兄弟弟子の恩人・三
「……何やってるんだ?」
産屋敷邸からの帰り道、人気のない神社で項垂れて座っていた実弥は、胡乱な目を声をかけてきた人物へと向けた。
あまりに衝撃だったから無意識に落ち着くために茶屋でおはぎを包んでもらい、そのまま神社までやってきて一人影を背負っていた。何度考えても最悪の状況である。
「……さっき、お館様に呼ばれてなァ」
「何かやらかしたのか」
ぐ、と喉が詰まり言葉を告げなくなった。
確かに実弥は柱になる時耀哉に食って掛かったことがある。許す許さないの話ではないと耀哉は笑っていたが、それはもう大反省して謝り倒した過去があった。
しかし、今回は実弥自身がやらかしたわけではなかった。捨てたはずの家族がどう辿り着いたのか鬼殺隊に籍を置くのだと知らされた。実弥の血縁なのだろうと耀哉に問われ、違うと嘘もつけず実弥は黙り込み、息女を殴りつけたと聞いて血の気が引き、勢いのままに畳へ額を擦りつけていた。
同じ最終選別に受かった一人に止められ、本人もまた怪我を負ったらしいとはいうが、それで手打ちになるとも思えなかった。幼い女児相手に何てことをしやがるのか。何故鬼殺隊などに関わろうとしやがったのか。
「……お前を追って来たんだろう」
「俺が鬼狩りになったことなんざ知らねェ。こんなことなら寺かなんかに預けてから逃げるんだったぜェ……」
実弥の隣に腰を下ろし、声をかけてきた義勇は少しばかり柔らかい声音で呟いた。
鬼狩りなどに身を沈めてしまえば、普通の生活など縁遠くなってしまう。天涯孤独になろうと普通の幸せを感じてほしくて弟から逃げたというのに、これでは全くの無駄ではないか。選別を突破しようと死の危険は多くなるばかりなのに。
「会わないのか」
「………」
母が鬼になったことに気づいて鬼殺隊を見つけたのか、それとも保護した誰かが鬼殺隊関係者だったか。最終選別には実弥のように紛れ込んだわけではないようだから、恐らく育手の稽古は受けたのだろう。余計なことを。
「今更どんな顔して……」
人殺しが鬼殺隊にいることを知ったら、弟はどんな反応をするのだろうか。
震えそうになるのを誤魔化すように手首を掴み、実弥は唇を噛み締めた。
それとも、もしも本当に実弥を追ってここまで来たのなら。
会えばきっと実弥は弟を殴る。こんなところにまで来て、実弥のことなど母もろとも忘れて新しく人生を生き直してくれればいいのに。例え偶然鬼殺隊に入ったのだとしても、無理にでも鬼狩りから足を洗わせるしかない。ぎり、と手首を掴んでいた手が白くなるほど握り締めていた。
視界に実弥の手とは別の手が映り、握り締める手に伸ばそうとして止まった。顔を上げると読めない表情の義勇が固まっていた。
「な、何だよ。ガキ扱いしてんじゃねェだろうなァ」
「……それはしてない、が、……俺は、慰められるようなことを、」
「まァ昔のほうがよく話してたしなァ。少しは他の奴らにも話しかけてんのかよ」
別に頼られるのも懐かれるのも嫌ではないが。結局義勇の手は引っ込められ、何故か少しばかり残念な気分になったような気がしたが、実弥は妙に思い詰めている気のする義勇の顔へ目を向けた。
そういえば義勇は弟を探そうとしてくれていたことを思い出し、思うところでもあるのだろうかとふと考えた。
「……何か言いてェことでもあんのかァ」
「………、いや」
ゆらゆらと視線を彷徨わせた後、義勇は眉根を寄せて目を瞑り、やがて瞼を上げた時には揺らぎは見えなくなっていた。
こうして言いたいことを飲み込むことが、必要なことなのかは実弥にはわからない。実弥は言葉よりも手が出ることが多いが、伝えたいことは全身から迸ってしまう。義勇のように黙り込むことはしなかった。
「……すまない」
「………? 何で謝んだよォ」
少なくとも弟のことで義勇が実弥に謝るようなことはしていない。謝るべきは弟本人で、実弥は耀哉たちへ死ぬほど頭を下げてきたところだった。
人に手を上げるなど、まして子供に手を上げるなど。屑の父親に似た要素は持ってはいけないものだ。実弥がいえた義理ではないが、せめて弟には真っ当に生きてもらいたかったのに。
*
何を言っているのか理解が及ばなかった。
転がされていた場違いな隊士はただ涙を流していて、産屋敷の息女が代理で読み上げていた手紙の言葉に、実弥の目の前は真っ赤になった。
訳知り顔の胡蝶が実弥に何か声をかけたのを無視して箱に刀を突き刺した。鬼が入っているという箱に自身の稀血をかけてやった。
それなのに、涎を垂らしながら鬼の娘は顔を背けた。
一発食らったのは義勇が叫んだせいだったが、それも苛々して堪らなかった。
「顔貸せェ」
「待て不死川。俺だって聞きたいことも言いたいことも山程ある。おい、」
伊黒が止めるのも無視して、義勇の胸ぐらを掴んだまま実弥は産屋敷邸から歩き出した。胡蝶の窘める声と慌てる甘露寺の声と、誰かが大袈裟に溜息を吐くのが聞こえた。
適当な路地裏の壁に義勇の背中を叩きつけても、実弥は柱合会議から少しも落ち着くことがないままだった。むしろこの澄ました顔を見ているだけで苛立った。頭に血が上り過ぎて、だから言うつもりなど欠片もなかったことを口に出してしまったのかもしれない。殴らないだけ理性が働いていた気もするが。
「てめェが何をしたか理解してんだよなァ」
「会議のとおりだ。責任は取る」
「何年も柱やってたような奴が、見間違いみてェな一時の気紛れで鬼を見逃すのは納得いかねェ」
「……先生は二年間眠っていたのを見ていた。お前もお前の血から顔を背けたのを見ただろう。あの兄妹に何かある可能性が」
ぎり、と噛み締めた歯が軋みを上げた。
兄を守った鬼。人の肉から顔を背けた鬼。狭霧山にいた鱗滝を襲わなかった鬼。そんな鬼がいるなんてことを考えたこともなかった。実弥の母は躊躇なく子を殺したのだ。
「可能性なんざねェよ。理性のねェ鬼の行動が守ったように見えただけだ。稀血に反応しねェのは嗅覚でもイカれてやがんだろォ。そんな鬼がいるなら、そんな鬼になれる素質なら母ちゃんにもあったはずだろォ!」
澄ました顔が目を見張った。
わかっている。頭の隅ではわかっているのだ。実弥が見たのは紛れもなく獲物の血を認識して、涎を垂らして我慢する姿だった。あれは食欲を抑えることのできる鬼だと目の当たりにした。二年前に見逃した義勇の判断は恐らく間違っていないのだろう。少なくとも人を襲うことは現時点でしていない。
「そんな鬼が、存在すんのに……何で母ちゃんは弟たちを殺したんだよ。俺は殺さなくて良かったかもしんねェだろ……」
誰にも言わなかった鬼に襲われた時の詳細。姉と二人暮らしだったと言った義勇も掻い摘んでしか話さなかった。互いに思い出したくない過去だったから、実弥も深く言わずに実弥と弟だけが生き残ったと伝えていた。胸ぐらを掴んだまま項垂れて義勇の肩に頭を預け、八つ当たりを自覚しながらも実弥は我慢ができなかった。
控えめに羽織を握り締め、後頭部に手が触れる感触がした。義勇は慰めようとでもしているのかもしれないが、何を口にすることもなく黙ったままだった。
母が鬼になった時、もしも鬼の娘を見逃した義勇がその場に現れていたならば。
詮無いことをふいに考えた時、実弥は我に返り義勇から体を離し、掴んでいた胸ぐらから手を外した。
「……何でもねェ。ちょっと……考えさせろォ。しばらく顔見たくねェ」
何も言わない義勇の顔を見ることもできないまま、実弥はその場を足早に離れ屋敷へと戻ることにした。
*
鬼なんてものは視界に入ったら即斬り殺すものだ。善良かそうでないかを考える必要などない。鬼はすべからく人を脅かす悪であり、それを滅殺するのが鬼狩りなのだ。
そう、見逃すだとか違うとか、そもそもそんなことを考える必要などない。義勇の思考が鬼にまで向かうのがおかしいのだ。だがあの鬼の娘は稀血である己から目を背けた。刀を突き刺して怪我までさせて、飢餓状態だったにも関わらず。
それがどうしたというのだ。偶然に決まっている。鬼狩りの前でボロを出さないよう取り繕っているだけだ。十二鬼月にもなればそんな知恵のまわる鬼もいるだろう。違う。あれは十二鬼月ではなく、理性のある鬼だ。
「んな鬼がいるわけねェ!」
頭がぐちゃぐちゃで思考が纏まらない。怒りを見せて頭突きをしてきた隊士も、飢えを耐えようとした鬼も、澄ました顔が驚愕に染まった時のことも。あの時からぐるぐると考え続けていたある日、見覚えのある年寄り鴉が屋敷へ飛び込んできた。
「義勇カラジャ……」
「……だろうなァ」
脚に括られた文は、珍しく義勇から実弥に宛てられた物らしい。今読む気分ではないが、柱合裁判の日よりは理性も戻ってきている。破り捨てることもなく文を受け取り、年寄りを労りつつ義勇の元へと帰した。
「よお不死川。お前冨岡から聞いてなかったんだな」
鴉が飛び立つと同時に屋敷に現れた音柱。宇髄は軽い動作で縁側へと座った。
「あいつは元々無口な奴だァ」
「そりゃそうだろうけど、お前相手なら話してんのかと思うだろ。元同門で仲良かったし」
「知らねェよ」
見逃した二年前に知らされても怒りで我を忘れていただろう。
そもそも実弥はあの鬼を連れた隊士のことも心底気に入らない。むしろ大嫌いであるとはっきり言える。新参のガキがわかったような口で説教をかまそうとするところも腹が立った。一撃食らったのも。
「同門てことはあの隊士も弟弟子だろ?」
「ハァ!? ふざっけんな、俺にあんなクソみてェな弟弟子はいねェよ!」
「いやあ、冨岡も大概地味で暗いクソ野郎じゃん。鬼を鬼殺隊に引き入れるのは派手だが、」
「あいつはァ! ……クソ野郎ではねェよ。大人しくて、口下手が過ぎるだけだァ……」
「ふうん。まあ仲違いして周りに余計な心労増やすのはやめろよ」
兄貴風を吹かしたがる宇髄は要らぬお節介を焼いて仲でも取り持とうとしたのかもしれないが、実弥には余計な世話だ。今は頭がぐちゃぐちゃで義勇に会いたくない。鬼を狩り続けてきた実弥が鬼を許せるはずがないのだ。そんなことは義勇も同じはずなのに。
握り締めていた手紙を胡乱な気分で広げ、どんな言い訳が書かれているのかと実弥は目を走らせた。
まずは面と向かっての言葉ではなく手紙を送ることについての謝罪、そして此度の裁判について、滑らかな文字が半紙に綴られていた。
鬼を見逃したこと、お前は絶対に許さないだろう。ただ、あの鬼の娘は飢餓状態のなか兄を庇い、兄を俺から守ろうとした。何かが違うのだと思い見逃した。ただ一度見ただけでと思うならばそうかもしれない。だが俺は違うと感じた。
師を巻き込んでしまったこと、お前の心の傷に不用意に触れたことを深く反省している。腹を切るのは己一人で良かったが、一蓮托生だと師は仰った。
許してほしいとは言わない。気の済むまで殴って構わない。二人について、関わりたくなければそれでいい。
ぐしゃ。そこまで読んだ実弥は手紙を持つ手に力を篭めた。
実弥とは違う人間の義勇は、あの鬼を信ずるに値すると判断した。鱗滝は義勇の判断を信じて二人を匿った。
答えは出てしまっている気がしたが、飲み込むには時間を要してしまうだろう。
玄弥も義勇も、どいつもこいつも実弥の望むようには動かない。そんなことは当たり前のことなのに、どうしようもなく悔しくてたまらなかった。
「馬鹿らしい。お前が信用に値すると判断したんだろう。先生もそれを受け入れた。だったら俺もお前の直感を信じる」
無意識に足を向けた義勇の屋敷から話し声が聞こえてきた。つい生垣に身を隠して気配を殺し、そこにいる客人へ目を向けた。
「錆兎……」
「鬼は憎いよ。だがその娘は人を喰ってない。まあ割り切れなさもある。だから俺が信じるのは義勇、お前だよ」
実弥がすぐに納得できなかったことを易易と錆兎はしたらしい。それも不機嫌に拍車をかけてくるようで、実弥は歯噛みしつつもその場から動かなかった。
「まあ、柱はそうはいかないんだろうけどな。風柱も、お前も」
「……実弥は」
「柱であるお前が鬼を見逃す判断を下したことで、葛藤も恐怖もあっただろう。お前の柔軟な思考は俺にも風柱にもないものだ。水柱に相応しいとさえ思えるよ。干天の慈雨とかあるしな。俺なら迷いなく殺してただろう」
「使ったことない」
「例え話だ。特に風柱のような気性の荒い者は、怒っていなければ示しがつかないということすらあるだろう。常日頃殺気立ってるとか言われてるし、隊士や隠の中には恐い印象のまま鬼を殺していてほしいというような奴もいる。本当は優しい奴なのに。……まあ、これは俺の穿った見方だが」
正反対で良いんじゃないか。他人事のように錆兎は笑んだ声音で口にした。
「ただ、義勇の言葉なら、少しくらいは聞く耳を持ってくれるんじゃないか。勿論向こうが落ち着いてからだが」
「……俺は、実弥に悪いことをした」
「男が女々しくうじうじするんじゃない。やってしまったなら挽回する機会を掴まなければな」
兄弟弟子というのは、誰よりわかっているものなのだと実弥は感じた。錆兎は義勇のことなら何でもわかるようだったし、数回程度しか話したことのない実弥のことすら性格を認識している。二人のやり取りを聞いていた実弥は気づかれないよう立ち上がり、屋敷へ戻ることにした。
煉獄の訃報を聞いた実弥は憤りつつも林道を歩いていた。
煉獄が竈門兄妹を認めたという話は鎹鴉の要からの報告で耀哉に伝えられたらしく、柱にもそれは周知された。
煉獄が認めたことで隊内の意識は少し変わったように思う。鬼と戦った鬼の娘、などと見る目が明らかに以前と違うのだ。
「ヒィーっ! 風柱様!」
「ん? あ、実弥」
「ええーっ!?」
岩に腰掛け口布を外さないまま握り飯を食らっていた隠が、気安い様子で実弥へ手を振った。隣にいた隠は目を剥いて驚いていた。
「俺ちょっと外しますね。すぐ戻ります」
「あー……はいはい。おい、あんま騒ぐなよ」
その場にいた隠は三人。一人は混乱して騒がしかったが、もう一人は落ち着いていて冷静だった。握り飯を抱えながら適当な場所まで離れると、木の根のようなところへ腰を下ろして口布を外した。
「炎柱のことは残念だったな。強くて気の良い人だった」
「あァ、匡近は任務で一緒になったことあったんだったかァ」
匡近は煉獄と二人で任務に当たったことがあったと昔話していたのを思い出した。当時は二人とも平隊士で、良い奴と仲良くなったと匡近は笑っていたものだった。そんな相手が死んでいなくなるのは鬼殺隊では日常茶飯事だが、やはり慣れないものは慣れない。
「竈門隊士を認めたって話だったけど、実弥はどうなんだ? 鬼連れた隊士のことは隠の中でもかなり騒然としてたよ。詳しいことはこっちには伝わってこないから、憶測も飛び交って」
「だろうなァ」
義勇が手引きをしたらしい、というのは噂になっていたという。水柱が何故そのようなことをと不安に感じたり不信感を持つ者も多かった。だがこうして煉獄が認めた以上、あの二人は立派な鬼殺隊士だという考えが隠の中にも広まってきているという。
「先見の明でもあるのかな。俺じゃそんな判断は下せない」
「あいつは単に目の前で見せられたからだろォ」
あの時送りつけられたぐしゃぐしゃになった手紙を懐から取り出し、匡近へと差し出した。読んでいいのかと驚いていたが、実弥は黙って様子を見る体勢に入ると手紙を広げて目で追い始めた。
「……成程なあ。兄を庇ったから見逃して、育手に匿ってもらって、腹まで懸けてるのか。鬼を助ける水柱は異端なんだろうな。……でも実弥は、言ってもらえなかったことにも怒ってるんだな」
「はァ?」
予想外のことを口にされ、実弥は思わず声を漏らした。匡近はどこか生温く感じる笑みを実弥へ向けてくる。
「そう見えたぞ」
「まァ、見逃した時に言えとは思ったけどォ……」
言えなかったのも今は何となく理解している。鬼を見逃しましたなど、どう考えても鬼狩りに伝える言葉ではない。実弥でなくとも、誰であろうと怒りを顕にするだろう。
「お前ほど関わりないから知らないけど。水柱は鬼を殺し続ける今の鬼殺隊に、少しでも何か変化をもたらしたかったんじゃないか」
この先百年、何百年と続く未来が、ずっとこのまま指令を受けて鬼を倒してまわるだけなのだろうと考えたことがあるのだという。
「親玉の影も見えないでさ。終わりがないんだ。でも水柱は見た」
「………」
「鬼は俺も憎いけど、それは水柱も同じなんだろ? そんな人なのに憎い鬼を信じたんだ。俺なら水柱を信じるね。お前から聞く”義勇”は穏やかだったし、何か悪意があるわけじゃない。実弥も信じたがってるように見えるよ。そんで、説明されなかったことを怒ってる」
分析でもしていたかのように匡近は口にして、実弥は呆然と阿呆面を晒した。変な顔だと笑う匡近を睨みつつ、溜息を吐きながら告げた。
「悪意がなけりゃ何してもいいってのかよ」
「そんなことはないけど、責任取るつもりみたいだし。……あ。そうかお前、勝手に命懸けてるのが嫌なのか。成程、可愛いな実弥は!」
「はァ!? 何でそうなんだよォ!」
「信じたいんだろ、実弥も」
「鬼は信用しねェ」
「うん、実弥が信じたいのは水柱だ。それと狭霧山の師匠」
いつか錆兎が言っていた言葉と似たことを口にした匡近に、実弥は二の句を告げなくなって固まった。
わかったような顔をして実弥の未だぐちゃぐちゃの心情を当ててくる匡近には、口には出さないが敵わないと思う他ない。兄弟子とはこういうものかと考えたが、義勇はそうでもないような気がするので匡近だからなのだろう。
「大丈夫だよ。お前の兄弟子で俺の恩人だ。俺も彼の判断を信じるよ」
「……元だろ」
何も言えなくなった実弥は、負け惜しみの如く今は兄弟子ではないということを主張しておいた。
あまりに目障りで鬱陶しかったから。柱同士の稽古に割って入るなどと邪魔をしたから、感情のままに殴り飛ばして気絶させてしまった。
鬼が出なくなった期間、柱稽古を開始して隊士をしごき、その合間に柱同士でも手合わせをすることが決まっていた。実弥は義勇の元へと足を向け、仲違いのように会話を避け始めてから初めて面と向かって顔を見たところだった。
気絶した竈門に姉の大事な形見の羽織で枕を作ってやる義勇に、実弥の心臓が苛々としているのを自覚した。
「……手加減したのか」
「勘違いすんなよォ」
殺しそうなほど敵意を向けていた竈門相手に、殴ったとはいえ手心を加えたことを気づかれ何となく罰が悪くなり、そもそも接触禁止を破るつもりはなかったと口にした。目の前に現れたから接触して最悪な気分にならないように黙らせただけだ。
「俺は鬼を信用しねェ。そこの隊士も信用してねェ」
十二鬼月と何度も鉢合わせて生き残るほどの力があろうとも、柱稽古をここまで抜けてきていたとしても。実弥にとってはいけ好かない相手なのである。好きになることなどこの先もないだろうと思えるほど、嫌悪が先に立つのだ。
「てめェと鱗滝さんが命張ってるから、てめェのやることを様子見するだけだァ。かなり譲歩してやってんだよ」
「……うん。ありがとう」
来て早々に稽古を始めたので、二人だけで顔を合わせて話をするのは、あの裁判の後はこれが最初だ。どこか感慨深く感じて不思議な気分だった。昔は何年も顔を見ないことなどザラだったのに。
「もう、今までのような関係は無理だと思ってたから。憎まれても仕方ないことを俺はしたと思う。……だが」
竈門の額に手が伸びようとした時、実弥は思わずその手首を掴んで止めた。驚いたようにこちらを眺めた義勇の目を見た時、自分でも訳がわからないまま手を離した。
「実弥?」
「……何でもねェ」
何だ今のは。そいつに触るんじゃねェ、と。ふいに手が伸びた時に強く感じたから止めた。何故そんなことを思ったのか。実弥が受け付けない相手だからだろうけれど、その相手に義勇が懐いているらしいことも気に食わなかった。
「……どうした?」
顔を覗き込んできた義勇は実弥の額に、竈門に伸ばした手とは反対側の手を置いた。
その瞬間、実弥の顔に熱が集まってくるのを感じ、どうやら目にも明らかに顔色が変わったらしいことに気がついた。
「体調不良か。真っ赤だぞ」
腕を掴んだ義勇はそのまま実弥を引っ張り、縁側から部屋へと連れ込んだ。腕相撲では確かに良い勝負をしたが、それでも実弥のほうが勝ちは多かったはずだ。こういう時には有無をいわさぬ力が篭もる。
「いや別に、」
「鬼がいつ活動を再開させるかもわからん。体調管理を怠るなど以ての外だ」
「うるせェな。体調不良なんかじゃ、」
「黙ってろ」
隅に置かれていた布団を敷き直し、羽織を剥ぎ取られ、布団に転がされた実弥の上に掛け布団で身動きを封じるように上から押さえつけられた。
「普段使わない頭を使ったんだろう。お前はきっと頑張り過ぎてるんだ」
「………、うっせェ」
馬鹿にされた言い方に言い返そうとしたのに、その後に続けた言葉に喉が詰まった。
「お前が出ていってから客用布団しか置いてなかった。それは炭治郎が使うから、俺の布団で悪いが少し寝ろ。起こしてやる」
「………」
実弥の髪を柔らかく撫でた後、障子を閉めて縁側から庭へ戻っていった。
客用布団を竈門が使う。それは確実にあのガキがここに寝泊まりしようとしているということだ。また苛々ムカムカとしてきて、実弥は口元まで掛け布団を引き上げた。
「………!?」
ふいに鼻に届いた匂いが義勇のものであると気づいた時、今までにないほど大きな音が心臓から発せられた。
ど、ど、ど。太鼓のように大きな音が突然。不整脈が再発したのかと実弥は焦り、動悸息切れも感じてきて更に焦った。
体調管理を本当に怠っているなど笑い話にもならない。何とかしてバレないよう眠っておきたかったが、布団を頭まで被ると更に心臓がばくばくと騒がしくなる。
「寝てるほうが体調悪くなるって何だよ……」
こんな状態で寝られるか。帰ってから寝るほうが気持ち的にも楽だと気づき、義勇には悪いが布団から身を起こした。
「義勇さん! 不死川さんは」
立ち上がろうとした体がぴたりと止まり、また苛々が胸に広がった。
あの野郎、名前で。年上で柱の人間を気安く。耳に聞こえてくる声に不整脈よりも苛立ちが勝ってきて、心臓を掻き毟って投げつけたくなった。
「寝てるから静かにしろ」
「寝てる? あの、意外と仲良いんですか? 柱合会議の時は、その。酷い態度だったので」
意外とは余計だ。勝手に判断するな。知ったような口を聞きやがって、あまりに腹が立ったせいか実弥は逆に冷静になった。何もかもがいけ好かない。恐らく一生わかり合うことなどない人種だと感じた。
「……悪くはない、と思う。今は」
「そうなんですか。不死川さんには禰豆子刺した分謝ってもらいたいんですけど、今ならいけますかね」
いけるわけねェだろ。何を思えばそんな思考にぶっ飛ぶのだ。どう考えても謝れと言われて謝るような態度はしていなかったはずだ。やはりこいつとは反りが合わないともはやしみじみ思っていた。
「……許容できることとできないことが人それぞれある」
静かな言葉が窘めるような声音で聞こえてくる。幾度となく聞いてきた義勇の声だったのに、初めて聞いたような気分になった。
「お前が禰豆子を刺したことを許容できないように、あいつにも許せないことがある。だから許せというわけじゃない。……少し、待ってやってほしい。あいつは短気だが馬鹿じゃない。整理する時間がいる」
竈門を窘めているのか、それとも実弥を労っているのか。どちらとも聞こえるような声音は、気を遣っているらしいことがよく伝わってきてしまった。
「義勇さんは不死川さんのことをよく知ってるんですね」
「一番とは言い難いが、元同門だ。お前の兄弟子でもある」
「えっ!?」
「錆兎の恩人だ。俺にとっても大事な」
どごん。太鼓どころか銅鑼でも叩いたかというような音が心臓から発された。実弥の心臓からである。あまりに大きな音だったので、何も考えられないまま実弥は抜け出したはずの布団へふらりと倒れ込んだ。
「そうか。義勇さんにとって不死川さんは大事な人なんですね。俺そんな人に頭突きを」
「……あいつも血の気は多いから」
確認するように繰り返さなくていい。起き上がっても布団に潜り込んでも耳まで熱くて落ち着かないが、今は苛々よりも何だかふわふわと覚束ない。まるで熱を出して寝込んでいる時のような気分で、本当に体調不良かと情けなくなった。
匡近と同じように、違う方面から、無駄に実弥のことを理解して気遣っているらしい義勇に、心中で悪態をつきながら何故か口元が緩んで仕方なかった。
そうかよ。お前、俺のこと大事なのかよ。よく見てんなァ。びっくりしたわ。
何だか物凄く、力の限り心臓を鷲掴みにされたような感覚だった。生殺与奪の権を握られたのではないだろうかと思うほど恥ずかしくなったのに、不思議と嫌な気分ではなかった。