曙光の空

 張り上げた声よりも大きいのではないかと思えるような舌打ちが聞こえた。つられて顔を上げると殺の一文字を背負う後ろ姿。同じく顔を上げた冨岡は、不死川の姿を目に留めると納得したようにまた視線を戻し、煉獄の手の内にあるキャラメルを興味深げに見つめ、一粒つまんで口の中へ放り込んだ。
 千寿郎へ土産にとキャラメルを購入した後に冨岡を見かけ、聞けば食べたことがないと言うものだから、お裾分けとして食べるよう勧めていた時だった。
 言いたいことは知っている。不死川には一度言われたこともあった。
 ――はっきりしろよなァ。
 ただ一言口にしたその言葉で、何に対して言及しているのか理解してしまった。
 己の距離の近さに冨岡自身は慣れてしまったようだが、それを見た同僚は目を剥くほど驚いたらしい。まあそうだろう。冨岡以外に肩を組めるほど近い位置を陣取ったり、手に触れたりもしないのだから。手を繋いでいたところを見られたのは想定外ではあった。今日もたまたま通りがかって視界に入ったのだろう。運悪く鉢合わせてしまうことにも嫌気がさしていそうだった。自身の間の悪さは俺のせいではないだろうとは思うので、当たられても困るだけだが。
 冨岡に対する距離感を己の対人の基準だと理解したらしい彼女は、煉獄をそういう人間として受け入れたようだった。それは構わない。要は嫌われていなければ良いのだ。
 不死川の言葉は、煮え切らない己への叱咤でもあるのだろう。目障りだからいい加減にしろと、背中ごしでも不愉快さが伝わってくる。何と言われようと、どれ程焚き付けられようとも早々動くつもりは煉獄にはないが。
 そう、彼女の感情が動かなければ、何をしても豆腐に鎹、暖簾に腕押しなのはよく理解している。現に額をぶつけそうなほどの距離にあっても、冨岡は凪いだ水面のように平然としている。少しくらい照れてくれても良いのではと思うが、まあ冨岡なのだから仕方ない。
 いつ命を散らすかもわからないこの仕事で、知る者が知れば何と悠長に構えているものだと思われることだろう。煉獄自身もそう思う。死を考えていないわけではなく、悔いを残すこともあることくらいは充分わかっている。誰が聞いてもさっさと想いを伝えろと言うだろう。それでも二の足を踏む理由はある。
 どうしていいかわからない、という何とも情けない理由が一つだ。そこまで明け透けに気持ちを出しておいて何を今更と言われるかもしれない。だがこの想いは向けられる本人が気づかなければ意味のないものだ。
 亡き母が太鼓判を押した己の強さや優しさは、ことこの感情にはからきしだった。このような想いは初めてだった。これを初恋と呼ぶのだと気づいたのは、派手好きの隊士と話してからだった。難儀なものだ。これなら血反吐を吐くほど鍛錬しているほうが遥かに楽だった。
 そもそも任務で各地を回っているのだから、頻繁に顔を合わせることなど稀である。家に招待するのも任務の合間を縫ってのことだ。偶然居合わせたことを含めても、年に数回会えれば良いくらいのものだった。そうしてじりじりと距離を詰めていたのが、いつの間にやら季節が巡り、年単位で月日が経っている。時折顔を見て生きていることに安心するものの、これではいけないのだろうな、と煉獄は思う。
 だが己と時間を過ごす冨岡の表情は、回を重ねるごとに柔らかくなってきていることに気づいた。もしや、煉獄との時間は冨岡にとっても安らぐものなのだろうかと考えた時。
 今の関係を拠り所としてくれているのであれば、無理に気づかせることもない、と思ってしまったのだ。
 話しかけ続けると次第に態度は軟化していったが、初対面での彼女の纏う空気は真冬の水の如く冷たく痛いものだった。それが今は雪解けしたかのような柔らかさである。我ながらよくやったと褒めてやりたいくらいだった。
 鬼狩りの家系でもない者が鬼殺隊に入るなど、経緯は推して知るべしだ。そのような者の憩いになれるのであれば、氷が溶けていく様をのんびり眺めるのも悪くない。それで死が先に迎えに来たとしても、彼女の穏やかな顔を見られたのだから良しとしておける。
 真実そう思っていた。死の淵に立たされるまでは。

 母の姿を視界に収め、目の前に手を差し出された。動けないからと座ったままであったが、母の手を取りながら腰を上げる。何だ、動けるではないか。そう思うと同時に理解した。
 ――死んだのか。
 厳しかった母の優しげな笑みを眺め、己の生について振り返った。父に立ち直ってもらえなかったこと、弟を置いて早々に旅立とうとしていること。乗客と後輩を守りきったことには、己だからこそできたことだと自信を持って胸を張れる。今際の際の言葉はきっと少年が伝えてくれるだろうが、家族を残して逝くことに心残りは尽きない。だがそれもきっと、己の家族ならば意思を汲んで真っ当に生きてくれるだろうと信じている。
 柱となっても尚足りぬ研鑽は、どれ程積んでも限りはない。己がもっと強かったならば、後輩を泣かせることもなく上弦の鬼を打ち倒せただろうか。いや、もしもの話をしても意味がない。今の自分に出来る全力を賭したのだから、後は残った者に託すだけだ。どうか無事に、鬼を殲滅できるようにと。
 煉獄の脳裏に同僚の顔が浮かんだ。取り乱す様を終ぞ見たことがなく、喜色満面に笑う姿を見ることもなく、夜の湖のように静かな目を思い出した。
 後悔することを予感していた。己に向けられる穏やかな顔を、関係を壊して自ら手放すことが怖かった。だから言い訳のように想いを募らせたまま、今の関係を保とうとしたのだ。
 ――俺は何と情けない男であろうか。
 母の顔を覗き込む。微笑む姿は記憶にある生前の、病に倒れる前の頃と変わりなく、慈しむように手を包み込んでくれた。立派だったと労いの言葉を聞かせ、己の手を引いて動き出そうとした。
 心残りがあるのです。そう伝えると、少し寂しげに微笑んだ母が頷いた。そうでしょうとも、と察しているかのように唇が動く。家族を置いて逝ってしまった母にもあったはずのものだ。己もまた未練を残してしまうと伝えるのは酷かもしれない。死期を目の前にして尚取り乱さず穏やかであったけれど、本当は生きていたいと願っただろうから。
 きみはなんと言うだろうか。
 感情がないわけではなく、また人嫌いというわけでもなく、ただただ不器用で口下手が過ぎるだけの同僚を想う。
 叶うならばもう一度、あの水面の奥に泳ぐ感情を覗いてみたかった。深く沈んだ感情が顔を出せば、さぞ目を奪われたことだろう。
 厳格さの奥に隠しきれぬほど慈しみの目を向けてくれた母と同じように、彼女もまた情け深い部分は沈みきっていなかった。本来穏やかであるはずの、彼女の心に寄り添っていたかった。
 まだ、死にたくない。
 どうか一目会いたかった。