信仰者の家訓
「煉獄さーん。……あれ? えーと……」
他部署を覗いて声をかけたが、求めた人物からの返答はなかった。なんだいないのかと考えて、廊下へ出ようとしたところで視界に特徴的な色味が映る。もう一度振り返って部屋の奥を見ると、やはりその色味は目的の人物のもので間違いなかった。
なんだ、いるじゃないか。声が聞こえなかったか電話中だったか。彼は声が大きいので電話中ならばすぐわかるから、業務に没頭して聞こえていなかったのかもしれない。それとも彼も人間だし、居眠りでもしていたりして。
「あの、煉獄さん手離せない感じですか?」
入り口近くを通り過ぎようとした部署の男性に声をかける。立ち止まった彼はなんとも間延びした声を漏らし、首を押さえて奥へと目を向けた。
「あー……いや、席行けばわかる」
「? じゃ、お邪魔します」
疑問符を浮かべながらも、後藤は足を踏み入れてデスクへと近づいた。確かにパソコンに向かって作業をしているようだが、返事ができないほどバタバタしているようにも見えない。近くから覗き込んでもう一度呼びかけようとした。
「煉獄さ、……ん?」
近づいてもやはり丸無視されたが、それよりもデスクに目が行った。目立つように卓上ネームプレートがでんと置いてあったからだ。
冨岡と書いたネームプレート。社内に冨岡という社員がいただろうかと考えた。いたとして何故煉獄のデスクに置いてあるかもわからなかった。ともかくその疑問がするりと口から漏れてしまったのも、良かったのか悪かったのかわからなかったが。
「……冨岡?」
「なんでしょうか!」
至近距離で大声に襲われて思わず飛び上がって驚いた。しっかりこちらへ身体を向けて、圧の強い目が後藤を見ている。いつもどおりといえばそうなのだが、圧がいつもより強い気もした。
「あ、え、あ……ええと……これ、ハンコお願いします」
「承知しました!」
目当ての承認を求めて持ってきていた書類の束を差し出した。声も圧も強いけれど基本的に人当たりの良い彼なので、快諾して受け取ってはくれたのだが。
書類に目を通すのを眺めながら、何故突然返事をしたのだろうと後藤は考えた。煉獄と呼んだ時は見向きもしなかったのに、タイミングがずれただけだったりするのだろうか。
「――あ。そうだった、ご結婚されたんですよね。おめでとうございます」
ふと思い出した情報を頭の引き出しから見つけ出し、同じ会社で働く社員としてとりあえず祝いの言葉を伝えた。そうそう、そうだった。圧が強すぎて苦手だと言う者もいるが、親切でもあるので社内では人気がある彼だ。結婚したという報告はそれなりに噂がまわっていた。結婚相手はオメガだとも囁かれていたので。
もちろんそんなごく個人的なことを噂するのはゴシップ好きの下世話な連中くらいだが、やはり煉獄ともなると運命の番なんてものときちんと出会えていたりするのかもとひっそり感心したものだ。会えずに別の相手と番う人も少なくないのだし。
「そうなんです! ありがとうございます!」
「ええと……もしかして、それが結婚後の名字ですか?」
そこまでぼんやり考えてから思い至り、煉獄へ問いかけてみたのだった。結婚して名字を変えるのは普通のことだが、まさか彼の名字が変わるとは考えたことがなかったので。
「はい! 妻の名字です! 入れと言われまして婿に入りました!」
「な、なるほど……」
入れときたか。
実際にそんな言い方をしたのかはわからないが、煉獄相手に随分命令口調ではないか。もしや良いところの、それこそ家柄の良いオメガなのだろうか。だって煉獄家といえば。
「い、いやーでも、煉獄さんのご実家ってかなりの名家だったと聞いてますけど」
突如としてすとんと表情を失くした煉獄は書類に向き直り、こちらを見向きもしなくなった。
会話中なのに。普段そんなことをされたことのない相手だからか、こちらもだいぶ困惑してしまった。情緒不安定か? と悩みかけたところでまた思い当たり、言い直すように問いかけた。
「え、えーと、冨岡さんの」
「はい!」
――め、面倒くせえ……。
後藤は思った。
誓って本人に言う勇気はないが、この一連の状況はとても面倒くさかった。ただでさえあまり関わりのない他部署の社員、役職も上の相手だ。こんな面倒な部分があるなど聞いていない。話しかけるんじゃなかったと後悔すらした。
「うちは弟もいますし、妻が家を継いだものですから俺が婿に行こうと話し合いまして。家族は快く送り出してくれました!」
「へえー。理解あるご家族なんですねえ……」
「それはもう!」
身内を素直に褒めるのは良い家庭の証でもあるだろう。幸せそうでもある。面倒くさいのは今だけかと思えば、多少目を瞑るのがいいかと考えた。新婚なのだし、いろいろと話したそうにも見えるし、後藤とて面倒くさいと思いつつ興味はあった。煉獄の新婚生活というものに。
「式とかしました?」
「身内だけですが、一応」
「えー、意外だなあ。派手な式とかやってもよかったんじゃないですか?」
「俺は是非盛大にやりたかったんですが、妻が嫌がるので仕方なく!」
「へえ。譲ってあげられるならいいですねえ」
わがまま嫁なのかもしれない。いや派手な式を嫌がったのなら慎ましい相手なのか。どちらかといえば煉獄がわがままなのかもしれないが、それでも譲れるなら大した問題にはならなそうだ。
「とても真面目で慎み深い妻なんですが、頑固なところもあるので」
「へえ。大体煉獄さ……冨岡さんが折れるんすか」
「半々でしょうか! 家訓を作られた時は一週間粘りましたが」
結局折れることになったのだと照れたように話す。新婚ならではの初々しい様子は見ていて微笑ましいものであるが、はて家訓とは。煉獄家のように由緒ある家柄であればあってもおかしくないかもしれないが、今彼は作られたと言った。
「家訓?」
「ええ、冨岡家へ婿に入るなら守ってもらわねばならないからと」
「へえー」
「一に姉を敬うこと、二に姉の美しさをまず讃えること、三に月一度の訪問には盛大にもてなすこと、四以降は、」
「ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっと待って。待ってください」
「はい!」
はいじゃねえんだよ。
「……えーと。いや……ええ……? ……な、なんかあれっすね。えー……めちゃくちゃ尻に敷かれてます?」
脳内で必死にこねくりまわしできる限り角の立たない言いまわしをした後藤だったが、うまく伝わったかはいまいちわからなかった。
「そうかもしれません!」
嬉しそうすぎたからだ。
照れたように後ろ頭を掻きながら、本来なら羨ましさすら感じるほどの幸せそうな顔であった。しかしその幸せは妙な家訓の上に成り立っているものらしい。いや、うん。おかしいだろ。
「いやでもその家訓はちょっと……なんか……どうなんです?」
一週間粘ったと言っていたので、煉獄自身も納得できていないのではないかと思える内容である。まさか姉信仰のある嫁だとは夢にも思わなかったし、おそらく煉獄もそうだったのではないだろうか。一週間粘ったくらいだし。
「一週間かけて減らしてもらったんですが。まあ、これはこれで愛らしいと思います!」
「へ、へえ……もしかして名字呼ばせるのも何か理由が?」
「いえ、それは俺が呼ばれたいからですが!」
「あ、そっすか……」
そこは自分の意志なのか。まあ確かに、姉信仰の同僚ではない嫁なのだから会社で旦那がどう呼ばれようとかまわないのかもしれない。なんというか特殊すぎる夫婦である。
「どうぞ!」
「あ、ありがとうございます……」
差し出した書類にハンコが押されて戻ってきたものを受け取り、後藤は会釈をして部署をあとにした。
人の家庭にケチつけるのは野暮だけどさ、などと考えながら、すれ違う社員に挨拶をしつつ廊下を歩き続ける。
「……割れ鍋に綴じ蓋……? いや言いすぎか……?」
ふいに思い出した言葉を呟いてみた。
いやしかし、けれど、これは。ちょっと、なんか、すごく、凄いと感じてしまったので。
口に出さなきゃいいかと考え、後藤は思いきり変な夫婦だと心中で叫んだのだった。
*
あの衝撃の新婚ネタから数日が経った頃。
食堂でトレーを持ちながら空席に向かっていると、目立つ頭が窓際にあるのを見つけた。
煉獄の前にはこれまた目立つ社員である宇髄がいる。彼ら二人の所属部署は違うが、それなりに仲が良いことを後藤も知っていた。こちらに気づいた宇髄が慣れたように手を振ってきたので、相席を許してくれるようである。
「お疲れ様です、宇髄さん、煉獄さん。……冨岡さん」
望んだ名字を呼ばれるまで無視するのは継続中らしい。役員にもやっていたら相当強い精神の持ち主だが、どうなのだろうか。呼び直せばにっこりと挨拶を返してくれたが、相変わらず面倒くさいことを強要しているようである。宇髄もどこか呆れた目をしているように見える。
あの話を聞く限り嫁はアレな感じだったが、旦那も相当アレだよこれは。なんて何も知らない誰かが聞いたらさっぱり意味がわからないような言葉を心中で使っていたが、しかし事実なのだからどうしようもないと開き直るしかなかった。
「お、弁当ですか」
「ええ、妻が作ってくれまして!」
会釈をして二人の座るテーブルにトレーを置く。大食漢なのは知っているが、本当に重箱三段を見るとは思わなかった。あまりに嬉しそうな様子で愛妻重箱を開けようとするものだから、後藤もつい何が出てくるのか興味が湧いた。
「うおっ、さつまいも祭りだあ……」
「こいつの好物だよ」
一段目の重箱にはさつまいもを使った料理が所狭しと敷き詰められており、大量消費でもしないといけない状況なのかと思うほどだ。しかし好物と言うならば、嫁が旦那のためを思って作ってくれたのかと感心する。すべてさつまいもを使っているとはいえ、何種類もおかずがある上にデザートまで入っているのだ。アレな嫁だが愛されてはいるらしい。
そわそわと二段目を開けた時、宇髄は呆れたように笑った。煉獄はこれもまた嬉しそうに目を細めていたが。
「二段目はこれ全部……煮物っすか」
「妻の好物ですね! 好きになってほしいと言うんです」
「一応可愛いとこあるよな」
確かに、自分の好物を旦那の弁当に詰めてくる嫁はなかなか聞いたことがない気がする。好きなものを好きな旦那にも好きになってもらいたいという乙女心ということだろうか。アレな嫁でも可愛いところはある。確かに。
そうして期待を持って三段目を開けた瞬間、後藤はひゅっと息を呑んだ。
三段目は主食だった。敷き詰められた白米の上に海苔が乗せられていた。切って貼ってを繰り返しただろう海苔。文字を作っている海苔だった。
――『次はない』という文字の、だが。
「こわっ」
宇髄と声が揃ったらしい呟きだったが、表情すら固まってしまった煉獄にはそれどころではなかったようだ。
「……ええと……何したんですか?」
「………。……いただきます!」
「食うんかい!」
精神が強いのかなんなのか、早々に気を取り直した煉獄は重箱をつついてはぱくぱくと口へ運び始め、美味いと叫んでは喜んだ。確かに美味そうではあるが、白米のメッセージに箸をつけるのは精神が強すぎないだろうか。食べない選択肢は確かにないのだろうけれど。
「実は、我が家の家訓を一度破ってしまった!」
「家訓というと、奥さんの……」
「あれ、知ってんの? あの狂気を感じる姉信仰」
宇髄も感じているらしい。後藤の感覚がおかしいのかと少しばかり考えたことがあったが、ちょっと安心した。後藤はつい途中で遮ってしまったが、家訓は全部で三つあるらしい。あの狂気が三つ並んでいるのもなかなかだが、それが一週間粘って勝ち取った三つという情報をなかなか飲み込めなかった。元々十個くらいあったとかいうのも。
「義姉を讃えるより先に妻を讃えてしまい……」
「駄目なんすか……」
「謝ったんだが、まだ許されてないようだ!」
「お前が謝るとはねえ。前まで譲らなかったのにな」
「婿入りしたからには家訓も受け入れる度量のある男であるべきだからな!」
「粘ってたくせに」
粘ったからこそ受け入れようと思うのかもしれないが。
旦那に褒められて普通は嬉しいだろうと思うのに、どうにもこの嫁には普通が通用しないようだ。そんなところも可愛いのだと、煉獄自身もまた耳を疑うことを言っている。確かに好きな相手なのだし、あばたもえくぼということもあるのだろうが。姉信仰があばたかどうかは疑わしいと思うが。
「ヒートの時は喜んでくれるんだが!」
「その情報要らねえわ」
「はは……て、照れ屋なんですかね?」
「そうなんです! それはもう可愛くて!」
機嫌をとれば案外に絆されてくれるし、などと力説されてもすでに後藤の中の印象は覆りようがないのだが、生温い笑みを浮かべて相槌を打つに留めたのだった。