――あとは結ぶだけである。

「縁談、ですか」
「そうだ。義勇にも身を固めてほしいと輝利哉様も仰ってな。不死川殿と胡蝶殿にも、」
「俺は結構です」
 早々に断った義勇に師である鱗滝は少々言葉に詰まったが、気を変えるべく名を呼び、釣書が沢山来ているのだと教えてくれた。それは義勇の気持ちを変えるほどの理由にはならず、ただの情報として耳に入るだけだったが。
「痣の寿命は抗えないものです。あと数年のうちに、俺も不死川も。無理やり繋ぐには少々時間が足りない。どうしてもというなら――胡蝶に」
 厄介を押しつけたつもりはなく、ただそのほうが良いだろうと思ってのことだ。
 鬼舞辻無惨を倒した後、無事胡蝶は生き残った。継子の栗花落に聞いた話では、痣も出していなかったという。肺を斬られて無理はできない体となっても、寿命に関しては見えないままだ。少なくとも痣者よりはよほど。
「あいつは痣を出さなかったと聞きます。出したとしても俺より猶予がある。器量も気立ても良い。輝利哉様と先生に厳選していただければ、良い縁談が見つかるでしょう」
 結婚というものがどれほど幸せなものであるのかを義勇は知らない。だが遠い記憶の中で、義勇の姉はその日を大層待ち侘びていた。義兄となるはずだった相手の男もまた、姉を娶ることを待ち遠しく思っていたはずだ。
「………。しかし、儂は胡蝶殿の性格も好みも知らん」
「……胡蝶は……きっと、三歩下がって夫を立てることもできるでしょうが……弱みを見せず借りを作ろうとしない、強い人間です。それを理解してやれるような者がいるなら、恐らく受けてくれるのではないでしょうか」
 胡蝶自身の性格は負けん気が強く守られることを良しとしない。それは柱だったからということもあるのだろうが、対等であることを好むのだろうと義勇は思っている。好いた相手ならばそれも変わるのかもしれないが。
「義勇」
「はい」
「……彼女を理解しているのはお前じゃないのか」
「先生、俺は」
「痣の話は置いておけ。どうなんだ、お前は。あの蟲柱をどう思ってる」
 どう思っているか。それは先程伝えたのが義勇の胡蝶像である。義勇などより余程強かで自らを省みず有言実行できる力がある。他者に弱みを見せず、一人でやり遂げようとする。そのくせ義勇のようなたわけ者の世話を焼こうとすることもあった。
「……尊敬しています。俺にはできなかったことをやり遂げた人間です。頑張り続けたから、……幸せに、なってほしい」
「……義勇、それは」
 鱗滝が何を言おうとしたのか、義勇にはわかっていた。だからこそそれを制して首を横に振り、義勇は小さく笑みを浮かべた。
「先生、先程も言いましたが……痣の寿命がある以上、縁談など俺には考えられません。炭治郎ほどの猶予があるわけでもない。今から新しい関係を築くには、時間がなさ過ぎます」
 心配してくれていることはわかっている。少しでも繋ぐことを望んでいることもわかっているが、この残り少ない時間の中、もし繋ぐことができなかったら。そうしたら相手は戸籍に傷がつき無駄な時間を過ごさせたことにもなる。片腕の余命幾ばくもない男に嫁がせるなど、誰が相手だろうとそれをさせること自体が義勇にとっては辛い行為だ。
「……新しくないだろう」
「え? 先生、それは?」
 手に持っていた釣書の中身をちらと見せてから、鱗滝は立ち上がって病室を出た。てっきり義勇に渡すつもりで持ってきているものだと思っていたのに。
 本日義勇は無事退院の許可を得て、これから水柱邸へ一先ず戻るはずだった。その前に話があると鱗滝から言われての会話だった。話は終わっておらず、途中のはずである。
 だというのに、鱗滝はすたすたと淀みなく廊下を歩き、やがて診察室の前で立ち止まった。まずい。
「あの、先生それは、」
「胡蝶殿はいるかな」
「え? あ、はい……これは鱗滝さんと、冨岡さん」
「ちょっと待っ」
「突然の話で申し訳ない。非常に良い縁談が胡蝶殿にあるのだが、如何かと思ってな」
 止めようとしたにも関わらず、鱗滝は義勇の声を遮って胡蝶へと話を持ちかけた。

*

 何事。
 診察室に現れた天狗面は冨岡と炭治郎の育手であるという鱗滝だ。そばにはやけに慌てた冨岡が彼を止めようとしているようだが、全く意に介さず言葉を発せられたらしい。
 ――非常に良い縁談が胡蝶殿にあるのだが。
 挨拶、もしくは世間話くらいしかしたことのない相手だ。生きて帰ってきた隊士たちに何度も頭を下げては泣いていた人で、優しい人であることは冨岡からも炭治郎からも聞いている。元柱だともいうし、しのぶや冨岡たちの苦労も苦悩も、きっと察していることだろう。
「先生!」
「うるさいぞ義勇。黙ってなさい」
 あの冨岡がうるさいなどと怒られるのは初めてではないだろうか。
 声量に関しては大してうるさくないというのは突っ込んではいけないのだろうが、何故冨岡はこれほどに焦っているのだろう。こんな様子は今までにも見たことがない。頬も上気して、なんだか、そう、照れているようにも見える。こんな顔は初めて見た。
 その気になれば腕ずくでも止められるのだろうが、相手は師だからか遠慮しているようだ。さては冨岡も縁談を持ち込まれたから照れているのかもしれない。そんなふうに、照れるような相手だったのだろうか。
「あの、お気持ちは嬉しいのですが、私は縁談だとかは今は……」
「そう言わずにひと目だけでも」
「はあ……」
 一体何故しのぶにここまで。
 しのぶ宛に釣書が届いていることは知っているが、それらは全て断っていた。輝利哉には悪いが、自身の結婚などよりも大事なことがある。縁談などに時間を費やしている暇はないのだ。
 しかし、さすがに関わりの薄い目上の者から直接の打診は一応目を通さねばならないだろう。気は進まないが受け取って、適当に断りの返事をしてしまえばいい。そう思って差し出された釣書を受け取ろうとしたのだが。
 伸ばした手が空を切り、しのぶは釣書を掴み損ねた。
「……え? なんです冨岡さん」
「こら義勇、取るんじゃない」
 まるで悪戯を窘めるような言い方だったが、鱗滝は冨岡が奪った釣書に攻撃を仕掛けて手から落とさせるという本気の奪い方をした。何を見せられているのだろうと少々呆れながらも、初めて見る冨岡の様子にしのぶは内心微笑ましくなった。
 ばさりと音を立てて落ちた釣書をしのぶは拾おうとしたのだが、落ちた拍子に開いて見えた中身に手がぴたりと止まった。
「……え?」
「あなたには相手を厳選してやれと義勇が言うのでな。儂が一等薦めたい者の釣書を持ってきた。撮っておいてよかっただろう」
「………、………。あれは、鬼殺隊最後の記念にと……」
「うむ。三人分撮ってある」
 最後の柱合会議の後の撮影だったか。そういえば確かに、集合写真の他にも一人ずつ撮ってもらうことがあった。記念だからと輝利哉も言うものだから、深く考えずにしのぶも撮ってもらったわけだが。冨岡と不死川もそうだったはずだ。
 それが今、しのぶが拾った写真だというのか。
 成程。確かに皆断るだろうことを見越していたのだろう。しのぶも不死川も冨岡も、縁談を受けない理由がある。
 釣書の中には冨岡の写真。拾い上げて埃を払いながら、しのぶは写真を眺めた。
 しのぶが縁談を必要ないという理由は、冨岡なら理解するだろう。しかし世間は独り身の女を奇異の目で見もするだろう。そう考えると事情をよく知る冨岡ならばしのぶも悪くないかもしれない。世間体という事情だけを考慮すれば。
 しかし、こんな余り者を押しつけるのは失礼ではないか。しのぶは藤の毒の後遺症で子が産めるかもわからないし、研究が間に合わなかった時は残り数年の短い時間をしのぶと過ごすことになるのだ。こんな欠陥のある女と一緒になど、時間の無駄になる。そんなことはできない。
 冨岡には、うんと長生きして幸せになってもらわなければならないのに。
 断るために口を開いて顔を上げた時、しのぶの視界に入ったのは冨岡が照れている姿だった。片手で目元を隠しているけれど、色づいた頬は隠しきれていない。しのぶは唖然とした。
 ――なんでこんなに照れてるのよ。
 それに気づいた時、思わずつられて頬が熱くなるのを感じて、更に天狗面の奥から視線をひしひしと感じて思わずしのぶは釣書で顔を隠した。
「……脈はありそうだな。是非前向きに考えてくれ。あまり時間はないから早めに」
「先生、」
「わかったわかった。義勇が断るなら不死川殿にまわしてしまうぞ。胡蝶殿もようく考えてくだされ。素直になってくれると儂は嬉しい」
 脈とはなんだろう。よくわからないが妙な空気のまま鱗滝に去っていかれ、不死川にまわすなどと不穏な発言の真意を聞きそびれてしまった。
 図らずも二人になってしまった空間だったが、頬の赤みを見せたまま冨岡は眉根を寄せて不満を顕にした。
「……た、大変そうですね。ああやって世話を焼いてくださるのは助かりはするんでしょうけど、目上の方ですし、断り難いといいますか」
「………」
 無言。しのぶが視線を落としてから再度見上げるまでの数秒の間に、つい先程までの照れる様子が嘘のように澄ました顔をしていた。何を考えているのかわからなくなっている。
 そうか。随分焦って照れていたように見えたのは、きっと鱗滝が強引に薦めていたせいなのだろう。持っていた釣書の表紙を眺め、しのぶは手のひらで撫でつけた。
 たった数年。痣者の彼らが二十五まで生きていられるかもわからない状況ではあるが、しのぶはその寿命の前借りについての研究をしている。痣の後遺症を、できるだけ早く克服できるよう調べている。だから結婚など考える暇はない。
 けれど。
 たった数年だとしても、一緒にいられたらきっと嬉しいのに。
 ――私は一体何を。
 ふと無意識に考えたことにしのぶは内心で狼狽えた。
 そんなこと、今まで一度として考えたことがないはずなのに、こんな釣書を見たから思考もつられてしまったのだろうか。つられるくらい、しのぶの本心は結婚に興味があるのだろうか。相手は冨岡、手のかかる同僚だった人だ。わざわざしのぶは顔を見るたび話を振っては声を聞こうとしていた。もっと話してくれたらきっと、もっと楽しめるだろうにと思って。
「……すまない。無駄な時間を使うことになると言ったんだが……。先生には俺からもう一度言っておく。それも預かる」
 ――素直になってくれると嬉しい。
 差し出された手は釣書を返すよう促してくる。けれどしのぶはそれを差し出すことはせず、代わりに釣書をぎゅうと胸に抱えた。
 無駄な時間。それは縁談相手に対しての気遣いなのだろう。確かに知り合ってから新しい関係を築くには、今の痣の寿命がある状態では時間がなさ過ぎる。特に冨岡のような口下手な者は、心を開いて打ち解けるにも時間がかかるだろうから。
「………、……胡蝶?」
「……新しく知り合うよりも、元々知ってる人間なら時間は省けますよ」
 無言がまた訪れる。
 どんな顔をしているのか、しのぶは少々恥ずかしくて見上げられなかった。視線は正面に立つ冨岡の腹部付近を彷徨い、ただ釣書だけは力を込めて抱き締めた。
「……治療はカナヲとアオイに任せて、研究に専念しようと思ってたんです。あなたにも関係のあることなんですよ」
 むしろ冨岡のための割合が大きい。
 そう。そうだ。誰のための研究か、しのぶはようやく自覚した。死なせたくない、生きていてほしい。それはずっと願っていたけれど、その祈りが何の感情から来ているかなど考えたこともなかった。
「何の……」
「……痣の寿命が抗えないものなのかどうか。二十五までに死んでいったのは、何世代も前の話です。今の時代で克服できることがあるかもしれない。例えばひと晩だけの発現だった場合、日の呼吸の使い手だった場合、例外があるかもしれない。一刻も早く探すつもりです。……手伝っていただければ、助かるんですけど」
「……手伝うのはいいが、それならそれは必要ないから、」
「この朴念仁」
 眉根を寄せ顔を上げて冨岡を睨みつけた時、目を丸くした冨岡は真意に気づいたのか頬を染めた。
 なんというか、本当に、表情豊かになったものだ。今までならきっと、慌てることも照れることも目に見えることはなかっただろう。
 それがやけに微笑ましい。ああ、違う。
 好ましいのだ。
 別に、表情が見えなくたって冨岡は天然のドジっ子だった。隠れていようとしのぶは探し出すことだってできたのだから見えなくても一向に構わないけれど。見えていたら見えていたで、可愛げも一緒になって出てきている気がした。
「あなたが断ったら不死川さんに縁談がまわるんでしょう。……そんな、深い話をしたことのない人は、例え同僚だったとしても私は……」
 柱合会議や治療の注意事項なんてものは全員に平等にしていたが、不死川とのごく個人的なやり取りなど、顔を見ては元気かと声をかけられるだけで深い会話などしたことがない。彼は甘露寺にも近づこうとしていなかったし、女には興味がないのだと思っていたくらいだ。自らちょっかいをかけに行っていた男性は、思い返しても一人しかいない。
 目の前にいる冨岡にしか、子供じみた対応なんてしなかった。
 ああ、しかし。やはり欠陥のあるしのぶよりも、時間がないからこそ健康な娘と結婚してもらったほうがいいに決まっている。自分の感情など放っておくべきだった。ぽろりと要らぬことを口走ってしまったのは、きっと鱗滝に調子を崩されたせいだ。
「胡蝶」
「じゃ、なくて……そうですね。欠陥の残る余り者の私より、もっと健康で気立ての良い方とお話を進めたほうが、」
「余り者に釣書が山程来ると思うのか」
「……そんなの知りません。単にもの珍しいとか、同情とか、働き手を探してるとか」
 しのぶ自身と添い遂げたいと言ってくれる者がいることもわかっているのだが、そういう者にももっと良い娘と縁を結んでほしいと思う。痣の弊害がなかろうと、しのぶの体は健康とは程遠い。
「……そうか。……余り者というなら俺も余り者だ」
 そんなわけがないと言外に伝えたにも関わらずこれだ。
 だがまあ、この言い草では、鱗滝の言う縁談に乗り気になったのだろうことがわかってしまった。
 余り者同士、残りの余生で肩を寄せて生きるのも、きっと悪くないのかもしれない。その先に繋げるものは何もないかもしれないけれど、肩を寄せる相手が冨岡ならば、しのぶは別に不満はないのである。
「……割れ鍋に綴じ蓋と、適当な者がいたからそうなったと思われるかもしれないが」
「間違ってはいないでしょう」
「お前が余り者と自称するから言っただけだ。俺にとっては、――願ってもない」
 あの戦いから目が覚めて、重責や苦悩から解放された冨岡は柔らかな表情を浮かべることが多くなった。しのぶが自力で見ることの叶わなかった顔だ。
「……照れてましたものねえ」
「お前もだが」
 冨岡の視線がちらりと釣書へと向けられ、どこか照れたように目を逸らしながら返せと手を差し出してくる。
 冨岡はドジっ子である。こんなものを返してどこかに落としてしまわれたらかなわない。そんなことはしないと不満げにしたが、もしも誰かに拾われて見知らぬ者の手に渡って、縁談を申し込まれでもしたら困る。抱き込んでいた釣書を抱え直し、しのぶは正面に立つ冨岡の胸に頭を凭れさせた。途端に動きが止まったのが少しおかしかった。
「そうですね、ええ。……願ってもないのは……私もです」
「……そうか」
 頭を上げて見上げると冨岡はいつもの能面顔ではあったものの、よく見れば耳が赤くなっているのがわかった。それがなんだか可愛く見えて、恐らくしのぶも赤くなっているだろうと自覚できるほど耳が熱かったが。
「胡蝶しのぶさん」
 びくりと肩を震わせてしまい、しのぶは背筋を張り詰めて伸ばした。
 先程まで困惑も不満も照れも滲み出ていた冨岡の感情が、腹を括ったのか今は全てが凪いでいた。戦う際には常に張りついていた顔だ。
「勝手を言っていることはわかってるが。死ぬまでの間、俺をそばに居させてほしい」
「―――、」
 死ぬまでの間。順当にいけばそれはたった数年しかない短い期間だ。
 だがしのぶは、その期間を延ばすために研究を続けている。誰に何を言われようと止められようと、無駄であると言われたとしても、やめるつもりは毛頭なかった。
「私、共同開発とはいえ無惨に効果のある薬を作ったんですよ」
「ああ」
「……死ぬまでとは、いつまででしょうね。……長い間になってくだされば嬉しいんですけど。……こちらこそ、よろしくお願いします」
 それを求められたから、しのぶは今こうして生きているような気すらするのだ。

*

 鱗滝と輝利哉はどうやら結託して作戦を練っていたのだという。
 胡蝶と話を終えて客間で茶を飲んでいた鱗滝を捕まえた時に聞いた話だ。
 義勇と胡蝶が互いをどう思っているかまでは把握しておらず、ただ縁談を受けようとしない三人の柱の今後のことを思い、まずは意思の確認として話をしたのだという。本当かどうかは知らないが、釣書など持参したのだから用意周到であることは間違いなかった。
 不死川がもし鱗滝の弟子だったとしたら、彼がこの縁談を受けさせられていたともいう。縁談など受ける気がなかったのも本心ではあるのだが、義勇が鱗滝の弟子で良かったと奥底では安堵したわけである。
 別に夫婦として在りたいと強要するつもりはなく、ただそばに居られたらいいと思ったから義勇も口にしたのだ。死ぬまでなどという手前勝手なことを言ったが、胡蝶が不要だと言うのなら義勇は引くつもりもある。ただ、支えてくれる誰かが見つかるまではせめて、あの抱え込み続ける胡蝶の手助けをしたいと思ったのだ。
 痣の研究をすることは大事ではある。せめて炭治郎の寿命に間に合ってくれればいいと思っているが、それで胡蝶が倒れては意味がない。
「研究を続けるにあたっての決まりがいる」
「要りませんよ、そんな」
「そばに居ることを許したんだから話を聞け」
 むぐ、と口を噤んだ胡蝶は以前の作り笑いが鳴りを潜めて不満が全面に出ている。別に笑顔を見せなくなったというわけではないが、胡蝶の姉が生きていた頃を彷彿とさせて微笑ましい。気持ち的に重責が消えたわけではないだろう。勝手に背負っているのは胡蝶だが、それでも鬼という憎しみの矛先が消えたからこうして自然な顔をするようになれたのだと思うとやはり微笑ましく、そしてその抑圧されていない感情の起伏が好ましく思える。
「神崎から聞いたことがある。お前、以前から食事を抜いたりしたことがあったらしいな」
「なんで冨岡さんがそんなこと……」
「療養中に聞こえた」
 寝台に寝ておかねばならない状況になって、不謹慎だが安堵しているのだと、たまたま通りかかって聞こえたのだ。勿論聞く気はなかったので立ち去ろうとした時、神崎に見つかってしまったのである。
 詳しく聞けば胡蝶はずっと忙しくして食事も睡眠も満足に取れていなかったという。柱が忙しいというのは周知の事実だが、それ以外にも色々と胡蝶は気をまわしてくれていた。胡蝶はそのつもりなど毛頭なかったのだろうが、その中には義勇への気遣いもあり嬉しかったものだ。顔色が悪かったのは要因がいくつもあったのだろう。
「研究は手伝うが、絶対無理をするだろう。息抜きも三食の食事も睡眠も、充分取ってから没頭してくれ。俺のことは管理人だと思えばいい」
 なんなら目覚まし感覚でも構わない。頼み込んだのはこちらなのだから、被検体としてでも好きに使ってくれればいい。胡蝶は覗き込むように上目で義勇を一拍ほど見つめ、やがて口を開いた。
「管理人では嫌ですけど」
「………」
「……ふふっ。目泳ぎ過ぎですよ、冨岡さん。気づいたんですけどね、私……あなたのこと、ずっと好きだったみたいですよ。だから管理人より先ほどの言葉のほうが、すごく嬉しかったんです」
「………、………。……俺もだ」
 胡蝶の台詞に言葉が詰まり、義勇は絞り出すように返事をした。
 聞き間違いではなく、願ってもないと言った義勇の言葉に胡蝶は同意してくれた。義勇と同じ好意の表れだ。わかっていたかのように笑みを見せて大きく頷いた胡蝶に、ならばと義勇は一つ望みを口にした。
「冨岡の姓を名乗ってくれるか」
「そんなこと、あると思ってませんでしたねえ。ふふ、はい」
「……ありがとう。まあ、管理は嫌がってもするつもりだ。……胡蝶と長く生きたいから」
「………、それは、責任重大ですね」
 ほんの少しだけ頬を染めて照れたように目を逸らした胡蝶に、義勇は小さく笑みを漏らした。
 研究が上手くいこうがいくまいが、胡蝶が気に病む必要など一つとしてない。本来それは抗うことなどできない代償のはずで、義勇と不死川はわかっていて痣を出したのだ。
 ただ、炭治郎だけは知らぬまま、気づかぬままに痣を出し続けていた。炭治郎だけでも助かれば御の字であり、助からなくても納得しているはずだと義勇も理解している。
 だから何があったとしても胡蝶が必死にならねばならない謂れはどこにもない。
 ただ、胡蝶自身は優秀であるから、そんな希望を抱いてしまうだけなのだ。無理をして体を悪くして、誰より先に逝ってしまうなんてことはさせたくない。
 望んでくれるのだ、義勇とて長く生きたい。
 できれば胡蝶とともに、この先を。