承諾条件
「俺の妻になってほしい」
手のひらサイズの箱を開けながら伝えられた言葉。
場所はいつものリビングではあれど、少しだけめかし込んだようにスーツを着て義勇の返事を待っている相手の頬は若干の赤みが灯っている。
緊張しているのか、可愛いなあと微笑ましさも相まって見惚れてしまったが、義勇は目の前の彼――恋人である杏寿郎へ一言だけ返事をした。
「無理だ」
「何故だ!? きみは俺のことが大好きだろう! うなじを噛ませた時点でプロポーズを断る理由はないも同然だ! それならそもそも噛ませるべきではないし、付き合うのも断るべきだからな!」
「断らせなかったのは誰だ」
「俺だ!」
「そうだろう。いや違う、そこじゃない」
勢いに負かされ頷いた義勇は続けざまに話を止めた。だったらなんだと首を傾げているが、目は断った義勇を全然許していないのが伝わってくる。とりあえず溜息を吐いた義勇は、大人しくなった杏寿郎へ一言告げた。
「俺は長男なんだ」
「俺もだ!」
「聞け。俺の姉はこの前結婚して家を出ていった」
「ああ。俺も映像を見たが美しい花嫁だったし、そのそばにいたきみはもっと美しかったな」
「目は大丈夫か」
最高の結婚式だったからとせっかく映像を見せたのに、何故よりによって主役ではない義勇を見ているのだ、この男は。腹が立ったので更に義勇は言い返した。
「蔦子姉さんがこの世で一番美しいに決まってるだろう!」
「俺の目にはきみ以上に美しい人は映らん!」
「視野を広げろ姉さんは誰より美しいし女神のような人だ」
「いいやきみが女神だ」
「正気を保て」
そもそも男である義勇を女神に例えるものではないし、姉以上の女神は存在しない。これをまったくといっていいほど理解しない杏寿郎にはほとほと呆れるが、脱線しかけた話題に義勇ははっと気がつき、額を押さえながらもかぶりを振った。
「だからそうじゃない」
「女神であることを認めるか」
「聞け」
「む!」
認めるわけないが、いつまでも話が終わらないのでそこは一旦置いておく。義勇自身の伝え下手も要因ではあろうが、とにかくせっかちな杏寿郎にはこちらの話を無理矢理にでも聞かせないと止まらないのだ。
「結婚して出ていったんだ。当然家は俺名義になる」
「確かに。ご両親が亡くなった頃のきみを思うと心が痛むし寂しいが、きみという宝を残してくれたことに感謝している」
「姉さんの美しさにも感謝しろ」
「きみによく似ているお姉さんのことは俺も大好きだ」
「俺より好きだとのたまうつもりか? 俺のほうが姉さんを好きだ」
「酷くないか? 俺は今きみにプロポーズしてるんだぞ」
「それでだ」
「酷いな」
文句がぽこぽこ飛んでくるが、とりあえず義勇はこの男に言いたいことを聞かせたいのである。そうでなければ話は進まないし、いつもどおり流されている場合ではない。
「俺は嫁を取るしかなくなった」
「……何故だ」
真剣さから一転軽い空気になっていた杏寿郎が、今度は剣呑さを帯びた目で義勇を凝視してくる。なんなら睨んでいるようにも思えたが、ここで怯んでいるわけにはいかなかった。
「俺が家長だからだ。冨岡家を存続させるには結婚して子を持つしかない。俺は確かにオメガだが、」
「うむ! きみとの子ならきっと美しい子に育つな!」
楽しみだ! と全然楽しそうに見えない様子でそう叫ぶ。この男が納得していないのは目にも明らかだが、義勇には両親の遺したものを繋いでいく使命がある。何も考えずにうんいいよとプロポーズを受ける前に言わなければならないことがあるのだ。それはそれとして義勇は想像した。
「お前の遺伝子が入ったら何色になるんだろうな、髪」
「………!」
「俺の要素はあるのか……本当に俺の子か?」
「当然だろう! 産むのはきみだぞ!」
「いや……お前なら産めるんじゃないのか?」
「―――、なにを世迷い言を」
嬉しそうに目が輝いたと思ったら、義勇の次の言葉で即座に表情が抜け落ちた。まあ確かに、荒唐無稽なことを言った自覚はある。そもそも男でありアルファであるこいつには誰かに子を仕込むことはできても、誰かの子を宿らせる身体機能はない。まあ、杏寿郎の頭は冷えたようだ。
「俺は家長だと言ったな。嫁いでもらわなければならない立場だ」
「む……」
「だが確かに俺はオメガであり、子を産む立場になる。仕込む相手がいなければ血の繋がった子は生まれない」
「そうだな……」
子種を貰って腹で子を育てる立場だ。長年男であるという自認が強く、発情期も抑制剤さえあればそう困ることもなかった。杏寿郎に会うまでオメガとしての辛さや幸せというものをさほど意識することはなかったが。
「しかし家は存続させたい。だから、――お前が冨岡になれ。そうすればずっと一緒にいられる」
「冨岡……!」
「お前も冨岡だ」
「いや、まだ煉獄なんだが」
再び目を輝かせた杏寿郎が勢いのままに義勇の手を握り、差し出していた指輪を箱から引き抜いて指に嵌めようとしてくる。行動が早い。嵌められる前に義勇はテーブルに置かれている紙を眼前に広げて突きつけた。
「書け。婚姻届はここにある」
「これは俺が貰ってきたやつじゃないか」
「助かる」
鞄に忍ばせていた紙を出さずとも、必要なものを事前にすべて用意してくれる杏寿郎は良きパートナーだ。なんとなく納得していないような顔をしているが、上着の内ポケットからペンを手渡され、無言で受け取るよう促された。
「せっかちめ。しかも断られるとは微塵も考えない」
「そっちが書けと言ったんだが。しかし俺はきみを優先したいから先に書いてくれ!」
そういえば先ほど断ったのはノーカンになるのだろうかと、ふと義勇は思い出した。思いきり無理だと言ってしまったのだが。
まあ気にしていないのならそれでいいと気を取り直し、義勇は婚姻届の夫欄に名前を書こうとしたのだが、手首を急に掴まれて杏寿郎に止められた。
「なんだ」
さっさと書けとでもいうようにペンを手渡したと思えばこうして引き止めてくるあたり、感情が安定していないように思える。プロポーズを断った余韻があとを引いている可能性があるのかもしれない。ということはやはり気にしているのか。
「きみが夫にならずとも、俺が冨岡に婿入りすればいいだろう」
「姉さんには嫁になってもらうと言ってある」
「判断が早いな! きみは妻として、冨岡家の婿となった俺を迎え入れてくれればいいと思うぞ!」
体質を考えれば義勇が妻側、杏寿郎が夫側ではある。杏寿郎の提案を飲んでも家は存続できるし、一緒にいられる。確かに断る要素はまったくない。義勇はすんなり頷きかけたが、気になったことを問いかけてみた。
「……お前……妻が不服なのか」
「俺はきみの夫になりたい。苗字が変わるのは想定してなかったが、それくらいできみが俺の妻になるのなら安いものだ。家族は逃がすなと言うからな!」
「何を……俺か? いやすでに番だし逃がすも何も……」
「それはそれ、これはこれだ。戸籍が変わる! 書類上も俺の伴侶だ」
今日一番の笑顔を向けた杏寿郎の言動を思い返してみる。
色気もへったくれもない普通のリビングで、けれどそわそわと義勇を椅子へ座らせて指輪を見せながらプロポーズをした。指輪と同時に婚姻届を持ってくるのは普通なのだろうかとぼんやり考えたが、義勇にとって彼のせっかちさは効率も良く話も早くてとても助かる部分だった。よく置いてけぼりにされることはあるが。
「……そうか」
つられて小さく笑みを浮かべた。
まあ、なんでもいいか。そういうところも全部好きだし。
断った時の表情に悲哀を混じらせてしまったことは申し訳ないと思っているので、言われたとおり妻の欄に名前を書き始めることにした。