まやかしの許婚・恋ごころ

 両親の話は煉獄も当初から聞いていた。
 資産家だったという冨岡の両親は、彼が物心つく前に流行り病で揃ってこの世を去った。姉弟二人は遺産で生活していたらしく、彼の叔父は苦労しないようにと家柄を気にしていたのかもしれない。
 冨岡蔦子。冨岡義勇のただ一人の姉。冨岡のそばで付き添いとして佇んでいた姿を思い出しても、優しい人だったのだろうと想像できた。
 もう少し話をしたい。彼はあれからずっと煉獄を避けているようだが、稽古ならばしてくれるだろうか。そのついでにどうにか彼の話を聞きたいのだ。身の上話、好物の話、何でもいい。冨岡が何を思って何を好きなのかを知りたかった。
「稽古をしよう! 俺は炎柱だし、きみは水柱だろう。手合わせでもいいぞ! それに炎と水の歴史は長い。俺たちは一心同体鏡写しだ。稽古はしておいて損はない」
「俺は水柱じゃない。稽古はしない。帰れ、迷惑だ。……もう、来るな」
 ぴしりと鼻先で玄関が閉められた。
 新しい情報が追加された。彼は冨岡義勇、水柱だと紹介されたはずだが。柱合会議にも出席していたのだから柱ではないはずがない。どういう意味かと考えながら、また拒絶されたことに慣れてきていることに気がついた。
 父の言葉もそうだったのだ。何度も向けられれば拒絶も否定も慣れてくる。
「俺はきみが水柱で良かったと思うぞ!」
 まだそこに気配があったから言葉をかけてみたが、応えることなく玄関は閉まったままだ。
 拒絶をそのまま受け取るなら、彼は他者に興味もない冷淡な水柱で間違いないだろう。
 だが、あの頃の記憶が、そうではないと言っているのだ。彼の言葉にはきっと裏がある。彼は今も、姉を思いやるあの頃のままだ。興味のあることには目を輝かせて、本来は穏やかで、可愛げのある。願望だけではない何かを煉獄は感じていた。
「……帰れと言ったはずだが」
「俺は了承してないぞ。きみは自分のしたいことをしてて構わない。俺の話を聞いててくれれば。両親の話だ」
 塀を乗り越えて庭に侵入し、煉獄は縁側に腰掛けた。気配で気づいていたのだろう、鬱陶しそうに顔を歪めて冨岡は溜息を吐く。
 彼が頑なであるならば、煉獄は先に曝け出す必要があるのではないかと思い至った。普段なら人に伝えようとも思わない胸の内。心の柔らかい部分。彼のその柔らかい部分を見たいと考えた時、互いに見せ合わなければ対等とはいえないと考えたのだ。鏡写しなのだから同じだけ曝すものがなければ。彼にとって柔らかい部分がどれほどの大きさのものかはわからないが、ここまで真冬の水のように冷ややかであらなければならないことといえば、自ずと限定されてもくる気がした。
「うちの母は、きみと見合いをした頃はすでに身体を悪くしていてな。ずっと臥せっていた」
 父は鬼殺の合間に優秀な医者を探して必死だった。煉獄自身も死んでほしくなどなかったが、母は死期を悟っていた。だが死にたくないと願っていても、息子にそれを悟らせなかった強い人だ。
「きみにも会いたがってたんだ。子供の時分に見合いをしたのは母を安心させるためでもあった。……まあ、それは叶わなかったが。見合いの後半年程で亡くなってしまった。他にも要因はあったが、その後の父はきみの知るとおりでな。柱として、隊士として……あるまじき姿だったと俺も把握している」
「あの人は柱だ。酒片手に鬼殺が務まる奴がどれほどいる」
「……うん。凄い人なんだ。卑屈な思考から抜け出せないだけで、本当は」
 話から想像した限り、父は冨岡にはまともに受け答えをしていたようだし、彼の中での炎柱だった父は素直に尊敬を集める立派な柱だったのだろう。
 そうだ。片手間であろうと父は強いのだ。どれほど何かに打ちのめされていようと、冨岡ですら素直に称えるほどの人だ。己とは違う。父が煉獄を否定するのは、不甲斐なさも見透かしているのかもしれない。
「……俺とは違う。お前は……時間を無駄にするな」
「―――、」
 胸の内の柔らかい部分を曝け出し始めた煉獄の意図を汲んでくれたのか、冨岡は言葉を増やして真の意味を汲み取れるよう煉獄へと聞かせた。
 時間を無駄にするなとは、煉獄の時間を有意義なものにしろという意味か。何か意図があるだろう、あってほしいとは思っていたが。
「……父は無駄にしたと思うか?」
「………。お前に、……負の言葉を投げつけた時間は無駄だ」
 何を聞いたか、冨岡は教えてはくれなかった。だが煉獄が父の言葉を聞き続けていたことは察したのだろう。
 冷えた言葉が言葉どおりの意味ではないことを期待していたが、予想以上の意味が含まれているようだった。
「きみの話を聞かせてほしい」
「……つまらない」
 彼の話が、だろうか。煉獄自身の話も面白くはなかっただろうに、身の上話など基本はそういうものである。鬼殺隊には冨岡のように、身内を鬼に殺されて足を踏み入れる者が圧倒的に多いのだ。
「知りたいから聞く。つまるつまらないの問題じゃない。きみを知りたい、俺のことを知ってほしいから話すんだ」
 柱になるまで何をしていたか。何を感じて何を思っているのか。それを知りたいから、煉獄も胸の内を曝した。こんなことは冨岡以外にしたことがない。
 長い沈黙が落ちる。煉獄は騒がしくせっかちといわれる側の人間ではあったが、目を伏せた彼が葛藤していることが伝わってきていたから、口を開くのを静かに待っていた。
「……兄弟弟子がいた」
「………!」
 今に至るまでの間に何があったか事細かに知りたい気持ちはあったが、煉獄はそれに見合う話をできていないだろう。彼が話したいと思うことを聞こうと、煉獄はただ黙って耳を傾けた。
「最終選別で、皆を守って死んだ。務まるわけもないが……俺はそいつの代わりにここにいる」
 言葉足らずに含まれた自己を卑下する意味合いと、煉獄を拒絶しながら時間を無駄にするなと告げた台詞。感情の消えた表情。姉の死と兄弟弟子の死。自己嫌悪。片身替りの羽織。
 彼もまた、己を認められないのだ。それに気づいた瞬間、彼の言動がすとんと腑に落ちた。未だ言葉足らずであったはずなのに、何を言いたいのかを恐らく煉獄は正しく理解した。そして共感したのだ。
「俺に構っても無駄だ。柱は柱と、隊士と過ごせ」
 何を言えば彼の心を上向かせることができるのか、煉獄はすぐに思いつかなかった。上を向かずとも煉獄に向いてくれればいいが、それすらどうすべきなのかを悩んだ。だって父は柱になっても煉獄を見てはくれなかった。地に落ちきった心を掬い上げられたことなどないのである。
 だが。
「任務までまだ時間はあるな?」
 縁側に乗り上げて冨岡の肩を掴んだ煉獄は、凪いだ目の奥で困惑しているのを見つけ、にこりと笑みを見せた。よく見れば感情が潜んでいることに気づき、成程と一人納得した。
「しばらく付き合ってもらおう! きみが認められなくても俺が教える。きみが水柱たる所以をな」
 かける言葉が見つからなくても、煉獄が彼に言いたいことはいくらもある。響く言葉であるかどうかを考慮しなければ、煉獄には山程あるのである。それは父に対しても。
「………、……いや、俺は」
「大丈夫だ、休憩くらいは入れるぞ! だが逃げることは許さない。覚悟してもらおう! きみは褒め言葉を素直に受け止めようとしないみたいだからな」
 凪いだはずの目の奥でほんのり恐怖のようなものも見えた気がしたが、それを無視して冨岡の両肩を掴み向き直った。

「もういい。やめろ、本当に」
「何? まだ半分も話してないぞ」
 時計を見ると一時間ほど経っていた。
 最初こそ誰の話をしているのかと興味が薄かったものだから、常に名前を呼んで誰の話をしているのか逐一わかるようにしてやった。おかげで段々と顔色が変わってきた。青くなって、眉根を寄せて、やがて顔を伏せた時、晒された耳が赤かった。それがまた何とも可愛げがあった。 
 しかし、まだ足りない。時間が足りない。過ごした時間は少なくとも言いたいことがある。
 煉獄は彼を、彼が誰より彼を蔑ろにしているのが気に食わなかった。それをどうにかしたかった。父には届かなくとも、誰の言葉が響かなくとも、己の言葉だけはあの時のように素直に喜んでほしかった。他ならぬ彼に己の言葉を肯定してほしかった。それは恐らく。
「きみが理解するまで続けるぞ」
「わかった、からやめろ」
「ふむ。明らかに口先だけだが承知した! 休憩しよう!」
「………っ、帰れ!」
 結局今度こそ追い出された煉獄だったが、己の言葉で顔色を変えた冨岡を見られたことで、今まで以上に気分は良くなっていた。

*

 兄弟弟子の話をして以降の冨岡は、煉獄を無下にすることはなくなった。それなりに込み入った話もするようになり、好きなものの話もするようになり、煉獄は誰にも開いたことのない心を明かすようになったし、恐らく彼も心を開いてくれるようになったのだろうと思ってもいた。時折何かを言いたそうに口をまごつかせることがあったが、言いたくなれば言ってくれるだろうと話す時期を彼に任せきりにしていた。煉獄が胸の内を曝せば話してくれるだろうとも信じていたので。
 口を開いては噤むを繰り返した理由はきっと、願望でなければ産屋敷に命じられたからだけではない。
 冨岡のことだ。迷惑をかける、言いたいけれど言えない、言葉を聞くのが怖ろしい。彼の性格上考えそうなことはいくつもある。
 鬼狩りの判断として、煉獄が口にしたことは間違っていないと思っている。だがその後に見たものは鬼狩りにとって異質なものだった。
 柱合裁判で見たあの少年の目はひどく真っ直ぐだった。
 絆されたかと考えると同時、ずきりと胸に走るものがある。痛みとも判別できないような鈍いものだ。だというのにひどく気を持っていかれる。
 冨岡のことは、恐らく柱の中で煉獄が一番よく知っている。柱として彼らと並ぶことを相変わらず冨岡は納得していないし、毛嫌いしている不死川や伊黒への対応も相変わらずのものだ。隊内で煉獄より先に知り合っていた胡蝶とは彼にしては珍しく仲が良いらしいが、それでも恐らくは。裁判の間訳知り顔だったことには、少し気を取られもしたけれど。
 いつもなら不死川や伊黒とのやり取りを宥める側だった煉獄が敵に見えたかもしれないが、こればかりはどうにもならない。それは彼も同様だ。柱である自分たちが私情を挟むわけにはいかなかったから不死川に同意した。
 だがせめて、煉獄にだけは彼の口から聞きたかったと、そう考えてしまうのは。
「……うむ。考え込むのはやはり性に合わん。頼もう!」
 ずきりとまた鈍く反応する胸を無視して、煉獄は勝手知ったる水柱邸の玄関を開け放った。誰の出迎えがなくとも上がり框へ足を掛け、ずかずかと廊下を歩いていく。
 気配はある。いることはわかっている。部屋の襖を勢い良く開けると、やはり彼は静かに座っていた。
「ここにいたか」
「いない」
「返事が来るなら重畳だ。さて、きみの目にあの二人はどう映ったんだ?」
「会議のとおりだ」
「きみの口から聞きたい。頼む」
 以前なら無視を決め込まれただろう状況でも、煉獄には口を開くようになった。煉獄が頼めば冨岡は意外と聞き入れてもくれる。今回の件がそれに当て嵌まるかは言ってみなければわからないが、眉間に寄った皺が葛藤を伝えてくるようだった。
「……はっきりと兄を庇ったから斬らなかった。あとはすべて師に任せた。狭霧山ではずっと眠っていたと聞く。知ってることはそれだけだ」
 兄は鬼となった妹を守るために、敵うはずもない冨岡に一泡吹かせようと機転を利かせて斧を振り投げてきたらしい。恐れ知らずなのか何なのか、とにかく兄のその行動も冨岡の琴線に触れたようだ。
 膝に置かれた手は白くなるほど握られている。
 煉獄が冨岡からの拒絶に硬直してしまったように、彼も怖いのだとわかってしまった。その手の甲に煉獄が触れると、一瞬眉を顰めてぴくりと反応した。
「鬼はすべからく斬るものとして俺は幼少から言い聞かせられてきた。子供だろうと鬼であるなら斬らねばならない。それが鬼狩りとしての責務だ」
「……当然だ」
 彼もわかっている。煉獄より長く隊士として剣を取り、憎しみすら感じている鬼相手に慈悲など冨岡は持っていなかった。水の呼吸の型には慈悲深い技があるが、一度も使ったことがないとも言っていた。命乞いすらする隙もなく冨岡は鬼を斬るからだ。
「だが、あの鬼の娘は不死川を襲わなかった。きみが感じた何かを俺は目の当たりにした。お館様の仰ったとおり、証明し続けなければ皆が納得しないのなら」
 眉根を寄せて目を伏せる。波紋すら見えない水柱の心情を見せるのは煉獄にだけだ。
「きみの第六感を信じた上で、俺が二人を見極めるつもりだ」
 炎と水は一心同体だ。彼の所業を見極めるのは己の責務でもあろう。欲を言えば、一番に相談してほしかったところだが。
「……俺が信じたのは……あいつらであって自分じゃない」
 その言葉に気を取られた時、更に小さな声が何かを発したようだった。あまりに小さくてつい煉獄が口元へ耳を近づけると、冨岡は観念したらしい。
「お前は俺に優し過ぎる」
「そうか? きみがあの二人に優し過ぎるのではないか? たった一度見ただけで腹まで懸けるとは……」
 触れていた手をそのまま掴み、力強く握り込んだ。既に充分近い距離を、煉獄は更に近づいて顔を覗き込んだ。驚いた冨岡の暗く凪いだ目の奥に自分の顔が映る。
「妬けるぞ。……うぐっ、」
 何せ許婚だから。ぽかんと呆けた冨岡へそう続けようと口を開いた瞬間、下から思いきり掌底を食らい顎を突き上げられた。嫌な音が首の骨から聞こえたが、それより気になるものが視界に映った気がする。冨岡の顔が赤かったような。
「顔が見えないんだが!?」
「見るな」
「無理な相談だな!」
 単純な力比べで冨岡とはなかなかの好勝負をするが、それでも今までの腕相撲もぎりぎりで勝ちをもぎ取ってきたわけである。顎に攻撃を仕掛けた手首を掴み、無理やり手を離させることも何とかできる。本当に力任せの無理やりだったが。
「もう隠し事はないな? ずっと聞きたかったことがある。……きみが俺の許婚であることは、まだ有効でいいだろうか」
 一度言及してから口にすることはなかった関係性。柄にもなく緊張して、心臓が跳ねて仕方なかった。顔を背けた冨岡の赤い耳が見えて、己の耳も同じように赤いのだろうと考えた。
「……俺は姉さんじゃないし女でもない」
「関係ないな」
「あるだろう。煉獄家の跡取りが遊びで無駄な時間を過ごすな。年端もいかない頃から見合いしておいて何だその体たらくは。判断が遅い、さっさと嫁を貰え」
「長く喋ったと思ったら酷い言い草だ!」
 まあしかし、言いたいこともわかる。冨岡自身が煉獄と見合いした張本人だ。早々に相手を決めておかねばならない理由が、鬼狩りという特殊な稼業であるからというのが大半であることもよく理解しているだろう。その上で子を成さなければならないということも。
「しかしだな、俺もわかったんだ。俺は獣に襲われたと聞いた許婚を忘れたことなどなかった。弟が行方知れずだというから、ずっと探してたんだぞ。俺以外に命を差し出したことも腹が立って仕方がない。その理由が何か、きみももう知ってるだろう」
 煉獄が言いたいことが何であるかも、冨岡は正しく察しているようだし。受け入れる気はないように思えるが、どう考えても彼は煉獄を特別視してくれている。自惚れでなければだが、この態度を見て自惚れるなは無理というものだ。
「冨岡蔦子と偽った見合い相手が、……きみが好きだからだ。俺の許婚はきみ一人しかいない」
「………。………、……俺などに、構うな。もう、」
 何か元に戻っている。元というのは鬼殺隊で再会した頃にだ。自己を卑下して嫌悪して、蹲ったまま地に落ちていた頃に。以前の一時間長所の羅列耐久では効力が切れてしまったようだ。その後も煉獄は普段の会話に褒め言葉を含ませていたというのに、煉獄の前でだけは、柔らかい表情で話をしてくれるようになっていたのに。
「構うならあの兄妹にしてくれ」
 すとんと理解できる言葉が紡がれ、煉獄は眉根を寄せた。
 あの兄妹。鬼の娘とその兄を鬼殺隊へ引き入れたことに対して思うことがあるようだと理解した。鬼に家族を殺された者が多い鬼殺隊に、鬼を引き入れた事実に対しての罪の意識のようなもの。産屋敷が直々に容認していたとしても、周りの意識を無理やり変えさせることなどできない。現に煉獄も、不死川から顔を背けた鬼の娘を目の当たりにするまで、頸を撥ねることしか考えていなかった。
 人を襲えば鬼の頸は即座に斬り落とし、その身内もまた腹を切る。そうやって彼らは罪の責任を取ろうとしている。
 しかし、罪がなければ頸を斬る必要も、腹を切る必要もない。彼が罪を被るのは鬼が人を襲った時だ。今はその時ではなく、洞察期間のはずだ。冨岡自身が信じたのだから、胸を張っていればいいものを。
「ふむ。まずはきみのその自己への嫌悪を一旦やめさせなければならんな! また一時間追加だ!」
「………!? 何の話だ、………っ、」
「まだ聞かせていないきみの良いところを今から話す。逃げても無駄だぞ、俺の声は響くからな!」
 一瞬できた隙をついて、煉獄は畳に冨岡の背中を押しつけてどかりと乗り上げた。完全に馬乗りになったおかげで抜け出すことも押し戻すことも難しいだろう。逃げられないと悟った冨岡は青いほうへ顔色が変わった。
「俺に気を許してくれているのかもしれないが、隙があり過ぎるぞ水柱」
「俺は、」
「きみ以上の水柱がいるものか」
 上半身を持ち上げられないよう、肩を畳へ押しつける。耳元まで近づいて言葉を口にすれば小さく冨岡が身動いだが、抜け出させるつもりはない。そのまま彼の良いところを羅列することにした。

 時折肩が跳ねるのが楽しくて、つい夢中になったまま耳元に近づいて話し続けていたようだ。気づけば一時間はゆうに越えていて、小さな声が下から漏れ聞こえてきた。
「……やめてくれ、本当に……」
 目元を腕で覆い隠し、消え入りそうな声で懇願する。耳は真っ赤に染まっていて、隠しきれていない頬も赤かった。腕を掴むと抵抗もなく持ち上げられてくれる。涼しげなはずの凪いだ目は淡く潤んで、見たこともない揺らぎを湛えていた。
 それを目の当たりにした煉獄は一瞬にして硬直し、更に今の体勢が押し倒して組み敷いているのだとようやく自覚して大変に狼狽えた。癖のある髪が畳に散らばって、恥ずかしそうに目を伏せて、まるで今から――。
「………っ! すまない、やり過ぎたようだ!」
 勢い良く上半身を引き離して冨岡から距離を取り、馬乗りになっていた体勢から急いで畳へ座り直した。一気に沸騰しかけた頭を押さえて平静を装おうとしても、冨岡の表情が瞼の裏に残ったままだ。珍しい表情を見られるのは嬉しいが、今ばかりはちょっと隠れていてほしい。落ち着けなくなる。
「……なんでお前が照れてる」
「放っといてくれ!」
「お前はやめろと言ってもやめなかった」
「いや、最後のやめろは聞こえたぞ!」
 起き上がった冨岡も顔が赤いままで、こんな時まで鏡写しのようだ。珍しい顔があまりに愛らしく見えて、自ら冨岡と距離を離したというのに、結局煉獄は彼へ手を伸ばして癖のある髪を撫でた。
「……きみの良いところを、まだ言い足りないほどには好いてるんだ。距離感を間違えて心臓が落ち着かない」
「……まだあるのか……?」
 絶望したような表情が泣きそうにくしゃりと歪み、冨岡は項垂れた。背中を引き寄せれば抗うことなく肩へと頭を預け、腕の中へと収まってくれた。
「お前は見る目がない」
「きみすら知らないきみの良いところを知ってるんなら、なかなか優越感もあるな」
「……お前は、心臓に悪い」
 どれほど破壊力があるかを自覚していない。男相手でこれなのだから、女などたまったものではないだろう。きっと目が合うだけで惚れてしまう。お前のような偉丈夫が、何故俺などを好きだと宣うのか理解不能だ。何なのだお前は。短所も長所として受け取る煉獄だから、俺などに妙なものを見出す。
 嬉しくないわけがない。だがお前は俺と違って必要とされる人間だ。跡継ぎを残さねばならない人間なのだ。
 小さな声が長く言葉を連ね、煉獄の羽織を巻き込んでぎゅうとしがみついてくる。煉獄はしばし呆けた後、込み上げる感情を抑えつけるために深呼吸をした。
「きみ、それは……俺を喜ばせるだけの言動でしかないぞ」
「………」
「喋り疲れたか? もう許婚でいることに異論はないな」
「耳が悪いのか。あると言った」
「跡継ぎ問題にな。きみの心にはないだろう。……はは、ありがとう。嬉しい!」
「………」
 黙りでも構わなかった。煉獄にとって冨岡の反応は随分わかりやすくなった。誰に誤解されても、煉獄だけがわかっていればいいものだ。
 冨岡が心配する跡継ぎのことも、本来なら考えなければならないことではある。だが父はもう、そんなことに気を割くつもりもないのだろう。せめて弟には煉獄が縁談を頼まねばならないが、今ばかりは、幸せを噛み締めておきたかった。
 黙りのまま冨岡の頬が煉獄に擦り寄せられる。煉獄が頭を撫でると冨岡は目を瞑り、肩口へと頭を乗せた。
「……あいつらを」
「きみなあ。今それは野暮というものだぞ」
 他者への優しさは美徳ではあるが、この状況で他の者の話をするとは。面白くないのは煉獄だ。鬼だからという理由以外で見る目が厳しくなってしまう。
「近く任務に連れていって見極めるとしよう。きみの宝であるなら、相応のものを見せてくれるような者たちであることを期待する」
「……うん」
 何か幼い反応だ。ぎゅうと心臓を握り込まれた気分になり、また珍しい反応に煉獄は心を掴まれたのだろう。むぐぐと悔しさすら感じてしまう。
 あの見合いの時点で掴まれていただろうことはもう理解しているが。やはり煉獄は冨岡そのものに惹かれたのだと一人納得した。