特別

 今まで生きてきた中で、ぶつかっただけで難癖をつけられるようなことは正直初めてだった。
 瀬那ならば頻繁にあったと答えるのだろうけれど。何なら出会って五分でパシリに指名されるくらいだと、貧弱だった頃はそれこそ日に何回も起こることだったらしいのだから。
 幸い鈴音は人から絡まれることもなく過ごしていたし、ぶつかったところで謝れば大した時間もかからず終わることばかりだった。
 だから今、謝ったにも関わらず腕を掴まれていることに疑問を感じずにはいられなかったのだが。
「あの……本当にすみません。不注意で」
「んー、謝ってくれたんでそれはいいけどさ、用事がもう間に合わないんだよな。埋め合わせってことで、ちょっとお茶でもしよう、な」
「えーっ! ぶつかったって二、三分でしょ? 急げば今からでも十分間に合うって!」
「いいのいいの、どうせ用事も野郎ばっかりだし、きみみたいな女の子といるほうが有意義じゃん?」
「いや私は戻らないと部活あるし……」
 スケート部? と鈴音の格好を上から下までじっくりと視線が這い、鈴音は言い知れない気持ち悪さを感じた。
 アメフト部のマネージャーである鈴音は、高校で卒業したはずのインラインスケートを履いてあくせくと部活に勤しんでいた。今の格好もインラインスケート、肘と膝にはサポーター、Tシャツにスパッツというお馴染みのもので、完全に動きやすさを重視した姿である。この格好を見た大学で知り合った友達からは、なんか妙にしっくりくるとお墨付きを貰ったほど似合っているらしい。
「まあいいじゃん。詫びだと思って付き合ってよ」
「無理だよー! ランニングの途中なのに!」
「そう言わず、うわっ!」
 掴まれた手を離そうともがいた時、突然目の前で阻んでいた男ががくんと膝をついた。急にしゃがみこんだ男の後ろに焦った顔をした瀬那が立っていて、男の手が離れた鈴音の手を掴んで走り出した。
「ご、ごめんなさーい!」
 何が起こったのかさっぱりわからず、鈴音は手を引かれるまま走る瀬那の背中を眺めた。後ろを振り返ると、立ち上がった男が追いかけようとして走ったようだが、光速を誇る瀬那の脚には到底追いつけなかったらしく、遠くで毒づくのが聞こえてきた。
「ねえ、何したの?」
「……膝カックン」
 出会った頃は確かにパワーはなかったけれど、今なら押し退けることだってできそうなものなのに。子供の悪戯に使われるはずの単語は男を撃退した攻撃手段だった。
「あーびっくりした。ついでにテーピングテープ買ってたら鈴音がなんか慌ててるの見えたから」
「うん、ぶつかっちゃってね。謝ったらお詫び代わりにお茶しようって」
「え、お詫び!? じゃ、じゃあ逃げたのまずかったんじゃ」
「いいよ、謝ったもん。知らない人だし皆ランニング中だし」
 瀬那がスピードを落とした頃ようやく思い出したのだが、先程の出来事は友達がたまに言っていたことと似ていた。
 目当ての異性に声をかけ、ご飯やお酒を嗜みながら仲良くなろうとする手口。いわゆるナンパというやつだ。
 友達が教えてくれていなければ、今更とはいえ思い当たることもなかっただろう。こうして話している限り、瀬那なんてナンパの概念すらないらしいので、教えてもらうこともできなかっただろうし。
「ならいいけど……この辺の人だったらまた会うかも」
「やー大丈夫! 掴まれなければ逃げ切る自信あるし、スケート履いてたらだけど」
「部活中しか履いてないのに。帰りは歩くでしょ」
「んー、だったらさあ」
 ハの字を象った眉毛を見上げながら、瀬那が鈴音を心配してくれていることを実感する。高校から少しも進展していない関係ではあるけれど、他の女子よりは近い位置においてくれているはずだと自惚れることもできるくらい、瀬那はいつも鈴音に優しかった。
 まあ、相手がまもりでもこうして逃げたのだろうけれど。
 繋がれた手の感触へ意識を持っていかれそうになりながら、鈴音は続けて口を開いた。
「セナが私を守ってくれたら良いでしょ」
 家路を一緒に歩いてくれるなら、鈴音は少しも怖くなんかないのだ。瀬那の脚に追いつくことは無理だけれど、引っ張ってくれるなら逸れずに追いかけられる。
「今みたいに連れて走ってくれたら、誰も追いつけないよ」
「そうかなあ……うーん、だったらスケート履いて帰る? そしたら僕も走れるし、鈴音もスピード出せるよね」
 これで引き離せるよ、と瀬那が自信ありげに笑った。
 大学に着てきた服に合わないとか、それじゃあいつものランニングと変わりないとか、言いたいことは色々と頭に浮かんだけれど、鈴音の提案したとおり瀬那が守ってくれようと考えているのが嬉しくて、自分でも自覚するほど妙な表情をしていたように思う。
「さっきのあれ、ナンパなんだよ。友達が言ってたのと同じようなこと言われたし」
「な、ナンパ?」
 ぎょっと目を剥いた瀬那に何よ、と返す。もごもごと煮え切らない言葉にならない声を漏らしながら、瀬那はそうなんだ、とやがてぽつりと呟いた。
「水町くんとか、陸とかが一緒に帰ったほうが良いんじゃ? 堂々としてるから声かけ難いとかありそうだし」
 この調子だ。アメリカ留学までして大人になって帰ってきたと思ったのに、強気になるのはアメフト関連ばかりだった。瀬那の本質は控えめで大人しい、無害な小市民であることは変わっていない。それが人によっては臆病とも取られることだってある。
 長年パシリで雑に扱われていたから、人からの好意が自分に向くとは思わないことがあるようだった。パシリを卒業して何年も経つのに、ファンだって多いのに、声をかけられると恐縮してしまうところも変わらない。
 素直に効率の良いナンパの回避方法を考えたのだろうけれど、鈴音がどういう気持ちで瀬那と一緒に帰りたいのかを考慮していないのだ。
「なんでよ。私はセナと帰りたいのに」
 瞬きを一つして、瀬那の視線が鈴音を射抜いた。
 鈴音自身告白に気づかなかったという、鋭いとは到底いえないやらかした失態が過去にあるけれど、あのときよりも大人になった今、自分の気持ちにきちんと向き合って考えてきたつもりだった。ずっと友達の延長線上にいた瀬那は、ずっと鈴音の胸の奥深く、心の真ん中を陣取っていた。
「私はセナに守ってもらいたいのに」
 明後日の方向へ視線をそらした瀬那は、少しだけ恥じらうような表情を見せた。どうにもそういう感情を自分に向けられるとは考えようとしない瀬那でも、鈴音が言った言葉の理由を感じ取ってしまったのではないだろうか。そう期待してしまうような表情だった。
「僕は逃げるしかできないし」
「喧嘩にならなくていいじゃない。問題起こして試合出られなくなるよりさ」
「まあそうなんだけど……ほら、僕だと迫力もないし」
「ナンパ回避に迫力が必要なの?」
「さあ……でもないよりはあるほうが?」
「もういいよ。ナンパ回避法とかどうでもいいから、私がセナと帰りたいから一緒に帰るの」
「どうでもよくないよ、さっきの人と鉢合わせしたら……あ、皆で帰ればいいのか」
「そっちのがよくないよ!」
 誤魔化して話しているのではないかと疑うような瀬那の思考回路に、鈴音は思わず声を荒げた。驚いた顔を見せた瀬那を見つめ、感情的になった自分を落ち着かせる。
「……じゃなくて、もう気づいてるでしょ。私はこうやってセナと、手を繋いで帰りたいの。セナが好きだから」
 瀬那の特別になりたい。
 俯いて呟いた言葉が瀬那にきちんと届いたかまではわからなかったけれど、鈴音の気持ちは昔からそうだった。今ようやく言葉にできたのだ。
「……鈴音は、昔から特別だよ」
 反射的に顔を上げると、瀬那は足元へ視線を向けて控えめに微笑んでいた。
「アメリカで初めて会った時、自分のことは自分でしなきゃってはっきり言われたの……初めてだった気がしたんだ。ずっと助けてもらうのが当たり前だったのに気づいて、凄く情けないなって思って。その……鈴音に幻滅されたくないなって」
 そんなことを言ったような気もするが、正直あまり覚えていなかった。鈴音が当たり前に考えて行動していたことは、瀬那にとって忘れられないほどの衝撃だったのだろう。
 自分の言葉を胸に留めていてくれることが、これほど嬉しいとは思わなかった。
「幻滅なんかしないよ」
 瀬那にとって鈴音が特別だったというのなら、鈴音にとっても瀬那は最初から特別だった。
「セナはずっと格好良かったよ」
「………。ありがとう」
 伏せていた視線がようやくかち合い、照れくさそうに瀬那が口にした。
 段差を飛び降りる鈴音の身を案じて庇おうとしたことも、兄を想ってプロ試験から逃げなかったことも。最初から瀬那は格好良かったのだ。
「お礼なんていらないから。言わなきゃいけないことあるでしょ」
「え?」
「……私のことどう思ってるのよ」
 特別であることはわかった。あとは瀬那のその特別扱いが、何の感情から来ているかの確認だけだ。
 告白なんて初めてだった。こんなふうに聞くのも恥ずかしいのに、どうしても答えが知りたくて鈴音は恥ずかしさに耐えながらじとりと瀬那を睨みつけるように見つめた。ぐるりと視線が鈴音の周りを彷徨い、十二分に逡巡したあと瀬那はひっそりと鈴音に耳打ちした。
「……このシャイボーイめ! 大きな声で叫んでも良かったのに!」
 嬉しさと恥ずかしさと諸々の感情が綯交ぜになってにやついた口元を隠すこともできず、鈴音は繋がれた手に思いきり力を込めた。