桔梗の前途を嘱望する

「炭治郎が結婚すんの?」
 家族が増える、と大喜びの音を鳴らしながら口にした一つ歳下の友人は、そうじゃない、と真面目な顔を作って説明した。
 曰く、姉弟子の冨岡が結婚するだろうから、育手である鱗滝が親代わりを務める。鱗滝は炭治郎の親代わりでもあるから、実質姉弟子は炭治郎の家族である。そんな超理論についていけず、善逸は何度も聞き返した。
「話の腰を折るな、善逸。俺は今凄く嬉しいんだ」
「そうは言うけど、まず結婚するだろうからって何だよ。決定事項じゃないの? 婚約とか、結納済ませてるとかさ」
 炭治郎の姉弟子といえば、鬼殺隊の水柱であるあの美人だ。あまり関わったことはないが、遠目でもわかる目立つ容貌はどこを歩いていても人目を惹く。柱の女性陣を思い浮かべ、目の保養だよなあ、と善逸は思う。
「それは、まだだと思うけど……でもそのうち、絶対そうなる」
「どうだろ。女って移り気だし」
「義勇さんはそんな人じゃない!」
 ぷんすかと怒る炭治郎は、冨岡を貶されたと解釈したようで善逸に対し睨みを効かせてきた。善逸とて冨岡が移り気な女性だと決めつけているわけではないが、何せ今まで会ってきた女が質の悪い者たちばかりであった。禰豆子は別だと信じて疑わないが、恋愛に関連した音を冨岡から聞いたことはない。
「冨岡さん本人から言われたのか?」
「いや。居合わせたというか、口を突っ込んだというか」
「はあ。お前人の恋路にもお節介焼いたの? そんなことして冨岡さんも迷惑なんじゃない?」
「うっ。で、でも、帰り道に嬉しそうな匂いがしたし、煉獄さんも嬉しそうだったし」
「ちょっと待て」
 ん? と首を傾げる炭治郎の両肩に手を置き、善逸は俯いた。今、とんでもない名前が出てきたような気がするんだが。深呼吸をして息を整える。何かとてつもない爆弾を投げ込まれそうな気がひしひしとしている。
「……冨岡さんが、誰と結婚するって?」
「煉獄さん」
「煉獄ってその……あの?」
「炎柱の煉獄杏寿郎さんだ」
 己の悲鳴に羽音を立てて鳥たちが一斉に飛び立つ。悲鳴。そう、もはや驚愕の声ではなかった。自分でもうるさいと思う。耳が良いからな。ではなく、炭治郎の掴んだ肩に思い切り力を込めたせいで、痛いしうるさい! と怒鳴られてしまった。
「えっ。ていうか、そうだったのあの二人!? 凄い正反対の人たちじゃん」
「俺もそう思ったけど、煉獄さん家で見たときは凄くお似合いだと思ったぞ」
「そりゃ柱同士だし! ていうか煉獄さん家行ってたの!? 冨岡さんと!?」
「違う。用事があって近くまで行ったから寄らせて貰ったんだ。そしたら義勇さんも煉獄さん家にいて」
 あっ、ふうん。もう家族公認の仲だったんだ。確かに関わることは少なかったけれど、全く気づかなかったと善逸は驚いた。それはもう盛大に驚いた。
「千寿郎さんが言うには、昔からたまに遊びに行ってたらしいんだ。だけどいつまでたっても嫁いで来てくれないと言ってて」
 そりゃあ柱だもの。色々あるのだろう。
 しかし、水柱が嫁ぐという言葉に、全く想像がつかないのは口にして良いことなのだろうか。相変わらず炭治郎からは喜びの音しか聞こえてこない。
「煉獄さん、元気だったの?」
「ああ。列車の時以来だけど、あんな大怪我だったのにもう歩いていた。凄いんだあの人は」
 今度は皆でお見舞いに行こうと提案され、善逸はそれに素直に頷いた。そっくりだという煉獄の弟君にも会ってみたい。
「しかしそうかあ……へえ。あの二人がねえ」
「凄いだろう! お祝いしなきゃいけないな」
 何が良いだろう、と善逸に相談してくる炭治郎は、善逸がほとんど冨岡と関わりがないことを知っているのだろうか。そういえば伊之助は蝶屋敷で冨岡を見かけると、即座に斬りかかって返り討ちに合っていたことを思い出す。
 もしや四人の中で己だけ関わりが浅いのでは、と善逸は考えた。
「静かな人だから、ぱーっとやるのはきっと嫌だよな。何か贈り物が良いかな?」
 ぼんやりと炭治郎の提案を聞きながら、善逸は結婚について思いを馳せる。
 柱同士の結婚。過去あったかはわからないが、それにしたって意外ではないだろうか。良いなあ。お嫁さんを貰って、質素でも睦まじく生活していくのは善逸の夢だ。禰豆子と結婚したら死んでも幸せにしようと誓える。いや、死にたくはない。せめて子供の成長を禰豆子とともに見守りながら、孫を見てから眠るように死にたい。
 禰豆子と結婚するならば、まずは炭治郎に挨拶をしなければ。二人には家族がいないから、三人で和やかに食事でもしながら楽しく会話ができるだろう。そこで先程の炭治郎の言葉を思い出し、鱗滝という名前を思い出した。
 親代わりと言っていた。そうだ、親代わりで良いならば、善逸にも師と兄弟子がいるのだ。六人で楽しく、は無理かもしれないが、あいつだってめでたい席ならば怒りはしないだろう。まあ来ない可能性が高いのだが。とにかく和気あいあいとした雰囲気の顔合わせにできれば良い。やはり最初の挨拶は、禰豆子さんを僕にください、だろうか。
「ひょっとして、顔合わせは煉獄さん家になるのかな?」
 耳に入ってきた炭治郎の声で、彼の姉弟子の顔が過ぎった。煉獄家での顔合わせなど、どのような空気でなされるのだろうか、と考えた時。
「うおおお!」
「うわっ! 何だ善逸!」
 赤いのか青いのか自分で確認はできないが、己の顔色は平常時とは全く違う色になっているだろう。炭治郎の言葉を思い出し、善逸は絞り出すように言葉を口にした。
「炭治郎の家族なら、俺のお義姉さんじゃん」
「何だって?」
 眉間に皺を刻み込んだ炭治郎の顔が見えた。

*

「こんにちは、義勇さん!」
「冨岡さんなら今は留守ですよ。もう戻られると思いますけど」
 ここは蝶屋敷ではなく、対人に難ありの水柱、冨岡義勇の屋敷である。
 玄関の開かれる音の後、聞き慣れた元気な声が冨岡を呼んだ。残念ながら家主は不在である。時折様子を見に冨岡の家へと寄るのだが、先程何やら必要なものを買い忘れたと家を空け、仕方なく胡蝶は留守番をしている最中であった。
「稽古ですか? 善逸くんも一緒に」
「はい。それから禰豆子が会いたがって」
 おやおや。炭治郎のおかげであろうが、彼らとは良い関係を築いているらしい。俺はあんまり話したことないです、と呟いた善逸だったが、嫌うような関わりもないのだから、冨岡にとっては有難いかもしれない。
「あら、ちょうど帰って来ましたね」
 戻った冨岡が玄関を開け、胡蝶と相対している二人に気がつく。振り向いた炭治郎が声を掛ける前に、禰豆子が箱から飛び出て冨岡へ抱きついた。玄関を急いで閉める冨岡が目に映る。
「禰豆子、まずは挨拶だろう」
 口枷をしているので言葉として認識はできないが、兄の言うとおり挨拶をしているようだった。
「……おはよう」
 残りの二人も続いて挨拶をする。返事をした冨岡は未だ禰豆子にしがみつかれ、身動きの取れないままだ。思っていたよりも懐かれているらしく、胡蝶は意外そうに感嘆の声を漏らした。
「良かったですね、冨岡さん。嫌われていなくて」
「………」
 何かを言いたげに口を開きかけたが、諦めたのか溜息を吐いて草履を脱いだ。ちょっとした軽口ではあるのだが、あまりしつこいといくら冨岡であろうと胡蝶を嫌ってしまうだろう。できれば避けたいので、いじるのは胡蝶の考える程々にしている。

 午前の稽古が終わり、道場には息一つ乱れていない冨岡と、大の字に寝転がる善逸の姿があった。道場の隅でお手玉を転がして遊んでいるのは禰豆子だ。炭治郎は庭で洗濯をしている。稽古で大汗をかいて水分が滴り落ちる様子を見かねた冨岡が、道着を脱いで洗濯しろと注意したせいだ。ついでに水もかけられたらしく、倒れ込んでいる善逸もずぶぬれである。今日は確かに蒸し暑い。冨岡は彼らの体調も気にしたのだろう。
「お前も洗え」
「あ……すみません、お義姉さん」
 転がっている善逸の手を掴んで起こしたまでは良かったのだが、彼の口からよくわからない単語が飛び出てきた。
 お姉さん、と言ったように聞こえた。確かに冨岡はお姉さんではあるが、名を知らぬわけもなく、今更そんな呼び方をするものだろうか。ほら、冨岡自身も困惑している。
「善逸」
「ヒャッ」
 そこで何故か怒っているような表情をした炭治郎が声をかけた。善逸は焦って言い訳を炭治郎に向かってしようとしているのだが、正直なところ、胡蝶と冨岡は何故これほど妙な空気になったのかわからず置いてけぼりである。言い訳を聞いてみても、焦りすぎているのかいまいち要領を得ない。禰豆子がどうとかいう話だが。
「ほら、冨岡さんも驚いていますよ。どういうことですか?」
 落ち着いて話すよう促し、今度は炭治郎から説明がなされる。
「禰豆子と結婚すると言って聞かないんですが、禰豆子の気持ちがないと駄目だし、俺はまだ早いと思うんです。でも善逸が先走ってしまって」
「ええ、その辺りはわかりますよ。ですが冨岡さんのお姉さん呼ばわりは関係ありませんよね?」
 それが、と快活な炭治郎が珍しくもじもじと言い淀む。育手である師に関係しているらしかった。
「義勇さんの親代わりとして鱗滝さんが挨拶に行くんだろうなあと思ったら、義勇さんは俺と禰豆子の家族になるのかと思って」
 俺たちも鱗滝さんが親代わりだし、と呟いた炭治郎は、案外幼く可愛らしい思考を持っているものだと感じたのだが、ちらりと盗み見た冨岡の横顔は、特に変わることはなかった。心中で何を思っているのかはわからない。
「それは素敵なことではないですか。冨岡さんも炭治郎くんと禰豆子さんなら弟妹として可愛がりそうですものね。ああ、どちらかといえば、世話を焼かれる側かもしれませんが」
 親代わりの育手が同じ人物であるならば、確かにその発想に至るのもわからなくはない。禰豆子と結婚したがる善逸がつい口にしたのは、義理の姉という意味だったか、と納得した。
「挨拶というのはよくわかりませんが、何か仕出かしたんですか?」
「何もしてない」
 仕出かしたという言葉に不快を示した冨岡が、眉間に皺を寄せながら答えた。違うんです、と炭治郎が口にする。
「義勇さんの結婚の挨拶には、鱗滝さんが行くんだろうと思って」
 木刀が手から滑り落ち、床に打ち付けるような音が響く。それは確かに、親代わりであればそうなるのは理解できる。結婚をしたいと思ったことはないけれど、両家族との顔合わせがあることくらいは知っている。
 何故、木刀を落とすほど狼狽えているのだろう、この人は。
「……予定があるんですか?」
「……いや、」
「ええっ? だってこの間凄く嬉しそうな匂いがしましたよ。俺も嬉しくってお祝いを何にしようかと、」
 言葉を発している炭治郎の口元を手で覆い隠し、冨岡は黙っておけ、と呟いた。小さく肩が震えている。これは、と胡蝶は期待した。
「ちなみに善逸くん。お相手はご存じですか?」
 にっこりと笑みを作って善逸へと向き直る。びくりと肩が跳ねた善逸に、片手の塞がっている冨岡が動こうとしたが、それよりも早く善逸の口が開いた。
「煉獄さんだと聞いてます!」
 左手を伸ばした冨岡の顔は、見たことのない形相だった。

*

 静まり返った道場には、口を塞がれた炭治郎と、怯えきって膝を抱えている善逸へ手を伸ばしかけて固まっている冨岡、物珍しそうに冨岡を眺める禰豆子、そして善逸の目線に合わせるようにしゃがみこんでいる胡蝶がいた。
 たまたま滅多に行かない冨岡の屋敷に用事があり、誰かがいることはわかるものの、呼んでも出てこないものだから外から見えないものかと覗き込んだ。道場には人影があったから声を掛けようと手を振りかけた時、勢いよく胡蝶が立ち上がった。
「おーい、何やってんだ」
 宇髄の声を聞いてか、胡蝶が思い切りこちらへと振り向き駆け足で近寄って来る。近くを歩いていた通りすがりの町民がヒッと悲鳴を上げた。悲鳴を上げたくなる気持ちはわかる。鬼と相対したときの不死川のような顔をしていた。
「宇髄さん!」
 上げていた手をがっしりと掴み、不死川から死ぬほど上機嫌な胡蝶に顔が変わっていく。何なら泣きそうなほど目が潤んでいるが、視界の端に顔を隠して崩れ落ちた冨岡が映った。何がどうしてそうなっているのか、宇髄は全くわからない。わからないが、とてつもなく面白いことになっていることは理解した。
「冨岡さんが冨岡さんじゃなくなります」
「意味がわからん」
 ごめんなさい、とうずくまる冨岡に頭を下げる炭治郎の姿が見えた。

 ああ、ようやくくっついたのか。そう口にした時、冨岡は赤くなった目元のままじろりと宇髄を睨みつけた。表情に可愛げはないものの、そうして照れている姿は人並みの娘だ。ちゃんと照れたりできるんだなあ、と感慨深く心中で息を吐く。
 今ここにいない炎柱を思い浮かべるが、何とも気の長い奴だ、と宇髄は感心したような気分になった。何せ噂を聞いたのはもう何年も前になる。その間何があったのかは偶然目に入った二人の様子しか知らないが、この調子では冨岡が自覚したのは最近のことなのだろう。あっちは早い段階で自分の気持ちに気づいていたようなのに。
 まあ、片方いない状態では、冨岡に話が集中するのは仕方ない。その上こいつは口下手なのだから、あまり質問攻めにするのは可哀想だろう。とは思うのだが、気にしていた胡蝶の気持ちも知っている宇髄としては、程々にしてやれと口にするくらいしかできなかった。
 あんまり騒ぐと雲隠れしそうだよなあ、こいつ。
 宇髄の見立てでは冨岡が自覚したのは最近だ。そんな相手に何年も恋慕していたであろう煉獄が、今見る限りでも初心だとわかる冨岡相手に急いた一手は取らないだろう。冨岡の歩調に合わせて己の感情を抑えていたのではないかと思うのだが、周りが騒いでおかしな状態になっても煉獄が気の毒だろうと思う。
 煉獄と冨岡のゆっくりとした歩みを見守るのも悪くないと思うのだが。
 如何せん冨岡が落ち込み道場の隅で膝を抱え込んでしまっているので、本人に聞くにも聞けぬ状態になってしまった。
「何を聞いても答えてくれません。炭治郎くん、教えていただけませんか」
 それは酷というものだ。
 気になって仕方ないらしい胡蝶は少々自分を見失っているように見える。
「俺も見ていたわけじゃないので」
 姉弟子を思ってか反省してか、炭治郎は何があったか伝えることはしなかった。本当に知らないのかもしれない。
「そうですか……」
「胡蝶もあんまり冨岡いじめるなよ。煉獄なんだから大丈夫だって」
「それはそうですけど。嬉しくてつい」
 噂を聞いて何年になる。そう呟いた胡蝶は、本当に冨岡を案じていたのだろう。今は暴走してしまったが、本来こいつはどこかの誰かさんが幸せになることを望んでいた。
「冨岡さん、こんな人ですから。きっと前途多難なんだろうと」
「ま、俺はお前らの報告を待つわ。構ってられるほど暇じゃねえしな」
 そうして出て来た冨岡の家に視線を向けながら、いつになるかねえ、と宇髄は口にした。

*ちょっと月日経ってる煉家の方々

 並んで座る二人からの報告を聞き、槇寿郎は長い長い溜息を吐いた。
「やっとか……」
 肩を揺らした冨岡に気づき、責めているわけではない、と言葉を続けた。己の酒浸りの生活態度も関係しているだろうと自覚しているし、反省もしている。
「これからは義姉上とお呼びできるんですね!」
 隣で目を輝かせていた千寿郎は、それはもう嬉しそうに笑っていた。
 ――いつ義姉上になって下さるのでしょうか。
 幼い頃に死別し、母の記憶があまりない千寿郎にとって、妙齢の女性と関わる機会はほぼなかった。兄の同僚として知り合い、昔から千寿郎にも良くしてくれたのだから、彼女に懐くのは当たり前のことだろう。もしかしたら、想像する母親に近い存在だったのかもしれない。年齢を考えると失礼にあたるかもしれないが。
 水柱を務めていると聞いているが、何事にも動じるところをほとんど見たことがなく、水の呼吸の剣士に相応しい振る舞いだと感じた。その冷静さは、今は亡き妻にも通ずるところがある。
「反対をするつもりはないが、確認として聞きたいことがある。気を悪くしないでくれ」
「はい」
「きみのご家族は死別したと聞き及んでいる。師は狭霧山の鱗滝左近次殿だったな」
「はい。十三の頃に呼吸法を指南いただきました」
 幼い頃に両親は病死、姉は鬼に殺されたと聞く。孤独となった冨岡にとっては鱗滝は師であると同時に親代わりでもあったようだ。
 元柱の鱗滝左近次のことは、直接会ったことはないが名前を聞いたことがある。五体満足で柱を引退するほどの実力を持っていると、己の時代にいた水柱が嬉々として語っていたことがあった。
「そうか。では狭霧山にもご挨拶に行かねばな」
「先生……鱗滝は、こちらから伺うと」
「ああ、それは有難いが、きみにとっては実家のようなものだろう。うちも訪問しておきたいと思ったんだが……杏寿郎は伺ったことはあるのか?」
「いえ、まだありません」
 そうだろうなと槇寿郎は頷いた。柱として日々忙しくしていた二人では、なかなかそこまで気が回らないのだろう。その上杏寿郎は療養していて、山に入るには少々厳しいという理由もあっただろうことが窺える。
「……その、炭治郎が」
「竈門くん?」
 予想外の名前が言い淀みつつも冨岡の口から出てきて、思わず聞き返してしまった。そういえば煉獄家で療養しだしてから一度杏寿郎の見舞いにと来てくれていたが、冨岡がいた時だったかはあまり気にしていなかった。何ぶん息子は慕われているようで、ひっきりなしに人が入れ代わり立ち代わりしていた時期だ。
「弟弟子なのですが、狭霧山に行くのなら行きたいと」
「そうだったのか。それはわかるが、別の機会にしてはもらえないのか? 我々が行くのは報告と挨拶だろう」
 初めて見る冨岡の渋い顔に驚き杏寿郎を見るが、いつもどおり口角が上がったまま槇寿郎を見ていた。どこかの角で足の小指をぶつけた時のような顔なのだが、杏寿郎は隣を見ていない。見ろ。お前の伴侶が凄い顔をしているぞ。
「鱗滝が親代わりとして育てたのは私だけではなく、」
「……あー、彼もきみの家族になると?」
 頷いた冨岡にようやく得心が行く。それはわからないでもない、のだろうか。冨岡自身も納得できていないからその顔なのだと思うのだが。
「そんなことを言ったら狭霧山に行くだけで大人数になってしまうぞ。千寿郎も行きたいだろうがどうすべきかと思っていたが、………。……えっ、竈門くんと親戚になるのか、うちが?」
「楽しそうです、父上」
「そりゃお前はそうだろうな。いやそれはまあ良いが、やはりこういうのは当事者二人か、あっても親だけでいいのでは? 収集がつかんぞ。きみも何か可笑しいと思ったら断りなさい」
 元気がなくなったように見える。もしかして楽しみにしていたのか、あの顔で。それとも断るのに骨が折れるのだろうか。親族の集まりなどあとで開催できるのだから、そこは涙を呑んで我慢してくれ。いや、いつ死ぬかも知れない仕事ではあるが、そこはしきたりも重視してみてほしい。というか、きちんと話してみて思うのだが、この娘は何やら少し変わった子という印象を受けた。具体的にどこが、とはっきりいえるわけではないが、家のこととか大丈夫だろうか、と槇寿郎は漠然と不安になった。それとも杏寿郎がいれば問題ないのだろうか。
「まあ、その辺りは追々考えていけばいいか……鱗滝殿が来てくださるなら問題はないのだろうしな。俺の考え過ぎかも知れん」
「すみません」
「いや、彼も嬉しかったんだろう。顔合わせが終わって、狭霧山へ向かうことがあるなら竈門くんと一緒に行ってくれば良い」
「狭霧山はどんなところなのでしょう」
 千寿郎の問いに、冨岡は考え込むように首を傾げた。槇寿郎も詳しくはないので答えを待つ。
「空気が薄くて霧が深く、修行には良い場所だと」
 柱になるくらいなのだから、鍛錬に直結した答えであってもおかしくないとは思う。地形を活かして修行ができるのは、確かにうってつけとなるだろうが。
「私にとっては、安らぐ場所です」
 口元が綻び、大事な場所であることが見て取れた。

*

 長かった。
 本当に長かったと思う。
 兄は冨岡に対してはっきりしなかったというよりも、冨岡の気持ちを待っていたように思えた。鬼殺隊に籍を置く身分としてはいざという時に悔いを残してしまうかも知れないが、兄には兄の考えがあったのだろうと思う。
 炭治郎が見舞いに訪れた日、今まで感情を詰め続けた冨岡の心が、兄の言葉で限界に達してしまったように見えた。あの日冨岡が帰る頃には、今までの距離感がなかったかのように彼女は兄に触れられることを避けていた。玄関先で荷物を手渡した時など、冨岡は思い切り兄の手を避けて荷物を掴んだ。
 正直その時の兄の顔は見ていられなかった。ただ冨岡の顔を見ると、苦悶の表情を浮かべつつも頬が赤かったので、単純に照れているだけのように思えた。今、それなのですか。解せない。
 兄に肩を貸し、小さくなった冨岡と炭治郎の背中を見送りながら、千寿郎は恐る恐る聞いてみた。冨岡は一体どうしたのか。言外に思い切り意味を込める。あんな状態で、よもやこれが最後の訪問ではあるまいな。照れているだけなのだろう、すぐ元に戻るのだろう、そうであってほしいと。
「どうしたと言われるとな」
 困ったような照れたような、一言では表せぬ複雑な表情だった。初めて見る兄の表情に千寿郎は驚いた。子供が淡い恋心をからかわれた時のような反応が、本当に夫婦のように睦まじかったこの二人から飛び出てきたのか。
 兄上。兄上しっかりしてください。なぜ今になってそのような反応を示すのでしょうか。冨岡さんが今更意識しているというのは何となくわかりました。でも兄上はわかっていてあの距離感だったのではないのですか。そんな初々しい表情が出来るのですか。いや僕は恋をしたことはまだありませんので、そういうものなのかも知れませんが!
 でも、と心中の叫びは続く。千寿郎が見てきた二人はいつも穏やかで、お邪魔虫であったはずの己にも優しかった。そんな二人がようやく想いを交わせた上、あのような様子を見せたのは大変嬉しかったし、正直にいえば。
 ――物凄く、可愛らしい。
 胸が締め付けられるようだった。表情豊かとはお世辞でも言えない冨岡が、微笑まずとも頬を真っ赤にしている様は、歳上の女性であろうと愛らしく見え、彼女の様子に照れた顔を見せた兄もまた可愛らしかったのだ。何なんだ、本当に。この込み上げるものがときめくという感情なのだろうか。
 寂しい気持ちを抱えることが多かった千寿郎に、冨岡なりに歩み寄り、千寿郎を気にかけてくれたことは、言葉に出来ないほど嬉しいものだった。兄が好きになった人が冨岡で良かったと心底思っている。ずっと見ていたくなるほど愛おしかった。それがこの先別つまで、できるだけ長く見守れることを祈った。