はじまり

 立ち止まった父に倣い、杏寿郎も幕が貼られた屋敷を見上げた。
 通夜には列席できなかったものだから、翌日の葬儀に顔を出した。凄惨な現場だったらしく事件性の有無も調べていたから遺体が戻ってくるのに時間がかかったのだとか。
 冨岡家の長女――見合い相手の姉が獣に襲われて亡くなった。
 縁談を持ってきた男に父は良い印象を持っていなかったが、姉妹の印象はすこぶる良いものだった。杏寿郎と向かい合う少女の付き添いとして隣に座っていた女性は優しげで、姉妹仲良さげに笑い合っていたのを思い出せる。
 なんの咎もなかっただろう女性が、人里に降りてきた獣に運悪く襲われた。
 勇敢にも姉は望んだとおり妹を守りきり、少女は怪我ひとつなかったという。だがその凄惨な現場――喰われるさまを目の当たりにしたらしい彼女は気が触れ、おかしなことを口走っているそうだ。そういった経緯で縁談を進めることはできないと先方の男から断りが入ったのだった。また会いたいと伝えてから返事を待っていた時のことだった。
 葬儀に来ている弔問客は皆悲しげに目元を覆っている。器量も気立ても良く、優しい娘だった。翌日には祝言を挙げるはずだったのに、婚約者は自暴自棄になってしまって。妹が生きているだけでも良かっただろう。しかし肝心の妹があれでは浮かばれまい。そんなふうにひっそりと言葉が紡がれる。父の眉間の皺が深く刻まれた。
 屋敷内へ足を踏み入れる。読経を聞きながら周りへ視線を向けると、部屋の隅で葡萄色の羽織を抱え込んだ少女がぼんやりと女性の写真に目を向けていた。泣き腫らし疲れ果てた様子に杏寿郎の胸が痛くなる。
「杏寿郎、話をしたいなら行ってきなさい」
 焼香を終えてからも少女へ心配の目を向けていた時、父は杏寿郎の背中を押した。つられて足を踏み出したところで、見合いにいた男が父へ制止の言葉をかけてきた。
「あの子は話ができる状態ではありませんから」
「そうはいっても、気分転換も必要でしょう。気が滅入ってしまっては、」
「妙なことばかり口にするものですから、あまり他人と話させたくはないのですよ。優しい子ですから気も遣ってしまいます。無理に縁談を持っていったのは謝罪しますから、どうかお話は白紙に」
 男は少女の叔父だと言っていた。冷たいようにも聞こえる言葉は一応彼なりに少女を慮っているのか、彼女の性格をよく知っているような口ぶりだった。
「白紙などとんでもない、すでに関係あります。息子は義勇さんを見初めたのですから、あの子は杏寿郎の許婚だ」
「以前もお断りしたでしょう」
「了承していない」
「はあ……気狂いを娶るなど家の恥となりましょうに、随分高尚な思いでおられるようだ」
「そういうことではない」
 苛立ちを見せた父に少しばかり怯んだ男だったが、様子を窺う弔問客から隠れるように父を連れて奥へと入っていった。
「まったく……ようやく葬儀を開けたというのに面倒事を……」
 耳を澄ますと荒げた声が漏れてくる。何を話しているかはわからないが、男との意見は今のところ平行線なのだろう。
 視線を少女に向き直したところで、なにやら口元が小さく動いたことに気がついた。
 俯いた少女が何を言ったのか確認するために、杏寿郎はそっと少女へ近づき隣へ座った。
「……獣じゃない」
 俯きながら姉を呼び、小さな声が否定していた。拳が白くなるほど羽織を握りしめ、鼻を啜ってはひくりと喉を鳴らしている。痛々しい様子に杏寿郎は目を細めたが、彼女が呟いた言葉に疑問を抱いた。
「なら誰にやられたんだ?」
 地声の大きい杏寿郎は、周りに聞こえないようできるだけ声を潜めて問いかけた。俯いたまま鼻を啜った彼女はやはり顔を上げてはくれず、しかし杏寿郎の問いかけに応えるようにまた小さく呟いた。
「……誰も信じない」
「言ってみないとわからないぞ」
「わかる。叔父さまも皆信じてくれなかった」
「それは叔父上とその時いた人だけかもしれないだろう。俺はきみの話を聞きたい。信じたいからだ」
 悲しみの淵にいるだけで、気が触れたようには到底見えなかった。杏寿郎が子供だから見分けがつかないのだとしても、男の言うように話ができないというわけでもなさそうだった。
「教えてくれ、誰にも言わない。知らせたいなら俺が言う」
 少女を貶めるようなことも、気狂いだと慄くようなこともしないし、させない。誓いのように口にするとほんの少しだけ頭が動き、髪の間から涙に濡れた目が杏寿郎へ向けられた。見合いの時は陽光に当たると蒼く煌めいていた目だったが、今は水底に沈み込んだような暗い色だった。
「……鬼」
「―――、」
「叔父さまは……そんなものはいないのだから言い触らすなと。私は見たのに……嘘なんか言ってない」
 羽織に顔を埋めてぐすぐすと泣き出した少女の、膝を抱えた手を握った。鼻を鳴らしながらもゆらりと頭が上がり、握った手へ目を向けたようだった。
 杏寿郎の知っていることを教えなければ、少女はずっと苦しんだまま身動きが取れないだろう。見合いの日は見せてくれていたあの笑顔が曇るのは杏寿郎にとっても悲しいものだ。もう一度見たいと思ったから父にそう伝えたのに。
「大丈夫だ。……鬼はいる」
 息を呑んだ少女の緩慢だった動きが勢いを増し、泣き腫らした顔が杏寿郎へと向けられる。痛々しい目元が少しでもましになればと、空いている手でできる限り優しく目尻を擦った。
「でも、信じない人もいるんだ。鬼は隠れて人を襲うから。だから俺が鬼を斬る」
「………、なんで」
「鬼狩りだからだ」
 悲しみに満ちていた表情に驚きが混じる。ぱちぱちと瞬いたそばから涙が零れ落ちて少しばかり拭うのが追いつかなかった。ぽかんとした少女を怯えさせないよう笑みを向けてから、杏寿郎はあ、と声を漏らした。
「いや、まだなってないけど、なるために鍛錬してるんだ。きみが安心できるように頑張るから、泣かないでくれ」
 そう口にすると、ぎゅうと力を込めて目を瞑ったからたくさんの涙がまた零れ落ちてきた。けれど懸命に深呼吸をしているので、泣き止もうと頑張っているのだろうことがわかる。
「だから、また会いに来る。父上がきみの叔父上と話をしているから」
 もう破談にするのだと言われてしまったが、父が説得してくれているはずだ。なかったことになるとしても、少女の口から断りの言葉を貰わなければ納得できない。杏寿郎は頑固でもあった。
 しかし少女はまた俯いてゆるりとかぶりを振った。
「……もうすぐしたら、精神病院に連れていかれる」
「何故? きみはどこもおかしくないのにか」
「………」
 伏せられた目は蒼く揺らめいて、つつけばまた涙が零れ落ちそうだ。唇を噛みしめた少女は拳を握りしめ、羽織が更に皺を作る。そして杏寿郎の耳元で小さく囁いた。
「……連れていかれる隙をついて、逃げるつもり」
「なんと……、きみは逞しいな」
 涙目のまま頬を染めた少女は喜んだのか悲しんだのかよくわからない表情をしたが、それなら杏寿郎が探し出せば会えるのではないだろうか。各地を飛びまわる父に頼めば情報も入ってくるはずだ。
「病院に行ってしまったらいつ出てくるかもわからなかっただろうけど、逃げればどこかで会えるかもしれない。きみは強いな、凄い!」
 大きくなりかけた声に慌てて周りに注意を向けつつ口を手で覆うと、泣き腫らした顔が今度はぽかんと呆けた表情に変わっていた。見合いの時の表情豊かさがようやく出てきて杏寿郎も安堵する。
「逃げるならうちに来ないか。許婚だからうちに住んでもおかしくない」
「………、許婚……は、……まだ返事してない……」
「あっ、そうだった。じゃあ今ここで返事を聞きたい。俺はきみが許婚だと嬉しい」
 困っているのだとわかりやすく眉尻がしょんぼり下がり、伏せた目がうろうろと視線を彷徨わせる。やっぱり少女自身からも断られるのだろうかと不安になってしまっていたが。
「………、……気が触れたと言われた」
「きみは正常だ。それはきみが一番よくわかってるだろう。鬼のことならうちで教えてあげられる。……俺とは嫌だろうか?」
 かぶりを振る勢いがあり杏寿郎は安堵した。その後小さな声で了承の言葉を紡いだのを聞いたと思うのだが、あまりに小さくて聞き返してしまった。
「本当か?」
「信じてくれたし……お見合い、楽しかった」
「そうか、良かった!」
 泣き腫らした顔が見合いの時ほどではないにしても控えめに笑みを見せてくれたものだから、杏寿郎もつい葬儀の場ということを忘れて満面に笑みを浮かべた。
「――そういうわけですから、縁がなかったということで……」
 奥で話し込んでいたはずの父が男と共に戻ってきた。先導していた男からちらりと視線を向けられた杏寿郎だったが、後ろをついて歩く父からも何かを確認するような視線を向けられ、杏寿郎は懐から紙切れを取り出した。
 それは我が家を出発する前に父がしたためた、煉獄家の住所と当主の名が書かれている紙切れだった。
「これを持っててくれ」
 杏寿郎は手のひらほどの紙を彼女の両手に持たせて握らせた。何かあれば煉獄家を頼るようにと用意したものだとわかると、彼女はこっそり懐へと大事そうに仕舞い込んだ。
「義勇さん、このたびは心よりお悔やみ申し上げる。……気を強く持ちなさい。間違っても自分を蔑ろにしないよう」
 戻ってきた父が少女へ挨拶をし、男が不安そうに眺める前で痛ましげに言葉を尽くして頭を下げた。お暇しよう、と杏寿郎へ声をかけ、見送られるままに冨岡家を後にした。
「父上、彼女の姉君は鬼に殺されたと。それを口にして叔父上は気が触れたと思ってしまわれたのだそうです」
「……それでか……まあ、あの男はうちの稼業を知らんからな」
 武家の家柄と聞いた男が是非にと食い下がってきたから縁談を組むことになったのだと聞かされていた。
 煉獄家との縁談は鬼の存在を知る家系であることが前提だったそうだ。今回のような見合いは意図しないものだった。また会いたいと思えたら、話すと決めたなら伝えなさいと言われていたものの、本来なら杏寿郎も断らなければならなかったのだろうけれど。
「肯定すればうちも気狂い一家と罵られそうだな……まあ、あの子を想っての言動ではあるようだったが……あの紙は渡してくれたか?」
「はい。精神病院に向かわされるから、隙をついて逃げるつもりだと言っていたので」
「逃げっ……本当か!? 胆力あるな!?」
「逞しいですよね! 俺も見習わなければ!」
「女の子に逞しいはどうかと思うぞ……」
 まさかそんなことを考えているとは、と呆れているのか感心しているのかよくわからない声音だったが、思うところがあるらしく父は腕を組んで唸っている。決行日がわかれば迎えにいけるのではないかと杏寿郎は思ったが、男がいつ連れ出すかは少女も知らないようだった。

「杏寿郎。来なさい」
「はい!」
 帰宅したのち父に呼ばれ、杏寿郎は弟を自室に残し母の居る部屋へと顔を出した。
 病床から上体を起き上がらせた母と、枕元に座る父がいる。真剣な顔の両親は杏寿郎に座るよう促し、何事かと姿勢を正す。帰り際も何かを思案するように黙り込んでいた父だったので、恐らく杏寿郎の許婚について考えていたのだろうと予想していたのだが。
「冨岡家の状況は把握したな。お前はどうしたい? あの子にどうしてほしいんだ?」
「本当は今日にも来ていただきたかったのですが。頼ってもらえるよう、逃げる時はうちへ来るよう伝えました。行けるなら迎えに行きたいです」
 安心して過ごせるよう、鬼を斬るとも約束した。それを杏寿郎が果たせるようになるにはまだまだかかるが、今は更なる研鑽を積むだけだ。少女が逞しく生きるなら、杏寿郎も胸を張って会えるよう精進しなければならない。
「杏寿郎。弱きを助けよと今まで言い聞かせてきたが、此度のことは単なる人助けとは違うものだ。あの子は今親族と共に過ごしているのだから、それを引き裂くことは家族を引き裂くのと似たようなものだろう。泣かせてはいるが、あの男はあの子の行く末を案じていた」
 あの男からすれば両親のいない姉妹をただ気にかけていて、姉は婿を取り祝言を待つだけ、妹も嫁ぎ先が決まりそうだと安堵していたところに姉が凄惨な死に方をし、残された妹は気狂いになってしまった。気が触れた理由は痛いほど理解できても、これではせっかく幸せになれると信じたのに手酷く捨てられてしまうかもしれない。良家にきちんと嫁がせてやりたいのに、相手方は気狂いの娘を本当に大事にしてくれるかなどわからないのだ。疑われるのは甚だ遺憾だが、理解はできると父は言う。
「俺とてお前たちが妙な輩に引っかかるのは避けたいからな。父ではないにしても血を分けた兄の娘、可愛がっていたのだろうことくらいは」
 杏寿郎には娘への感情はあまり理解できないが、両親や弟が不幸な目に遭うようなことがあれば全力で力になりたいと思う。気が触れたのだと口にしたとしても、男は少女を慮っていた。それでも気狂いなどと言われては傷ついてしまうと思うが。
「助けるのなら、連れ出したいと言うなら、彼女の一生に責任を持たねばならん。あの子の今後の身の振り方をお前は責任持って見つけられるか?」
 父からの問いかけに杏寿郎は首を傾げかけたが、疑問符を浮かべたまま決まっている答えを口にする。
「許婚となることを了承してくれました。一人前になるまで待っていただければ、俺が義勇さんを娶ります。……父上っ!?」
「気にしなくてよいですよ。発作のようなものですから」
「発作!? 父上はご病気ですか!?」
 突如として胸を押さえぐうと苦しげに喉を鳴らした父に慌てたのだが、平然とそれを眺めたまま杏寿郎を制する母に不安を抱えながらも腰を下ろした。とはいえ母もなんだか目が爛々と輝いているが、今日は体調でも良かったのだろうか。
「まあ、親ばかという病ではありますが……命に関わるものではありませんので安心なさい」
「そうでしょうか……」
 見たこともないほど苦悶の表情なのだが。母が嘘を吐くとも思えず、杏寿郎は納得しきれないながらも渋々飲み込むことにした。
「……わかった。是が非でも見つけて連れて帰ってやる。後は任せるぞ」
「はい!」