蝶屋敷医院・三

⚠ブチギレ義勇さんと無謀なしのぶさん注意

* しのぶ十五歳

 毒の効果が認められ、一般隊士にも配って使用頻度と精度を上げているところだった。
 夜の帳、一つの任務を片付けて次へ向かうための指令を聞く。緊急と叫んだ鴉に義勇は目を向けた。
「蝶屋敷襲撃!」
 その言葉が耳に届いた一瞬、未熟にも義勇の頭が真っ白になった。
 一体何故、どうやって。蝶屋敷は藤の花で覆われていて、おいそれと鬼が近づけるようにはなっていない。安全地帯を作るために耀哉と悲鳴嶼が案を出し合っていたという。蝶屋敷にいれば隊士もその住人も安全なはずだった。
 普段から夜は出歩かないようにしているのだから、屋敷の住人は確実に全員いるはずだ。孤児を拾い、人手も足りなくなったからと住人は増えていた。
 確認できるだけで十体。徒党を組んだ鬼が蝶屋敷を爆破した。鴉の現状報告に義勇の頭が冷えきっていく。誰も死んでくれるな。しのぶの顔が脳裏に過ぎっては義勇の足を限界まで動かした。
「アオイさん、下がってください!」
「お二人がまだ中にいるんです! しのぶさんとカナエさんが、」
「と、とりあえず二手に別れよう! 消火班と、」
 蝶屋敷の近くで隠に止められている住人の言葉と隊士たちの声を耳にして、走ってきた勢いのまま義勇は燃え盛り始めている崩れた屋根から炎の中に飛び込んだ。
 蝶屋敷の間取りを頭に浮かべながら、義勇は現在地から近い研究所へと足を向けた。狙われたのは毒の研究だったのか、それとも医療機関を潰すのが目的か。火の勢いは義勇が行こうとする方角から増している。爆破箇所は研究所で間違いなさそうだった。
「………っ、」
 火事を伴う鬼狩りはしたことがない。水でも被ってくるべきだったと反省はしておくことにして、義勇は口元を袖で隠して崩れ落ちていく屋敷内へと入っていった。

*

「……み、水柱が来た……」
「涼しい顔で躊躇なく入っていったな……」
 唖然としていた隊士の一人が、我に返ったように消火と叫んでアオイを連れて行く。まだ鬼が潜んでいるこの近くは危険だ。いくら柱が来てくれようと徒党を組む鬼は十体以上。柱一人では守りきれない可能性もあるだろう。同じく唖然としていた村田は気を取り直して声を上げた。
「と、とりあえず、潜入班行けるか!? 行くぞ! 消火班は早く火を消してくれ!」
「無茶言うなよ! 頑張ってんだよこれでも!」
 叫んだ瞬間風が吹いて玄関だった箇所から勢い良く破壊音と土煙やら何やらが舞い、隊士たちは崩れていく扉を凝視した。新たな鬼が来たのかと戦々恐々としていたが、煙の中立ち上がった背中に殺の一文字が見える。鬼より怖い風柱、不死川だった。
「状況ォ」
「は、はい! 中にカナエさんとしのぶさんがまだいるそうで! 蝶屋敷を爆破した鬼たちは潜伏中、今から消火班と潜入班に別れて向かうところです!」
 瓦礫を蹴り崩す不死川に恐恐としながらも、やるべきことはしなければならない。少しでも柱の手助けにならなければ、村田が刀を握り締めた時、隊士の一人がバケツの水を不死川に思いきりかけた。
「うわーっ! 何やってんだお前!」
「ば、馬鹿! 火の中に入るのに水がいるだろ!? 水柱はそのまんま行っちゃったけども!」
 冨岡は屋根から飛び込んで隊士が引き留める隙もなく行ってしまったし、せめて不死川だけでもという隊士の心配りだった。一応納得してくれたらしく、不死川は助かると小さく口にして中へと入っていった。
「お前怖いもの知らずだな……」
「馬鹿言うな、死を覚悟してかけたわ」
 立ち止まりはしてもやはり不死川も躊躇がない。ここで躊躇するのは柱などではないと言われているような気がして、村田は水を被りながら無事を祈りつつ屋敷内に足を踏み入れた。

*

 玄関、客間、病室と順繰りに扉を破壊していきながら他の生存者がいないかを確認してまわる。火事真っ盛りの鬼退治などしたことがない不死川には少々苦しい。呼吸は制限しなければならないし、迂闊なことはできない。
「誰かいるかァ!?」
「来た来た鬼狩り、」
 目の前の邪魔な異物を一閃した。とにかく時間が惜しいのだから鬼などにかまける暇はない。十体もこの火事の中潜伏しているなどおかしな話だとも思うが、爆破が血鬼術で鬼以外に効くのかもしれない。
 厨房らしき場所に辿り着いた時、何か喋っていた鬼をさっさと斬り殺した後、一応声をかけて中を探した。ここにいるはずだが移動されていたらまだ探さなければならない。冨岡が先に到着したらしいが、広い蝶屋敷をくまなく探すのも手間がかかる。炎に燃えて鬼が潜伏しているのだから。
「おい、大丈夫か! しっかりしろォ!」
 流しのそばで何かが動く気配がして、近寄ると咳き込む声が聞こえた。人だ。蹲る人影を抱き上げると、住人が戻らないと言っていた蝶屋敷の主人が倒れていた。爆破に巻き込まれたか鬼に襲われたか、額から血を流している。
「………、風柱、様、しのぶが、」
「喋んじゃねェ、煙吸うな。くそ、あいつらまだかァ!?」
 潜入班を作ったのではないのか。舌打ちしつつ連れ出すためにカナエの体を抱え上げ、一先ず一番近い勝手口から出ようとした。真上の天井が崩れ落ちたらしく、目の前を通過して床へと瓦礫が落ちてきて、辛うじて通れそうな場所が炎に包まれてしまった。
「火事ってなァ逃げ場も奪うのかよォ」
 どこか通れそうな場所から抜け出るしかない。不死川一人ならどうとでもなるだろうが、カナエにこれ以上怪我を負わせるわけにもいかない。しのぶを案じているが意識は朦朧としているようで、囈言のように名前を呼んでいる。羽織を頭から被せて何とか煙を吸わせないようにしながら不死川は歩き出した。
 手荒く蹴り破った先にいたのは炎に囲まれた冨岡としのぶだった。炎の近くに複数の鬼がいた。冨岡と目が合った瞬間、受け止めろと叫んだ冨岡から何かが放り投げられた。しのぶであることに気づいて慌てて手を伸ばして抱え込んだ。
「義勇さん!」
「てめェ覚えてろよォ!」
 破ったばかりの扉から抜け出し、鬼を引き止めている間に二人を逃がすための道を探した。咳込みながら現れたのは潜入班の隊士たちで、ようやく来たかと不死川は呼び止めた。
「待って! 義勇さんが、」
「黙ってろ、さっさと連れてけェ」
「は、はい! 先導してくれ!」
 ぐったりしたカナエと騒ぐしのぶを隊士に任せ、不死川は先程の部屋へと戻った。火の手は明らかにここが一番強い。恐らく対峙しているどれかの鬼の血鬼術だろう。鬼の周囲に炎が纏わりついていても涼しい顔をしているように見えた。
「毒を危険視したようだ」
「成程、有用ってのが良くわかったぜェ」
 ここが研究室か。確かにそこかしこに割れた瓶のようなものが散乱しているようにも見える。徒党を組んだ鬼は多少は頭がまわるらしいが、蝶屋敷を狙い不死川たちが救援に来たのが運のつきだ。
 一等苦しめて殺してやる。不死川は鬼と見紛われるほどの凶悪な笑みを浮かべた。

*

「お願い、戻らせて! 義勇さん、」
「駄目ですって、そんなことしたら死んじまう!」
 肩に担ぎ上げられたしのぶは必死に叫んだが、隊士は火の通りの少ないところへ走っていく。
 自分が研究室に戻ったのが悪いけれど、義勇を巻き込むつもりなどなかった。鬼の隙をついて少しでも毒を回収したかったが、しのぶはそれもできずに、義勇を危険な目に遭わせてしまっている。
 燃え盛る中何とか研究室に辿り着いたしのぶは、そこで待ち伏せていた鬼から逃げ惑いながら毒を回収しようとしていたのだ。何とか掴もうとした時鬼が炎を操りしのぶを取り囲んだ時、部屋に飛び込んできた義勇によって防がれたが、それによっていくつかの無事だった試験管が割れてしまった。
 火の中にいて無事で済むはずがない。いくら強くなっていようと義勇は人間だ。死んでしまったらしのぶは後悔してもしきれない。何のために毒を開発したのかわからなくなってしまう。
 研究室に戻ったことを後悔しても遅く、義勇は火の中に残ってしまった。誰より助けたかった人をこんな目に遭わせてしまった。
 燃え盛る屋敷から逃げ出し、アオイに泣かれてしのぶはカナエとともに隠に保護された。鬼は屋敷内だけではなく庭にも潜伏していたらしく、隊士たちが複数人で討伐に乗り出していた。カナエの容態を確認しながら何とか有り合わせのもので応急処置をする。しのぶたちを守るように隊士もそばについてくれていた。
「火の勢いが収まっていくぞ」
 蝶屋敷の火は収まりつつあった。殆どが焼けてしまい黒ずんだ廃墟のような気配ではあったが、ぽつんと建てられた蝶屋敷が朽ちようとしていた。その屋敷から義勇と不死川が現れた。
「戻ってきた!」
「あー、頸は斬ったから火ももうじき消える。死者はいねェなァ」
「はい、蝶屋敷の皆さんは無事です」
「義勇さん!」
 焦げた羽織を羽織った義勇に駆け寄った時、軽く上げたように見えた義勇の手がしのぶの頬を打った。平手打ちの乾いた音が鳴り響き、衝撃に倒れ込みそうになったしのぶの背中に誰かがぶつかった。
「お前は命を捨てる気か」
 ふらついたしのぶの胸ぐらを掴んだ義勇が、怒りを纏わせてしのぶへ言い放った。じんじんと痛み出した頬をそのままにしのぶは義勇を見つめて黙り込んだ。
 義勇はしのぶが何をしようとしていたかを把握していたらしい。怒るのは当然だろう。しのぶは鬼のそばまで近寄り毒を回収しようとした。爆破された研究室にあるのはまだ改良途中のものだった。無くなれば一から作り直さなければならず、義勇の役に立つのはもっと遅くなると考えて、無理にでも取り返そうとした。
「毒がお前の命より大事なものか。判断を誤るな。人はそうやって死んでいく」
「……ごめんなさい」
 胸ぐらを離した義勇がしのぶから背を向ける。涙が出そうなほどの痛みを我慢しながら、震える唇でしのぶは呟いた。
「少しでも、役に立ちたくて……軽率でした、すみません」
 義勇が戦わなくて済むようになるならと、しのぶは必死に研究していたのだ。それが真逆の状況を生み出してしまった。しのぶは俯いて着ていた看護服を握り締めた。
「あ、み、水柱様、手当を」
「必要ない」
 避けるようにその場を去った義勇の背中を見送ることもできず、しのぶは俯いたまま顔を覆った。
 泣くな。自分が引き起こした事態なのだから、泣いて何かが解決するわけでもないのだから。毒はもう一度一から始めて、今度はもっと効力の強いものを作る。費用など提供されなくとも、どれだけ時間がかかっても必ず。
「あ、あのお。これ、水柱から渡してほしいと」
 しのぶにかけられた言葉に顔を上げると、隊士の一人が複雑そうな顔をして話しかけていた。何を渡せと言ったのか、しのぶは思いつかず首を傾げた。
 隊士から手渡されたのは試験管だった。しのぶがずっと見ていたもの。躍起になって回収しようとしたもの。藤の毒が入った、少し煤けた試験管がしのぶの手に置かれていた。
「………、」
 我慢していた涙が堪えきれず零れ落ちてしまい、しのぶは唇を噛み締めて試験管を握り締めた。

*

 運ばれた藤の家紋の家でカナエは療養していた。
 鬼の襲撃に遭った蝶屋敷は見るも無残な状態で、廃墟のようになってしまっているらしい。再建しようとしてくれているのだが、今度は鬼から隠して建てるべきだという話になっているようだ。鬼殺隊の本部のように隊士にも隠すべきだとか、それだと重傷者の治療が間に合わないから隠すべきではないとか、色々と意見が割れているというのを聞いていた。
 確かに隠れ家のようにしておけば住人であるカナエたちは安心かもしれないが、そもそも傷ついた隊士たちの治療のためにと作られたのである。隊士から隠すのもおかしな話だし、かといって今回のように彼らの手を煩わせることになるのもいけない。難しい問題だとカナエは思う。
 弄んでいた羽織を抱き締めながらカナエは溜息を吐いた。
 突然爆発音が起こった当時、カナエたちは皆厨房で食事の片付けをしていた。地鳴りのような音とともに屋敷が揺れ、何事かと焦りながらも療養中の隊士たちを引き連れて外へと出るようアオイに伝えた。カナエは他に残った人がいないかを探すために残ろうとしたら、しのぶは研究室に向かうと言って走り出したのだ。慌てて止めようとしたところで火鉢や釜戸から突然火の手が上がり、厨房から出ていったしのぶと分断するように鬼が現れた。逃げられないままに頭を殴られ、煙と怪我で朦朧としたまま倒れ込んでしまったのだ。その時助けに来てくれたのが不死川である。
 意識が混濁しながらも抱えられた時安堵を感じた。羽織に顔を埋めたカナエは目を瞑って思い出していた。
「よォ、経過は。………、」
 障子が開く音とともに声が聞こえ、カナエは顔を上げた。今まさに考えていた不死川が現れて、カナエは慌てて布団から出て正座をした。
「寝てろよ、まだ治ってねェだろ」
「いえ、もうだいぶ良いんです。この度は本当にありがとうございます」
 何やら目を逸らした不死川は曖昧に頷きながらもカナエを労るように布団に戻れと口にした。謝りながら素直に従い、蝶屋敷の様子を問いかけた。
「移転しか確定してねェよ、報告通りなら徒党を組んでたのは下弦の鬼ですらねェ雑魚共だった。とはいえ今まで通りの対応じゃあんたらも安心できねェだろうしなァ」
「私たちのことは良いんです。隊士の皆さんが治療を受けるのに迷わないで済むならそれで」
 蝶屋敷より隊士の無事だ。それさえできればカナエたちが拠点を置くこともしなくても良いのだが。
 普段とどこか違う不死川に少し不思議に感じながら、カナエはふと服装が違うことに気がついた。
「今日は羽織がないんですね。もしかして燃えてしまいました?」
「え、……いや」
 カナエの手元へ目を向けた不死川につられるように視線を下ろす。燃えてしまったのなら不死川の好きな生地で羽織を繕って渡そうかと考えたのだが、カナエは今まで弄んでいた羽織が誰から渡されたのかを思い出した。
「あ! す、すみません、これですよね。私ったらお借りしていたのに」
「……いや、別にィ……」
「ちゃんと洗いましたので……い、いえさっきはその、つい。ごめんなさい、もう一度洗ってお返ししますから」
 部屋に入ってきた時の不死川が妙にぎこちない動きをしたのを思い出し、カナエが顔を埋めていたのを見られていたことを察した。頬が熱くなってくるのを誤魔化すことができず、慌てて言い募ると不死川は少し顔を歪めて口を開いた。
「要らねェ。今返せ」
「……はい。ありがとうございます」
 丁寧に畳んでから手渡すと羽織ろうとした不死川が動きを止めて身に着けるのをやめた。やっぱり洗うべきではないかと思ったのだが、そのまま羽織は不死川の膝に置かれて返ってくることはなかった。
「冨岡のせいでばたばたしたが、報告もひと通り終わった。あの野郎、隠の指示も全部押し付けて行きやがって」
 冨岡からの報告も上げられたらしく、鬼の襲撃に関してはもう終わったのだという。
 あの時カナエはすでに意識はなかったが、隊士やアオイから聞かされたことは全て把握している。しのぶを連れ戻してくれたのは冨岡と不死川だったことも、しのぶのしたことに冨岡が相当怒っていたことも。
「水柱様が怒ってくれたと聞いて、有難かったんです。私もしのぶのしたことはしてはいけないことだと思いますから」
 毒の回収のために鬼の前に対峙するなど、隊士でもないしのぶは抗うこともできずに殺されてもおかしくなかった。藤の毒は確かにしのぶが作ったものだが、それを使いこなし鬼を倒すのは隊士である。しのぶが戦わなくて済むようにと願って作っていたことはカナエも知っているが、それを回収するためだけにしのぶが危険を顧みないのは駄目だ。
 死ぬほど怖かった、背筋が凍えるかと思った、普段何を考えているかわからないのに表情が激怒していた。カナエを見舞ってくれる隊士たちは当時見たことを話してくれた。穏やかな空気でしのぶと話していた冨岡が、しのぶの所業に怒りを見せて頬を打ったと言うのだ。
 カナエがその場で怒れなかった分、代わりに怒ってくれたようなものだ。勿論本人の怒りを伝えただけなのだが、怖かったのも殴ったのも、全部しのぶを思ってのことだろう。
「反省はしていますし、後悔もしているみたいです。水柱様の怒りが相当堪えたみたいで」
「向こう見ずな性格だなァ」
「ふふ、しのぶは隊士になりたかったんだと思います。元々勝ち気な性格で気も強いですから」
 カナエが会わなかった一年の間に世話になった鱗滝には、冨岡ともう一人弟子がいたと聞いている。その彼は最終選別で命を落とし、カナエと再会する前に亡くなってしまったのだと言っていた。
 冨岡の心が死んでしまうのを目の当たりにして、鱗滝から懇願されるように止められて、しのぶは隊士になるとは言えなかった。止める人がいなければきっと隊士を目指しただろう。恐らくカナエもそうしただろうと思う。
 カナエは保護された藤の家紋の家の家主に、隊士の手助けをしないかと問いかけられた。鬼を斬ることは何より重要な仕事ではあるけれど、傷ついた隊士たちを治療する者が必要だと言われ、その通りだと納得した。しのぶを探す間に治療に専念していたら悲鳴嶼に腕を買われたのだ。だからこうして蝶屋敷を開き隊士たちを診ている。
「良くしてくれたと聞いていますから、水柱様もしのぶが危ない目に遭うのがお嫌だったんでしょう」
「まァ、わからなくはねェ。俺も身内ならそうしてただろうしなァ」
 むしろあれ以上に激怒しただろうと口にする不死川に、カナエは笑みを向けて相槌を打った。

*

「徒党を組む鬼はいなくはなかったが、藤の家紋の家を襲撃した奴は報告にはなかった。本部の場所が割れてたら来てたかもな」
 雑魚共の集まりだったとはいえ、親玉は小賢しい血鬼術を持っていた。火種を使って炎を操る血鬼術。死者が出なかったのが幸いだったが。
「これが十二鬼月ならもっと小癪な真似を仕出かすこともあるだろうな。鬼の動向ももっと注意しねえと」
「まァな。でけェ火事になって揉み消すのにひと苦労だったみてェだし」
 狙いが蝶屋敷だけだったおかげで、蝶屋敷の位置が民家と離れていたおかげで燃え移らなくて済んだのだ。火の手が強かった研究室が狙われたのは間違いなさそうだった。親玉がそこにいたのも藤の毒を消し去ろうとしたからだろう。
「隊士がやたら冨岡を恐がってんだけど、何かあったか?」
「痴話喧嘩みてェなもんだろ」
 不死川からすれば喧嘩にもならないものだと思うが、冨岡の剣幕に隊士は慄いていたようだし、普段静かな奴が女を殴って胸ぐらを掴んで怒りを見せたのは、確かに驚くことだったかもしれない。怖がられていることを自覚している不死川がやればいつものことかと思われそうだが。
「ふーん。次女と喧嘩か、熱いねえ」
 そう言われると痴話喧嘩とも違う気がするが、面倒なので訂正はしなかった。わざわざ不死川が言うことでもないだろう。
 自ら危険に赴いたのが不死川の弟だったならば、恐らく骨の二、三本は不死川は折る。冨岡の平手打ちなど可愛いものだ。相手が女ならば不死川は手を上げたりはしないだろうが。
「で、お前何で羽織持ってんの? 穴でも開いてんの」
 宇髄の指摘に不死川は固まった。カナエの見舞いついでに羽織を回収してきた不死川は、着ることができず手に持っていた。やはり洗ってもらうべきだったかと考えながら歩いているところを宇髄に捕まったのだ。
 何か良い匂いがするし、カナエが顔を埋めていたのを目にしてしまったおかげで、気が散ってしょうがないのだ。何でそんなことをしていたのか気にはなるが、正直色々悶々としそうになって困っている。顔を真っ赤にしたカナエがあまりに可愛く見えて、それどころではなくなっていた。
「開いてねェ。焦げてもねェ」
「ふーん。まあ良いけど、任務の時は置いてくか着るかしろよ。邪魔だろ」
 邪魔扱いするな。不死川は心中で宇髄に突っ込みながら溜息を吐いた。いちいち羽織など気にせず放っておけば良いものを、宇髄はお節介を口にする。全く面倒なものである。

*

 話がしたくて訪れた義勇の屋敷の玄関まで来た時、夜の間任務に向かっていた家主が戻ってきた。
 しのぶに気づくと目を丸くしたが、眉根を寄せ少し剣呑としながら横を通り過ぎて引き戸を開け、立ち止まった義勇が小さく口にした。
「……殴ったのは悪かった」
「いえ、怒るのは当然です。やってはいけなかったと思います」
 義勇が怒るのは初めてではない。しのぶが夜に出歩いた時も怒っていたが、あの時はすぐに理由を聞いて落ち着いていた。少しばかり苦言を呈されはしたものの、納得して気をつけろと窘めるように言っていた。怒りはあの時の比ではなかった。
 入るかと口にした義勇を窺うように見つめて頷くと、引き戸を開けたまま屋敷に入っていく。玄関を閉めてついていき、しのぶは部屋へと足を踏み入れた。
「錆兎さんのことを知っていたのに、すみません」
 人は死ぬ。隊士である以上義勇は死と隣り合わせの生活をしている。しのぶはそれが心配で、どうにかして助力ができるよう毒を開発した。それが裏目に出たのはしのぶの失態だ。毒より命が軽いはずがないのに。
 研究が無に帰すのが嫌だった。だからぎりぎりまで粘るつもりで、少しの怪我くらいで帰れると甘い見通しをした。両親が殺されるところも見ていたのに。人が喰い物にされるのを見てきたのに。
「お前が、いなくなったら、……その毒の研究も打ち止めになる。生きていればやり直すこともできる」
「はい。そうでした」
「……お前がいなくなったら、……俺はたぶん、もう動くことができなくなる」
 背中を向けて立ち止まっていた義勇を見上げ、しのぶは心中で言葉を反芻した。
 いなくなったら。しのぶがいなくなれば毒はこれ以上精製することができず、隊士たちは今まで通り刀を振るって鬼を斬る。そして死んでいく者も変わらない。しのぶの毒がどれほど貢献できるかはまだまだ調査の途中ではあるが、それを確認する術もなくなってしまう。鬼が狙ったのは医療機関でもある蝶屋敷だが、最初に攻撃されたのは研究室だったようだと聞いている。鬼にとって毒が脅威となり得る。充分な成果を出し始めているものが水の泡となってしまう。
 その毒のこととは別に、義勇はしのぶがいなくなることを恐れている。
「頼むから生きていてくれ」
 振り向いた義勇がしのぶの手を包むように握った。感情が見え辛くなったはずの義勇の表情が、泣きそうになっているような気がしてしのぶは手を握り返した。
「でも、私も義勇さんがいなくなるのは嫌です」
 どれだけ強くても、死なないことを約束できないことくらいしのぶにだってわかっている。毒を使っても安全に鬼を殺すことができずとも、刀がない時に動きを止めるくらいはできるかもしれない。その分生き残る確率が上がるかもしれない。そう思うと重要な研究だと感じてしまったのだ。
「……藤の毒、ありがとうございます。取り戻してくれたおかげで、一から研究し直すことにならなくて。……これであなたが死んでいたら後悔しきれないところでした」
 握り締めた手を引き寄せられて、しのぶは義勇に抱き締められた。
 毒を回収して義勇は帰ってきてくれたが、一歩間違えば戻ってこられなかった可能性もあっただろう。義勇が不安視しているのはそういうことだ。もう一度ごめんなさいと呟いた。
「……俺も、生きて帰れるよう努力はする」
 精一杯の譲歩であり提案なのだろう。誰かを助けられるくらい強くなった義勇なのだから、帰って来いといえば帰って来てくれると信じたいけれど、治療が間に合わず亡くなってしまった隊士たちもしのぶは見てきた。
 必ず戻ると言えない理由は良く理解できる。
「お願いします」
 それでも頼み込むように口にしたしのぶを覗き込んだ義勇は黙っていたけれど。
 間近にある義勇の目を見つめ返した時、手のひらがゆるりと伸ばされ頬に触れた。そちらは先日叩かれた側の頬で、義勇の目が少しばかり申し訳なさそうに揺れた。
「……腫れたか」
「ちょっと。でも治りましたし、悪いのは私ですから」
「……悪かった」
 触れていた手が離れ、代わりに頬に当たる感触にしのぶは固まった。義勇の唇が頬に触れている。目を丸くしたまま困惑した。
 再会した時は抱き合いもしたし、二人の時は確かに近い距離にいたりするが、それは子供の頃に過ごした感覚が残っているからだ。普段の距離でどこかに唇が触れることなんてなかった。先程までとは違う焦りを感じ物凄くどきどきする。年頃であることを気にしていたのは義勇なのに、心臓が落ち着かないまま激しく動き始めた。しのぶの頬に自らの頬を擦り寄せられたことで、更に驚いてしのぶは唇を噛み締めた。
 いやいや、頬を擦り寄せるくらいなんだというのだ。それくらいならたぶん子供の頃にもしたことがある。はずだった、たぶん。覚えていないけれど。
「あ、の、義勇さん。も、もう謝ってもらわなくても大丈夫ですよ」
 抱き締める腕の力が強くなった。何か、そう、何か普段と違う。抱き締めてきたのは再会した直後だけだったではないか。肩に頭を預けたらしく、少し重みを感じた。
 過去一番の怒りを見せたくらいだ、しのぶが危険を顧みないことが相当嫌だった、怖かったのだろう。心臓は落ち着かなくなっているが、しのぶは義勇に抱き締められるのは嫌ではない。年頃になってしまったから義勇は肩や腕くらいにしか触れるようなことはなくなったけれど、子供の頃を思い出してか、何だか義勇に触れると安心していたのだ。
 肩に預けられた頭に手を伸ばして髪に触れ、しのぶは撫でるために手を動かした。身動ぎした義勇がしのぶの首筋に鼻先を触れさせ、すん、と何やら匂いを嗅がれてしまった。
「ちょ、え、な、何ですか? 嗅がないでください」
「良い匂いがする」
「、あ、ああ、ええと、ご機嫌取りにお菓子を」
 以前はしのぶが義勇の胸に抱き着くような形で、頭上から声が聞こえることが多かった。落ち着かない今耳元で聞こえた声にしのぶは狼狽えてしまった。
「作ったのか」
「はい、台所を借りて……」
「……機嫌取り?」
「怒ってたから、もう話してくれなくなったら嫌だったので」
 顔を上げてしのぶへ目を向けた義勇の口元が綻んだ。笑った。その表情を見てしのぶは心底安堵した。良かった。心臓の動きはちっとも収まらないが、義勇の機嫌を取ることには成功したらしい。
「食べてくれます?」
「うん」
「じゃあお茶淹れます。台所お借りしますね」
 風呂敷を抱えて義勇から離れる。台所へ向かうだけなのに、しのぶを眺める義勇の目から妙に視線を逸らせなくなりそうで、しのぶは無理やり顔を背けて部屋を出た。