる前に逃げようとする彼を引き止めて客間へ腰を縫いつけた。
 惚れた腫れたはともかくとして、交流することは決して悪いことではない。穢らわしくも烏滸がましくもない普通のことだ。
 自己紹介を終えたのだ。世間話から始めていけばきっと仲良くなれる。それが小芭内の望む方向へと向かうことを期待して、杏寿郎は息子を小芭内の膝に乗せて笑みを浮かべた。

*

「あ、……あの〜師範、着替えましたけど……ど、どうでしょうか……?」
 最終選別から帰還した炎柱の弟子である甘露寺蜜璃が鬼殺隊の隊服に腕を通した時、煉獄家の皆が着ていたものとは似ても似つかぬ姿に混乱した。
 確かにボタンの色は違う。しかしそれは柱が着る隊服のボタンが金であるからということで、蜜璃は師の妻であり甲である義勇と同じ色だった。問題はそこではない。
 きっちりと詰まっているはずの詰襟はまったく詰まらず、中のシャツも一番上は止まったもののその下のボタンが止まらず胸の谷間が丸見え、あわやへそまで見えそうだった。その下の袴は袴ではなくスカートのようだが、驚くほど短く太ももから何から丸出しである。蜜璃の思考は物凄く破廉恥な格好だと認識してしまっていた。
 しかし彼らは蜜璃より先輩である。これがこれからの新人が着る隊服なのかもしれないと蜜璃は納得し、恥ずかしいながらも必死に耐えて師の前へと現れたのである。
「まあ、経緯は理解したが……そりゃ義勇は怒るよ」
 蜜璃から目を逸らしつつ臥せっている小芭内を介抱している錆兎の耳は赤い。隊内でも最強の九人に数えられていると聞いたのに、反応はなんだか少年らしくて可愛い。いや肌を見られるのは恥ずかしいのだが、現在は小芭内の羽織を借りているので一先ず蜜璃は落ち着いている。
「なんだか止めるに止められなくて……とりあえず蒼寿郎くんを抱っこして離れてみたんですけど」
 蜜璃が居候している間もおしどり夫婦と揶揄できそうなほど仲が良い杏寿郎と義勇だ。しかも普段冷静な義勇があんなに声を荒げるのを初めて見たし、あんなに焦っている師を初めて見た。ちょうど顔を出した錆兎と小芭内へ天の助けとばかりに泣きついたのだが、同時に小芭内は玄関先で羽織を蜜璃へ投げつけ、顔面から板張りの廊下へ思いきり倒れてしまったのである。
 打ちつけた顔面は心配だが、わざわざ羽織を貸してくれるなんて優しい。居候中からずっと、蜜璃はこの歳の近い殿方たちにきゅんきゅんし放題だった。
 体調でも悪かったのか倒れてしまった小芭内を心配しつつ、申し訳ないながらも殿方の羽織を着続けているところだ。ちょっとはしたないかしら、と考えると照れて汗が止まらなくなってしまうので、あまり気にしないよう努めている。
「この助平! 私の時は直談判についてまで来てくれたのに弟子にはこの格好をさせるのか! 見損なったぞ杏寿郎!」
「誤解だ、俺ではない! この隊服だと思わなかった! というか懲りてないなあの縫製係は!」
「着替えさせた時点で同罪だ!」
 それはちょっと横暴な気もする、と言うには般若の剣幕すぎて言葉が詰まった。
 師の前に現れた蜜璃を見て固まったのは師だけではなかった。ちょうど子の散歩から戻ってきた義勇にも同時に見られてしまい、一気に夫婦喧嘩へと発展したのである。師自身はまだ冷静だったようなので、蜜璃を廊下へ追い出してからの現在は宥めているところなのだろう。
「普段控えめな人が怒ると恐いって本当なんだわ……」
「確かに義勇が怒るのは初めてかもな。他人を褒めてばかりで自分は卑下ばかりだし」
「そんな……あんなに美人で強くて可愛くて格好良いのに……」
 しかも怒ったことがないなど、それほどに穏やかな人を怒らせた師と縫製係が凄い。まあ師は明らかなとばっちりなのだが、同じ女であるが故に怒りを爆発させてくれたのだろう。なんて優しいのだろうか。
「抗議しに行くのか?」
「あ……それなんですけど……もう作ってもらっちゃったし、仕立て直してもらうのも悪いので……駄目になるまでは着ようかなって」
「正気か?」
「口を慎め馬鹿錆兎……」
 女性相手だぞ、と臥せりながらも小芭内が突っ込みを入れた。どうやら女性に対して言い方がきついと怒ってくれたようだ。蜜璃を女性扱いしてくれ、更には言葉にまで気をつけてくれるなんてとてつもなく優しい。蜜璃の胸は再びきゅんと高鳴った。
「わざわざゴミカス縫製係のことまで考えるなど優しすぎる。きみが恥ずかしいなら今すぐ脅して仕立て直させるべきだし、言い難いなら俺がシメるが……」
「う、うーん。確かに恥ずかしいんですけど……動きやすいのも事実で……ちゃんと私のこと考えて作ってくれたんだなあって思っちゃって。だったらちゃんと着て使わないとと思ったんです」
「………。……そうか……」
 起き上がった小芭内と一瞬だけ目が合ったが、とても優しげだった。すぐに逸らされたのが残念である。もう少し見ていたかったが、真っ赤になっている耳に気づいて蜜璃も照れて俯いてしまった。
「……義勇には照れなかったのにな……」
「……お前こそ、思春期はましになったらしいな」
「なんの話ですか?」
「いや、なんでも」
 その後、たすき掛けをした義勇が道場に木刀を取りに行こうとするのを止めた杏寿郎が彼女を連れて顔を出したが、やはり蜜璃が隊服を変えないことを知ると大層驚かれてしまった。