まやかしの許婚・よすが

 彼は己を卑下するのが得意だ。それをするに至った出来事はいくらもあったことを煉獄は聞いている。彼自ら話してくれたことだった。姉の死と、親族からの目。己と同じように、彼もまた否定されてきたのだ。
 更には兄弟弟子のこと、最終選別のこと。悲しみをいなすことができなかったのだろうこともよく伝わってきていた。あの兄妹については、彼自ら引き起こしたことであるが。
 煉獄がもしこのまま死んだら、彼の精神はまた地に落ちて、今度は浮上できるだろうか。誰が彼を掬い上げてくれるのだろう。朝陽に晒されたのは自分の身体のはずなのに、熱も痛みももう感じなくなっていた。
 だが。
 地に落ちたまま煉獄を想い続けてくれるのならそれもいい。そう考えてしまうくらいには。
 ――俺でありたい。俺だけが良い。彼の心に寄り添えるのは。
 鏡写しであるが故に、わからなくていいことまでわかってしまうこともある。本当はわからないほうが彼を救えるのかもしれない。何も知らないまま腕を引くほうが、彼も考え込まずに済むのかもしれないが。
 己は一体どうしたのだったか。上弦の参と戦って腹を抉られたことを思い出し、今際の際に母が迎えに来てくれたことも思い出した。
 死を悟ってからもやはり未練はあった。
 父のこと、弟のこと。
 そして許婚のこと。そんなのは正式なものではないが、それでも煉獄が望んだ関係だった。
 どれだけ経ったのか、時間の感覚など既にわからなくなっていた。今まで何も感じなかったはずが、右手に何やら温かみを感じ始めた。熱でも出ているのかもしれない。そう考えてふと死んだのではなかったかと煉獄は不思議に思った。何故か身体がやけに重いが、瞼を上げようと力を込めると暗闇だった視界に光が差し込んで、眩しい中に誰かの姿が見えた。
 青。青だ。薄く持ち上げた瞼の先に、誰かが静かに煉獄を見ていた。光が反射して目の中に驚きが混じる。
 掬い上げてやりたかったのに、煉獄の意識が釣り上げられたような気分だった。青が煉獄を捉えた途端に泣きそうに揺れるのが見えた。感情の機微がわかるのは煉獄だからだ。ずっと見ていた水面が波打っていた。
「……起きたな」
「………、……きみの、ことを……考えていた」
 掠れきった声とも言えない声が自分のものだったらしい。
 水面に浮かんだ感情はすぐに潜り込んで、傍目にはわからなくなった。しかし、そばにいてくれたらしい。微かに反応させた煉獄の手が力を込めて握られたのを感じ、そのおかげで考えていたのかもしれないと思い至った。
 どうやら煉獄は、死ななかったようだ。握られた手がするりと離れていき、立ち上がった冨岡は扉を開けた。
「神崎。起きた」
「えっ!? わ、わかりました!」
 失礼しますと慌ただしく入室してきた少女、蝶屋敷付の隊士を視界に入れ、ここがようやく蝶屋敷であることに思い至った。そうだ、怪我をすれば大抵ここで世話になる。特に血鬼術にやられた時など、駆け出しの頃は常連だった。しかし見たことのない部屋だ。煉獄は死にかけだったと自覚しているが、もしや特別室のようなものだろうか。
「ご気分は如何ですか? すぐしのぶ様を呼びますので、」
「俺はこれで失礼する」
「えっ、あ、み、水柱様!? ……ええ……」
 神崎が開け放した扉をすり抜けて、冨岡はさっさと病室を後にした。逃げるようにも見えた行動に神崎が口元を引き攣らせているが、彼女にはわからなかったのだろう。
 随分心配をかけてしまったようだ。彼は治療の邪魔にならないようにと去っただけだが、もう少し言葉を足さねば誰にも伝わることがない。煉獄にだけわかるというのも悪くはないのだが、冨岡が誤解され続けるのはあまり良いとは思えない。本人は気にしているものの口下手は治らず、困ったものである。相変わらずの様子に安堵しつつ、再び煉獄の意識は眠りについた。

「なんと。俺が寝こけてる間に状況は一変してたのか」
「上弦三体を崩せたのがでけえ。皆勤はあいつらだ――竈門炭治郎と竈門禰豆子。お前も認めたあの兄妹だよ」
 煉獄が寝ている間に上弦の陸が討伐され、代わりに宇髄の片目と片腕は失くなっていて柱を引退したという。その後にも上弦の肆、伍を打ち倒し、皆無事に戻ってきたのだとか。猗窩座を取り逃がした煉獄が最後に起きるとは不甲斐ない。
 上弦の鬼との戦いに必ず居たのが竈門兄妹で、鬼の妹は太陽を克服したなどという驚くべき事実まで聞かされた。今は蝶屋敷の敷地内で、娘たちと共に陽の下で遊ぶ姿が見られるらしい。
 そして鬼が出没しなくなっている今、隊士たちの能力向上のために柱稽古を開催しているというのだ。
「冨岡もお前が起きる直前でようやくやる気になったみたいだしな。ま、竈門が説得したらしいが」
「説得?」
「おう。やる気のねえ水柱に数日付き纏って陥落させたとか何とか。よくやるよ」
「―――、」
 冨岡にやる気がないわけではなかっただろう。
 また何か考え込んで落ちてしまっていただろう精神を、あの竈門炭治郎が掬い上げたようだ。煉獄が眠っている間に、あの真っ直ぐな目を向けて。冨岡にとって竈門が間違いなく特別なのだと叩きつけられるようだった。いや、わかっていたことだが。
「そうか……」
「……まあ、お前もずっと気にかけてたようだが、竈門もいるし大丈夫そうだぜ? 今は治療のことだけ考えな」
 宇髄は冨岡が煉獄の許婚の弟であるという認識のままだったことを思い出し、煉獄は小さく笑みを向けた。
 関係を知らぬままに煉獄の気持ちを察したらしい伊黒には、目を覚ませとまで言われたこともあるが、それはともかく。
 二度目に目を覚ました時、弟の千寿郎が泣きながら部屋へと入ってきた後ろで、躊躇うように立ち竦んで泣きそうに顔を歪める父を見た。煉獄と目を合わせた父は何年ぶりかに優しい言葉を呟いて、生きていて良かったと震えながら目元を覆った。すまなかったと謝って、竈門炭治郎が家に来て頭突きをお見舞いされたと言ったのだ。
 冨岡が手引きし、煉獄が認めた竈門兄妹。兄の竈門炭治郎は煉獄の家族を掬い上げてくれたようだ。その上で更に冨岡自身も掬い上げるのだから、大したものだと思わざるを得ない。感謝こそすれ、もやもやしたものが渦巻いていては駄目だ。だというのに。
 きみは彼に絆されたのだなあ、と、考えてから。
 最初から絆されていたのだったな、と煉獄は思い直して苦い笑みを溢した。

*

 煉獄の記憶にあるよりも少し逞しくなった竈門炭治郎は、深く深く頭を下げて礼を告げた。
 煉獄もまた家族内の確執に巻き込んだことを謝り、それから改めて礼を口にした。恐縮する竈門に椅子を勧めて早々に話題を切り替えた煉獄に倣い、現在は冨岡のところで稽古を受けているのだと嬉しそうに話し始めた。
 兄弟子の剣技が凄いのだと鼻息荒く興奮を伝えようとしてくるが、甘露寺並の擬音の多さであまり伝わってこない。とにかく凄いのだという熱量だけは伝わってくるが。
 柱合会議に向かった冨岡は後から行くと言質を取ったと竈門は言い、その様子に押し切られたのだろうと容易に想像がついた。
「きみが冨岡を柱稽古に参加するよう説得したそうだな。後学のために方法を知りたいんだが」
「いえ、大したことはしてません。ただ、理由を教えてもらえるまでそばを離れなかっただけです」
 精神が落ちきった冨岡の心に届かせるのは至難だっただろう。たった数日でやり遂げる彼の手管が単純に気になってもいたので聞いたのだが。
 その真っ直ぐな目で、真っ直ぐに向かっていったらしい。なんとも愚直で、それが冨岡の心を打ったようだ。煉獄が眠っている間、一人暗闇にいた彼のそばを離れなかった。煉獄だけが入り込めていたはずの場所に竈門が陣取ったのだ。
「そうかそうか。……少し悔しいな。……なんだ?」
「あ、あー、いえその」
 煉獄の顔を驚いたように眺め、そわそわと視線を泳がせた竈門はほんのりと頬を染めた。よもや冨岡と何かありでもしたかと不穏さを感じたが、竈門の言葉は少し予想と外れていた。
「義勇さんにその、煉獄さんの……槇寿郎さんに頭突きをしてしまった時のことをですね」
「……ん? ああ、それは父も気にしてないと聞いたが」
「はい、俺も聞きました。で、それを義勇さんに話したんです」
 拠点のない竈門は今も押し掛けた水柱邸に居候しているらしく、取り留めのない話題のついでに煉獄家での出来事を話したという。言いたいことはあるが、一先ず煉獄は話の先を促した。
 ――槇寿郎殿は、誰の言葉にも耳を貸さなかった。煉獄も……お前のその真っ直ぐな言動に動かされたからお前を認めた。お前の人を動かす力には誰も勝てない。
「そう言った時の義勇さんの匂いが、色々混じってたんですけど、ほんの少しだけ悔しそうで……。……ええと、すみません! 煉獄さんの匂いでわかってしまいました。……同じなんだなと」
 恥ずかしそうに指摘した竈門の様子に何に気づかれたかを察して煉獄は口元を覆ったが、熱くなっていく顔色は隠しきれなかった。わあ、と照れたように感嘆の声を上げた竈門がまたすみませんと謝ってくる。そうか、感情まで嗅ぎ取ってしまうわけか。悔しさ以外に何が漏れ出していたのか、そこまで恐縮されるともう気づいてしまい、こちらもいたたまれなくなったが。
「……誰も知らないんだ」
「あ、そ、そうなんですか。黙ってます!」
「助かる」
 この鼻があるから冨岡を誤解することなく理解して、この愚直さだからこそ彼を掬い上げることができたのだと理解した。
 勝てるわけがない。そもそも勝負にもならない相手だ。冨岡には絆される以外の選択肢もなかっただろう。煉獄もまた、それを理解して納得してしまった。
 現金なものだ。竈門の鼻を通じて知った冨岡の様子に、煉獄は得もいわれぬ嬉しさを感じてしまってもいた。

「ああ、そうそう。これを持っていってくれるか」
 煉獄が眠っている間、千寿郎の独断で一度竈門に預けたという刀の鍔だ。そのまま持たせるつもりで渡したのに、結局返しにきたからと煉獄の元に返ってきた。勝手をしたことを謝っていたが、悔しいがもう煉獄には使えないものだ。
「これは貰えないです。こんな大事なもの、俺には勿体ないです」
「刀鍛冶の里では少年を守ったと聞いたぞ。なかなか縁起物だ」
 差し出した鍔を押し戻そうとする竈門に尚も押しつけるが、彼は非常に頑固であった。
「受け取れません、だって、――義勇さん!」
 扉を叩く音と同時に開かれ、顔を出したのは来ると約束したという冨岡だった。煉獄と竈門の間で押しつけ合っている鍔に目を向け、ふいと逸らして扉を閉めた。
「俺のでは不服か」
「そうではなく! 俺より義勇さんに、」
「……何を聞いたか知らんが、煉獄の鍔ならお前を守ってくれる」
 先程察されてしまったことまで気にしていたらしい。冨岡にも竈門が何かを知っていることがばれてしまったが、彼はもう慣れてでもいるのか、大して驚いてはいなかった。
「でもそんな、煉獄さんのお守りは義勇さんのほうがもっと必要として、」
「俺が、お前より守られなければならないか」
「え! いえまさかそんな全然!」
「なら構わないな。一緒に連れていってくれ」
「………、……あの、じゃあ……お借りします。ありがとうございます」
 恐らく最後になるだろう戦場に。
 竈門禰豆子の太陽克服、鬼の出ない夜。今までにない状況が、終わりが近づいているだろうことを煉獄にも伝えている。そこに煉獄が行けないことくらいはもう嫌というほど理解しているが、彼らに戦いを任せてしまうことになるのだから、せめて心はその場にありたかった。
 意を汲んでくれたらしい竈門は複雑な顔をして、やがて懐に鍔を仕舞い込んだ。
「じゃあ、俺先に戻ります」
「炭治郎。先生が来てる」
「! はい! 失礼します!」
 騒がしく去っていった竈門を見送り、煉獄の預かり知らぬ会話を手短に済ませた二人に少し眉根を寄せた。
 内容にではなく、名前を呼んだことに少々気分がざわついたのである。竈門が呼ぶ名前を耳にした時より気になってしまった。
「俺が寝てる間のことは大まかに聞いたが、きみは変わりなかったか?」
「……別に」
 居候させて名を呼び合う仲になっているというのに、冨岡は以前と変わりないと思っているらしい。
「悔しかったか?」
「………?」
「俺が竈門少年に絆されたと思ったか」
「………! な、」
 笑みを向けると冨岡の顔が歪む。意趣返しは成功したようで、不機嫌そうに眉根を寄せて煉獄から顔を背けた。
 そんなことをしても耳が赤いのが丸見えになるだけだが、気づいているのかいないのか。
「彼には俺と同じ匂いがしてたと言われたぞ、誤魔化しは利かん。俺は竈門少年に心を許したのが悔しかったんだが、まさかきみもそんなことを考えてたとは」
 羞恥に逃げるかと思ったが、丸椅子に座った冨岡は背けた顔を今度は項垂れさせ、観念したのか頭を抱えて大きな溜息を吐いた。
 他にどんな匂いが漏れていたのか、言わせてみたい気持ちもあったが。
「………。あいつはお前のことを盲目的に慕ってる」
「それはきみにだろう。さっきも興奮しながらきみの話をしてたぞ」
「それに、あいつは……お前に似てる」
「ん?」
 それに、と綴られたのが何だか不思議だったが、冨岡には煉獄と竈門が似ているように感じていたようだ。まあ、強引さや溌剌さは確かに自覚している部分では似通うところもあるかもしれない。
「……俺は……お前がいないと、………」
「待て待て。黙らないでそのまま喋ってくれ」
 聞き捨てならないことを口にしたのだから、責任を持って最後まで言葉に出してほしい。久しぶりに心臓が跳ねて落ち着かなくなってしまった。まだ療養中の身だというのに、このままでは全く休まらないだろう。頼んだとおり冨岡の口が再び開く。
「……起きないから、ずっと、気もそぞろで……世話をかけるのは良くないと、今更気がついた未熟者だ。炭治郎にも迷惑をかけた。俺は……最期まで繋がなければならない」
「………」
 口下手なこの冨岡の話を、余すことなく理解できる者はごく僅かだろうが。
 つまり。
 煉獄が眠っていた間、冨岡はずっと煉獄を心配していた。気もそぞろというなら、煉獄がいないせいで冨岡の精神は地に落ちていたのだろう。なんとも嬉しい限りであるが、しかし世話をかけるのは良くないとは何だ。煉獄が冨岡の世話を迷惑だと思うことなどありはしない。
「……お前は、ずっと、俺を掬い上げてくれていた。今更だが、俺も――柱として、胸を張ってお前の隣に立ちたい」
 冨岡の言葉にしばし固まった後、煉獄の頬は真っ赤に染まった。
 何か、凄いことを言われた。口下手なりに頑張って紡いだ言葉はまだ足りないような気もするが、どれほど己が彼に想われていたか、煉獄には充分過ぎるほど伝わってしまった。いや、彼が煉獄を好いていることは既に知っていたが、そもそも口数の少ない男だ。話し続けることがまず珍しい。そして自信に繋がる言葉を紡いだのは、今が初めてだったように思う。
 これを引き出したのは、彼の弟弟子ではあるが。
「……俺を心配してくれたか」
「しないと思うのか」
「いや、思わんが……それで鬼殺に支障が出るようなきみではないだろう」
「買い被りだ」
 柱として、などという言葉が出たというのに、結局冨岡は卑屈な言葉を口にした。謙遜ではなく本当にそう思っているのだろうが、柱としてと口にしたならもう少し自信をつけてほしいものだ。
「お前はどう見えてるのかまでは知らんが。俺は、お前を、……拠り所にするくらいには……、………。……お前は可哀想だ」
 “俺に好かれて”。省かれた言葉を予想したが、間違っていないと確信する。
 冨岡は悉く言葉が足りない男だが、それを予想して補完するのも楽しいものだった。
「きみこそ俺がどう見えてるのか。俺はきみを、本当なら許婚だと皆に言い触らしたいくらいには好いてるんだ。俺が寝ていたせいで沈んだきみの精神を、竈門少年が掬い上げたことも面白くない。……きみのここは、俺だけが掬えるものであってほしかった」
 椅子に座る冨岡の胸へと手を押し当てる。
 ここに入り込んだものが、煉獄以外にもいたことくらいはわかっている。だがこれより先は、煉獄が最後であってほしかったのだ。
「……まあ、きみが絆された相手だから仕方ないんだろう。納得はしてないがな」
「………、お前だって絆されただろ」
「うーん。たぶん同じものを好きだからだろうな」
 彼は冨岡を好いているようだし、冨岡によれば煉獄のことも好いてくれているらしい。個人的には己だけであってほしいと思うものの、煉獄が好きなものを尊敬する竈門の気持ちは痛いほどわかる。そしてきっと、冨岡もそうなのだ。つまるところ、やはり絆されたということなのかもしれない。

*

 生きて帰ってこい、とは言えなかった。
 当然だ。最高位の剣士という待遇は破格ではあったが、だからこそ柱の命は隊士たちよりも下にある。民間人を守る隊士を守るために柱がいるともいえるだろう。
 とはいえ、隊士もまた命を懸けて戦う者たちだ。柱にしか対抗できない鬼がいたら、命をなげうってでも柱を守ろうとするだろう。己だけでは太刀打ちできないから、せめて戦える者を守ろうとする。柱であった煉獄は隊士を守ったが、下級隊士であったとしたならば、煉獄はそうするだろう。鬼に殺されなくとも、そうやって己の身を顧みず死んでいく者もいる。
 寝台の上にしかいられない己の身が口惜しい。
 何故この身体はいうことを利かず、ただ寝台を一つ埋めているだけの状態になっているのか。起きるのが遅かった。せめてもっと早く目を覚ましていれば、こんな身体でも何かできることを探すことができたかもしれないのに。
 夜明けが近い。
 鬼舞辻無惨の滅殺は、今日を逃せばきっともう二度と来ない好機だ。どんな状況で戦っていて、夜明けまで戦える者がどれほど残っているのかを煉獄は知る由もない。ただ祈るしかない。蝶屋敷へと現れた千寿郎は、父は護衛の任務に出たと言い、寝台のそばで必死に手を合わせている。
 母や弟にずっと与えられてきた不安がこれほど重く苦しいとは思わなかった。
 上弦の参と戦い、こうして命があることは奇跡に近かった。それ以上の鬼、そして鬼舞辻無惨と直接対峙している今夜、生き残る者がいるのかすら読めないのだ。

「炭治郎、蝶屋敷着いたからな! おい我妻泣くな、体力使うだろうが、寝てろ!」
「ふぐうぅ」
 怪我人が運び込まれてくる。あてがわれた病室から抜け出し、廊下の奥で千寿郎とともに手伝いを願い出る機会を窺いながら隊士たちを確認した。
「風のおっさんと半々羽織も重傷だろうが!」
「………!」
 竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助は目視して、柱の二人らしき呼び名が呼ばれたことに煉獄は動揺した。
 そうか。冨岡は竈門少年を連れて戻ってきてくれたのか。幾人も人は死んでいるのに、良かったと考えてしまう。
 流石だ。早く彼を称えたい。勿論全員が称えられるべき者たちだが、煉獄は他でもない冨岡に伝えたくてたまらなかった。いてもたってもいられず、煉獄は病院着のまま怪我人のそばに近寄った。慌てて背後から千寿郎も駆け寄る。
「手伝えることはあるか?」
「れ、煉獄さん!」
「………、うう……と、冨岡さんの音が止まってる……」
「うえっ……、と、冨岡!」
 黄色い頭が泣きながら呻いて状況を伝えた。顔色を変えた隠と一人の隊士が慌てて冨岡の乗る担架へと近づく前に、煉獄は冨岡の応急処置をされた胸に手を置いて力を込める。
 せっかくここまで戻ってきたのだ。もう少しくらいは息をしてほしい。包帯の上から心臓を圧迫する。力を込めると内臓が軋んで悲鳴を上げてしまっているが、己の身体に構う余裕はない。まるで死者のように冨岡の顔色はずっと白いままだった。
 早く休ませてやりたい。早く青が見たい。いかないでほしい。早く、早く、そばに戻ってきてくれ。煉獄が眠っている間、彼も待っていたのだ。待たされる者がどれほど不安だったかを今日、嫌というほど思い知った。彼は繋ぐと言ったのだから、煉獄も繋ぎ止めなければならないのだ。周りが声をかけ、煉獄が何度も心臓を揺さぶる。あ、と小さな声が我妻から漏れ、音が聞こえると口にした。小さな鼓動が戻ってきた。途端に周りから安堵の溜息が聞こえてくる。煉獄もまた詰めていた息を吐き出し、胸から手を離して血で汚れた冨岡の頬を擦った。青は相変わらず見えないが。
「他に危険な者は?」
「………、……あ、す、すみません、こっちです! 隊士が」
 呼ばれるままに煉獄は近寄り、千寿郎は蝶屋敷の娘たちへ指示を仰ぎに行ったようだ。今ある命を繋ぎ止められなければ、鬼殺隊の戦いは終わらない。
「竈門禰豆子です! あの! 私も手伝わせてください!」
 バタバタと隠とともに来たらしい少女が玄関から叫んだ。煉獄の記憶は竹を噛んでいた頃の印象が強いが、言葉の覚束ない時期にも少しまみえたことがある。彼女が流暢に言葉を話すところを初めて見た。
「力仕事でも何でもやります、させてください!」
 潤みきった目から雫が溢れないように、眉根を寄せて我慢しているようだった。
 鬼だったはずの娘だ。そうか、彼女は鬼から人に戻れたのか。竈門炭治郎は、大願を成し遂げたのか。
「……わかりました! 時間が惜しいので一度で覚えてくださいね!」
「はい!」
 神崎の指示を聞きながら竈門禰豆子は袖を捲り上げる。手に包帯が巻かれているから、彼女も戦場で戦ったのだろう。人に戻った状態で。鬼でなければ普通の娘だ。痛かっただろうに、それをおくびにも出さずに眉を釣り上げている。兄に似て頑固そうな娘だった。煉獄は目を細めて竈門禰豆子の姿を眺めた。

 重傷患者は一先ず運び込まれ、残りは比較的軽傷の者たちばかりだという。かなりの人数があったが、他の医院にも運び込まれているらしく、これでもまだ全員ではないということだった。
「……柱は、お二人以外は……」
「……そうか」
 隊士も相当数が屠られたようだ。隠の者たちも参戦しての総力戦となった戦いは、鬼舞辻無惨を倒した後、竈門炭治郎が鬼化するという悪夢を見せたという。殆どの隊士が動けなくなっていた中、冨岡と竈門の同期たちが抑えつけ、人化の薬を打ち込んで事なきを得た。
 竈門を殺すことに成功していたら、きっと冨岡の心は死んでしまっていただろう。腹を切っていたかもしれない。人のまま、息をして運ばれてきてくれたことに心底安堵した。
 ――きみが戻ってきて良かった。
 命を落とした者たちに申し訳ないとは理解しているが、どうしようもなく煉獄は思ってしまったのだ。