異端者たち 二十

 ぱちりと瞬いた先に映ったのは天井だった。周囲へ視線を見渡すと、ここが珠世の屋敷であることがわかる。なぜ自分は珠世の屋敷で寝かされているのだろうと考えて、上体を起こしてぴたりと動きを止めた。
 気配を感じない。音が聞こえない。匂いもない。否、ないわけではなく感じ取り難くなっている。そのわりに嫌な予感は胸中を渦巻いて心拍が上がった。寝台に備え付けられている卓に手紙が置いてある。冨岡義勇様と見慣れた文字が書かれていた。珠世の字だ。
――あなたがこれを読んでいる時は、きちんと人に戻れていることと思います。
 これまで義勇が珠世の世話になったことはあれど、珠世から義勇に世話をかけられたことはない。なのに文にはありがとうという言葉が溢れていた。中でも珠世にとって一番嬉しかったことは、姉と義勇が珠世を慕ったことだと書かれていた。
 珠世は珠世の成すべきことをしてくるからと書いておきながら、無茶をしやすいからと義勇を心配する。鬼ではなくなることでたくさん危険な行為をするかもしれない。くれぐれも身体を大事にして、人として生き直すようにと。いずれ来る決戦に向かうこと、生き残る気もないことは義勇も察していたが、まさか自分が残される側になるなど思っていなかった。意識が途中で途切れているのは、珠世の血鬼術を気づかずに浴びせられていたのかもしれない。脳の機能を鈍らせてから薬を使ったのだろう。
「悪りいなあ冨岡」
 姉の傍らで泣いていた頃と少しも変わらない。寝台に突っ伏して泣いていたら、聞き慣れた声がかけられた。誰もいないと思っていたけれど、監視役でも任されたのだろうか。人に戻るとやはり気配をうまく感じ取れなかった。
「頼まれてたんだよ。お前は絶対最後まで戦うだろうから、間に合わなくなっては困るからってな」
 鬼舞辻無惨が消える時は鬼が絶滅する時だ。完全消滅を確認してから薬を使うのでは遅い。呪いを外した者に消滅後の猶予がある可能性があったとしても、義勇を必ず人に戻さなければならないからだという。そんな約束を義勇は珠世としていないのに。
「……鬼舞辻は……」
「戦いはすでに始まった。隊士はほとんど向こうさんの城に引きずり込まれた」
「どこにある」
「入り口は閉じられた。お前が入り込む余地はねえよ」
 完全に遮断されてしまっているらしい。鬼だった義勇が行ったところで応急処置と隊士の盾になれればいいくらいだろうが、それでも役に立つぶん何もできないよりましだ。どうにかその城に向かいたいが、監視役として残った宇髄も入れないということなのだろう。鬼であったならば探り当てることができた可能性もゼロではないと思うが。
「寛三郎」
 老鴉を呼べばゆるりと肩へ落ち着いた。彼も何かを察しているのか、どこか毅然とした気配で佇んでいるように見える。
「まさか爺さん使ってしらみ潰しに探すつもりか? そうそう見つかるかよ、目星もついてねえだろ」
「待ってられない」
 鬼だった頃よりも戦う術のなくなった身体だ、役に立たない可能性のほうが高いだろう。けれど、こうして立ち止まっている間にできることがあるかもしれない。ならば向かわなければならないのだ。
 目元を歪めて口をへの字に曲げた宇髄が、細く息を吐き出した。
「………。鬼舞辻無惨を根城から追い出す作戦がある。鴉の報告じゃ頸を斬っても死ななかったらしいからな、陽光で殺す作戦だ」
 見かねたらしい宇髄は作戦の一部を義勇へ教えてくれた。鬼舞辻の城はおそらく異空間に繋がっており、どこかから入れるなどというものではないようで、一度閉まれば次は鬼舞辻の気まぐれを期待するしかなかった。頸を斬っても死なないのなら、陽光で殺すしか手はない。すなわち引きずり出さなければ鬼殺隊に勝機がない。そうしてちょうど排出することに成功したのだという。
「どのあたりだ?」
「どうするつもりだ。血鬼術がなけりゃ戦えねえだろ、珠世だって無惨に取り込まれて終わった」
「やることがある。頼まれた」
「………。はあー」
 事後処理部隊である隠も城に落とされているなら救急隊として機能するだろうが、鬼の根城に鬼がいないわけがない。かといって彼らがいなければ隊士の処置は隊士が自分たちでやらなければならないはずだ。うまくできない可能性だって充分にある。
 珠世の救助ができないことなど義勇はわかりきっている。愈史郎が止めて止まらないのならこれが最後だと覚悟して行ったはずだ。何も気づかず寝こけていた義勇が悪い。
 生きていてほしいひとは皆義勇を残して去っていく。あの時一番守りたかった姉は、義勇を庇って先に殺されてしまった。無力であることは結局、あの頃からひとつも変わっていない。
 けれど、医者になる手助けをしてくれたのは珠世だ。少なくともそれで身に余る感謝をくれた人がいた。その人たちが戦っているのなら、義勇は行かなければならない。戦ってくれと頼まれたのは義勇である。
 溜息を吐いた宇髄は頭を掻きながら、眉根を寄せつつも口角を上げた。
「……ほんとお前はよ!」
「痛い」
「ええ……派手に軟弱野郎だな」
 鍛えることなどしていなかったのだから、宇髄の張り手は耐えられようもない。背中を叩かれてよろけたことで呆れられることとなったが、そんなことに時間を使っている隙はない。
「よし、隠を捕まえるぜ。あいつらについていきゃどうとでもなる、行くぞ」
「宇髄もか?」
 柱を辞した宇髄は城に向かわずとも別の任務があるのではないだろうか。鬼舞辻無惨が動いた今、最終局面であることは間違いない。現役の隊士にできない指令を受けることもあるはずである。
「当然。……任務はあるにはあったが、代わってもらった。お前は絶対行きたがるだろうしよ」
 引き止める言葉を投げつけておきながら義勇の思考をしっかり把握していたらしい宇髄は、義勇がどうにかして戦場へ向かうことを想定していたようだった。今頃地味に説教受けてるかもしれねえなあ、なんてほくそ笑んでいるが、一体誰に何を頼んだのだろうか。
「ほら、いつまでもめそめそしてねえで行くぞ」
「めそめそしてない」
「してただろさっきまで。まあいい、早く支度しろ。包帯も薬も山ほど使うだろうからな!」
 虹丸を呼んで隠を探し始めた宇髄に急かされ、先ほどまでの無力さを今は押し込めることができそうだった。

 鬼殺隊本部は鬼舞辻に襲撃され産屋敷夫婦と娘二人が爆破に巻き込まれ亡くなった。城に引き込まれた隊士たちはすでに大勢死傷者が出ており、上弦の鬼を倒したのちの現在は鬼舞辻無惨と戦闘中である。治療も回復もする暇なく連戦を強いられているのだから、隊士たちはいつも以上に苦しいだろう。
 しかし、ここで負ければもう終わりだという思いが彼らを踏ん張らせている。鬼舞辻無惨を逃がすとしたら鬼殺隊が全滅する時。奴を逃がせば今後追うこともおそらくできなくなるからだ。
「玄弥はどうなった」
 すでに人へと戻ってしまった義勇の一部ではなんの役にも立たない。せめてもの保険が機能していればいいが、それも意味を成さないものになってはお守り代わりにもならない。
「……上弦の壱を討伐したって報告は聞いたがな」
 配下の鬼が倒されたから鬼狩りの前に鬼舞辻無惨が姿を現した。詳しい戦況は宇髄も聞いていないのか、それとも隠しているのか。宇髄の心音は聞き取れなかった。
「遅え! 乗れ冨岡!」
 ちんたら走ってんじゃねえよといつかの柱稽古で隊士にかけられていた言葉が飛んでくる。そうはいっても医者である義勇は身体を鍛えるようなことをしていなかったし、鬼だった頃はその再生力に任せていたものだからすぐにはどうにもならない。情けないが貧弱であることは間違いないので、もっと身体を鍛えておくべきだったと反省した。

「おい、戦況は!」
「音柱様!」
「柱じゃねえっつうの!」
 隠が複数人通行を遮っているところに出くわし、ようやく鬼舞辻に近づいたことが窺えた。律儀に訂正する宇髄に涙声が答える。夜明けを前に逃亡を図ろうとしたのをなんとかその場に押し留めている最中であるという。
「―――、鬼舞辻無惨か!?」
「炭治郎!」
 叫んだ瞬間、陽光は辺りを照らし出した。壁に押し留めていた鬼舞辻から衝撃波のような攻撃が起き、首根っこを掴まれてひっくり返された。
 こちらにまで衝撃が来たのを宇髄が庇ってくれたようで、隠も義勇と同様に背後へと蹴り飛ばされたらしいと気づいたのは、炭治郎の元へと宇髄が駆け出してからだった。
「――冨岡! 冨岡助けてくれ!」
 宇髄を呼ぼうとして呼び止められた。振り向くと柱稽古で話しかけてきた男が死にそうな顔をして義勇を呼んでいた。村田だ。瓦礫にまみれて倒れている隊士を助けてくれと泣いている。
「皆もう戦えないんだ! 頼む!」
 死屍累々の戦場だ。膨れ上がって赤子のようになった鬼舞辻に怖気が走り、宇髄と見えなくなった炭治郎の安否が気になって仕方なかった。だが義勇がここに来た理由はやるべきことを成すためだ。ひっくり返っている場合ではない。村田についていくと瓦礫に挟まって倒れている風柱がいたが、もはや血で染まっていない箇所などないだろうというほどに真っ赤だった。
「さっきの無惨の攻撃で……む、向こうに岩柱も、」
 岩の柱を名乗るのにあれほど相応しいと思える男はいないはずが、悲鳴嶼ですら鬼舞辻の攻撃に倒れたのだ。陽が昇りきるまであと少しのはずなのに、戦えていた者はどんどん倒れていく。珠世の薬は確実に効いているのにこれだ。己は無力だと突きつけられるようだった。
 けれど、そんな自分の力不足を嘆いている隙はない。今そんなことを考えていては何もできなくなってしまう。辛いのは隊士たちなのだから、できることをするしかない。
「あ……っ、か、風柱様」
 村田が瓦礫を退かすからと手分けして素早く済ませたかったのに、意識を取り戻して立ち上がった風柱はふらふらのまま鬼舞辻へと向かった。引き止めようにも向こうでは隠すら総出で鬼舞辻を倒そうとしていたのだから、引き止めることはできなかった。
「しぶてェんだよ糞がァ!」
 放っておいたら死んでしまうのに、頼るしかない現状はこれほどに辛い。総動員して鬼舞辻を陽光の下に押さえつけ、やがてひとりでに血を吐いた赤子は断末魔を上げて崩れ去った。
 雄叫びが上がり泣き出す隊士たちの合間を縫って義勇は近くで倒れていた風柱へ駆け寄った。隠が泣きながら輸血の準備を始め、応急処置を施していく。とはいえもはやどこを処置すればいいのかもわからないほどで、この傷でずっと戦い続けていたのが信じられない気分になった。
「宇髄、具合は? 炭治郎は」
 風柱の処置を済ませ、息を引き取っていく隊士たちを看取る隠たちの姿を視界に入れながらも、義勇はふたりの姿を探して大柄な背中に駆け寄った。隊服とは違い着流しは血や泥で汚れ、怪我も負っているのがわかる。背中に声をかけると小さく身動ぐように首を動かしたが、振り向くことはなかった。
「手当するから座れ。炭治郎はどこだ、」
 駆け寄った先、宇髄の視線の奥。大きな体躯が邪魔をして見えなかった。覗き込んだ時、片腕を失くしてなお刀を持ったまま座り込む炭治郎がいた。
 そばにいた隠が泣いていた。ふらりと覚束なくなった足を動かして、宇髄を通り過ぎて炭治郎の前へと座った。信じたくなかった。それでもしなければならないことだったから、手首に触れて脈を測ってしまった。突きつけられることになってしまった。
「炭治郎」
 視界が揺れる。まるで水の膜が目の中にあるかのようで、義勇は泣くのを我慢できなかった。己は生きていてほしいと願ったひとをことごとく死なせてしまうばかりだ。ひとに守られて生きてきた義勇は、結局何もできないままだった。
「え?」
 さめざめ泣く義勇とともに、隠も泣いていた。ふいに誰かが声を漏らして義勇はぼんやりと顔を上げた。その瞬間、なくなっていたはずの炭治郎の腕が勢いをつけて生えてきた。
 生えた腕は見えぬ速さで振り上げられ、背後にいた宇髄から庇われるまで義勇は反応できなかった。隠も状況を把握できずに混乱していたようだった。
「鬼化したんだ、離れろ!」
 陽光で火傷する姿は鬼そのものだ。低く呻く声が普段の炭治郎とはまるで違う生き物だと知らしめるようだった。日陰に行こうとした炭治郎を宇髄が止めたが、禰豆子のように陽光灼けがぴたりと止まった。
「退いてろ!」
「ぐっ、」
 満身創痍であろう隊士たちを、少しでも動ける者をこの場へと招集する。片腕の宇髄では理性を失くした炭治郎を押さえきることはできず、振り上げた拳が今度こそ義勇の額へと当たった。一発当たるだけで視界がぐらりと大きく揺れて倒れ込み、隠に引っ張られて離されてしまった。
「宇髄!」
「薬打てるか!?」
 痛い。血が伝って目に入ってくる。治らない。そうだ、治らないのだった。義勇は人に戻っていた。
 炭治郎が戻ってほしいと言ったからだ。珠世がそれに同調してそうなっている。待っていると言ったくせに、本人は鬼になってしまった。なんということだ。人のままで誰かを助けられた試しなどないのだから、義勇は鬼のままでもよかったのに。それで消えたところで、絶対に後悔などしなかった。
「お兄ちゃん!」
 鬼殺隊本部で保護されていたはずの禰豆子が兄のそばへと駆け寄っていく。珠世の薬で人に戻っている。抱きついた瞬間に禰豆子の肩を噛んだことが焦りを増長させた。
 しかしまだ殺していない。喰っていない。だからまだ間に合う。暴れようとする炭治郎を押さえつけている間に、義勇も懐を探って駆け寄った。だが全方位に攻撃を発してくる炭治郎に近づけなかった。
「私が行きます。貸してください」
 片腕の宇髄は炭治郎を押さえるので精一杯だ。ほかの誰に頼もうにも、すでに疲弊して死すら危険な状態の彼らに頼むことはできない。懐から取り出した薬を握りしめた義勇に、女の声がかけられた。
 蝶屋敷にいたしのぶの継子だ。義勇が関わることはほとんどなかった。だが手に持ったものが何なのかを間違いなく把握しているような様子で、義勇へ手のひらを差し出していた。
「まだ行けます。お願いします」
 押しつけたか奪い取ったか、もはやどちらだったかわからない。薬を掴んで走り出した隊士の背中を見守るしかなかった義勇にとっては、祈る以外に手立てがなかった。

*

「鬼舞辻無惨の最後っ屁か……最後にとんでもねえもん置いていきやがって。死んでなお派手に迷惑な奴だぜ……」
 俺引退したんだけど、なんて憎まれ口が出てくるのだから案外に己もまだまだ戦えるとは思うが、やはりこんなことは最初で最後にしてほしい。最後に少し参戦していいとこ取りしていくなど、仲間から見ても顰蹙ひんしゅくを買いそうだ。まあ、倒しさえすればいいのだから誰もそんな奴はいないだろうと思ってはいる。最後を共に戦えてよかったと思ってしまうのは、やはり宇髄の自己満足ではあるが。冨岡が薬を持っていて栗花落が打ち込まなければ殺すしかなかったが、殺す方法がなかったのだから本当に助かった。
 肺機能に問題はないから呼吸を駆使するのは難なく可能だとしても、片目片腕を失くしてはやはり満足な動きはできなかった。押さえ込みきることもできず、庇いきることもできず冨岡に怪我を負わせた。あいつは鬼であった期間が長いから、人の身に慣れるにはまだかかるだろうに。
「合間にでも自分の止血しろっての……」
 重体の柱、隊士の処置が最優先なのは助かったが、あんな頭から血を流したふらふらのまま処置される身にもなってほしい。処置の途中で見かねた隠が手当してやっていたくらい放置されていた。そして炭治郎が意識を取り戻したあと放心したように宇髄のそばでへたり込み、めそめそと泣きながら手当をされた。
 戦医であることが冨岡の本領である。怪我人の合間を駆け回る姿は鬼であった時と変わらない。戦医なら怪我をするなよとも思うが、鬼だった頃から我が身を庇うことをしてこなかったのだからそれも仕方ない。可愛げのない無愛想よりはよほどいいかと、寝転んだまま右手を伸ばして頬を拭ってやった。なすがまま時折すんと鼻を啜る音を鳴らした。
「冨岡ぁ! ありがとう、本当にありがとうな」
 頭に包帯を巻いた隊士が泣き喚きながら冨岡を抱きしめている。確か柱稽古で冨岡に話があると言っていた奴だ。無事生き残ったようでなによりだった。
「お前人に戻ったんだなあ」
 ぼうっとした目がふと瞬いて、きょろりと空へ視線が向かう。朝陽はすでに高い位置にまで来ていた。
「……まぶしい」
 ぱちりともうひとつ瞬いて空を見つめている。太陽を直接見たら目をやられてしまうぞ、と隊士が声をかけたが、その直後に困ったような表情を晒す羽目になっていた。
 蒼い目からまたもほろりと涙が零れ落ちたものだから、なんと声をかければいいかわからなくなったのだろう。不満げにしたりたまに笑ったり、普段から時折出てはいたものの、それでも冨岡の基本は無愛想だった。あの葬式顔は一体どこに行ったのだろうな。人に戻って涙腺でも馬鹿になってしまったかと本気で考えてしまった。
「今日は泣いてばっかだな」
 仕方ない。人に戻れたとはいえ、代償のように後見人はいなくなってしまった。嬉しいだけではないのだろうことくらいは察することができる。よっこいせと起き上がり、宇髄は静かに泣いている冨岡の頭を抱き寄せた。
 いつもいつもお天道様から隠れるようにして、果ては皮膚を火傷することもしょっちゅうだった。太陽がこれほどに優しい光であったことなど忘れかけていただろう。
「お疲れさん」
 人に戻った感慨など感じる暇もなかった。ようやく太陽に意識を向けて縋るように衿を掴んできた冨岡の背中を、慰めるように叩いてやった。


 他に人がいないか探してくると告げ、義勇は瓦礫と化した建物へと近寄った。
 ここに来てから顔を合わせることなく朝になってしまったが、彼は義勇たちと違い鬼舞辻とともに消滅することのない鬼だから、日陰に潜んでいるはずだった。きょろきょろと辺りを見回していると、目的ではないが聞き知った者の声が義勇へかけられた。
「玄弥! よく生きていた」
「はは……無惨相手に全然役に立たなくて……」
「すまない」
 兄たちの無事を確認したくて彷徨っていたらしい。
 上弦の壱相手に義勇の血は使えたようだが、その後の鬼舞辻相手に向かっていた途中で鬼の血としての効力が失くなったことに気づき、義勇が人に戻ったことを察したのだという。
「あ、いやそうじゃなくて。……上弦の壱は倒せたけどその後は喰えるもんがなくて。俺は皆を守れればそれでよかったけど、無惨なんか喰って本当に鬼になるつもりかって止められて」
 兄を守るため鬼殺隊に入り、危険な鬼喰いをしていた玄弥だ。説得されて止まるようならこんなところにまで来ていないだろうが、どうやら兄と和解できたことが影響しているようだった。
「兄貴は泣くし、……時透さんもやってほしくないって言ったから……専ら後方で……ほんと情けねえ……」
「そんなことはない」
 動ける程度ではあれど、充分酷い怪我をしている。前線ではなくとも皆を守ろうと奮闘していたことが窺えた。
 義勇が渡した血と髪は、上弦の壱戦では充分に役立ってくれたという。再生力は鬼のそれだから胴を割られても生きていたし、結界は時透を守るのに活躍してくれた。それでも義勇が言っていたとおり、上弦を圧倒できるような能力として扱えなかったから、上弦の壱の髪や刃先を喰いはしたのだと玄弥は頭を掻いた。
「無惨の声が聞こえて、もう鬼になるんじゃないかと思ったけど……」
 最後の抵抗のように飛んできた刃は、玄弥に到達する前に結界で防ぎ軌道を逸らして避けられたから生きている。ほろりと堪えきれず涙を溢してしまった玄弥の背中を擦った。誰かに守られて生きるというのは、残された者には時としてひどく重くのしかかる。
「おい」
 兄のもとへ向かおうと腕を肩へと担いで促した時、前方から声がかけられた。
「愈史郎さん」
 声が震えたのは安堵したからと、珠世のことを思ったからだ。なんとも複雑そうな顔をした愈史郎は、普段よりよほど力なく溜息を吐いて近づいてきた。
「……絶対来ると思っていた。珠世さまの厚意を無下にしやがって」
 きっと珠世もそう思っていただろうと言う。誰ひとりとしておとなしく帰りを待っているなど思いはしなかったのだとも。
「お前が生きててよかったよ」
 そうでなければ珠世が守ろうとしたものが消えてしまう。珠世の生きた証がひとつ減ってしまう。握りしめた拳が震えていて、その拳の中に握るのが簪であることに気づいた義勇はまたも涙腺を壊してしまった。
「……日陰までだからな」
「すみません……」
 反対側の玄弥の腕を担いだ愈史郎は、溜息を吐きながら義勇へ文句を口にした。医者稼業のついでに身体を鍛えておけと助言をくれる。確かに、宇髄にも軟弱だと文句を言われてしまっていた。言い返せず頷くしかできなかった。


*
*
*

 頭を下げられた。
 彼は起きたら必ず戦地へ向かおうとするだろうから、説得して止めてほしい。冨岡にとって珠世は恩人でもあり、ずっと鬼狩りから存在を隠そうとしていた者だ。珠世にとっての冨岡もまた、特別であることは間違いない。宇髄としても死んでほしくはないのだから、頼まれたことは遂行するつもりはある。とはいえ。
「珠世にはああ頼まれたが……止まんねえと思うがね」
 宇髄が止めてきくような奴ならこれまで苦労していないし、宇髄邸に引っ込めていられただろう。そうではないから何度も溜息を吐く羽目になったのである。まあ、絆された己が悪いといわれればそうなのかもしれない。
「こいつ止められる奴は誰だって話だよ。わかってるはずだろうにな」
 宇髄よりも関わる期間が長かった珠世がわかっていないはずがなく、説得程度でおとなしくしているタマではないことも周知の事実である。守りたいのは本心だろうが、来てほしい思いもあったのではないだろうかと邪推する。期待しているからこそ説得してくれと言ったのではないだろうか、なんて仮説が思い浮かぶ。
「………。では、そのために託しておいたほうがいいかもしれませんね」
「あ? ……そいつは?」
「人化薬です」
 寝台に寝かされている冨岡の枕元に、胡蝶しのぶは小箱を置いた。
 研究に関わった、鬼舞辻無惨との戦いへ向かう者へ渡されていたものだという。珠世は鬼舞辻無惨へ取り込ませるために所持し、獪岳としのぶ、愈史郎にも託されていたのだと。
「戦闘中に割れてしまう可能性もある。何かあった時に託しておきますね。カナヲにも伝えておきます。――待ってますから」
 起きる気配のない冨岡へ、期待を込めて口にする。珠世の思いとは正反対の言葉がかけられたものだから、宇髄は呆れたようにしのぶを見た。
「珠世さんには内緒ですよ。……姉は冨岡さんに助けられましたから、助けてほしいと思ってしまう。彼も戦ってきたひとですし。……宇髄さんとしては、安全なところにいてほしいのかもしれませんがね」
「放っとけよ」
 がしがしと頭を掻いて憎まれ口を叩いた。珍しく柔らかな笑みを浮かべて楽しそうにしている。揶揄うような、見守るような。
 けれど、宇髄とて本心から呆れたわけではない。珠世にとって守りたい相手であったとしても、しのぶにとって冨岡は頼りになる仲間だということなのだろう。
「私も好きですよ、そういう自分を後まわしにするところ。本当に危ないと思いますけど。説教するくらいには呆れてますけども。……まあ、それが冨岡さんですしね」
「まあな」
 己を顧みないなどと、柱から言われては冨岡も心外だろう。しかしこいつには実績がある。何度言われても朝陽に晒されてきた過去があるので、それを知っている者としては気が気ではなかった。おそらくは、人に戻ってもはらはらさせることを必ずやる。そういう信頼がある奴だった。
 お前に言われたくないと、言葉にせずとも思っている可能性だってあるな、などと宇髄は思うのである。