長男と幼馴染観察記録・当事者視点

「お前家庭教師いらなかったんじゃないか」
 一度教えたことは今のところ次も忘れていないし、応用も利く。一体何故実力テストでまさかの赤点を取ってしまったのか不思議でならない。
「きみが教えるの上手いんだぞ。先生よりわかりやすい」
「そうか……? 杏寿郎よりちょっと良いくらいの成績なのに」
「恐らくそれが良いんだ、初心者用みたいな……。たまになんでこれがわからないんだって顔される時がある」
 杏寿郎にもそんな顔をされることがあるという事実に驚く。
 こんな蛍光灯のように皆を照らし導く少年を見る目が呆れたものになる人間がいるとは。義勇からすれば考えられない話だ。
「なんでアルバイトしないほうがいいんだ?」
 そういえばこの間言われた言葉にむっとしたことを思い出し、義勇はふと問いかけてみた。ノートを片付けた杏寿郎が顔を上げ、さも当然のような顔をして口を開く。
「知らない人たちの中で仕事するんだぞ。心配だ」
「話くらいちゃんとできる」
 ちょくちょく酷い言葉選びをするとは言われるものの、挨拶もするし返事もする。人当たりが良いとはいえないことも自覚しているが、杏寿郎のおかげで少しは明るくなれたと思っているのだ。
「そっちじゃない。俺の知らない人たちの中で、だ」
「………」
 意味を理解してにやついた顔を晒した義勇へ、杏寿郎はじとりと視線を向けた。杏寿郎が何を言いたいのかを考えた時、緩んだ表情筋が口角を持ち上げたまま戻らなかったのだ。畳に置かれた杏寿郎の手の甲をつついていたら、ぎゅっと掴まれて指を絡めて動きを止められた。
「早く高校生になってくれ。一緒にアルバイトしよう」
「俺の知らない人はいなくなるかもしれないが、お客さんはきっと知らない人だぞ」
「そんなの学校だって同じだろう……杏寿郎と同じことがしたい」
 呆れつつも希望を口にすると、杏寿郎は顔を片手のひらで覆い隠して深く長い溜息を吐き出した。俯いたおかげで杏寿郎の旋毛が視界に晒されている。今のところは義勇のほうが少し背が高いが、それでも並ぶと大した差はなくて旋毛など滅多に見られないものだ。
「ご褒美が欲しい」
「受かったら? 合格祝いも渡すぞ」
 なにせ義勇の祝いにも貰ったのだし、返す意味合いも篭めて良いものを贈りたいとは思っている。
 杏寿郎なら何が良いだろう。高校で使えそうなものは槇寿郎たちが揃えそうだし、嗜好品みたいなものがあるならそれを渡したい。欲しいものがあるのかと問えば、杏寿郎の蛍光灯のような頭は縦に揺れた。
「……ちゅーしたい」
「………!」
 二人しかいない室内なのに、手招きされて顔を寄せると杏寿郎は耳元でそう呟いた。なんだちゅーって、さっきの独占欲並に可愛いな。義勇が合格した時と同じくらい真っ赤になっている。
 合格したからと、義勇が杏寿郎に告げた言葉に照れて真っ赤になった時と。
「……卒園式の後にしなかったか?」
「それは試しでだ。コイビトになってからしてない」
 コイビトなんて言葉が擽ったいが、義勇としても杏寿郎と接触を増やすのは吝かではない。なんなら合格祝いなんてだいぶ先ではないかと不満すらある。
 しかし杏寿郎が頑張らねば高校受験を失敗してしまうかもしれないので、一緒に我慢するしかなかった。こんな可愛い杏寿郎を前にして我慢など辛過ぎるが、それも受験のためである。杏寿郎は瑠火が義勇に全幅の信頼をおいていると言うし、もし落ちたら煉獄家の皆ががっかりしてしまうし、色んな意味でプレッシャーだ。義勇が杏寿郎の集中を削いでしまったなんてことになったらと思うと、終わるまでは過度な接触など絶対にできない。
 仲の良い幼馴染だと思っていたら実はコイビトになっていましたなど、家族からしたら寝耳に水以外の何ものでもないし、勉強しているか不安を抱かれるかもしれない。そもそも手を出すのも杏寿郎という聖域に触れていいのか心配になるくらいなのだ。まあ、杏寿郎がしたいと言うのだからこれ幸いと乗っかるのだが。告白して諦めなかったのは義勇なので。
 しかし、それもすべて受験に合格してからだ。それまでは卒園するからもう大人だとか言いながら、後学のためにとこっそりちゅーを試してきた杏寿郎が可愛かったことを思い出して誤魔化すことにした。
「きみ今失礼なこと考えてるな」
「可愛いと思ってるだけだ」
「それだ! また歳下扱いするだろう!」
 別に歳下扱いというわけではない。ただ可愛いなと思ったからそう教えただけなのに、杏寿郎はそれがお気に召さないようだった。思われたくないならば義勇が可愛いと思うような行動を取らなければいいだけだが、恐らく何をしていても義勇は杏寿郎を可愛いと思うはずである。抵抗は一切の無駄だ。
「だからきみの背を追い抜くまで言わないつもりだったんだ。けど義勇はモテるし……告白された時は本当に驚いた」
「お前ほどモテない」
 危機意識を持ったのは煉獄家で出待ちをする女子を見かけたからである。そんなことが一般人に起こるのかと青天の霹靂だったし、それが杏寿郎相手であることに衝撃を受けた。きっとモテる杏寿郎はああやって慕う女子を無下にはしないだろうし、いつか絆されて彼女を作る。格好良いから取っ替え引っ替えするかもしれない。なんか嫌だ。杏寿郎が剣道以外にのめり込むものがあると考えると非常にもやもやした。なんで、どうして、義勇は三日悶々と悩み続けてようやく天啓を得たように自分の気持ちに気づき、そしてまた三日悶々と悩み続けた。判断は素早くと決めているにも関わらずである。
 そして覚悟を決めた義勇は受験に合格したら告白しようと思い立ち、いざ告白して恐怖に膝を震わせた。いつまで経っても何も言わない杏寿郎へちらりと伏せていた視線を向けると、真っ赤になって固まっている彼がそこにいたのである。
 ただでさえ好意のあった相手だ。そんな杏寿郎の予想外の反応に義勇の心臓は鷲掴みにされ、握り潰されるかと思ったくらいだった。しかも彼は義勇に、俺も好きだと照れながら宣ったのである。これで可愛いと思うなは無理というものだ。
「きみよりバレンタインのチョコ多かった試しないぞ。待ち伏せしてる女子を見たことがある。一般人にそんなことが起こると思うか!? まあおかげで自分の気持ちに気づいたが」
 そんなことあっただろうか。いまいち記憶にないのできっと杏寿郎が勘違いしているだけだとは思うが、杏寿郎も義勇と似たような思考を巡らせてやきもき悶々としていたらしいことは察せられた。嬉しい。
「そのうち義勇より大きくなる。覚悟しておくといい」
「せいぜい頑張れ」
 不満そうに唇がへの字を象っている。義勇より大きい杏寿郎なんて嫌だなあと思いつつ、杏寿郎の父は義勇より大きいのでまだまだ伸びるのだろうとも思う。義勇との体格差ができてしまったら、ちょっと立ち直れないかもしれないが。
 まあでも杏寿郎なので、たぶん、きっと、馬鹿でかくなったとしても義勇は受け入れてしまうのだろう。可愛くて眩しくて男らしく、誰より優しい杏寿郎が義勇は好きなので。格好良い外見も好きではあるけれど、やっぱり性格が一番好きだ。
 この三年後、追い抜いたと嬉しげに笑う杏寿郎に誤差の範囲だと不機嫌に返した義勇は、それでも記録にされてしまった数値を見てがっかりと肩を落とすことになるのであった。