祝言を挙げよう・続
――義勇さん。
――ずいぶんと大荷物だ、持ちましょう。
――これしきで辛いなどありません! ……それに少しでも会話の時間を作りたい。
――近く柱を拝命することになります。そうなればなかなか時間は作れないかもしれない。できるだけ顔を出したいのですが。
――いいや、あなたに会うと疲れは吹っ飛びます。……俺のことは、義勇さんが気にしてくださるのなら大丈夫です。
朗らかに笑顔を見せてくれる。こちらばかりを気にかけてくれる。そんな彼が唯一翳りを見せたのが父親との確執だ。
父親は姉妹の恩人であった。鬼に襲われて姉が今にも喰われそうになったところを、炎の髪を持った剣士が助けてくれた。その縁が冨岡家を藤の花の家紋の家にさせ、煉獄家へと嫁ぐ約束まで結ばれた。
けれど、それも子供だった頃の話だ。
歳頃になる頃には、彼は妻を亡くし何かに打ちのめされ、情熱を失くして鬼狩りであることすら放棄しようとしていた。辛うじて任務には赴いていたという話だが、酒浸りになっていたから隊内の評判はすこぶる悪くなっていたという。
その不審な視線は息子である彼にも向けられる。
けれどそんな周りの視線をものともせず、己を奮い立たせて彼は鬼殺に励んでいたそうだ。
義勇の元へ来た彼はいつだって笑顔を向けてくれていた。どれほどの怪我をしようとも、義勇に心配をかけまいとしてくれていたことを知っている。父親へ話をしに行った時だって、一瞬見える翳りはあっても最終的には笑みを向けて家まで送り届けてくれた。
だからあの日の彼はとても、初めて見るもので驚いたのだった。
無意識に来てしまったと呟くものだから、義勇は胸を高鳴らせた。大きな怪我をしているようには見えなかったけれど、普段は上がっている口角が震えていた。ときめいている場合ではないと感じたけれど、何を言えば慰めになるのかわからなかった。何度訴えても背中を見せたままの槇寿郎に、果ては杏寿郎が殴られてしまうのだから、義勇には何をすればいいのかわからなくなっていたのだ。
湯を沸かすからと部屋へ通し、せめて手早くできるものを先にと急いで厨へ向かおうとした。姉は夫婦ともに義兄家族の様子を見に行っていて、屋敷には義勇しかいなかったからだ。
部屋を出ていこうとした義勇は腕を引っ張られ杏寿郎の胸にぶつかった。抱きしめられたのだと理解した時、頭が真っ白になって固まった。
腕の中で狼狽えている義勇を知ってか知らずか、少しの間このままでと杏寿郎は言った。耳元で囁かれて義勇の顔は真っ赤になっただろう。疲労もあるだろうに、休むより食べるより先に義勇を望んだのだ。姿を見せてくれるのも、いつもと違う姿を見るのも嬉しいけれど、沈んでいる姿は痛ましい。己の胸はひどく暴れて落ち着かないけれど、それよりも杏寿郎の様子が気になった。
だから控えめに背中を撫でた。触れるのなんて初めてで、己よりよほど大きな体躯にどきどきして、元々の口下手も相まって慰めの言葉は出てこなかった。
頬に触れられて、唇が触れてしまったからだ。
これは。これは、俗にいう口づけだ。もっとハイカラな言い方があるのだと姉は言っていたような気がする。祝言を挙げたら義勇も関係あるようになるのかとは思っていたけれど、口づけが何度も何度も連続して続けられるものだとは思っていなかった。
するとしたら杏寿郎だと、それだけは決まっていた。彼以外に考えたことはなかった。一緒になれないのではないか、なんてことを考えたのは一度や二度ではない。もしそうなれば一生義勇には縁のないことだろうとも思っていた。
あまりに突然のことで、義勇は思わず撫でた背中の羽織を掴んだ。それが合図にでもなったのか、畳にどさりと二人して倒れ込んだ。
深く口づけられて息ができなくて、途中義勇は唇が離れた瞬間必死に呼吸をした。整いかけたのを見計らったのか、再び口を塞がれた義勇の頭はぼんやりしてきていて、いつの間にか掴んでいた羽織からぽとりと腕が畳へ落ちた。杏寿郎の手が落ちた手と絡み、ぎゅうと握られて動かせなくなった。
頭がぞわぞわして何も考えられなかった。はしたなく乱れた衽から熱い手が触れてしまえば、その手のことに詳しくない義勇でも何が起こるのか察せられた。このままきっと義勇は杏寿郎と。
「……そんなふうにされては、都合良く解釈してしまう」
きゅうと絡め取られた手を握り返した時、ほんの少しだけ唇を離して小さく囁いた。普段とあまりにも違う様子に心臓が爆発しそうなほど緊張していたけれど、歪んだ顔があまりにも苦しそうでどうしても気になってしまったのと、それから。
「………、い、……許婚ですから」
もっと違う言葉での伝え方があっただろうに、義勇の口下手が顔を出して妙なことを口走っていた。羞恥でどうにかなりそうだった。嫌ではないのだと他でもない杏寿郎に伝えるのが、とんでもなく恥ずかしいことだったけれど。
苦しげに見えるのに泣きそうにも見えた顔は、抱きしめられて見えなくなった。
熱いほどの体温と、強引にも思えた手のひら、逞しい体躯。その後に思い出すのは杏寿郎の旋毛だ。
大変申し訳ない、本当にすまないと畳へ額を押しつけてあらゆる言葉で義勇へ謝った。己はそそくさと襦袢を纏いながら、少しも後悔なんてしていないのにと寂しくなった。
「後悔なさっているのですか」
「それはありません! 後悔はしていませんが、不甲斐ないと反省はしています。本来なら祝言を挙げてからであるべきなのに、あなたの顔を見て我慢が利かなかった」
胸元をぎゅうと握りしめながら、義勇は頬を赤くした。それと同時に悲しくもなる。結局のところ槇寿郎は、義勇を認めてはくれないということだ。しょんぼりと肩を落とした義勇に、杏寿郎は寂しげな笑みを見せた。
「……いいや。認めてくださらないのは……」
ああ、また泣きそうな顔だ。それが父親である槇寿郎との確執が原因であると思い至った義勇は、膝の上で握りしめられた拳を両手で包むように握った。
「……義勇さん」
「……今は、我慢なさらないでください」
「………、ありがとう」
礼を告げて抱きしめられた義勇の心臓は落ち着かなかったけれど、杏寿郎の弱音が吐き出されていったことに安堵してから、そしてどうしようもなくなった。
父はどうでもいいと口になさった。何度も言われている言葉だ、へこたれていた自覚はなかったが、それでも突き刺さる言葉を抜くのに時間がかかってしまった。あなたの顔を見たら、甘えたくなってしまった。そんなふうに教えてくれた本音は炎柱という肩書のない、ただの煉獄杏寿郎という青年の抱える悩みだ。重く辛いものだろうに、普段はおくびにも出さない。
それを教えてくれたことが嬉しい。杏寿郎はいつも立派で、義勇に支えられるのかわからないほどの素晴らしい人だ。誰にでも慕われる彼が義勇だけに見せてくれる顔がある。不謹慎にもそれが嬉しかった。
そんな自分勝手な思いで嬉しいと伝えると、杏寿郎は柔らかい笑みを見せてくれた。
「そうだな。俺も……ずっと独り占めしたくてたまらなかった」
関係の解消など、頷かれていたら今頃どうなっていたかわからない。早く夫婦になりたい。堪えきれず頬が真っ赤になっただろう義勇は顔が熱くてたまらなかったけれど、抱きしめられていた身体を離して義勇を見つめた杏寿郎の目は決意に満ちていた。
「義勇さん。順番は違えてしまったが、祝言を挙げましょう。父のことは気にせずに」
「でも……」
「俺はあなたに報いたい。……それとは別に、ずっと気にかけてくれていたあなたの気持ちを、俺だけに向けてもらいたい。俺の妻になってもらえないだろうか」
「は、……はい」
「ありがとう!」
もとより杏寿郎への想いは特別なものなのに、一体どういうことなのだろう。なんて義勇は照れたまま頭の隅で考えたが、それも一瞬で吹き飛んでしまった。嬉しそうな杏寿郎が告げた言葉が原因だ。
「これで遠慮なくあなたの肩を抱こうとする輩を牽制できる!」
牽制なんてする必要があるのだろうかと首を傾げたくなったけれど、翳っていた顔が明るくなっているから何も言えなくなった。嫉妬深くてすまない、などと言われては羞恥でさらに縮こまるしかできなかった。そうして翳りが鳴りを潜めた杏寿郎の背中を、帰ってきたら準備を進めようと言う言葉に頷いた義勇は笑みを浮かべて見送ったのだった。
*
頭を下げた炎の髪は、紛れもなく彼の血筋だ。
けれど、何もかもが違う。似ていても別人の、想い焦がれる相手の父親だ。義勇と姉の命の恩人だった。
申し訳ないことをした。合わせる顔もないが、謝らなければならないとここに足を向けた。謝って許されることではないこともわかっているが、それ以外に謝意を見せる方法がない。
だから、できる限りできみを援助したい。彼は深く深く後悔しながら口にした。
「一度だけ、杏寿郎さんと……」
膨らんだ腹について遠慮がちに問いかけられたから、義勇は腹の子の父親が誰なのかを伝えた。彼には知る権利があるだろうから、伝えなければならないことでもある。
ぐ、と唇を噛み締めた彼は、目を伏せて眉根を寄せていた。
「嫁入り前の娘に……申し訳ない。謝って済むことではないが……」
「謝られる謂れはありません。……合意の上です」
嬉しかったのだ。弱っているまま義勇に会いに来てくれたことも、弱音を見せてくれたことも。後悔していないのだから、謝罪など義勇には必要のないものだ。
「……しかし、子供がいては今後のことも……」
「杏寿郎さん以外と結婚するつもりはありません」
「……それではいけない。私が言うのはお門違いだろうが、きみは若いし未婚の女性だ。しっかりした家柄の者に嫁ぐべきだろう。このままでは世間からの風当たりも厳しくなる」
そんなことを言ったって、生まれてくる子供との血縁もないまま可愛がってくれる人がどこにいるのだろう。槇寿郎は子供と義勇を離れさせようとしているのかもしれない、と義勇はぼんやりと考えた。
どんどん腹が大きくなっても幾度となく足を向けては顔を出した槇寿郎は、一度も子を寄越せとは言わなかった。ただ、鬼が消え去ったあとも縁談を持ってきたり説得しようとしてくるのが煩わしかった。
その日も槇寿郎の言葉をどうにか断ろうとしていた義勇には、屋敷に足を向けるもうひとつの気配が近づいてきていたことなど当然ながら気がつかなかったし、それによって何かを提案しようとした槇寿郎の言葉は途中で堰き止められた。
「……わかった。ならばきみを、」
「まあ、不死川様。もうお加減はよろしいのですか」
玄関戸を開く音と廊下から聞こえる姉の声が、かつての風柱の来訪を伝えてきていた。