まやかしの許婚・約束
隊士たちは続々と目を覚まし、あとは重傷だった竈門、不死川、そして冨岡だけがまだ眠っている。その間狭霧山の師が甲斐甲斐しく様子を見てまわり、よく冨岡の寝台の傍らに座っている煉獄とも話をするようになった。かつての水柱であるという鱗滝は、冨岡とはまた違う静けさを持っていた。
「よお、起きたか?」
「いや。時々苦しそうにする」
今日は宇髄。隣に眠る不死川の顔を覗き込み、丸椅子を出して背中合わせに座った。
「俺と同じで片腕吹っ飛んでるからなあ。不死川も内臓やられちまって、お前とお揃いだぜ。片目は俺と煉獄がな。他にも使い物にならねえところがあるかもしんねえな」
「ふむ。指が飛んでる不死川は冨岡と宇髄と揃いだろうか」
皆どこかしら治ることのない傷を負い、それでも生き残ったから息をしている。更に冨岡と不死川は痣を出したと聞く。それは二十五からの寿命を削り取られた状態なのだという。
煉獄の腹は抉られて内臓も深く傷つけており、目覚めたこと自体が奇跡であると言われたのを思い出す。そのため長くは生きられないだろうとは自覚していたが。
「起きたら煉獄の顔は元気が出るかもなあ」
「だと良いがなあ」
点滴を繋がれた冨岡の手に触れ、ぎゅうと握り込む。
青が見えないことがこれほどに苦しい。確かに、気もそぞろで何も手につかなかった。いつになったら起きるのか、煉獄は不安で仕方なかった。
手の甲を親指で擦っていると、苦しげに顰められていた眉間の皺がほんの少し薄くなったように見えた。
擦れば楽になるのなら、己の手などいくらでも使ってやれる。両手で包むように握るとやがて眉間は少しずつ緩み、苦しげな様子が消えていった。
「………! 冨岡、」
「え? 起きたのか!?」
「俺がわかるか?」
ふいに睫毛が揺れた後、待ち望んでいたはずの青がゆるりと現れた。ふとしたらまた瞑ってしまいそうなほど重く見える瞼を、冨岡は確かに持ち上げて煉獄へと視線を向けた。
「不死川もいるぞ、今はまだ寝てるが。竈門少年も寝てるが生きてる。竈門禰豆子も、」
「………、」
きみが守りたかった二人は、きちんと息をしている。そう伝える前に、冨岡はふいに目元を緩めて煉獄へ笑みを向けた。そうしてまた目を瞑ると規則正しい小さな呼吸音が聞こえてくる。ようやく、彼の意識が戻ってきた。
「……俺以外に、そんな意味深なことをしないだろうな」
軽々しく笑みを向けては、周りが浮き足立ってしまうだろうに。
早く起きてほしい。冨岡と話がしたい。最後の戦いから随分経って、話を全くできていない。
煉獄が屠りきれなかった猗窩座を、冨岡と竈門が倒したと聞いた。煉獄の失態を尻拭いされた気分で何とも不甲斐なく悔しかった。一心同体であるが故に、これも冨岡の責務だったかと納得もしたが。
「……ありがとう」
掴んだ手を頬に当て、熱がきちんとあることを実感する。煉獄のそばに戻ってきてくれたのだ。
「………。手繋げば起きる?」
「かもしれん。ものは試しだ!」
顔を上げた煉獄は冨岡の手を離さずに、宇髄が掴んだ上から不死川の手に触れる。誰かの熱がこちらへ戻るきっかけになればいい。皆起きるのを待っているのだ。
「………、熱ィ……」
「うお! 起きたあ!」
「不死川!」
本当にきっかけになった手のひらがまるで術でもかかっていたのかと思うくらいだ。叫ばずとも煉獄の地声は大きいらしく、宇髄が騒ぐ声と共に響いたようでバタバタと誰かの足音が聞こえた。慌ただしく叩かれた扉が開かれる。
「冨岡も不死川も起きたぞ。冨岡はまた寝てしまったがな」
「アオイさーん! お二人目を覚ましましたあ!」
騒ぎに騒いで眠れない可能性もあるが、皆心配していたのだから仕方ない。煉獄も早く話がしたいのだ。
再び目を覚ました頃には冨岡もしっかり受け答えができるようになっており、やがて竈門も目を覚ましたと蝶屋敷がお祭り騒ぎになった。号泣する隊士や隠、不死川と冨岡に深く礼を告げる者たちが後を絶たず、落ち着いただろう数日後にようやく病室に入ることにした。連日の客で疲れたのか不死川は眠っているようだ。暴風のような男が静かに寝息を立てている。
いつもの丸椅子に座り、寝台に身体を預けて投げ出された左手を握った。
「俺のリハビリついでにきみの世話をするのはどうだろう」
要らんと言いつつ手は離されない。握り返されたのは久しぶりだ。ここに命が留まっているという実感が湧いてくる。煉獄のそばで冨岡が生きていることがこの上なく嬉しかった。
「話したいことが沢山ある。きみとの話は尽きない」
「……俺もある」
柔く綻んだ表情に、煉獄の心臓はまたも大きく脈打った。これも久しぶりだ。昔の笑顔よりも柔らかで大人びて、見ているのが少し恥ずかしくなった。
「……お前が、助けてくれたんだと聞いた。蝶屋敷に運ばれた時、俺の心臓が止まったらしいな」
「ああ、俺も心臓が止まるかと思った」
そんなことは助けたうちに入らないが、それでも心底焦ったのは事実であり、戻ってきた心音に大層安堵したものだ。気を抜けばきっと、涙が落ちてしまっていただろう。
腹は大丈夫だったかと気遣わしげな声が耳に届き、煉獄は笑みを向けた。内臓など、冨岡が命を留めて生きていることに比べれば何でもなかった。
「動かすのはいつもお前だ」
「……ん? どういう意味だ?」
また言葉足らずが起きたのか、いつもならすぐに理解できるというのに、煉獄は珍しく冨岡の意図を図りかねた。いつもというほど心肺蘇生などした覚えはないが、何の話をしているのだろう。
「見合いの残り数十分。俺はあの日、絶対に喋ってはならなかった。断られるために、台無しにしなければならなかったんだ」
結局失敗した冨岡の一世一代の嘘の舞台だったはずの見合いだ。あの頃の冨岡の姿は今でも鮮明に思い出せる。
「でも、お前がずっと何くれと話しかけて、笑ってくれるから」
「………、きみ、あの時点で好いてくれてたのか?」
心臓を、見合いの時点で揺り動かされていたというのか。先走って口にした煉獄をじとりと睨みつけてくるが、目元が薄っすらと赤くなっている。照れたのだろうと理解した。
鏡写しであるが故に、そんなところまで同じだったのだろうか。煉獄もまた照れてしまった。
「失礼します……あ、煉獄さんもいらしたんですね! お二人ともご気分良さそうで良かったです、顔色も良いし」
扉を開けて顔を出したのは竈門禰豆子だ。先程まで互いに照れていたせいで顔色が赤かったが、冨岡は起きたばかりの怪我人だからかむしろ喜ばれてしまった。眠っている不死川を目にすると、禰豆子は静かに扉を閉める。
「冨岡さんにこれを渡しに来ました。村田さんが大事なものだと思うって教えてくださって」
村田とは誰だろう。冨岡の病室を行き来していた隊士の誰かだろうか。気にはなるが禰豆子の差し出したものを見て冨岡は固まった。
冨岡の大事なものを推測するような間柄の人物。それは見当違いでは決してなく、しかと彼の大切なものを理解している人物だ。運ばれてきた時はぼろぼろになって、肩に引っかかっているだけのようにも見えていた片身替りの羽織が、かつての状態で冨岡の前に現れた。
固まった冨岡の手がゆっくりと羽織を撫で、雫が染みを作る。
「………、もう……戻ってこないと思ってた」
ほろりほろりと溢れ落ちていく雫に紛れて、冨岡は羽織を抱き締めてありがとうと呟いた。ぽかんとしていた禰豆子がふと我に返り、ぶんぶんと勢い良くかぶりを振って慌て出した。
「いえ! 私たちのほうがお礼をしてもし足りません。……冨岡さん、兄と私を助けてくれてありがとうございました。あなたがいなければ、私は人を喰い殺して頸を斬られてたでしょう。今ここにいるのは冨岡さんのおかげです」
聞いているのかいないのか、冨岡は羽織に顔を埋めたまま動かなかった。時折鼻を啜る音が聞こえるので、感動して泣いていることだけは伝わってくる。煉獄には見せなかった姿だった。
「煉獄さんも」
「……ん?」
「私たちと共に戦って、認めてくれたのだと聞きました。ありがとうございます。煉獄さんが認めてくれたから私はこうしていられます」
「……人を守り戦ったのはきみで、俺はそれを見届けただけだ。……感謝なら、冨岡にすべてぶつけるといい」
始まりは冨岡だったのだから、それは彼が享受すべき感謝だ。びくりと肩を揺らした冨岡はようやく顔を上げ、涙に濡れた目をそのままに口を開いた。
「……俺は、これが戻ってきただけでもう、全部返された。そもそも向けられる恩なんかない」
「いえ、本当に命の恩人ですから! ……では、お邪魔しました!」
「……ありがとう」
「へへへ。失礼します」
嬉しそうに部屋を出ていった禰豆子を見送り、冨岡はまた羽織を抱き締めてほろりと涙を溢した。親指で拭うように目元へと触れると、冨岡は嫌がることなく目を瞑る。そういうのはやめたほうがいいと思いつつ。
「きみが泣くところは初めて見た。今度は彼女か。……きみは竈門兄妹に心底絆されてるなあ」
「お前も泣いていい」
「うーん。まあ、鏡写しならそうなるかもしれんが。……今はきみの涙を拭うのに忙しい」
「………。一心同体だからか?」
泣いているのに口元が綻んで、随分綺麗に笑みをかたどった。片側が泣いているなら片側がそれを拭うのが一心同体という意味か。確かに、煉獄は冨岡の所業を見極めるために竈門兄妹と任務にあたったし、煉獄の最悪の失態に冨岡は竈門炭治郎とともに始末をつけてくれた。
そんなふうに冨岡から言ったのは初めてで、煉獄は先程からずっと落ち着かない。頬を染めてしまうのも久しぶりだというのに、今日は染まり続けてしまうようだ。
「……退院したら、うちに住まないか。きみが良いなら父にも話をする」
「居候は気を遣う……家族がいるのに……」
「何言ってる。居候じゃなくて――嫁入りだ」
ぽかんと呆けた冨岡の顔色がぶわりと赤みを増していく。まるで赤い花でも咲いたようで、目の当たりにした煉獄はあまりの鮮やかさに目を奪われてしまった。
「……俺は女じゃないと前も言った」
「確かに。なら婿入りだな」
「………、」
久しぶりに黙り込んだ冨岡はまたも羽織を抱き締め、身体を丸めて掛け布団の中に潜り込んでしまった。
「俺も内臓を傷つけ過ぎたから、そう長くはないが……きみの最期の時間を共に過ごしたいから、俺の残りの時間を貰ってくれないか」
もぞりと山が身動ぎする。捲ろうとすると布団の端をぎゅうと押さえ込まれてしまったが。
「駄目か?」
「……お前は狡い……」
「ははは。嫌だと言わなければ承諾ととってしまうぞ」
「………」
押さえていた布団を離し、中から伸びてきた手が煉獄の手の甲へと触れる。
煉獄には充分過ぎるほど雄弁な返事である。控えめに握り締めてくる左手が、これ以上なく諾と告げていた。
了