慕情の音

 あの姉弟は恐ろしく仲が良く、弟君が起きている間は全くと言っていいほど一人にならない。昔からどこへ行くにも一緒なの? と聞いてみれば、仲は良かったが今ほどわかりやすく甘えることなどなかったという。
「我慢もいっぱいしてきただろうから、私は嬉しいけど」
 長子である炭子が炭を売りに町まで行っていたが、もう少し経ったら長男の竹雄に任せるつもりだったそうだ。きっとあと数年もすれば竹雄と一緒に弟二人も山を降りることになっただろう。そんな将来は消えてしまったわけだけれども、炭子はあくまで笑顔で家族の話をしていた。
 寂しい。悲しい。悔しい。そんな音は聞こえていたけれど、同じくらい嬉しそうな音が聞こえていた。善逸は耳が良いけれど、考えていることは注意して聞かなければ詳細はわからない。せいぜい喜怒哀楽くらいのものだ。だけど家族の話をする炭子がどんな気持ちだったのかはよく伝わった。
 大好きな家族が殺されて悲しさや悔しさは消えないけれど、興味を持ってくれたのが嬉しいだとか。そう思ってもらえたのは、善逸にとっても嬉しく思う。
 興味を持つのは当たり前だ。女の子には優しくあろうと思ってはいるけれど、それが好意を抱く相手ならば尚更。炭子の優しさがどこから来たのか垣間見ることができる彼女の家族の話は、理想の家族像に見えてとても眩しい。
 同時に己には決して手の届かないものであるかのような気分になる。善逸は身寄りが無く家族がどんなものかは話に聞くしか知ることができない。いつか誰かと家族になりたいと思っても、炭子の家族のような温かい家庭が築けるとは思えなかった。
 なんてことをふとした拍子に零してみたら、炭子は善逸の言葉を否定した。
 善逸は優しくて良い奴だから、善逸が築くのならとても良い家族になるなどと。
 そんなものは理想でしかない。今だってお嫁さんすら来てくれる気配がないのだから、結婚だって危ういものだ。そううじうじと愚痴を漏らせば、炭子は困った顔をする。
 ああ可愛いなあ。炭子が俺を好きになってくれればいいのに。
 ずっと思っていることをその時も考えた。泣いても喚いても寝ても覚めても、他人が今まで善逸に聞かせ続けた冷たい音は炭子からは一度も聞こえなかった。ひとつ躓けば途端に離れていく他人ばかりで、善逸が見るのは目まぐるしく変わっていく顔ぶれだったのに、今は良く見る顔がいっぱいある。その面々は善逸に笑い掛けて話し掛けて、時には喧嘩もしたりする。知らなかった世界に善逸はいる。
 受けた修行はまさしく地獄の日々ではあったけれど、諦めずに己に付き合ってくれた育手に出会ってから世界が変わってしまったのだ。刀を持って嬉しかったことの一つだった。
 猪頭を被った乱暴者は、最初こそ反りが合わないと思ったものだったが、四人で過ごす時間は善逸にとって大事なものになっていった。

 炭子は関わった人と仲良くなるのが非常に得意だ。自分を筆頭に猪頭を被った伊之助とも打ち解けるし、蝶屋敷の女の子達とも仲が良いし、いつの間にか鬼殺隊の柱とも仲良くなっているし、知らないところで炎柱の身内とも文通をしているではないか。あらゆるところで人間関係を形成している。人たらしめと毒づくのは仕方ないだろう。
 そうやって故郷でも人と関わってきたのだろう。善逸からすればとんでもないことだが、本人はけろりと何がそんなに驚くことがあるのだと不思議そうにする。今だってこぢんまりした炎柱を目の前に、仲睦まじく話をしている。
 正確には炎柱だった煉獄杏寿郎の弟君なのだそうだ。文通を通して己を知っていたらしい彼はキラキラした目を善逸に向けてくる。
 炭子は長子である。そして千寿郎は弟。相性が良いにも程があるだろう。弟妹を可愛がってきた炭子なら、千寿郎も可愛く見えるだろう。何せ己ですら庇護欲を擽られる程には、優しく真面目で良い子だということがわかるのだから。
「今日は父の用事でこちらに赴いたのですが、お会いできて良かったです」
「私もです。お元気そうで良かった」
 嬉しそうな音が二人から聞こえる。千寿郎とは初対面だが、音が聞こえなくたって表情でわかる。そうだよな、優しくて可愛い子とお近づきになれたら誰だって浮足立つだろう。はっきり恋をしていなくたって、男なんて単純なのだから。
 だから少々面白くないのだ。男女の秘めたる想いなんてものに炭子は少しも興味がなさそうな気はするが、ぼやぼやしているといつの間にか誰かとどうにかなってしまいそうだ。善逸が好きになった相手は皆そうだった。あるいは既に相手が居たりする。
 蝶屋敷の主人に用があるというので千寿郎はすぐにその場を離れたが、善逸は何だか不安になって炭子に問いかけた。
「どんなこと書いたんだ? なんで千寿郎くんはあんなに俺をキラキラした目で見てくるの」
「黄色い頭をして、泣き虫でうるさいけど優しくて強い奴がいますって」
「う、うるさい? 俺うるさいかな?」
「静かではないよ」
「伊之助のことはなんて?」
「四六時中猪頭を被って、木に頭をぶつけているけど強くて面白い奴」
 少しも褒められていない気がする。落として上げて結局過不足ゼロな気がする。それでもゼロなだけましだと思うべきだろうか。伊之助などはおかしな奴にしか思えない。
「いろいろ書いたよ。大事な友達だよ」
 がっかりした善逸を眺めて笑いながら、炭子は付け足すように口にした。
 知ってるよ。善逸は心中で呟く。炭子が己や伊之助、蝶屋敷の面々を大事に思っていることくらい。そして何故か、己を頼りにしてくれていることくらい。
 今まで情けない姿しか見せて来なかった筈なのに、彼女はずっと善逸を頼ってくれていた。厳しいことも言われるけれど、突き放すわけじゃなく、善逸を思って言ってくれる。
 情けない姿を見たら女の子なんて皆離れていったのに、炭子はそうじゃない。もしかして己を好いているのでは、なんて思っても仕方がないんじゃないか。だってそう思ってしまうくらい、彼女はずっと親身になってくれていた。善逸は強いと口にする言葉に嘘がなかった。
「友達かあ」
「え、友達じゃなかったのか?」
 衝撃だったのか炭子の優しい音が揺れる。友達なんて初めてだから、それはそれで嬉しいのだが。
「だって俺最初に結婚してくれって言ったじゃん。友達じゃ結婚できないしする気もないんだろうって」
 責任とってくれよ、と口走った最初の会話。あの時はただ邪魔されたことが悲しくて、目の前の女の子に兎に角結婚までの面倒を見てもらいたい一心だった。
 ――責任とって結婚するか、それが無理なら面倒見ろよな!
 ああ、思い返すとろくでもないことを言っている。よくもこれで友達だなんて言ってもらえるものだ。これ以上望んではいけないような気もするが、人の欲とは際限がない。
「……あれ、本気だったのか?」
 当たり前だ、と言葉にしようと口を開いて炭子を見れば、いつも見る困った顔が薄く色付いている。勢いをつけて言うつもりだった言葉は途端に元気をなくし、消え入りそうな声が善逸の口から漏れ出た。
「……当たり前だろ、俺は好きなんだから。あの時の言い直したいくらいには好きだよ」
 同時に肩を落としそうになった。
 彼女の弟の目を盗んで花を手渡していたことも、寒かろうと羽織を肩に掛けたことも、炭子に似合いそうな髪飾りを渡したことすら意味が通じていなかったことに。
 だけど全て、この瞬間の彼女の表情で全て報われた気がした。
「駄目だ、竹雄を元に戻すまでそんなことはできない」
「元に戻ったら良いの?」
「っ、そ、いや、ええと」
 見たことのない表情が目の前にある。いつもの優しい音が揺れてから、さっぱり落ち着きがなくなった。音なんてなくても炭子を見ればよく分かる。照れているのだ、己の言葉に。
 この音を聞いたことがある。
 欲しくて欲しくて堪らなかった、慕情の音だ。