緋色に馳せる

「さあ、お好きな柄を選んで下さいませ」
 困惑を隠すこともできず、冨岡はただ並べられた着物を眺めていた。
 不要であることは伝えたのだが、呉服屋の主人はこれでしか礼が出来ないと笑った。
 鬼の襲撃に遭い、怪我を負い震えながら耐えていたところを冨岡は無事助け出すことが出来た。店は半壊してしまったものの、今はようやく営業を再開できるほどになっている。
 通りを歩いていた冨岡を見かけたらしく、声を張り上げながら走り寄ってきた娘が、お会いできてよかったと涙を浮かべる姿に戸惑っていたのだが、娘の縁者らしい男が二人の傍へと駆けつけ、以前貴方に助けられた呉服屋の者です、と口にした。
 各地を回っているものだから、どこで鬼を斬り誰を助けたかまでは把握しきれていない。ただ涙を堪えて笑みを向ける娘をぼんやりと見つめながら、助け出せたことに大層安堵した。少々気を抜いていたところに腕を掴まれ、冨岡は易易と店へ引っ張られてしまった。
 そうして訪れた呉服屋を見てようやく記憶の引き出しが開き、脳裏に浮かぶ怯えた顔と、目の前の二人の姿が合致した。その二人から是非着物を贈らせてくれと懇願されたのだった。
「普段も隊服を着てるから必要ない」
「そう仰らず。きっとお似合いになりますよ。動き回るのでしたら袴は如何でしょう」
 落ち着きなく箪笥を開けようとする娘に静止の声を掛けるが、全く聞こえていないのか無視されてしまった。店主の男も嬉しそうに笑いながら、冨岡に似合う色を提案している。表情はなくなり、冨岡はただ早く開放してほしいと願った。
 隊服は風呂敷に包まれ、わざわざ刀も袋に仕舞われてしまった。要らぬと言ったはずの着物は呉服屋で着付けまでさせられ、冨岡は心底疲れていた。
 白と紺を交互に編み込んだような柄に、少しだけ赤い縞模様が入っている小紋の着物は、ずらりと並べられた中では地味なものだった。断りきれず選んでしまった物だが、呉服屋の店主たちはよく似合うと口を揃えて喜んだ。
 己は確か食事をしに街へ出てきていたはずだったと食事処を探す。普段と同じ歩幅で歩こうとすると、裾が捲れて襦袢が見えてしまう。やはり強く断るべきだったと大きな溜息を吐いた。
 姉が生きていた頃は、着物も袴も鮮やかな物を身に着けていた気がする。姉は朗らかで美しく、引っ込み思案だった己を連れては街へ遊びに行った。姉妹で揃いの簪を挿して行けば、顔見知りであった者たちは二人を褒めてくれたことを思い出した。
 鱗滝の元へ居着いてから、生活していた家には一度も帰っていなかった。姉の物は羽織しか残っていない。鬼から隠すように冨岡に被らせ匿われてから、そのままずっと羽織っていたものだ。家の中はおびただしい量の血がそこかしこにこびりつき、置いてある家財は何なのかもわからなかった。
 姉は簪を宝物のように大事にしており、使用した後は毎回木箱に二本並べて丁寧に蓋を閉めていた。探せば綺麗な状態で見つかったのかもしれないが、当時の冨岡はそこまで頭が回らず、あの家も今は取り壊されているだろう。
 どのような物であったか。赤い色をしていたことは覚えている。同時に姉の優しい笑顔も思い出してしまい、冨岡はかぶりを振った。
 手元にない物のことを考えていても仕方ない。食事をしに出てきたことを思い出し、目の前の定食屋の暖簾をくぐった。
 同時に聞き馴染みのある溌剌とした大声が飯の美味さを伝えてくる。見覚えのある男が座る席に顔を向けた。
 わかってはいたが煉獄だ。以前煉獄家で朝餉をともに食べたことがあるが、あの時も喧しかった。外でもやるのかこの男は、と少々呆れてしまう。
「空いてるか」
「む、……冨岡」
 驚いたように見上げてくる煉獄に疑問を抱いたが、向かい側の椅子へ促され有り難く腰掛ける。隊服でなかったことに気づき、煉獄が驚いたのはこれか、と一人納得した。
「珍しいな、私服とは」
「私服じゃない。呉服屋に無理やり着替えさせられた」
「呉服屋?」
 鬼に襲われた店主が礼として贈ってきたものであることを伝えると、納得したように煉獄が頷いた。
「だが良い見立てだ。似合ってるぞ」
 笑みを絶やすことなく紡がれた褒め言葉に、冨岡は眩しそうに煉獄を見つめ返した。すらすらと出る耳当たりの良い言葉が、人に好かれる理由の一つなのだろう。自他ともに認める口下手である冨岡には、鬼を狩るよりも難しい。何と返すのが正解であるのか冨岡にはわからず、本来の目的を果たすため給仕に注文を頼んだ。
「父娘か夫婦かは知らないが、揃って無事ならば良いことだ。貰った側であるきみも着物を見て思い出せるな」
「着る機会がない」
「機会など増やせば良いだろう」
 任務以外で出かけることなど、今日のように空腹を満たすために街に出るくらいのものだ。偶然でもなければ誰かと会うこともない。己に親しい者などおらず、かといって街に出るためにめかしこんで行くほど服に頓着していない。
 それを言葉少なに伝えれば、食事の済んだ煉獄は腕を組んで考え込んだ。
「では俺の家に来る時に着てくれれば良い」
 目の前に運ばれた膳に視線を向けながら、煉獄の言葉にはて、と手が止まった。ゆっくりと前に座る男へ視線を向かわせると、まるで名案だとでも言うように満面の笑みでこちらを見ている。
 どうやら煉獄家への招待は、あの一度だけではないらしい。
「………。それは」
「きみが家へ来るのは俺としても嬉しいし、千寿郎も喜ぶ。随分懐いているからな」
 己が訪れて喜ばれるのは冨岡としても嬉しいものではあるが、他人の家にそう何度も訪れるのは憚られた。それに口下手であることも自覚している。長く時間を過ごしてしみじみ楽しくないと思われでもしたら少々傷つくのだが。
「そうだろうか」
「ああ。雨の日に一泊してから冨岡の話が更に増えたからな」
 俺が妬くほどだ! と勢いをつけて煉獄が言った。己に対抗心を燃やさずとも、千寿郎が兄の煉獄を好いていることは傍目にもわかりやすいはずだ。
 味噌汁を啜りながら、千寿郎が湯気の立った味噌汁を熱がっていたことを思い出した。翌朝煉獄が迎えに来るまで冨岡の後をくっついてまわり、帰り際にまた来たいと言っていたことも連鎖するように思い出す。裾を掴んで傍にいた千寿郎は、己に懐いていたからそうしていたという事実に、胸に明かりが灯ったように温かくなった。
「どうした?」
「いや……そうだな、嫌われてないのなら良かった」
 ほっとしたように息を吐きながら、持っていたお椀を置く。
「だが煉獄専用の着物というのも」
 咳き込む声が聞こえ、伏せていた目が煉獄の姿を映した。飲んでいた茶が器官に入ったのかまだ噎せている。
「、大丈夫だ。何でもない」
 咳が収まったらしい煉獄は深呼吸をしながら口元を拭い、落ち着きを取り戻して冨岡を眺めた。
「他に出掛ける相手を作れば良いんじゃないか?」
「……それは、難しい」
 昔はそうでもなかった気はする。姉を喪い、友を喪って、口下手は加速した。人を避けているつもりはなかったが、胡蝶に言わせれば気軽に話しかけられぬ空気があり、更に言葉が足りないのだそうだ。もしかしたら無意識のうちに、人から遠ざかるよう生活していたかもしれない。昔から友人は多くはなかったし、今は懸命に努力しなければ友を作ることは難しい。鬼殺隊に入ってから、話をするのは胡蝶か煉獄かといったところだ。それも己から話しかけるのではなく、相手が此方へ気を向けてくれるのを待つのみの、他人任せのものだった。
「なら友ができるまで俺専用で良いな。次はいつ頃来られそうか教えてくれ。千寿郎にも伝えておこう」
 あれ? と首を捻る。二度と着る気のなかったこの小紋が、二度目に着用する予定が立てられてしまった。成程、煉獄は人との距離を詰めるのが早い。こうして距離の近い友人が増えていくのだろう。強さも人望もある目の前の男には、憧憬と羨望とが綯い交ぜになった感情が湧き上がる。己もこう在れたなら、もう少し人付き合いもましになったかもしれない。今更ではあるが。
 こうして顔を見かけては話をする程度には、煉獄からは嫌われてはいないし冨岡自身嫌うはずもなく、まあ着物を着るくらい良いか、と深く考えることをやめた。

 食事を終え揃って定食屋を出た後、何となしに同じ方向へと並んで歩を進める。隣で話す声が段々と遠ざかっている気がして足元に向けていた顔を上げると、横顔が見えていたはずの煉獄が背中しか見えなくなっていた。
 いつもより歩幅が小さくなっていたものだから、気をつけないと遅れてしまうようだ。慌てて追いつくよう駆け出したが砂利に足を取られ、正面から倒れ込みそうになった。同時に隣に冨岡がいないことに気づいたらしい煉獄が振り向き、つんのめった冨岡に驚くものの素早く腕を伸ばして体を抱えるように支えた。衝撃で持っていた風呂敷が腕から滑り地面に落ちる。かろうじて刀だけは握り締めていたおかげで落とさずに済んだようだ。
 言い訳させてもらうが、これは決して鍛錬不足などではなく、慣れない物を着ていつもの歩幅で歩けなかったからである。更にいえば、普段履いている物より高さのある草履に履き替えていたから調子が掴めなかった。だからこれで呆れられると少し悲しくなるのでできればやめてほしい。胸中で独白しているだけで、煉獄には全く聞こえていないのだが。
「……ああ、すまん。今日は歩幅が狭いのだな」
 いつもの調子で歩いてしまった、と煉獄は驚いた顔を見せた後に呟いた。衆目の前で恥を晒さずに済んだのだから煉獄は謝る必要はなく、代わりに冨岡は小さく礼を口にした。
 大きな溜息が溢れる。やはり呉服屋から逃げるべきだったと後悔した。常日頃鍛えているような人間が服を着替えただけでこの様では、呆れられずとも恥である。
「冨岡」
 差し出された手のひらをしげしげと眺めてから煉獄へ目を向けると、楽しそうに笑う顔があった。意図が掴めず戸惑っていると、落ちた風呂敷に気づき拾い上げて自分の荷物のように抱え、改めて冨岡へ左手を差し出した。
「右手を出してくれ」
 言われるがままに前へと出した手を掴み、煉獄は満足気に頷いて歩き出した。つられるように冨岡の足も前へ進む。
「おい、」
「手を掴んでおけば転けることもないだろう」
 一人で歩けないのだと判断されたような気がして気分は少し下がってしまった。己にとって剣士の鑑であるような煉獄には、あまりみっともない姿は見られたくないのだが、これ以上の醜態を見せないためにも甘んじておくべきか悩んだ。いやしかし、口に出して弁明をするべきだろうか。胸中で並べ立てた言い訳を思い出して、今の格好では少しも弁明にならないことに気がついた。むしろだからこそ手を繋ぐという措置に納得がいくほどだ。
 楽しげな笑みを浮かべた煉獄の横顔が視界に映り、そのまま眺めていると何かを言う気も失せてくる。まあ良いか、と心中で呟いた。
 人との距離を詰めるのが早いとは思ったが、物理的な距離も近いらしい。煉獄のようにしていけば、友人も増やしやすいのかもしれないと考えた。
「そこのお二人さん、贈り物は如何ですか」
 露天商から呼び込みの声が掛かった。道の端に拡げられた敷物の上に、色とりどりの装身具が並べられている。
「そちらのお嬢さんに如何ですか? どれも良い物ですよ」
 女物の簪や櫛、根付と様々な物がある。凄いな、と目を輝かせた煉獄が敷物の前へ座り込み、引っ張られるようにして冨岡も隣に座った。
 繊細な作りの装身具は、確かに良い物であることはわかった。胡蝶姉妹のような華やかな者たちであれば、さぞ似合うことだろう。
「これなど良いんじゃないか」
 見繕った物を冨岡の髪に当てて煉獄は頷いた。どうやら髪飾りを持っているらしいが、冨岡にはどんな物か見えない。必要ない、と伝えようとする前に煉獄の手が髪から離れ、手にある髪飾りが目に映る。
 平打簪ですね、と露天商が言った言葉が冨岡の耳に入ってくる。全体が赤く、飾りである平たい円状の部分が花を象っていた。
「椿の花で形作っています。よくお似合いになると思いますよ」
 木箱に収められた二本の簪が脳裏に過る。
 姉が大事にしていた簪は、家族になる姉妹へ揃いでと婚約者から贈られた物だった。妻となる娘の妹であった冨岡のことも可愛がってくれていた男が、今後も幸せで在れるようにと願った物だと聞いたことを思い出す。目の前にある椿の簪は、かつて手元にあった物とよく似ていることに気づき、ぼんやりとしていた目が大きく見開いた。
 赤い簪に突然反応した冨岡を窺うように見つめていた煉獄が、静かに手に持っていた簪を差し出した。受け取ってからも冨岡は目が離せなかった。
「思い入れがあるのか」
 は、と我に返り冨岡は簪を突き返した。違う、と首を振るが煉獄は無視して露天商へ代金を手渡す。慌てて必要ないと伝えたものの、いつものように笑いながら立ち上がり、駄目押しとばかりに煉獄が口を開いた。
「俺が渡したいと思っただけだ。貰ってくれ」
 結局、この男に押し通されると強く出られないのだ。

 にこにこと笑って手を振る露天商から離れ、並んで歩き出した。今度は歩幅を合わせてくれているので躓いたりはしないだろうが、相変わらず手は繋いだままだった。
「……姉が」
「ん?」
 思ったよりも小さくなった声だったが、煉獄の耳には届いたようだ。手渡された簪を眺めながら冨岡は続ける。
「大事にしていた物に似てる。手元に戻ってきたような気分だ」
「……そうか」
 深く聞くことはなく、一言煉獄は呟いた。
 想いや感情が渦巻いて、何を口にすべきかわからなくなった。いつもなら思い出すことを避けていたことを思い出して、普段よりも輪をかけて言葉が出て来ない。それでも伝えなければならないことがあった。
「……ありがとう」
「きみが喜んだのなら俺も嬉しい」
 椿の簪を見て思い出す顔が増えたことは、心の内に収めておくことにした。