鮭大根布教委員会・5
うわあ、なにあれ。
善逸が目撃したのは、ある体育教師の食事風景だった。
以前から非常階段で一人昼食を摂っていることは知っていたが、ここ最近は常に誰かがいたような気がしていたのに今日は初心に戻ったのか一人である。かまうの飽きたのかな、と他の若い教師たちを思い浮かべて通り過ぎようとしたところで、目の前で昼食を食べている教師がとんでもなく嬉しそうな顔をしていることに気がついた。
おかずを咀嚼しながら、たいへん幸せそうに。
食べているのは透明な容器に入れられている、恐らく煮物。汁とか凄そうなのに弁当として持ってくるものなのかと善逸は考えた。注視してみれば、中身は何度か見て食べた記憶のある煮物だった。
委員会を発足した冨岡が開催し、幾度か回数を重ねていた食事会で食べる鮭大根。こんなに幸せそうな顔をしていた試しはなかったが、そういえば都市伝説の話あったっけ、と思わず立ち止まった善逸は、やはり好物だと喜ぶのかと納得した。
「先生、それ鮭大根ですよね。いつもの食事会の時と全然反応違うけど」
幸せそうに咀嚼していた冨岡が飲み込んだのを見届けて話を聞いてみれば、今食べているものは姉が作った鮭大根なのだと言った。姉がいたのかと素直に驚き、このスパルタ教師の姉などという存在がどれほどの暴力を振るうのかとぞっとした。しかしまあ相手は姉、女性だ。そして冨岡の姉ならば美人であることは約束されている。
「お姉さんの手料理ね、良いご身分ですよね。うち男所帯だしそんなイベントもないわ」
「食べるか?」
「え、いいんすか?」
「姉の鮭大根は世界に広めるべき料理だ」
吐き捨てながら舌打ちをして去ろうとしたのに、振り向けば手招きしているシスコン疑惑が浮上した体育教師がいる。手招きされても普段ならしばかれるか怒られるかだが、今回は冨岡の姉の手料理という褒美が待っている。是非! とノリノリで窓枠に足をかけたところで、出入り口からまわってこいとビンタを食らう羽目になった。
「行儀が悪い」
「手招きするからじゃん! だったら呼ぶ前にまわってこいって言ってよ!」
殴られ損にはなりたくないのでまわらない選択肢はない。つける限りの悪態をつきながら辿り着くと、今度は座っている階段を力強く叩いて善逸を呼んだ。
世界に広めるべき冨岡の姉の手料理は、見た目は普通に食事会で食べた鮭大根と変わらない。というよりそのものだ。そりゃそうだ、冨岡家の味なのだろうから、姉の料理は冨岡と同じものでおかしくない。
しかし善逸にとっては冨岡の姉という見たこともない相手であろうと、女性というだけで好感度が千ポイントくらいは上乗せされてしまうのである。食べるに決まっているし、美味いに決まっている。
「いただきまーす。……あ、うま」
「………! そうだろう!」
「ぐうっ」
真横で見たこともない笑顔を向けられた時、善逸の視界はあまりの眩しさに目を開けることができなかった。まるで懐中電灯を真横から照らされたかのようである。眩しすぎるだろ。
「まあでも、これは確かに先生みたいな顔になるよ」
「顔?」
ゆるゆるの表情をしていたのはもしや自覚がないのだろうか。正直味自体は冨岡の手料理と変わりない気がするが、善逸が憧れてやまない姉などという存在が作ったとなれば話は別だ。それがどれほどの暴力姉だとしても。
「お姉さんが作ったってだけで世界一の価値ありますもんね」
「わかってくれるか!」
「うっ。はあ……」
「それをわからん節穴が多い」
眩しすぎて直視できないが、信じられないほど嬉しそうだ。まあ、姉の手料理にどれほど価値があるかをわからない間抜けが多いのならそうもなるだろう。身内の贔屓目があると思われているのなら仕方ないのかもしれない。善逸には解せないが。
「あの、これもうちょっと食べたいです」
「半分やる」
「えっ。あ、ありがとうございます」
優しい。もうひと口くらい食べたいなあなんて考えてわりとダメ元で聞いてみたのだが、随分機嫌の良い冨岡は二つ返事で容器を差し出してくれた。普段もこのくらい優しかったらいいのに。姉の手料理のおかげかもしれないので、やっぱり世界一の価値はありそうである。
「あ、冨岡先生! 善逸、ここにいたのか」
「炭治郎」
昼休憩に教師のところへ邪魔するなんて珍しい。なんてにこにこされてしまったが、今日邪魔したのは偶然である。そんなことはどうでもいいとばかりに炭治郎は手に持っていた包みを開けようとして、やがて冨岡の手にある容器に気がつき苦笑いを漏らした。
「家で作ってうまくいったんで味見してほしかったんですけど、タイミング悪かったですね」
包みの中から差し出したのは例の鮭大根だった。食事会のおかげか、クラス内では意外と家で作ったと話題に出す生徒がいたりする。自炊などしたことのない生徒は家族が作ってくれたそうだ。かくいう善逸もレシピを持って帰ったところ、祖父が勝手に作ってくれていたことがあった。食材は大根と鰤だったが。
「くれるのか」
「はい、禰豆子からもお墨付き貰って自信作になりましたから! 家でちょっとした鮭大根ブームになってて」
「鮭大根は毎食あってもいいからな」
「いやそれはさすがに飽きるでしょ」
飽きないとぼやきつつ、若干うきうきしているような気配を纏った冨岡が炭治郎から容器を受け取り、善逸は善逸で貰った冨岡の姉の鮭大根をぱくぱくと食べ続けた。単なる偶然なのに、なんだか鮭大根パーティーでも開いているような気分である。ピンポイントすぎる。
「……美味い」
姉の手料理でなくともこれだけ喜ぶのだから、やっぱり好物なんだよな。ほわほわした笑顔を撒き散らした冨岡に善逸は慣れてきたのか、少しばかり顔の向きを変えながら視界の端で眺めることができるようになっていた。見えるようになったところで特に何も得はないと思うが。
そうして向きを変えた時、新たに見えたのは炭治郎の顔だ。包みを握りしめて困惑の表情を浮かべながらも冨岡を凝視しているが、その顔色は真っ赤だった。
「お前が作ったのか」
「はえ、は、はい。ええと、ひ、火加減が大事です!」
「そうだな」
料理をよくわかっていると嬉しそうにうんうん頷いている。その間炭治郎は冨岡から目を離さなかった。善逸はただその様子を食べながら眺めていた。
「あ、あの! また作ってきますんで味見してください!」
「ああ、わかった」
そうして非常階段から離れた善逸たちだったが、心ここにあらずといった様子の炭治郎を横目にひとつ呟いてみることにした。
「都市伝説って本当だったんだな」
「そうだな」
駄目だ。めちゃくちゃうわの空なので、善逸の言葉など耳に入っていないようだ。その理由はまあだいたいわかるが、それにしたって大丈夫だろうか。おかしくない? この反応。相手はスパルタ体育教師だぞ。
炭治郎の様子にばかり注意が向かっていた善逸は、非常階段を挟んだ向かい側からしのぶが目を剥いてこちらを見ていたことに気がつかなかった。
*
「冨岡先生、作ってみたんでお裾分けしてあげます」
非常階段に座ろうとしていた冨岡の姿を見かけて声をかける。ぶどうパンを手に持っている冨岡はここ最近誰かと食べていることが多いようなので問いかけてみれば、あとから来ると教えてくれた。
ならばさっさと用を済ませてしまおう。巾着袋に収めてあるのは手のひらサイズの小ぶりな密閉容器ふたつ。片方はしのぶの昼食用と、もうひとつが冨岡へ渡す用のものだ。
最近姉は鼻歌を歌いながら鮭大根を作る頻度が増えていて、変だなあと思っていたところに見かけた先日の様子だった。目撃した体育教師の様子が普段とあまりにかけ離れていたようで目を疑った。非常階段の裏から見かけたからはっきりとは見えなかったが、とにかくいつものスパルタとは正反対の様子だったのだ。
どうして姉が機嫌良く鮭大根を作るのか理解に苦しんでいたしのぶは、原因を探るためと冨岡の様子を確認するために自ら包丁を握ることにしたのである。もちろん家でなんて作れば姉にすぐ何をしているのかバレてしまうので、家庭科室を借りてこっそり作ることを選択した。
「いいのか」
中身が何かを確認した時、冨岡の目が輝いたように見えた。しのぶが頷いて容器を渡すといそいそと非常階段に腰を下ろし、うやうやしく手を合わせていただきますと口にする。しのぶは手すりにもたれながら観察することにした。
「最近は皆作ってくれるようになった」
「布教活動の賜物ですねえ」
「うん」
――うん!?
教師の反応にしては妙ではないかと驚いてしまったが、しのぶは顔に出すことなく笑みを浮かべて観察し続けた。蓋を開けるとまた目が輝いたように見え、これは本当に輝いているのだと理解した。
箸でつまんだ大根と鮭が口内に運び込まれた時、それはそれは幸せそうな笑みを浮かべて咀嚼した。
真正面から見ていたしのぶは固まった。石になっていたような気さえした。
まさしく至福の笑みとでもいうような、これ以上なく下がった目尻がなんとも幸せそうだ。そんな顔ができたのかと頭の隅で考えたものの、しのぶの脳みその大半は思考停止しかけていた。
家庭科室で一応味見をしてはいたが、レシピどおりに作ったのだから冨岡も毎回食べる至って普通の鮭大根だったはずだ。しかもしのぶは家でさほど料理をしないので、食材も綺麗に切れたとは言い難かった。少々恥ずかしかったが、味自体に問題はないから渡したのである。
しのぶが思考停止している間に食べ終わった冨岡は、まるで神仏でも拝むように手を合わせてごちそうさまをした。かろうじてお粗末さまと返したしのぶはようやく意識が戻ってきたようで、じわじわと頬に熱が集まるのを自覚した。
「……来週も作ってきてあげましょうか。料理の練習にもなりますし」
「頼む」
「頼むな!」
どこからともなく颯爽と現れて冨岡の頭をしばいたのは、校内で二番目に体躯の大きな美術教師だった。そういえば誰か来ると言っていたなと思い出し、邪魔が入ったことに少々つまらない気分になり、まあ目的は果たしたのだからいいかと手すりから身体を起こした。
「お前、生徒勧誘すんなっつっただろ!」
「勧誘してない。勝手に持ってきた」
「言い方なんかトゲありません?」
事実だけれども。まあこういうところがある口下手なのもしのぶは知っているので、普段の冨岡が戻ってきただけだ。むしろ宇髄の狼狽えようも結構珍しい。
「いやいや、ちょっと困るなあ胡蝶くん。委員会に入りてえなら俺ら通してくんねえと」
どこぞの外国人かとでも突っ込みたくなるほどのわざとらしく大袈裟に振る舞う宇髄に、しのぶは少しばかり眉を顰めた。何故わざわざ宇髄を通す必要があるのかしのぶにはさっぱりである。
「冨岡先生が名誉会長なんですから、名誉会長に言えば早いでしょうに」
「入りたいのか? 生徒を勧誘するのはまずいと言われたが」
「先生から勧誘なんてされた覚えありませんけど? 私は布教されたから作ってみて、布教した当人に味見してもらっただけですから」
勧誘できるなら普段の言葉ももっとましになりそうなものだ。
乱入者である宇髄へ笑みを向ければ、なんとも複雑そうな表情をして押し黙った。そもそもしのぶは入会したいなどと一言も口にしていないのだが、どうも宇髄の中では入会希望者となっているようだった。
鮭大根布教委員会といったか。入ることを目的としていたわけではないが、色々と面白そうだし先ほどの顔も見られるというのなら。
「ですが委員会に入らないと作ることすら許されないのなら、私も入会させていただきます」
「………! そうか!」
「おいおいおい!」
「あの! 俺たちも入会させてください!」
双方正反対の反応を見せたが、先ほどとは違う嬉々とした表情を見せた冨岡にしのぶはまたも動きを止めてしまった。心臓に悪いのよ普段仏頂面のくせに、と内心で文句を漏らそうとしたところでまた新たな声が聞こえてきた。
「えっ。俺たちって俺も?」
「げえ……お前らか」
思うままにリアクションを見せた宇髄は心底げんなりとしていたが、冨岡自身は驚いたのか目を丸くしていた。駆け寄ってくるのは後輩である炭治郎と伊之助、とぼとぼ近寄ってくるのは善逸である。炭治郎の手にある包みはもしや、また作ってきたのだろうか。
「すでに一度味を見てもらいましたし」
「なにやってんだ!」
「入らないと作っちゃいけないとは知らなかったので!」
「そんなルールはないが……」
宇髄が文句を向けたのは冨岡にだったが、彼は無視して炭治郎と話をし始めた。いつも余裕ばかりを見せている宇髄が頭を押さえて溜息を吐く様子は常にない。今日は宇髄も冨岡も普段とまったく違う姿が見えていた。
「あ、そうなんですか?」
「ああ。勧誘せずとも入ってくれるなら嬉しい」
今度は穏やかな笑みを見せた冨岡にまたもしのぶはびくりと驚き、真正面から食らった炭治郎は固まったまま顔を凝視した。隣の伊之助も不審そうに冨岡を凝視していたが、やがて無言のままほわほわし始めたようだった。仏頂面は本当にどこへ行ったのか不思議でならない。笑顔にもいろんな種類があることをしのぶは再確認した。
「天ぷらにしろよ、そしたら入ってやる」
「鮭大根への冒涜だそれは」
そしてじろじろ炭治郎の持っている包みを眺め始めた伊之助が言葉を発すると、今の今まで見せていた穏やかな笑みが嘘のように冷めきった目を向け、凍えそうなほどの声音で冨岡はぴしゃりと告げた。
「なんでだよ! 美味えもんは天ぷらにすりゃなお美味くなるだろうが!」
「冒涜する気はなくて天ぷらが好物なんです」
「美味いと美味いを掛け合わせるとめっちゃ美味くなるみたいなアホの発想すね」
この世で一番美味しいと思っているものが天ぷらで、すべての食材は天ぷらにしてやることが最高の手向けだと思っているらしい。まあ天ぷらは確かに美味しいが、食材は選ぶべきだとしのぶは思う。本人には言わないでおくが。
「………。……成程」
納得した冨岡は冷え冷えとした表情を緩めた。なにやら好物への絶対的な信頼について親近感を覚えたらしい。
「善逸くんは入るんですか?」
眩しそうに手のひらで光除けを作ったり怯えたり突っ込んだりとひとり忙しない善逸に問いかけてみた。
「いや俺別に鮭大根布教したいわけじゃないですし。しのぶ先輩とかカナエ先生の手料理とか、冨岡先生のお姉さんの鮭大根が食べられるなら喜んで入るけど……」
先日の非常階段越しにしか見られなかった冨岡の反応。冨岡の姉の鮭大根とは確かに気になるがレシピどおりにやれば同じ味になるのだろうから、味自体は変わりなさそうである。冨岡の好物であることと、冨岡の姉が作ったという付加価値が重要なのだろう。
「姉には定期的に作ってもらってる。お裾分けでいいなら」
「まじっすか!? 入ります!」
「もので釣るなそれでも教師か!」
「釣ってない! 生徒の希望をできる限り叶えるための最善を尽くした結果だ」
「鮭大根絡みの時だけ良いように言うな。おい生徒に餌付けされるな!」
話の合間に炭治郎が差し出したのはやっぱり見覚えのある煮物で、今回も頑張ったのだと照れつつ冨岡へ渡している。好物はいくら食べても飽きないのだろう冨岡は、嬉しそうに容器を受け取ってその場にいる皆を手招きして呼んだ。一緒に食べたいらしい。はあ。
「あ〜、一気に増やしやがってお前。煉獄が嘆くな〜これ」
大きな溜息を吐き出しながらぼやいた宇髄は冨岡の持っている容器から炭治郎の鮭大根をつまみ食いし、やがてしのぶの姉であるカナエが非常階段へ顔を出した。普段は煉獄と、たまに悲鳴嶼も一緒にいるらしいが、どうも打ち合わせが長引いているらしい。
何故煉獄が嘆くのかしのぶにはわからなかったが、一先ず持っていた自分用の鮭大根を食べるために冨岡より一段上の階段へ腰を下ろして巾着を膝に置いた。
今は煉獄より冨岡。体育教師の観察のほうが面白そうだし楽しみなので、嘆かれようと脱会する気は更々ないのだった。