悪夢

 珍しいこともあるものだ。
 どうやら相当飲んできたらしい煉獄は、玄関のドアを開けたと同時に廊下に倒れ込んだらしく、足音がぱったりと聞こえなくなって覗きに来てみれば、廊下に突っ伏して意識を手放していた。
 同僚と飲むと言ってはいたが、泥酔するほどとは思っていなかった。酒に弱いわけではなく、酔いはするものの飲めないわけではなかったはずだ。どれほど飲まされたのだろうと考えつつ、冨岡は倒れている煉獄を抱え起こして寝室へと移動した。
 寝室のドアを開けベッドへと粗雑に投げ飛ばす。赤らんだまま気持ちよさそうに眠る顔を眺めていると、水、と小さく呟いた。
 キッチンで汲んできてやろうと腰を浮かしたが、中腰の姿勢から立ち上がることができなかった。いつの間にか己の衣服の裾を掴んだまま煉獄が眠っていることに気づき、冨岡は煉獄の手を離そうと試行錯誤するが、手は一向に離れなかった。
 この手を外さなければ水を渡せない。呼びかけても手の甲を叩いても煉獄の目は開かなかった。溜息を吐いてベッドの端へと腰掛けた。
 言葉になっていない声を漏らしながら、煉獄の腕が腰へと巻き付いてきた。動くこともままならず、この体制で寝ろということだろうか、と冨岡は一抹の不安を覚えた。
「起きろ、煉獄」
 せっかく介抱してやろうと思っているのに、これでは何もできやしない。腰の後ろに視線をやり、奥に少しだけ見えている頭を小突いた。巻き付いた腕と反対の右手が、小突く冨岡の右手を止めようと掴む。
「おい、」
 聞こえていないのは重々承知しているが、それでも文句を言いたくなった。腰にしがみつきながら右手も掴まれ、冨岡が自由なのは左手だけになってしまった。泥酔する煉獄を見るのは初めてで物珍しさはあるものの、せめて水を持ってきてからにしてほしいものだと思う。
 飲んだ相手は宇髄だろうか。確かあの男は酒に滅法強かった。どんな酒豪を相手にしても、へべれけになるのは宇髄と飲んだ相手側だった。
「……冨岡」
 ふと背後から名を呼ばれ、冨岡は煉獄の顔を覗き込むように振り返った。拘束されているため少し体制がつらいが、ぼんやりとした目がこちらを見ていることが確認できる。ようやく意識が戻ったらしい。
「起きたか。水を持ってくるから離せ」
「……ここに居てくれ」
 この体制で? 口には出さずに問いかけた。聞こえていないのだから勿論答えが返ってくることはない。どうにか楽な体制を取るために動こうとするのだが、腰の腕も掴まれた手も離れることはなかった。
「……暑い」
 溜息をもう一度吐いて冨岡は呟いた。普段から己よりも体温の高い煉獄がまとわりついているせいで、段々冨岡の体温も上がっている気がした。
「暑いなら脱げばいいだろう」
 もぞもぞと動き出す煉獄の腕を引き離すように力を込めるものの、煉獄自身も力を込めるせいでなかなか離れない。今力比べをするつもりはないのだが、脱がそうとしているくせに煉獄の腕はがっちりと腰から離れなかった。
「脱がすな」
「暑いんじゃないのか」
「暑いのはお前がしがみついてるからだ」
 俺のせいか、と少しだけ声色が淋しげに聞こえ、疑問を覚えて視線をベッドへと向けた。自由な左手で背後に横たわる煉獄の背を軽く叩く。
 起き上がった煉獄の腕が離れた。これでようやく水を取りに行けると息を吐いた時、煉獄の手が冨岡の胸を押した。油断していたせいで勢いよくベッドへ仰向けに倒され、上から覗き込んで笑みを見せる煉獄の顔が視界に広がった。
「リビングの電気を消しに行きたい」
「後で俺が消してこよう」
 お前は酔っているだろう。どうせまたすぐ眠るだろうに。先程脱がされかけた衣服の裾から手が滑り込んできた。勃つのかと聞けば、勿論だと頷いた。本当だろうか。酔っ払いの妄言は信用ならない。
「酔っていてもきみが相手なら勃つぞ」
「水はいらないのか」
 寝言のように呟いていたから、煉獄は水を欲したことを覚えていないようだった。そういえば喉が乾いているな。口にした言葉を聞いて冨岡は腕に力を込めて煉獄を押し返した。
「先に飲んでおけ、持ってくるから」
「嫌だ。行くな」
「……何なんだ、本当に」
 駄々をこねる子どものような聞き分けのなさだった。ベッドから降りかけた冨岡を引き止めようと腕を掴まれる。またも拘束し始めた煉獄の頭を眺めながら、冨岡はリビングの電気も水も諦めるべきかと溜息を吐いた。
「きみが死ぬ夢を見た」
「……物騒な夢だな」
 それだけで今の状況になるほど煉獄は取り乱したのか。甚だ疑問だが、煉獄にとっては重要な夢だったのだろう。己が死んだなどと聞くのは気分の良いものではないが、煉獄が触れた冨岡の死は当たり前だがただの夢だ。本人も言っているとおり、夢と現実の区別はついているようだが。
「俺は何もできずに立ち竦んでいただけだった」
「夢だろう。俺は生きてる」
「そう、夢だ。今しがた見ていた短いものだった。それでも不安になった」
 それは飲みすぎて普段よりも感情の振り幅が大きいからだろう。駄々をこねたことなど一度としてなさそうな男だが、己の柔らかくもない体にしがみつく程には、冨岡がいなくなるのを恐ろしく感じたようだった。自身に向けられる感情は普段から伝わってきているが、それほど想われていることを改めて感じると愛おしさは冨岡の心にも募る。
「そうか」
 ぼさぼさになっている煉獄の頭を更に酷くするように掻き回した。何をするんだ、と不機嫌そうに睨みつけてくる煉獄を見て、また珍しい顔をしている、と冨岡は思う。
「お前の言いたいことはわかった」
 歩けるか、と問いかけると素直に頷いた。ベッドから立つように促し、手を掴んで寝室を出て行く。電気がついたままになっているリビングのドアを開け、キッチンまで足を運びコップに水を汲んだ。差し出した水をまじまじと見つめてから、煉獄は冨岡の顔を見た。
「飲め」
 口に押し付けるとようやく自分の手で持ち傾ける。喉が動くのを見届けて、煉獄の手からコップを奪いシンクに置いた。再び冨岡は手を引っ張り電気を消してリビングを出た。
「何なんだ」
 疑問を口にしながら肩に顎を乗せ、腰にしがみついて歩く。今日は随分腰が好きだな、と冨岡は考えた。
 その疑問は本来冨岡が口にしていたものだ。聞きたいのはこちらだと文句を言いたくなるが、行動の意図を汲み取りきれないのは己の説明不足もあるのだと、以前同僚に怒られたことがあったことを思い出し、行動の理由を口にした。
「水を飲ませて電気を消しにきた。お前は離れるなと言うから連れてきた」
 それだけだ、と呟くと、後ろの肩が震え出したのがわかった。何かおかしいことを言ったか。酔っ払いの笑いの沸点など誰しも似たように低いものだろうが。
「諦める選択肢はなかったのか?」
「いけそうだったから」
 寝ていた時はさすがに動けなかったから、そのままの体制だったなら諦めてあの状態で眠っていただろう。煉獄は起きたのだし、酔っている割にははっきりと意思の疎通ができた。歩けることもわかったのだから、離れないのならば連れていけば良い。至極真っ当な思考ではないかと冨岡は思う。笑われる謂れはないはずだ。
 寝室へ連れて帰り、笑い続ける煉獄の腕を引き剥がしてベッドへと放り投げた。いつものように豪快に笑えば良いものを、堪えるように口元を覆って肩を震わせていた。
 溜息を吐いて横たわる煉獄の上に覆い被さった。深呼吸をして笑いを収め、煉獄が冨岡を見上げる。
「生きてる確認はしなくて良いのか」
「……珍しいこともあるものだ」
 言葉に含んだ意味が伝わったようで、瞬きをした後、煉獄の目が細められた。珍しいのは今日のお前だ、と口にしようとしたが、上半身を起き上がらせた煉獄に噛みつかれるように塞がれ、意味のある言葉を発することはできなかった。