掌中の珠

 手のひらの温かい感触が伝わる。恐る恐る触れてきた目の前の男が手を離し、腰にしがみつくようにして手を置いていた腹へと耳を当てた。
 更に動けなくなった義勇と、耳を澄ましている杏寿郎を見守るように家族の二人がそわそわと眺めている。
 赤子に触れる機会はまったくなかった。己は末の子であったし、可能性のあった姉は祝言を挙げることができなかった。天涯孤独となった義勇は鬼狩りとして刀を振るい、当たり前だが鬼殺隊には赤子など在籍していなかった。
「動いた気がする」
 腹は膨らんでいるものの、中に命が収まっていることに実感は今ひとつない。杏寿郎の言葉には共感できなかった。
「もうすぐ産まれるんでしょうか」
「ああ。医者は準備をしておくようにと言っていた。お産婆は俺と千寿郎を取り上げてくれた方だと」
「その娘さんだ。あの人はもうお年だからな、傍にいてはくださるらしいが」
 義母の時も娘が一緒に来ており、産婆が赤子を取り上げる姿を見ていたのだと義父が教えてくれた。二代続けて取り上げてもらうことに気恥ずかしさがあるというが、信用のおける産婆だからとそのまま頼むことにしたようだった。
「こればかりは男はまったくの役立たずだからな。よく知っている者に従うのが良い」
 散々罵倒されたものだと槇寿郎が溜息を吐いた。
 赤子に縁もなければ己が子を成すなどと、嫁いでからですら露ほども考えていなかった義勇は、任務の合間にひっそりと死んでいくものだとずっと思っていた。今こうして家族となった者たちの顔を見ていても、時折これは都合の良い夢なのではないかと思うことがある。このような日常を甘受して、己だけが幸せであって良いものか。姉は許してくれるだろうか。子を産む為に鬼を狩らずに済んでいる、与えられた一時のいとまを、友はどう思うだろうか。
 生活に現実味を感じなくなった時には、乗り越えたはずの彼らの死は義勇の肩に普段よりも重くのしかかる。そうしてまた自己嫌悪に落ちていく。二人の死を背負って生きると決めた以上、それはきっと生涯続くものだろう。
 己の思考を読んでいるわけではないのだろうが、二人の死を想い落ちていく義勇の思考を、杏寿郎は幾度となく捕まえて浮き上がらせてくれた。ここに居てくれと伝えてくる手が義勇の頬を撫でると、枯れ果てたはずの涙腺が目の奥につんとした痛みを与えた。
 涙が溢れることはなかったし、感情の出ない己の顔は嫁ぐ前となんら変わらない。甘露寺のように愛らしく感情を曝け出すことが出来れば家族ももっと楽しく過ごせたかもしれないのに、義勇には幼い頃のように振る舞うことは出来なかった。
「横になっていなくていいのですか?」
「杏寿郎、あまり冷やさせるな。産後体を悪くすることもあるかもしれんのだぞ」
 己の乏しい感情表現であろうと家族はこうして世話を焼いてくれるのだが、それが義勇には申し訳がなかった。彼らと過ごすようになってから気持ちは上向きになることが多くなったものの、それを表に出すことが未だ難しい。無事に産まれたとして子に怖がられないかと不安になった。
 義勇の心境を知ってか知らずか、言われるがままに杏寿郎が布団へと押し込んできた。枕元に座り直して義父の言葉に応えるように口を開いた。
「確かに油断は禁物だ。きみはすぐ身重であることを忘れるからな」
「忘れてない」
 むっとして口にすると杏寿郎は声を上げて笑い、皺の寄っていたらしい義勇の眉間に人差し指を当てて解すように力を込めた。嬉しそうにこちらを眺めていた義弟と、義父が障子を開けて部屋を出ていく。
「表情がよくわかるようになってなによりだ」
 表に出ないと悩んでいたことを汲み取られたのかと思ったが、どうやら杏寿郎は本当にそう感じているようだった。嫁ぐ前から表情は柔らかくなってきていたが、今は一層優しい顔をしている。母となるからだろうか。そんなふうに義勇にはよくわからないことを口にした。鏡を見ても目で己の感情は読み取れない。自分自身がわからないものを杏寿郎がわかるだろうか。
「自分のことは案外他人のほうが理解しているものだ。見ていれば特にな。父上も千寿郎も全てではないがわかると言っていた」
「そうなのか……。だが母になる自覚はない。まだ腹に子がいることも、あまり実感は湧かない」
「……最初は皆そうだと聞く。子と同様に俺たちも成長していくんだ」
 ともに頑張ればいい。杏寿郎の手が頬を撫でた。傷の多い武骨な手だが、それは義勇の手も同じだ。己との違いは大きさと体温の高さだった。
「自覚がまだなら顔が緩んでるのは俺のせいか?」
 え、と杏寿郎の手に添えかけた己の手が止まった。緩んでいたかと確認のために問いかけると、満面の笑みを向けて頷いた。
「ははは、照れてるな」
「うるさい」
「母もあまり表情は変わらない人だったが、こうして俺も千寿郎もちゃんと育っている。きみが気にせずとも子は親の背を見て成長する。不安がることなどない」
「お前、やっぱり思考を読んでないか」
 やっぱり? 義勇の言葉に首を傾げたものの、杏寿郎は思考すら読めるようになったかとご満悦だった。褒めたわけではなかったが、心配事を言い当てられて少々妙な気分になった。炭治郎ではないのだから鼻が利くわけでもあるまいに、己のことを一番知っているのは杏寿郎であるような気すらしてくる。
 布団に入り込んでいると温かさが増し眠気が忍び寄ってくる。義勇の腹に宿る子が無事に産まれ、杏寿郎の背を見て健やかに育ってくれることを想い目を瞑った。

*

 廊下を喧しく走る足音が聞こえた。ぼんやりと産声と産婆の声を耳に入れながら呼吸を整える。そっと隣に寝かされた赤子を見つめた。
「産まれたんだな!」
 倒れ込むような勢いで部屋へと入ってきた杏寿郎が、義勇と隣にいる赤子を覗き込む。おお、と言葉にならない感嘆の声を漏らしていると、遅れて慌ただしく義父と義弟が入ってきた。
 男の子ですよ、と医者の言葉が部屋に響いた。
 覗き込んでいた杏寿郎が俺に似ていると口にする。
 義母のお産を二度手伝った老婆が堪えきれずに笑い声を漏らした。三人とも似た表情をして似た顔の赤子を覗き込むものだから、思わず笑ってしまったのだろう。同じ顔がもう一つ増えてしまったのだ。
 つんとした痛みが鼻の奥へ伝わり、目尻に水分がじわりと広がるのがわかった。腹を痛めて産んだ我が子は、真っ直ぐ好意を義勇に伝え、愛おしむ視線をくれていた男の顔にそっくりだった。己の涙腺は枯れていなかった。目尻を伝い溢れ落ち、枕へと染み込んでいく。
 産後疲れか朦朧とした頭のまま、控えめに笑い声を漏らして一言呟いた。
「……本当にそっくりだな」
 驚いた顔が三つ並ぶ。それがまた面白く笑えたのだが、寝ずに鬼を狩るよりも余程疲れたものだから、意識を保つことができそうにないと瞼を閉じる。
「……ようやく見られたのだな」
 何を、と問いかける間もなく義勇は睡魔に負け眠りに落ちた。