雨宿りの夜
桶をひっくり返したような大雨だった。
残暑も過ぎ日陰は肌寒くなってきた頃である。夏の夕立は時には嬉しいものではあるが、傘を持たず出てきたことが仇となった。暫くすれば止むだろうと高を括ったのだが、どれほど待っても一向に止む気配はなく、辺りは随分と暗くなってきていた。
早く家に戻らねば、鬼が出てしまう。
兄が時間を見つけては千寿郎を鍛えてはくれるのだが、今己は刀を持っておらず、持っていたとしても鬼と直接対峙したことのない千寿郎には頸を斬るなど恐ろしくて出来そうもなかった。
どうしよう、と呟いた声は大雨で掻き消され、自分の耳にも遠く聞こえた。不安げに澱んだ空を見上げながら、軒下でひっそりと立ち竦んだ。
雨宿りをしていた家の扉が背後で音を立てて動き、心細くなっていた千寿郎は驚いて肩を震わせながら振り向いた。
「冨岡さん」
扉から顔を出したのは、我が家へ訪れたことのある鬼殺隊の隊士だった。
「ありがとうございます」
軒下にいたとはいえ大雨を外でやり過ごしていたせいで、千寿郎の衣服は濡れていた。家主と無言で見つめ合った後、見兼ねたらしく中へと避難させてくれた。手拭いを渡され、千寿郎は有難く雨粒を拭き取った。
「冷えただろう」
湯気の立つ湯呑みが千寿郎の前へ差し出される。再度礼を言い手を伸ばす。
辺りはすっかり暗くなってしまい、千寿郎はどうやって帰ろうかと考えた。
「煉獄の家には鴉を向かわせた。急ぎなら送るが」
兄は鬼狩りに出てしまっているだろうが、家には父がいる。帰らなければ心配するだろうからと言った冨岡は、急ぎでないのなら泊まっていけと口にした。
滅多とない出来事であり、喜ぶことではないのだろうが、初めて他人の家で過ごす一晩に千寿郎の目は輝いた。
「風呂の準備はしてある。先に入ると良い」
「良いんですか?」
「ああ。私は後に入る」
背中を押され脱衣所まで連れて来られた。着替えは冨岡の私物であるらしいが、男児である千寿郎でも着ていられそうな落ち着いた色の物だった。大きさは少々合わないかもしれないが。落ち着いた人だから、淡い色よりも深い色が好みなのかもしれない。兄は赤がよく似合うけれど、冨岡は青い色が似合いそうだ。
湯船で温まり着替えを済ませる。裾はぎりぎり足首で耐えていた。兄のように背丈があれば、きっと面白いことになっていただろう。快活に笑う兄が今着ている物を着た姿を想像し、千寿郎は含み笑いをした。
「お風呂ありがとうございました」
廊下から障子の奥を覗き込み、冨岡がいることを確認して礼を告げた。こちらを見た冨岡は、静かに向かいに座るよう促した。
「わあ」
湯気の立つ膳が用意されている。千寿郎が風呂で温まっている間に冨岡は食事の用意もしてくれていたようだった。
「好き嫌いは」
「ありません! 好き嫌いをしたら兄上のように強くなれないと言われました」
「そうか」
手を合わせて冨岡とともに頂きますと口にする。味噌汁に口をつけた途端熱さに舌が痺れ、千寿郎はぎゅっと顔を顰めた。その様子に冨岡がぴくりと反応する。
「熱すぎたか」
「大丈夫です。美味しいです」
「そうか」
どこかほっとしたような顔を見せ、冨岡は食べ進める。
男所帯で過ごす家では、千寿郎が一人で食事を取ることも少なくない。父は酒ばかりを煽り、兄は任務へと出て行ってしまう。母が居たならば今日のように、静かに膳を並べて食事をしていたかもしれない。父と一緒に三人で食事をして、兄の帰りを待っていたのだろうと思う。
父と兄と三人で、いつか笑い合える日が来るのだろうか。どうすれば父はこちらを向いてくれるのだろうか。冨岡ならば分かるだろうか。聞いてみたくなり千寿郎は口を開いた。
「冨岡さんのお家の人は今日はいないのでしょうか」
「私一人だ。家族はもういない」
鬼殺隊の隊士は鬼に家族を殺された者が多いのだと聞いたことを思い出し、千寿郎は顔色を変え、ごめんなさいと口にした。家族のことは文通で聞いたことはあったが、亡くなったとは書いていなかったものだから、てっきり存命だと思っていた。
「構わない。昔のことだ」
もしや家族のことを話すのは迷惑だっただろうかと考え、千寿郎は落ち込んでしまった。冨岡との繋がりは兄である杏寿郎なのだから、家族の話は自然としてしまう。父のことを聞いてみたい気持ちは薄れ、他に何かないだろうかと話題を探した。それを悟られたようで、冨岡は千寿郎へ声をかける。
「話したいことを話せばいい。私はうまく返せないと思うが、煉獄の家のことを聞くのは嫌いじゃない」
「でも」
「気にしすぎると背が伸びなくなる」
「えっ、それは嫌です」
茶を啜りながら呟いた冨岡の言葉に驚き、慌てて千寿郎は口にした。なら気にするな、と続けた冨岡の表情は、以前見た時よりも柔らかく感じた。
「あの、何故床に直接寝転んでいるのですか」
「客は来ないからと、予備の布団を置いてなかった」
ええ……と小さく声を漏らしてしまった千寿郎を見やりながら、早く寝ろと冨岡は口にした。
冷たい床で寝転がる家主の隣でぬくぬくと寝られるはずもなく、千寿郎の眉尻が下がる。せめて何か敷くなどしてほしいが、そこまで思い当たらなかったのだろうか。文通でそれなりに冨岡をわかってきたはずなのだが、どこか抜けている人なのだろうか、と冨岡を眺めた。
「これは冨岡さんの布団なんですよね。こちらで寝てください」
「千寿郎の分がない」
「入れてください。そうすれば来客用の布団がなくても寝られます!」
暫し考えた後はっとした冨岡は、やはり抜けているのだと確信した。よくわからない人だ。父や兄と全然違う。
「成程……」
「兄上もたまに布団に呼んでくれます。二人で寝ると楽しいですよ」
寝転がる冨岡を立ち上がらせ、敷いている布団へと入るよう促した。首元まで布団を被ったことを見届けたあと、千寿郎はうきうきとその隣へ潜り込む。
「母上がいたらこうしてくれたでしょうか」
隣に寝る冨岡へ顔を向けながら目を瞑る。物心つく前に亡くなった母のことは、ほとんどと言っていいほど覚えていない。
被った布団の上から重みを感じる。冨岡の腕だろう。寝かしつけられる赤子の気分になり少々恥ずかしかったが、温かさと眠気に耐えきれず千寿郎の意識は落ちた。
鳥の囀る声が聞こえる。
もう朝か、となかなか上がらない瞼を擦りながら起き上がる。その拍子に体に乗っていたであろう重みがずり落ちた。何事かと目を向けた先に、健やかに眠る冨岡の顔が見えた。
そうだった。土砂降りの雨が降ってきた昨夜、冨岡の家で一泊したのだった。冨岡の口数は多くなかったが、普段と違う一晩を過ごしていた間、千寿郎はとても楽しかったことを思い出した。
布団がずれて寒さを感じたのか、冨岡の眉間に皺が寄る。ぼんやりと開いた目が千寿郎を映し出した。
「おはようございます」
「……おはよう」
驚いたように見えたが、すぐにいつもの読めない表情が戻って来る。上半身を起こして暫しぼんやりとした後、冨岡は布団から動き出した。
「朝餉、」
「あ、手伝います!」
少々覚束ない足取りのまま身支度をし、二人は台所へと向かった。
「冨岡はいるか」
門前で聞こえた声は、千寿郎のよく知るものだった。
兄が迎えに来たと気づいて跳ねた体が動き出そうとして止まり、食べ終えた食器を流しに置いた冨岡の手を引っ張り玄関へと向かった。
「父から聞いて迎えに来た。千寿郎を保護してくれてありがとう」
「兄上、おはようございます」
冨岡と手を繋いで顔を出した千寿郎は、普段と同じように兄を迎えた。楽しかったのか、と聞く兄に笑顔で頷く。
「でも困った人なんです。冨岡さんは布団を一式しか置いてませんでした」
「何と」
ぴくりと肩を揺らした冨岡に兄の視線が向かう。もしや床で寝たのかと問いかける様子を見て、杏寿郎は冨岡のことをよくわかっているのだと千寿郎は感じた。何せ自分が止めなければ、冨岡は床で寝るつもりでいたのだし。
「いいえ、冨岡さんはちゃんと布団に入っていただきました。それから僕も一緒に入れていただきました」
兄上がたまに布団に入れてくれますから、と提案したのだと伝えると、一拍の後そうかと呟いた。
「まあ、二人とも風邪を引いていないからよかったが」
「凄く温かかったです。今度は兄上も一緒に寝ましょう!」
大きな目を更に大きくして兄が千寿郎を凝視した。誰かと寝るのは一人より温かく安心する。三人ならもっと温かいはずだ。名案ではないだろうか。
「えっ、兄上は駄目なのですか?」
驚いて固まっているらしい兄からは返事がないものだから、背後にいるはずの冨岡へ顔を向けた。表情は変わらないのだが、同様に硬直していた冨岡がぎくりと体を震わせる。
「………、………。……だ、駄目じゃな、い」
苦虫を噛み潰した顔というのはこういう顔を言うのだろうと千寿郎は考えた。そこまで悩むほどのことを言ってしまったのだろうかと不安になり、もう一度兄を振り向いた。
「いや、駄目だろう冨岡。年頃の娘がそれはいけない。きみは千寿郎に甘すぎるぞ」
昨日の今日でそれほど仲良くなるのか、と驚いたような声音で杏寿郎が言った。
「どうして駄目なんでしょう。僕も駄目だったんでしょうか」
「今は良いが大きくなったら駄目だ。千寿郎もわかるようになる」
「兄上は大きいから駄目なのですか」
「そうだ」
兄が言うのならばそうなのだろうが。
何故大きくなると同じ布団に寝てはいけないのか。成長すれば寂しく思うことはなくなるのだろうか。それとも単に布団から体がはみ出ると駄目なのだろうか。冨岡と千寿郎が並んでもはみ出ることはなかったが、確かに兄と冨岡ではどちらかは床に飛び出し布団を被れないだろう。冷えて風邪を引いてしまうから、兄が駄目だと言うのも理解できる。千寿郎は自分なりに納得のできる理由を見つけ出し、二人の顔を見て頷いた。
「わかりました。ごめんなさい、冨岡さん」
どこかほっとしたように千寿郎を見つめた冨岡は、控えめに千寿郎の頭を撫でた。兄とは違う手の温もりに、嬉しくなり笑い声が溢れる。
「帰ろう、千寿郎。父上も心配している」
はい、と返事をして草履を履く。冨岡は門前の通り道まで二人を見送りに出て来てくれた。
「また来ても良いですか」
「……ああ」
特段面白くもないだろうが、と口にした冨岡に千寿郎は首を振った。一晩だけでも楽しかったのだから、次もきっと楽しいに決まっている。兄も居たらもっと楽しいと思うが、ともに寝ることさえしなければ、一緒に遊んでも良いのではないかと考えた。
玄関先に佇む姿が見えなくなるまで、千寿郎は手を振った。
*
「すでに子を産んでるそうですよ」
任務に赴いた町の茶屋で団子を頬張っていると、近辺に用のあった胡蝶が通りがかり隣へ腰掛け口を開いた。いつか助けた夫婦の話かと耳を傾けようとしたが、思い返せばその夫婦を助けた時は胡蝶はいなかったはずだった。
「冨岡さんです」
飲み込んだ団子が喉に詰まり、苦しみながら胸を思い切り叩く。茶で必死に流し込み終えた頃には涙目になっていた。
「誰の子だよ、ふざけんな」
何だその突拍子もない面白い噂は。あの冨岡が子を作るほどの睦まじい相手がいるのかと考えるが、隊内以外での交友関係など知る由もない。
「見かけたらしいんですよ、冨岡さんが家の前で見送ってる姿を」
「誰を」
「煉獄さんとその子供です」
むせるように吹き出した宇髄に不快感を露わにして、胡蝶は汚いですよ、と文句を言った。
「げほっ、お前なあ……そういう面白いことを言うからだろうが」
「面白いですか? 私はいい加減にしてあげてほしいですが」
唇を尖らせて胡蝶が宇髄を睨む。俺に言われても、と呟いたが、気にせず胡蝶は皿に残っていた団子を食べ出した。それは宇髄のであって胡蝶のものではないのだが。
「煉獄さんに似た子供と手を繋いで帰るところを、冨岡さんが見送っていたんですって」
「いつ冨岡の腹が膨らんでたんだ?」
「膨らんでたことなんてありませんよ」
だよなあ。わかってはいたが宇髄の見落としではないようだ。やはり噂は当てにならない。嫁入り前なのになんて噂をと胡蝶はご立腹だが、そういえばあの二人の噂を最初に宇髄に教えたのは胡蝶だったことを思い出した。
あれから七十五日は経っているはずだが、消えることもなく更に突飛な噂が流れている。あいつら、前世で何かやらかしているのではないだろうか。こんなにも俗な話題に上る人物は珍しい。本人たちは真面目に生きているように見えるのに。
「まあ、何だ。そのうち収まるって」
「収まらなかったからこんな噂が立つんですよ。何です子供って。歩いていたのなら幼児以上でしょう。二人を幾つだと思ってるんですか」
何やら怒るところが違うような気がするが、宇髄は黙っている。これ以上あたられるのは避けたかった。
「火のない所に煙は立たねえだろ? そういうことだよ」
「……煉獄さんは、お嫁でもない若い娘に手を出すような人なんですか」
「ねえだろうなあ、あいつ由緒正しいお家柄の坊っちゃんだし」
「そうでしょう。煉獄さんの耳に入ったらどんなことになるやら」
「入ったらか。想像つかねえな」
噂で辱めた責任として嫁に迎えそうではあるが、何にしろご愁傷様という気分だ。身を固めるのも悪くないと思うが、あらぬ噂に後押しされるようで宇髄ならば癪である。
「子供っつうのはよくわからねえが、仲は悪くねえようだな。適当に見守っとけよ」
「見守れるような噂なら良かったんですけどね」
あの人、あれで天然なところがありますから。何ならドジっ子ですからね。
言い聞かせるような口調で話す冨岡の性格は、宇髄にはさっぱり感じたことのないものだ。ぼんやりしていることがあるのは知っているが、ドジっ子とか知らん。
「じゃあますます放っとけばいいじゃねえか。そんな噂あったら誰も近づかねえだろ」
変な虫がつくこともないだろう。まともな虫もつかないかも知れないが。そこはそれ、煉獄がしかと面倒と責任を取ればいい話だ。
「……成程」
大いに納得した胡蝶は、ようやく表情を緩め残りの団子を頬張った。
煉獄のいないところで、煉獄のおかげで冨岡が助かる、かもしれない。いや全く恐れ入る。手の届く範囲しか守れない俺には無理だわ。
まあ碌でもない噂が立っているのは煉獄のせいのような気もするが、皮肉のようなことを考えながら宇髄は茶を啜った。