異端者たち 七
救援要請を受けた那田蜘蛛山で炭治郎がヒノカミ神楽を用いて鬼を撃破した後のこと。
任務終わりに煉獄と鉢合わせた宇髄はそのまま目的地へと連れ立っていくことにした。その最中、早朝だからか疲れからか、普段より張りを抑えた声が宇髄の耳へと届いた。
「例の黒刀の呼吸のことだが」
「お。わかったのか?」
「ああ。といってもあまり役立つものではないと思うが!」
役立つか役立たないかは聞いてみなければわからない。しかもそれを判断するのは宇髄ではなく炭治郎だ。かまわないからと内容を急かすと、煉獄は頷いて口を開いた。
「うむ。日の呼吸の適性者だ」
「……火の呼吸?」
「日の呼吸だ。太陽、お天道様、日輪の呼吸だな!」
本当にあったのか、炎と別物だから呼び名を間違えてはならないということなのか、いや何が違うんだと宇髄は一瞬真剣に考えたが、そう考えているのを読まれたかのように煉獄から突っ込みが入った。なんとなく悔しいが一先ず置いておく。
「……ヒノカミ……日の神……そっちか!」
ヒノカミ神楽を火の神だと信じて疑わなかったわけだが、答えは最初から炭治郎が持っていたようだ。
炭焼きの一族に伝わる神楽は火にまつわるものとばかり考えていたが、炭治郎もしっかり理解しているかどうか怪しい気がするのは何故だ。しかしまあ、その神楽のおかげか日の呼吸などというものに適性があるとは。
「宇髄?」
「あ。ああ、いや助かったぜ。正直八方塞がりで困ってたんだよな。で、その日の呼吸ってのはどういうもんなんだ」
そう問いかけるといつにもまして複雑そうに視線を逸らされた。目の焦点が合わないことはよくあれど、明確に逸らされることは非常に珍しい。父親のことであったかなかったかぐらいだ。
「うむ……正直、伝えるのは気が進まない」
「んだよ、言い触らしはしねえよ。まあ伝えるべき人間には伝えるが」
「伝えるべき……そうか、黒刀の隊士が居るんだったな」
まだまだ駆け出しの実力も大したことはなく、階級も下から数えるほうが早い。有象無象のように埋もれられては困るが、子供とはいえ曲がりなりにも隊士になった男だ。むしろ自分のことは隠し立てせずに伝えてやったほうが身になるだろう。
「では熟考して決めてくれ。日の呼吸は始まりの呼吸、それを元に五大呼吸が作られた。今ある呼吸はすべてが日の呼吸の後追いだそうだ」
「―――、」
「……父はおそらく、そのことを知って心が折れたのだろう。誰よりも情熱のある人だったから。常日頃口にする言葉とも辻褄が合う」
「……成程」
己の呼吸に誇りがある者なら、それが五大呼吸と謳われる歴史の長い呼吸のひとつであれば、確かに挫折を味わうこともあるのだろう。
「ま、元々雷からの派生を使う俺にはあんまり響かねえが、五大呼吸の誇りがあるなら凹んでもおかしくはねえんだろうな」
とはいえあの勤務態度を許せるかといえば話は別だが。いくら強かろうと酒浸りの飲んだくれでは泥酔して手元が狂うなど、公になっていないところでいくらでもあったはずだ。人手不足と申し分ない実力があったから、どうにもできず済ませてしまっていたが。まあ、先代炎柱のことはいい。今は日の呼吸の話だ。
「今度その黒刀の隊士を連れてきてくれないか」
「え? まさか会わせる気?」
心情としては父親を慮っていたのだろうに、会わせて派手に拗れるのを見るつもりなのだろうか。そう揶揄ってやればなんでもないようにいつもの顔ではきと声を張り上げた。
「いや、俺が会いたい! 日の呼吸のことも知りたいし向こうもそうだろうしな!」
「いやまあ、お前がいいなら別にいいけど……」
煉獄の人柄は言わずもがな、炭治郎も人あたりは良いので悪いことにはならないだろう。普通に顔を合わせるだけであれば。
「――まあでも、すぐ会うことになるぜ」
「?」
「カァー!」
バサバサと羽音を鳴らして柱合会議へと急かす鎹鴉の後を追うように急ぐ。
どこまで言われるのか予想するのも疲れるが、これを乗り越えなければ炭治郎に未来はない。宇髄共々聞かねばならない罵倒があるのだ。
「議論の余地もなく処罰対象だろう。ついに頭が爆発でもしたか宇髄、お前好みの派手さがあったかもしれんが鬼殺隊を巻き込むな。鬼など生かす理由も必要もないのだから責任持ってさっさと頸を斬れ。そしてそこの馬鹿な隊士を処分してお前も厳罰を受けろ」
「あ、あの〜でも……お館様がご存じないとは思えないんですけど……」
予想どおり伊黒の罵倒が最長でげんなりしたが、致し方ないとして宇髄は耳を穿りながら聞いていた。炭治郎は救援要請を受けて那田蜘蛛山で鬼を狩っていたらしいが、随分派手にやられたようで本部の庭に転がされていた。ようやく起きたところで咳き込み苦しそうに顔を歪め、それでも必死に柱の説得を試みようとしていた。頑張れ頑張れと内心で応援しかけたところで、あれこれ地味に重傷なのでは? と宇髄は炭治郎を凝視した。口々に処分を急かす周りを無視して観察してみると、隊服の下は手当を受けていることに気がついた。
包帯の巻き方などさほど人に違いはないと思うが、宇髄は直感した。絶対冨岡だ。偶然かそうでないかは知らないが、那田蜘蛛山で落ち合ったようだ。過保護め。
とまあ、ひとり呆れていたところ甘露寺がやんわり皆を止めたことで地味に全員口を噤んでしまった。もっと派手に証明してほしかったのだが、先に同僚がやらかすことになってしまったではないか。
禰豆子の箱を持ち出してきた不死川が、思いきり箱に刀を突き立てた。
それにキレた炭治郎が不死川に頭突きを食らわせることに成功したおかげで、遅れて派手にやらかすことになっていたが。
「おし行け派手にやり合え!」
「なに傍観者気取ってるんだお前も当事者だろうが!」
「いやー……不死川に一撃入れるくらいになっちゃって嬉しいだろ」
「知るか!」
まあ確かに、鬼を生かす暴挙に出ておいてと反感を買うのも致し方ない反応をしたとは思うが、散々手を焼かせた炭治郎が格上に一矢報いることができたのだから喜ばしいではないか。いや強さでいえばまだまだちんちくりんなので、自分でも評価が甘すぎると思うが。それもこれも弟子として世話を焼いてしまったせいだ。
「お館様のお成りです!」
柱をやめろとまで啖呵を切った炭治郎をあとで派手に褒めてやろうと決めたところで、襖の奥に聞き知った音が薄っすら聞こえることに気がついた。
この音、冨岡か。気配を消して柱には気づかれぬようにしているようだが宇髄の耳は聞き逃さなかった。不死川の産屋敷への挨拶を聞きながら、確かに接触を図ると彼が言っていたのを思い出す。しかしまさか鬼殺隊本部への呼び出しまで応じるとは思わなかった。あいつ敵の懐に入り込みすぎだろ、と宇髄はげんなりした。
「皆にも認めてほしいと思っている」
丁寧な言葉遣いで隊律違反の隊士について詰めた不死川に、産屋敷は容認していたこと、そして彼が望んでいる言葉を投げかけた。すんなり受け入れるのは産屋敷を尊敬する柱といえど少なく、それをわかっているから鱗滝は手紙を送ったのだ。
「俺様も派手に腹を懸けているからな」
「腹懸けたからなんだってんだ。死にてェだけの奴に用はねえよ」
「馬鹿言うな、死にてえだけでこんな派手なことはやらかさねえよ」
少なからず動揺して黙り込んだくせに。
生きるが勝ちと自負している宇髄が腹を切ると言わしめた鬼のことをよく考えてみてほしい。勝率がなければそのような、他の鬼であれば懸ける行為すら無駄なことはしない。産屋敷からの紹介とはいえ巻き込んだ鱗滝にまで切腹を宣言させたのは心苦しいところではあるが、そうでもしなければ説得はできないだろう。
宇髄は死にたいわけではなく、生きるために鬼狩りを続けているのだ。人を襲ったら腹を切る。そんな地味な死に方をしたくない、させたくもないから絶対に人を襲わせるな。泣き顔を隠すこともできず転がっているが、そういう意図は炭治郎とて嗅ぎ取るだろう。
修行を頼んできた冨岡からすれば山ほど言いたいことはあるだろうが、どうせ口にするのは一言二言なので大したことでもない。自分も腹を切るとか言うのが関の山か。いや待て、人に戻ってから腹を切るとか言い出したらどうしよう。殴ろう。
「わかりませんお館様。人間ならば生かしておいてもいいですが鬼は駄目です、承知できない」
そんな起こってもいない想像をしていたところで不死川から非難の声が上がった。唯一鬼舞辻から追手を差し向けられている状況があってもなお、鬼は駄目だと怒りを見せる。まあ、柱であれば当然の反応だ。鬼なんて人を襲う悪しき存在なのだから、消してしまえば安全は保たれる。生かして不安がのさばるよりはよほど楽だ。
「証明してみせますお館様! 出てこい鬼ィ!」
断りを入れて屋敷内へと侵入した不死川がまたも箱ごと串刺しにし、奴の血で禰豆子をおびき出して涎を垂らさせた時、ふいに悲鳴嶼から制止の声が上がった。
「待て、不死川。……お館様、ひとつお伺いしたい。……奥の部屋の人物は、我々に関係のある者でしょうか」
柱は皆経験の多さや感覚の優れた者が居るが、今の冨岡の気配はそれでも気づき難いほど薄いものだった。人を喰っていなければ紛れるのも可能なのかもしれないし、気配を隠すのが異様に上手いのかもしれない。だが悲鳴嶼は気づいてしまった。これは地味にまずい。
「気配を消しているようだが、盲目ゆえか私には薄っすらとだが感じ取れる。……人ではない気配を」
「……そうだね。客人なんだ」
「お館様、失礼仕る」
感覚に鋭い悲鳴嶼ですら鬼と断言できるものではなかったと考えれば、それは地味に喜ばしいものではあると思うのだが、如何せんこの状況でしみじみしていることなどできなかった。鬼狩りにとって人ではないものがどんなものか、全員が思い知っているからだ。警戒が一気に膨らんで、柱が全員刀の柄へと手をかけた。そうして一番近くにいた不死川が襖を乱暴に開け放った。
「鬼! な、なんで気づかなかったのかしら!?」
目にした瞬間抜刀する音が複数聞こえてきた。
奥の部屋に佇んでいたのは間違いなく冨岡だが、普段にも増して何を考えているのか読めない無を顔に張りつけて、静かに不死川と睨み合った。
気配の消し方はもしや血鬼術の応用かもしれないが、それでなくとも人を喰っていない鬼の気配も音もそこいらの鬼とは異なる。会ったことなどないのだろうから、更には極限まで気配を消されては気づかないのも無理はないのかもしれない。宇髄や悲鳴嶼のような鋭い感覚があって初めてわかるものなのだろう。
「禰豆子、義勇さん!」
呑気に座ったまま見上げている冨岡の頸へ、不死川の刃が風を切る音と共に振るわれる。それを止めるため宇髄もまた屋敷内へと侵入して抜刀し、剣戟の音が辺りに響いた。
「てめェ、やっぱイカレてたか」
「聞けよ馬鹿、客人だとおっしゃったろ」
「うるせェ!」
宇髄が割り込んだことで冨岡が目を丸くして驚いていたが(なんでだよ)、一先ずこの激情家を一旦落ち着かせなければならない。憎悪の対象である鬼が二体も、しかも神聖な鬼殺隊本部に居るのが我慢ならないのだろうが。
「恩人相手だ、殺しは派手に止めるぜ」
禰豆子は殺さず試す気で突き刺していたわけだが、藪から棒が飛び出してきたような鬼の存在に、向けて当然の殺意を向けたのだろうと思う。
それはそれとして理解はしても、宇髄とて容認できないことはある。女房共々匿ってくれた相手をまんまと目の前で殺されるつもりはないし、殺しを許すつもりもない。
「はァ!?」
「鬼殺隊に入る前だがな。鬼の存在も知らなかった頃だ」
「まさかそれが免罪符になるとでも思ってるのか貴様?」
「思ってねえよ、事実を述べただけだ」
「てめェ、しゃあしゃあと二匹も鬼を匿ってたってかァ……」
「知り合いだったってのが正しい。鬼だと知ったのは鬼狩りになってからだからな」
「順番なんかどうでもいいんだよォ!」
問答の最中、箱の中でフガフガしていた禰豆子がぱたぱたと冨岡のそばに寄っていき、冨岡が禰豆子の頭を静かに撫でた。その様子に一旦は炭治郎から安堵したように息が吐かれたが、今度は宇髄へと心配そうな顔を向けた。
「客人だと言っただろう? 皆、粗相は控えよう」
産屋敷の声に全員がびたりと動きを止めたが、戸惑いが多分に伝わってきた。
「彼は明確に人を喰わない鬼だ。禰豆子はまだ発展途上だけれど、鬼となってから一度も人を襲っていない」
「騙されてはいけませんお館様」
「不死川気づいてるか? お前のその血に喰らいついてない鬼が二人居ること」
「………!」
悲鳴嶼に止められたり刀を抜かれたりと色々あったものだから、不死川の腕からは血が止まることなく流れていることを皆すっかり頭から抜けていたようだ。その血がどれほど鬼を狂わせるのか、任務でも宇髄は見てきたし柱の中にも詳しく知る者が居る。喰らいつきそうな気配を見せていた禰豆子は今、ぷんすかしながら冨岡にしがみついている。
そして当の冨岡も顔を顰めているものの、血を求めて動く様子はなかった。
「しのぶ」
「、は、はい」
突然産屋敷から問いかけられた胡蝶は慌てて返事をしたが、動揺している様子が見て取れた。今この場で困惑していない柱はいないが。
「反応が皆と少し違ったようだね。何か知ってるかな?」
胡蝶の姉の話を妹が聞いているならば、冨岡と結びつけることも可能だ。産屋敷は胡蝶カナエから直接報告を受けていたようだが、姉と違って鬼は殲滅対象であった妹はどうか。宇髄は胡蝶の音に注意を向けた。
「先の……那田蜘蛛山で、竈門くんを庇った後に逃げられた相手だと……」
「何をやっている胡蝶!」
「うるさいですよ。………、お館様の……お客様です。不死川さん、刀を下ろしましょう」
「正気か?」
「もちろんです」
何があったのかわからないが、複雑な表情のまま胡蝶は刀を収めてくれた。姉から聞いた恩人の特徴と、那田蜘蛛山で見た冨岡の異端ぶりが合致したのかもしれない。その言葉で庭にいた柱は鞘に収めるまではいかずとも、刀を構えることはやめた。
「ありがとう、天元、しのぶ。申し訳なかったね、怪我はないだろうか。実弥、少し落ち着いて話をしよう」
「……御意……」
産屋敷に話しかけられた冨岡は無言で会釈し、不死川の刀を弾き返してから宇髄も、産屋敷の言葉で渋々ながら柱たちも刀を鞘へ収めた。茫然としたまま不死川は立ち尽くしていたが。
「彼の身体は普通の鬼とも禰豆子とも違い、作り変えることで人を喰わずに生きている」
鬼は皆鬼舞辻無惨の呪いで行動、思考すべてを監視下に置かれると聞いた。呪いと食人衝動を治療で外せるのは今のところ冨岡の後見人だけ。逃れ者として鬼舞辻から隠れ生きているのなら、鬼化させられた人間を探して奴に見つかる危険を増やすわけにもいかない。助けられる機会は偶然の賜物であり、冨岡のような鬼が増えない理由なのだろう。やきもきするが居場所を突き止められて後見人が殺されでもしたら、食人衝動を治療で抑えることができなくなる。竈門禰豆子のような例外が生まれてくるかも、今後どうなるかもわからないのだ。だからこそ鬼殺隊が保護しておきたいと宇髄は思っているが、今の状況で提案することはできないし、後見人の存在を仄めかすことも無理そうだ。
「お前、向こうへ行け。胸焼けする」
禰豆子を抱えつつ鼻を押さえてさも不愉快そうに眉を顰め、冨岡は不死川へと言い放った。
間近でなくとも不死川がこめかみの血管を浮き上がらせ、今にも切れそうになっているのがわかるだろう。敵地に乗り込んできたり、鬼を殺せる日輪刀を持つ鬼狩り相手にいい度胸である。未だ危険な状態であることを冨岡はわかっているのだろうか。
「………、え、お前稀血効くの?」
「効かないわけじゃない。気分が悪くなる」
「それ普通の効果じゃねえと思うけど……?」
「………。……そうですね。不死川さんの稀血は、鬼を酩酊させるものですから」
こちらを眺めていた胡蝶が訝しげに呟いた。鬼に効く毒を開発した胡蝶は、隊内で一番といっていいほど鬼の生態に詳しいはずだ。胡蝶からすれば、冨岡も禰豆子もたいへんに研究しがいのある素体だろう。効率良く鬼を殺すためにも、詳しく調べたいと思っていておかしくはない。
「鬼舞辻無惨を憎んでいる鬼は存在している。彼らは鬼殺隊にとってとても重要な存在だ。二人は人を喰わない証明ができたけれど、炭治郎。それでも彼らが生きていることを快く思わない者はいるだろうね」
鬼殺隊に入るとはそういうことだ。だからこそこれからが正念場となる。炭治郎は、鬼殺隊にとって禰豆子が必要であるということを知らしめていかねばならないのだ。
「天元は彼の存在を私に教えてくれ、柱としてその身をもって彼ら二人の処遇に命を懸けてくれている。その思いに応えるためにも、禰豆子がともに戦えることを今度は炭治郎が証明してくれるかい」
十二鬼月を倒して己の言葉に説得力を持たせなければ、誰も子供の戯言など信用しない。そうして知らしめていくことがどれほど難しいか身に沁みているだろう炭治郎には、死なずに示し続けてもらわなければならないのだが。
「俺と禰豆子は必ず鬼舞辻無惨を倒して、そして二人を人に戻します!」
「今の炭治郎にはできないから十二鬼月をまず倒そうね」
派手に啖呵を切ったのはいいが、今度は本当に大口を叩いているので柱から笑われる羽目になっている。個人的には派手な目標で悪くはないのだが、まあ、あいつそういうところあるよな、と宇髄は内心でだめ出しをしておいた。冨岡なんかまた眉根を寄せて不満げにしているし。
「では竈門くんは蝶屋敷でお預かりしましょう。怪我もなさってますから」
治療のためなら助かるので宇髄はそのまま胡蝶に任せることにした。蝶屋敷なら療養中、機能回復訓練もつけてくれるし炭治郎にとっても勉強になることは多いだろう。不死川や伊黒に預けるよりはよほど待遇もまともになる。
「前失礼します!」
「わっ! あ、あの! 義勇さん、禰豆子を!」
「先に身体を治せ。禰豆子は預かる」
「あ、ありがとうございます! 迎えに行きますー!」
颯爽と現れた隠に抱えられた炭治郎はそのまま連れて行かれそうになり、慌てて冨岡へ声をかけて一先ずは任せることにしたようだ。ちらりと宇髄にも何か言いたげにしたが、証明もしたし産屋敷は冨岡たちへこれ以上の攻撃を許しはしないだろうから一先ずは安全だ。壊された箱を眺めてなにやら冨岡はむっつりとしているが、禰豆子の頭を撫でてよく堪えたと褒めている。産屋敷の息女が二人現れて、冨岡と禰豆子をその場から連れていった。
「煉獄さん、大丈夫です?」
「うむ、目から鱗だ。道のりは険しいだろうが素晴らしい挑戦だな!」
いつにも増して静かだったのは、やはり困惑が勝っていたからだろうか。とはいえ炭治郎の心持ちは煉獄にも好意的に受け止められたようである。
煉獄とて最初こそ不死川に次いで反対していたが、禰豆子と冨岡を見て意見を変えることができたのかもしれない。まあ甘露寺と時透は反対すらしなかったので置いておいても、胡蝶や煉獄はかなり炭治郎たちに寄り添うようになってくれたと思うので大した変化だ。これも人徳というものだろうか。
「宇髄さんには是非詳しく話を聞きたいですね。あとで蝶屋敷に来ていただきます」
いやこれ怒ってるな。次いで始まる柱合会議の隙をついて胡蝶は宇髄にのみ聞こえるよう、小声で有無を言わさず言い放った。
「こちらでお待ちください」
五つ子だという産屋敷の息女二人に連れられ、義勇は別室へとやってきた。促されるままに座布団へ腰を下ろし、部屋を出ていく二人へ会釈をして見送る。
先ほどと違い庭から離れた部屋だ。ここなら気配に気づかれることもなかったろう。本来ならあの場に義勇は割り込まず、会議とやらが終わった頃に産屋敷と二人で話をするはずだったのだが。
「………。疲れたな」
「むー」
溜息を吐き出した時、隣に座る禰豆子から頭を撫でられた。よほど疲労が顔に出ていたのかもしれない。気を抜けば元の子供の姿に戻ってしまいそうだ。
死ぬかと思った。生きた心地がしなかった。特にあの稀血の男からの殺気は、今までの誰より強く憎しみの篭ったものだった。人の血であんなに気持ち悪くなったのは初めてだったし絶対に頸を斬られると思った。宇髄が割り込んでくれなければ間違いなく死んでいたと思われる。
鬼狩りの根城だ。それこそ珠世に言えば間違いなく止められただろう。ひと息ついた今も、用心が足りなかったと考えるほどだ。
「……お前たちは前途多難だな」
わかっていたことだが、目の当たりにして義勇は再びとんでもないことをさせていると自覚することになった。宇髄という前例がいたから少なからず期待していたのは否めない。鬼狩りとて話せばきっとわかってくれるなど、まず間違いなくあり得るはずがないのに。
ぼんやり考え事をしていた最中、足音が近づいてきた。
手練のようにも普通の人間のようにも思える気配だ。柔らかな声が失礼しますと襖越しに話しかけてきた。すらりと開かれた襖の奥に、髪の長い女性が佇んでいた。
「お館様にお取り計らいいただきました、胡蝶カナエといいます。……私のこと覚えてるかしら」
「………?」
市井を歩いているような町娘の出で立ちをした女性だ。長い髪の両脇を髪飾りで止めている。ちょうど先ほども見た小柄な女隊士の髪飾りに似ている気がする。後頭部についていたからよく見えなかったが、確か蝶の形を模していた。あの柱と血縁のようだ。
「思い出してくれた?」
物腰の柔らかい声音が義勇へともう一度かけられる。笑みとともに期待も浮かんでいるような表情だ。
柱の熾烈さを先ほど見てきたばかりだが、それとはまったく異なる空気を持った女性である。この場にいるということは、鬼狩りに関わる人間だろうことは明白だが。
「私、数年前に上弦の鬼と戦って死にかけたの。その時誰かに助けられてね、こうして生きていられてるわ」
「………」
「その蒼い目がそっくりなの」
ああ、成程。そういえば蝶の髪飾りの鬼狩りについて、昔宇髄が話題を振ってきたことがあった。そうか、あの時の話か。予想外だったのでなんと返せばいいかわからず、義勇は黙り込んでいた。
「あの場で処置を受けられたから生きてるのよ。一度だって忘れたことはないわ。鬼に殺されかけて死ぬって時に……ほかでもない鬼に救われたんだもの」
義勇も経験のあることだが、珠世のことは救われる前から知っていたから彼女たちへの混乱はさほど大きなものではなかったように思う。そう考えると見ず知らずの人ですらない鬼に処置をされたなど、さぞ混乱したことだろう。
「あなたにずっと会いたかった。会ってお礼が言いたかった。……ありがとう」
鬼狩りの根城でその言葉が義勇にかけられることは、なにより異端なことなのだろうと思う。警戒と緊張で凝り固まっていたものが解きほぐされていくような気分で、敵地にも関わらず義勇はじんわりと嬉しさを感じていた。