異端者たち 二

――厄日だ。
 木の上で義勇は息を潜めていた。
 妙な匂いがしていたからだ。義勇が山に入ってすぐ漂ってくる匂いに気がついたが、その後に人間の気配が入山してきた。恐らくは鬼狩りだが、宇髄以外に見つかったら間違いなく頸を斬られるので一先ず木の上に登って様子を見ることにした。彷徨うように山中を移動していた鬼狩りは、この山を根城にしている鬼を探しているようだった。
 匂いの元凶だろう。未だ夜は明けていないが、そうのんびりもしていられない。朝方も陽光に晒されかけた。なんならちょっと火傷したのを今頃思い出した。そういえばそれも鬼狩り関連だったのだ。
 予断を許さない怪我を負って倒れていたのを見つけたからできる限りの処置をしたが、日陰から飛び出したことで火傷を負った。別に治ったしそれを気にするどころではなかったからそうしたのだが、こうも鬼狩りとの邂逅が続くと義勇とて無事に帰れるか不安になる。外套は陽の光を完全に遮断してくれるものではないので、見つかる前にこの場を去りたかった。
 距離が離れているからか感じる匂いは微かだが、吸えば義勇でも脳が痺れるような感覚がする。山の鬼の血鬼術だろうが、珠世の血鬼術のような毒は往々にして厄介だ。山にいる鬼狩りが経験不足の未熟者でないことを期待した。
 助ける余裕ははっきりいってない。義勇自身も危機に晒されているからである。見つかって殺されたら愈史郎が怒るだろうなとぼんやり義勇は考えた。珠世に助けられた命を大事に扱えと、ことあるごとに叫んだりねちっこくキレてきたりと刷り込んできた彼だ。まあ、言葉はアレでも義勇の身を案じてくれているのは間違いないわけだが。
「………」
 近づいていた鬼狩りの気配が山奥へと遠ざかり、義勇は静かに木の上から地面へと降り立ち鬼狩りとは反対方向へと駆け出した。山の鬼を追っている間にこの場を離れれば気づかれずに帰れるはずだ。そう考えて音を鳴らさずに山を降りていた時、鬼の気配が薄れていくのを感じ取った。どうやら鬼狩りは仕事をしたらしい。
 あとはばれずに山を降りるだけ。足を速めようとした時、ふいにぐらりと身体が揺れた。
「………っ!? これは、」
 罠だ。しばらく雨など降っていなかったはずの地面に泥濘があり、足を取られて爪先が泥に嵌っていた。膝をつくしかなかった先の地面に手をつくと、手のひらが変色してぐずぐずと皮膚が溶けていく感覚がした。
 藤の花の毒だった。地面一体にぶちまけたのか、液状の毒が染み込んでいる。入山する前にはなかったものだ。少し注視すればわかるような罠に掛かるとは、自覚するよりも焦っていたらしい。人の心配などしている場合などなかった、未熟の一言に尽きる。
「く、」
 下手を打った。立ち上がろうにも片足は藤の毒の泥濘に嵌り、足袋も草履も毒が染み込んで足裏ももはや形を成していない。木の幹に手をついたらそこも毒が散布されているらしく、なかなかに殺意の高い罠だった。
――来る。
 罠に掛かるとわかる仕組みでもあったか、気配がこちらへ近づいてくる。うまく立ち上がれなくとも立たなければ、立って逃げなければ無駄死にするだけだ。
 鉢合わせる前に逃げる。地面に皮膚が持っていかれる感覚に顔を歪めた義勇は、無理やり足を包んでどうにか駆け出した。

 義勇はげんなりした。
 ただでさえ推定鬼狩りの罠に掛かって足も手もぐずぐずになったというのに、逃げ込んだあばら家には先客がいた。
 滅の一文字を背負う人間が突っ伏して倒れている。また鬼狩りだ。避けて生きろと散々愈史郎に、宇髄にすら忠告されていたというのに。なんなのだろう、今日は鬼狩り関連の厄日だろうか。
 しかし、鬼である義勇がここまで近づいても動かないほど消耗して気絶しているらしい。確かに鬼の血肉の匂いと人間の濃い血の匂いが入り混じって鼻につく。
 鬼狩りが戦う相手は弱点以外の傷など瞬時に治ってしまう鬼であるから、こうして怪我に倒れることは茶飯事なのだろう。今朝の女の鬼狩りも、本来なら怪我とは無縁の生活をしていたかもしれないのに。
 まあ、起きないのならいい。溜息を吐きつつ治った手でごろりと身体を仰向けにした。
 血と泥がこびりついているが、珍しいほどに明るい髪色だ。宇髄の髪も白かったが、こちらはまるで炎が宿ったかのような色だった。
「カアーッ!」
「大人しくしてろ。死なせたいのか」
 あばら家の窓から入り込んできた鴉が狭い室内で威嚇してくる。おそらくこの鬼狩りの鴉だ。義勇を鬼と気づいているのか、宇髄が言うには人語を理解するらしいが。
 動物は苦手だ。特に苦手なのは犬だが、他の生き物もさほど好きではない。猫の茶々丸と宇髄のねずみだけは触れるが、彼ら以外に近寄りたくはなかった。
「手当するだけだ」
 義勇の言葉を理解したのか、騒いでいた鴉は何度か羽ばたいてから黙り込んで鬼狩りのそばに降り立った。主人から離れず義勇を監視しているようだ。
 義勇に悪意がないことをわかってもらえたらよかったが、監視に切り替えてくれただけでも良しとしておこう。大人しくしてくれるのならとりあえずは進められる。
 そうして処置を終えた義勇がひと息ついた時、鴉の警戒がようやく解かれたような気がした。主人の髪にすり寄っている様子が、大事に可愛がられているのだろうと察せられた。
「俺のことは黙っててくれないか」
 もうすぐ夜が明ける。小さな窓から外を眺めて確認した義勇はフードをかぶり直して立ち上がり、言葉を理解しているであろう鴉へ話しかけてみた。
 この一連のことは他言無用としてほしい。宇髄以外の鬼狩りとは相容れない義勇であるから、主人には何も言わずに見逃してほしかった。組織に仕える鴉なのだから、隠しごとなどあり得ないのだろうが。
 もう逃げなければ二日連続で火傷をする羽目になりそうだ。壊れて立て付けの悪い扉を無理やりこじ開け、薄明るくなりかけている外へと足を踏み出した。
「カァ」
 背後で羽ばたく音とともに、鴉がひと声鳴いた。
 それがどちらの返事か義勇は確認する隙もなかったから、黙ってその場を後にした。

*

 かっと目を覚ました視界には天井があった。
 朽ち果てたあばら家は、強い雨風ですぐにでも壊れそうだった。ここに人は住んでいないだろうが、起き上がって包帯を巻きつけられた上半身を見るととても丁寧に手当がされてあった。
 鬼の攻撃を受けてどうにか頸を斬り落としてから、なんとかここまで辿り着いただけのあばら家だ。偶然近くに医者がいて、倒れていた煉獄をこれほど丁寧に処置をしてくれたのだろうか? 運が良すぎるし都合が良すぎる。
「要。きみは俺を助けた人を見ていたか? どんな人だった」
 仕事熱心で真面目な鴉だ。起きるまで見守ってくれていたのだから、治療を受けている間も見てくれていたはずだ。そう考えて問いかけてみたのだが。
「蒼イ目ヲシテイタ」
「……蒼い目? それだけか? もう少し見た目がわかると助かる。名乗りはしなかったか?」
 外套をかぶっていた。名前も言わなかった。わかるのは蒼い目だったことだけ。煉獄は困り果てた。
 助けてくれた人に礼を伝えたいのに、その相手はどこの誰かもわからない。ひとえに煉獄が未熟だった故に起こったことだが、探し出すのは骨が折れそうだ。何か知っているかもしれないと鎹鴉が話すことを待ってみたが、これ以上の情報は本当にないらしい。
「仕方ない。それらしき人を見つけたら教えてくれ」
「承知シタ」
 いつか会えることを期待して、今は置いておくしかなかった。

「煉獄さん!?」
 誰かの気配が近づいてくると思ったら、どうやらそれは同僚だったらしい。
 あばら家のこじ開けられた扉の隙間から陽光とともに覗き込んできたのは蝶屋敷の主人の妹、胡蝶しのぶだった。煉獄もよく世話になるから顔見知りである。
「きみ、任務に出てたのか」
 しかし、今朝方――今はもう昨朝か――鎹鴉は伝令を叫んだところだった。彼女の姉である蝶屋敷の主人、花柱の胡蝶カナエが上弦の弐と戦闘になった。顛末は逃げられたという話だが、重傷を負ったと伝え聞いている。
「ええまあ、指令が来ましたし……先ほど蝶屋敷から容体は安定したと連絡ありましたから、とりあえずは」
「そうか」
「しかし、おかげで鬼を一体取り逃がしました。せっかくとびきりの毒を撒いたのに」
 任務中は気が気ではなかったろう。それでも標的だった鬼は倒したというのだから大したものである。罠を張っていたはずが逃げられたという鬼についてはまだ悔しそうにしていたが、煉獄の手当された身体を興味深そうに胡蝶が眺め始めた。蝶屋敷には怪我人が運ばれる医療機関でもあるので、彼女にとってはさほど珍しいものでもないと思ったが。
「この手当はどなたが?」
「それがわからん! 恥ずかしながら俺は力尽きて倒れてな、気づいたらこうなっていた。親切な医者が手当してくれたんじゃないかと思うが」
「医者……確かに。隊士にしては随分丁寧な仕事だと思いました」
 隊士に医療の心得がある者自体が多くない上、任務中に応急処置をする際は焦りも相まって雑な処置になりがちだ。止血だけしていれば大丈夫なんて考えの者もいるらしい。まあ、鬼相手に戦っていてゆっくり手当できる隙がないというのは間違いないので、煉獄としては胡蝶の怒りに全面的な同意はできないが。
「姉の……応急処置も、あの場で済ませていたから一命を取り留めたんです。大事なんですよ、迅速で適切な処置というのは。……できないことのほうが多いのは重々承知していますが」
「成程、胡蝶の姉君の時も親切な医者が鉢合わせて手当を……」
「………」
 黙り込んだ煉獄と胡蝶は神妙な顔をして目を見合わせた。
 痛みを無視して立ち上がりあばら家の扉から外を眺めた。のどかで静かな景色が広がっている。民家は遠目に見えるだけだ。たまたま医者が通りがかったというのなら、夜に出歩くとは随分な危険を犯している。
「同じ医者かもしれんな」
「姉が覚えているかどうかはわかりませんが、一度確認してみます」
「頼む! 俺も礼が言いたいんだ」
 胡蝶の姉を助けたという暫定医者と煉獄を助けた人物が同一人物かどうかはわからない。要は蒼い目だったというが、わかる特徴はそれだけだ。男なのか女なのか、若かったのかどうかもわからないが。
 なんとなく、また会えそうな気がするのだ。なぜかそう楽観視できるのだった。