常連の人 2

「あっ! こんばんは」
 扉が開き来客が来たことに気づくとともに、弾んだ兄の声が聞こえた。
 振り向くと知り合いらしい綺麗な女の人が立っていた。こんばんはと返して入口の近くにあるトレーとトングを持ち、あまり残っていないパンを選び始めた。レジに立つ母が営業の言葉を口にし、つられて禰豆子もいらっしゃいませと声をかけた。
 嬉しそうな兄を見てから母を見上げると、唇に人差し指をあてて微笑んでいる。
「部活の帰りですか?」
「ああ。今日は姉さんも遅いから、夕飯を買いに来た」
 今日はよく売れてあまり残ってないんです、と申し訳なさそうに話しかける兄に目線をやってから、売れ残っている惣菜パンをトレーに乗せた。
「禰豆子、今日はもういいわよ。ありがとうね」
 ひっそりと話し出した母の声に驚いたように兄は振り向き、禰豆子を見てほんの少し頬が色づいた。その様子にははあ、と禰豆子は思い至り生温い笑みを浮かべた。どうやら禰豆子が店内にいたことを忘れていたようだ。
 中学生である兄の炭治郎よりも少し背の高い、兄よりも歳上らしき女の人。大人っぽいから高校生だろうか。禰豆子は来年中学に上がるが、高校生になったらあんなふうに大人っぽくなれるのだろうかとなんとなく考えた。
「禰豆子、早く戻れ。皆ご飯待ってるだろ」
「ええ? 皆先に食べてるよ。お母さんの手伝いするから私は後でいいよ」
 困ったように眉をハの字にしてから、兄は唇を尖らせた。妹に妙なところを見られたとでも思っているのかもしれない。禰豆子はよくクラスメートたちと誰が格好良いとか素敵だとか、いわゆる恋の話をすることが増えたが、兄とはそんな話をしたことがなかった。お兄ちゃん、ひょっとして面食いなのかなあ。トレーをレジへと持って来る女の人を見ながらそんなことをぼんやり考えてしまっていた。
「三五〇円です」
 母の声を聞きながら、禰豆子は女の人が兄とどんな関係なのか気になっていた。
 兄は禰豆子を気にしながらも、嬉しそうに話しかけている。今日はぶどうパンがよく売れてしまい残っていないこと。普段よりも遅い時間だけれど部活はハードなのか、夜遅いのは危なくないのか。うろこだきさんや皆は元気か、などなど。うろこだきさんとは、以前兄が遊びに行くと言って店の手伝いを休んだ日に聞いた名前だった。
「うろこだきさんの家族の人?」
 思わず言葉にしてしまった疑問に口を押さえるが、女の人は頷いた。
「鱗滝さんは有名なのか」
「お兄ちゃんこの間遊びに行くって言ってたの思い出して。じゃあお姉さんうろこだきさんって言うんですね」
「いや……名字は違う。親戚……そう、親戚」
 何だか不思議な言い方をしていたが、女の人と兄はそこで知り合ったのだと分かった。うろこだきさんの家には低学年の子が二人いたと聞いていたけれど、女の人がいたとは言っていなかったけれど。
「息子とも仲良くしていただいてありがとうございます」
 微笑んで女の人にお礼を告げた母を見た彼女は少し眩しそうに目を細めたけれど、何を思ったのか禰豆子にはわからなかった。
「いえ。子供二人が息子さんに懐いたようで、次はいつ来るのかと待ち侘びてて」
「あら。炭治郎、次はパン手土産に持って行きなさい。この間は鱗滝さんが買ってくださったでしょ」
「えっ? あ、うん」
 瞬きをして反応した兄を見て、女の人は薄く笑った。パンの入った袋を受け取り、兄にまたなと声をかけて出て行った。
 頬の赤みが治まりそうにないまま、見えなくなるまでガラス越しに見送っているものだから、つい。
「わかりやすいお兄ちゃん」
 そう呟いてしまったことでびくりと肩を震わせた兄は、恨めしげに禰豆子を見た。だから早く戻れと言ったのに。そう呟いた兄に母が小さく笑い声を漏らした。
「お店の常連さんよ。すらっとして、綺麗な子よねえ」
「あー、お店に来て一目惚れしたの?」
「なんでわかるんだ」
 思わず口から飛び出した言葉に禰豆子は呆れたように笑い、兄は口元を覆って目を逸らした。
「だってお兄ちゃんわかりやすいんだってば。面食いだったなんて知らなかった」
「め、面食いじゃないぞ。綺麗な人なら店にいっぱい来るし」
「だから、あの人がお兄ちゃんのタイプだったんでしょ」
 困ったように眉尻が下がっていき、兄はううむ、と悩み始めた。
「あの人凄いんだ。鱗滝さん家で剣道の試合見せてもらったんだけど、圧倒的で」
「あのいつも持ってる長い物は剣道に使う物なのねえ」
「そう! 試合が始まるとほとんど一瞬で一本取っちゃうんだ。俺と同じ年のときにはもう強くて、凄いんだ禰豆子」
「わあ。一目惚れからどんどん色んなこと知っていって、お兄ちゃん本当に好きなんだね」
 言葉にすると兄の顔は爆発したように真っ赤になった。そうなんだろうか、と呟いた兄は、こんなにわかりやすいのにまだ自覚しきれていないようだった。
 クラスの女子が若くてかっこいい先生に憧れている姿を見たことがある。それに近いものを兄に感じつつも、それよりも少し違うものを抱いているような気がした。
 経験のない禰豆子には想像でしかないけれど、それはきっと恋というものなのではないだろうか。 

*

 あいつお姉さん居たっけ?
 友人の隣を歩く歳上らしき女の子に気づき、首を傾げて善逸は考えた。
 炭治郎は長男だったはずだ。彼の弟妹の話は常日頃している話題だった。炭治郎に歳上の女の子の知り合いが居たなんて聞いたこともなかったが、親戚か何かだろうかとこっそり観察していると。
 周りで見たことのある表情をしていることに気がついた。
 中学に上がってから多くなった話題だ。何組のどの子が可愛いだとか、付き合っている彼氏と喧嘩したとか。善逸は小学生の頃から考えていたことが、思春期を迎えた周りからよく溢れてきていた。特別な相手に向ける感情が、炭治郎の顔に表れているのである。
 ははあ、と炭治郎よりもその手のことに敏感である自覚があった善逸は、やるなあ、などと小さく呟いた。
 少し離れていて背後からしか見えないので顔まではわからないが、スタイルも良く体型はすらっとしていて綺麗だった。炭治郎よりも背が高い女の子は大きなカバンを肩にかけ、細長い袋を抱えて歩いていた。
 あの袋は見たことがある。剣道部に所属しているクラスメートが持っているものだ。
 剣道部と炭治郎が結びつかなくて、どこで知り合ったのかは想像できなかった。高校の制服を着た剣道部の女の子に、炭治郎が好意を抱いていることはわかったけれど。
 邪魔したら悪いよなあ。善逸の家もこちらの方面なのだが、友を思って遠回りするかと踵を返したのだが。
 二人の足は曲がり角に差しかかっていたらしく、善逸の姿を視界に捉えたらしい炭治郎が声を上げた。
「善逸」
 なんで声かけるかなあ。
 善逸からは当然少し前から炭治郎の姿は見えていて、今まで声をかけなかったのだから気を遣ったのだと察してもいいだろうに。近寄って来る気配を感じ、溜息を吐いて振り向いた。
「何してるんだ。忘れ物か?」
「いやー違うけど……」
 そうか、忘れ物と言えばよかったのだ。今更言い直しても無駄に終わりそうなので、善逸は頭を掻いて誤魔化した。
 ちらりと炭治郎の横を歩いていた女の子へ目を向けると、曲がり角の近くで立ち止まっていた。真っ直ぐこちらを眺めている姿は正に凛とした雰囲気を纏っていた。
 それを見た直後に炭治郎の胸元の辺りを勢い良く掴み、善逸は思い切り睨みつけた。
「お前っ……お前あんな美人とどこで知り合ったんだよ……!」
 歯ぎしりまでして眼前で睨みつけ羨みの言葉を吐き捨てると、店のお客さんだと炭治郎は答えた。
 以前課外授業であった職業体験に行った施設に、たまたま実家のパン屋の常連が居て仲良くなった。その常連の家族だったらしく、家に遊びに行ったら彼女が現れたらしい。
「なに? その羨ましい出会い方。そんで仲良くなったってことかよ」
「いや……ちゃんと話をするの今日三回目だし」
「はああ? お前三回目でもう一緒に帰る約束とかできんの? 了承してくれんの?」
「偶然会ったから約束はしてない。たまたま途中まで同じ道を通るらしくて」
 今日は部活が休みになって、本当にたまたま会えたのだと言った。照れてもじもじと手を動かす炭治郎に、あまりの羨ましさに思わず手が早いと言ってしまうところだった。
「ところでもう帰らないか? 義勇さんを待たせてる」
 己にとって女子の存在を忘れるなどあってはならない失態だが、あまりの衝撃に忘れかけていた。彼女のそばまで二人して走り寄り、目一杯の笑顔を見せて待たせたことを謝ると、隣からの炭治郎の目が白けていることに気がついた。どうやら鼻の下が伸びきっていたらしい。
「かまわない。積もる話があるなら先に帰る」
「ええっ」
 声を漏らしたのは炭治郎だけではなく善逸もだったので、目を丸くした女の子が二人を見つめてきた。驚くと凛々しいよりも少しばかり表情が柔らかくなって可愛い。
「す、すみません声をかけたのに待たせてしまって」
「いや……友達なんだろう、邪魔だ」
「いやそんなことないです! 帰りましょう義勇さん」
 邪魔とは自分のことらしいと炭治郎の反応で気づいた善逸だったが、どうやら内密な話をしていた炭治郎と善逸を気にかけているらしい彼女は、炭治郎の勢いのある言葉に多少驚きつつも頷いて一緒に歩き出してくれた。
 こんな歳上の女の子とお近づきになれるなど思ってもみなかった善逸は、炭治郎様々だよ、と心中で拍手を送った。まあ炭治郎の気持ちはどうやら彼女に向かっているようなので、野暮なことは考えてはいないけれど。