異端者たち 分岐・死亡if

 説得できないと悟った珠世は悲しげにかぶりを振り、やがて鬼舞辻が滅ぶ前に必ず使うようにと言い聞かせて薬を握らせた。頷いたのを確認し、先に向かうと口にして出ていった。
 説得できないのは珠世も同じだ。義勇にとって死んでほしくないひとはたくさんいるけれど、中でも珠世は鬼となる前から義勇を気にかけて助けてくれた。犯した罪を静かに吐露してくれた時でさえ、これまでずっと贖ってきたのではないのかと考えてしまうほどには、義勇にとって珠世は善のひとだった。
 しかし、それも他者を無視した身勝手な思いなのだろう。珠世は鬼舞辻無惨を道連れに地獄へ行くためならなんでもするとすら言った。
「今使えよ」
 鼻を啜り袖で乱暴に目元を拭いた義勇の背中へ、聞き慣れた声がかけられる。呆れも含んだ声音は柔らかく、義勇を気にかけてくれていることが伝わってくるようだった。
「まだ使わない。俺は鬼狩りじゃないんだ、戦えなくなる」
「お前は戦わなくたって、」
「そうもいかん。まだ駄目だ。人間じゃ駄目なんだ。……鬼でなければ役に立たない」
 言葉を詰まらせるようにした宇髄が珍しく、よほど気にしてくれているのがわかる。けれどこればかりはどうしようもない。人では駄目だった過去が事実としてあるのだから、大事な決戦前に人へ戻ることなど考えられなかった。
「……それで間に合わなくなってもか?」
 元柱という重要な立ち位置にいて、研究に付き合うこともあった宇髄には隠しようがないことも気づいていたが。
「無惨が死ねば鬼は死に絶える、そういう仮説を聞いた」
「……そうだろうな。鬼は皆鬼舞辻無惨の配下だ、あれが死ぬ時は鬼が絶滅する時」
「お前も死ぬんだろ」
「そうだな。例外は……愈史郎さんだけだ」
 あとは猫の茶々丸だ。彼らだけは珠世が鬼にしたから、鬼舞辻無惨の血も呪いも入っていない。おそらく鬼舞辻から道連れにされることはない。珠世は死ぬつもりでいるから、愈史郎にこの話を振ることはできなかった。
 鬼舞辻無惨へ特攻するには鬼でなければならない。鬼狩りたちが討つまで抑え込める者でなければならないからだ。
 人をたくさん殺した。あなたたちのように潔白ではない。今こうして医者の真似事をするようになったところで、過去の行いが清算されるわけではない。数百年も後まわしにしてきたものを償わなければならないからと、あの男を地獄へ連れていくのだと告げられたあと、愈史郎の顔を見ることはできなかった。
 ありがとうと珠世は最後に口にした。
 己自身が泣いていたせいだ。礼を告げられるようなことなど義勇はしていないけれど、穏やかな笑みは姉が生きていた頃に見たものと同じものだった。
「俺はずっと安全圏にいた。最後くらいは戦ってこなくては」
 拳を握りしめたのがわかった。言葉なく憤っているのに、言える言葉は何もないと理解してくれている。そういうところが宇髄らしいと義勇は思う。緩やかに口角が持ち上がるのを自覚した。
「最後まで人らしく在りたいから行ってくる」
 あの夜。死を覚悟した夜に希望を見出したこと。宇髄が義勇を受け入れてくれた時、涙が出そうなほど嬉しかったのを覚えている。
 大事なひとがいる。手助けに行かなければならない。宇髄を悲しませたくないから、彼の仲間を助けに行くのだ。

 他の鬼はそうはいかないだろうが、呪いが外れている鬼ならば鬼舞辻無惨が死んでも猶予はあるのではないかという。だから心配するなとでも言いたげに、柔らかい笑みを浮かべて小箱を懐へと仕舞った。
 珠世がくれた大事な薬だ。必ず使うことを約束して冨岡は本部へ向かうと告げた。寛三郎は健気な鴉だが、如何せん年寄りなため不安があった。
「虹丸、案内しろ。……頼むから帰ってこいよ!」
「ありがとう」
 旧本部の場所は把握している。産屋敷もまた覚悟を決めていたからだ。礼を告げて屋敷を飛び出した冨岡は、虹丸と寛三郎のあとをついていった。
「………、返事していけよ……」
 こういう時に何ひとつ信用ならないのが冨岡という男だ。これから起こることは知っていても、宇髄に人の生き死になどわかるはずもない。信じるしかないとはいえ。
「全ッ然信用ならねえ……」
 帰ってこいと伝えたにも関わらずあの馬鹿は礼だけを伝えてきた。帰る約束などできないことくらい、忍であり鬼狩りであった宇髄には容易に想像できるが、それでも冨岡本人の口から聞きたかった言葉である。
 後方支援のはずなのにな。どうしたって胸の奥がざわざわするのだ。常にない状況だからという理由は多分にあるのだろうが、どうしても妙な予感が宇髄の頭から離れてくれない。
 だが今夜ばかりは引退した宇髄にも命より大切な任務がある。まさしく最終決戦といえる場で、他に気を取られるなどあってはならないだろう。齢八歳で、こんな局面で当主となり、数百人の命を預かることになった輝利哉たちの護衛が宇髄の最重要任務だ。何があろうと、誰が死のうと産屋敷家の血筋だけは守らなければならない。人手はいつだって不足していて、隊士を助ける誰かがいてくれるなら心強いはずだ。
 だが。
 宇髄の中の優先順位は、女房と同じ位置にもうひとりいる。
 守られるようなタマではないことも、蚊帳の外に置かれることもおそらく奴の矜持に傷をつけることになる。頼りになる相手だ、宇髄とてこの身を救われた。隊士にはもうあの男を敵とみなす奴はいない。不死川だって、共闘すれば意見を変えるだろう。心配でつい気になってしまうのは宇髄の問題だ。本当は皆仲間だと理解していることくらいわかっている。
「……そうじゃねえんだよ。俺が死んでほしくねえだけだ」
 死んでほしくない。危険な目に遭ってほしくない。一緒に人として生きていてほしい。だから宇髄は引き留めたかった。救援に応え続けた冨岡を見ていたのだから、止めることなど不可能であることもわかっていた。助けてやってほしい。相反する感情が渦巻いている。
「下手打っちまったなあ」
 女房との約束を思い引退を選んだのは宇髄自身であるというのに、片目と片腕を潰したことを後悔した。そうでなければ勝てなかったのは宇髄の力不足だ。せめて同じ戦場に行ければきっと、これほど置いてけぼりな気分になることもなかったろう。
「戻ったか」
「すんませんね、無理言って。こんな土壇場で」
「いや。……冨岡くんを連れてくるのかと思ったが」
 移設した産屋敷邸に戻れば、宇髄と同じ任務を受けた煉獄槇寿郎が声をかけてきた。
 以前の酒浸りなど微塵も感じさせない、炎柱然とした姿を見せている。息子がどれほど待ち侘びていたかと思うと文句のひとつも言ってやりたくなるが、音も空気も尊敬できる炎柱の頃のものに近くなっていた。
「あいつは無惨の元に向かったんでね」
「そうか。……戦医がいれば心強いだろうな」
 蟲柱である胡蝶しのぶは医者であっても戦う側の人間だ。隊士の血肉ですら鬼の栄養源となるのだ、呼吸の使えないカナエでは戦地にいれば足を引っ張ることも有り得る。悔しいが、現状戦医として望まれているのは鬼の冨岡しかいない。戦地を駆け回る医者だ。人命を鑑みれば向かわせない理由こそがなかった。
 全くもって信じられないが、信じるしかない。獪岳とともにいるなら一緒に使用させることもできるかもしれない。愈史郎と合流できれば薬を無理矢理にでも使わせられるだろう。せめて間に合うことを念頭に置いてくれと思いつつ、宇髄も任務へ集中することにした。


*
*
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 今度こそ、今度こそだ。鬼舞辻無惨が陽光で滅んだと思えば義勇の身体はまだかたちを保っていて、妙だと思ったから落ち着けなかった。確かに呪いの外れている義勇たちには、鬼舞辻滅殺後に猶予があるだろうとは思われていた。しかし、感覚が今までとなんら変わりなく存在しているのが妙に気になって、義勇は安堵することができなかったのだ。首魁が死ねば多かれ少なかれ影響があるはずだと踏んでいたからである。
 義勇は重傷者の手当をしていたものだから、人へと戻った獪岳に様子を見に行ってもらった。鬼舞辻がまだ生きている可能性を捨てきれなかった。まさか誰かに託して生き延びたなどとは思わなかったけれど。
 心臓が止まった炭治郎から鬼の気配がして、日向に行けない愈史郎もまた焦りを募らせていた。人に戻った獪岳が怪我を負いながら炭治郎を押さえ込もうとしていた。彼にはまだ余力があっても、陽光すら克服した炭治郎を殺すすべがない。
 殺してほしくない。けれど殺すしかない。彼らの思いはそうだったのだろう。けれど義勇にはひとつだけ希望を持っていた。
 珠世が残してくれたものだ。壊れやしないかとヒヤヒヤすることもあったが、きちんと使える状態である。いつもどおり外套も被っている。陽光の下でも行動できる。押さえつけるため日陰から飛び出した義勇は炭治郎の攻撃に被弾してしまったが、飛び込んできた栗花落がうなじに薬を打ち込むことに成功した。
 目の前で効果を見てきたのだ、珠世の薬は間違いなく効く。これで炭治郎は助かる。日陰から義勇を見ていつになく焦っている愈史郎がいた。たぶん、薬を持っていないことに気づかれたのだろうと思う。
 鬼舞辻が滅んだ時には感じなかった感覚が滲んでくるようだった。炭治郎の身体が変異して、ゆっくり人へと戻っていくのが手に取るように感じられる。体内の熱や機能が冷水でかじかんでいくような、妙な心地だった。
 周りに囲まれて寝かされている炭治郎の様子は必死に皆で見守っている。大丈夫だと言いたいけれど、そうは言っても心配になるのは理解できた。その前に早いところ皆の手当を済ませてしまわないといけないと思い立ち、義勇は立ち上がろうとした。
「冨岡!」
 聞こえるはずのない声が聞こえて、義勇は驚いて振り向いた。別の任務についていたはずの宇髄が、なぜかこの戦地に現れたのだった。でかい図体で珍しく音を立てて駆け寄ってくる。
「お前なんでまだ鬼なんだ! 持ってたはずだろ!」
 持っていたよ。持っていたとも。無限城へ赴く前ですら毅然とした表情をしていたというのに、今や宇髄が泣きそうにも見えた。伸ばした手が義勇へと触れる。固めた砂がかたちを壊してしまうように、宇髄が触れた手がざらりと崩れた。
 宇髄はこれを予感していただろうに、それでも悲しんでくれるらしい。肩を引き寄せられて抱きしめられた。相変わらず情の深い男である。そして義勇もまた悔いはなく、安心させてやりたくて笑みを向けて、泣きそうな宇髄の頬へと手を滑らせた。
「俺がいなくなるということは、炭治郎が人に戻れた証だ」
 歯を食いしばる音がした。掴まれた肩は着物の下で随分崩れ落ちていたものだから、宇髄の頬へ触れていた手もぼろぼろと地面へ落ちてしまった。もう少し触れていたかったが仕方ないかと諦めることにした。
 宇髄の背後で炭治郎を案じる声がそこかしこから響くから、見なくとも無事であることが伝わってきた。嬉しくて含み笑いをしてしまう。
 姉に顔向けできるような生き方ができているといいのだが、義勇はうまくできただろうか。姉が褒めてくれるといいが、向こうでたくさん心配をかけてしまっていたかもしれないな、と義勇は思う。
 それでも精一杯を成した結果だった。理解してくれるといい。守れなかったことはどんな言葉であっても償いきれない出来事ではあったけれど、最後に守りたかった炭治郎と宇髄の仲間を守れたことは褒めてくれたら嬉しいのだが。
「………。……お前はずっと人だったよ」
「……ありがとう、宇髄」
 泣き笑いのような顔は、義勇が最初で最後に見た表情だった。

「……炭治郎は生きてるか」
「音柱様……! はい、はい、生きてます!」
「意識も戻って会話も問題なさそうで……」
「良かった、本当に……」
「一時はどうなることかと……」
「……そうかい。よく頑張ったな」
 騒ぐ周りの隙間から身を乗り出し、目が合った炭治郎へ労いの言葉をかける。その言葉を聞いた炭治郎は安堵したように笑みを見せ、やがて耐えられなかったのかまた意識を失った。それを見届けた彼は拳が白くなるほど握りしめていた外套を自ら羽織り、普段の騒々しさが嘘のように静けさを纏ったまま現場の指揮を取り始めた。
 柱が全員倒れた中で彼がいてくれたのは、その場の者たちにとってひどく安心できる状況だった。常とは違う様子であったことに炭治郎が起きていれば気づいたのだろうが、今は疲労に耐えかねて眠っていた。
 気づけるのは感覚の鋭い者くらいであり、そして安易に問いかけられるほど今の彼らに余力はなかった。聞いてしまえばきっと、どこにもぶつけようのない怒りや虚しさを抱くことになっただろうから。