常連の人

 いつも袋に入った長い棒のようなものを抱えて店へと足を踏み入れる人。
 最初に見かけたのは炭治郎も知る鱗滝とともに店内へと訪れ、トレーとトングを持ち並べられた様々なパンを吟味しながら、和やかに会話をしている姿だった。
 店に訪れる綺麗な人はきっと他にも居たけれど、何故かその人から視線が逸らせなかった。
 じっと視線で追っていたからか、綺麗な子だったね、と母が声を掛けてくる。その言葉を聞きながら、店のガラス越しに歩道を歩いていく姿をいつまでも見つめていた。
 鱗滝と知り合ったのは、学校での職業体験として選んだ施設で、彼がボランティアとして手伝いに来ていたからだった。
 古い知り合いから頼まれ始めたそうだが、子供は好きだからと楽しそうに過ごす姿を見て、優しい人だと思ったことを覚えている。
 身寄りのない子供を二人引き取り、今は忙しいからと来る頻度は減ったそうだ。体験として来ていた炭治郎は短期間のみのはずだったのだが、子供たちに懐かれたのと施設の職員に喜ばれたので、時折顔を見せに施設へと訪れるようになった。
 低学年の子供が二人いると言った鱗滝が遊びに来ないかと誘ってくれたものだから、炭治郎は二つ返事で了承した。連絡先を交換し、母には理由を告げて店の手伝いを一日空けてもらった。
「こんにちは、鱗滝さん!」
 うちの店のパンが好きだからと、買うついでに炭治郎を拾ってもらい、連れ立って鱗滝の住居へと歩き出した。同い年の男の子と女の子で、女の子はあんドーナツが好きなのだと聞いた。だから店に来たときは必ず買い、売り切れたときは少し残念にしていたのだ。
「今度から少し多めに焼くようにしますね」
 そこまでしなくていい、と鱗滝は言ったが、通ってくれる常連は大事にしたい。それが炭治郎の好きな鱗滝の、大事にしている子の好物ならば尚更だった。
「ただいま」
 少し古めかしい一軒家の玄関を開け、鱗滝の後に続いて足を踏み入れた。お邪魔します、と元気よく声をかければ、奥から足音が聞こえてきた。
「おかえりなさい、鱗滝さん。そちらの子は?」
 柔らかい笑顔が印象的な、三編みを背中に流した可愛らしい女の人が出迎えてくれた。子供二人のことしか聞いていなかったものだから、つい面食らったように炭治郎は女性を見つめる。にっこりと笑みを向けられ、少し心臓が跳ねた。
「施設で知り合った子だ。錆兎と真菰の話をしたら会いたいと言ってくれてな」
「まあ、そうなの。こんにちは、冨岡蔦子です」
「こ、こんにちは。竈門炭治郎です」
 促されるままに靴を脱ぎ、居間へと通された。中には二人の子供がテレビに齧りついていた。
「おかえりなさい、鱗滝さん。そっちの人は誰?」
「ボランティアで知り合った子だ」
「竈門炭治郎です。よろしくね」
 よろしく、と笑顔を返した女の子は、真菰と名乗った。隣でテレビを見ていた男の子は錆兎というらしい。
「何を見てるんだ?」
「義勇の試合! 蔦子姉さんが持ってきてくれたの」
 ぎゆうというのは誰かの名前なのだろう。画面には袴を着て防具をつけた二人の選手が、向き合って竹刀の先をあてがっていた。剣道の試合だということは見て分かる。
「妹の昔の試合動画なの。二人が見たがっていたから」
「剣道が好きなの?」
「あのね、錆兎は剣道やり始めたんだよ。道場に通ってるの」
 凄い、と素直に口にすれば、口を尖らせて錆兎は目を逸らした。照れているような拗ねたような、微妙な表情だった。
「何も凄くなんてない。俺はまだまだ初心者なんだから」
「でも剣道って稽古も厳しいし夏場は大変なんだろう? 凄いじゃないか。俺はやったことないから」
「興味あるのか?」
「うーん。興味はあっても店の手伝いがあるから、部活はやってないなあ」
 店? と不思議がる二人に鱗滝が持って帰って来たビニール袋を見せた。竈門ベーカリーのパン! と真菰が嬉しそうに飛びついてくる。飲み物を用意していた蔦子が竈門? と口にし、思い至ったようにあ、と驚いた。
「竈門炭治郎くん。ここのお店の子なのね」
 はい、と肯定すると、真菰と錆兎の目がきらきらと輝いた。

「偉いのねえ。まだ中学生なのに、ちゃんとお店の手伝いして」
 見た目から歳上だろうことはわかっているのだが、錆兎や真菰くらいの子供に向けるようなニュアンスで褒められ、炭治郎は照れたように頭を掻いた。
「私このあんドーナツ大好き! 他にもあるけどこれが一番好きなの。錆兎は?」
「俺はこれが美味いと思う。くるみパン。給食にも出ないし」
 給食に出さない? と二人の子供に見つめられ、炭治郎は困ったように眉尻を下げた。家族で営む小さな店だから、どう考えても学校相手に卸すことは難しいのだが、二人にはまだ思い至らないようだった。
「家で食べるから美味しいのに。わかっていないわね、二人とも」
 毎日支給されては有り難みが減る。自分で買ったり、鱗滝が買って帰って来てくれるから美味しいのだと蔦子が言った。そういうものか、と錆兎と真菰は納得した。
「義勇の分もある?」
「ああ。義勇はぶどうパンを残してやってくれ」
「コンビニのでもよく食べてるもんねえ」
 ぎゆうという人はぶどうパンが好みのようだった。剣道をやっていて、好きなパンはぶどうパン。話題でしか知らないぎゆうの好きなものが分かっていく。その人も今日ここに来るのだろうか。
「そのぎゆうさんってここに住んでるの?」
「蔦子と義勇は住んでるわけじゃないぞ」
「家族なんだけど、二人は”自立”してるんだよ」
 覚えたばかりのような単語を口にして真菰が教えてくれた。錆兎と真菰は鱗滝が引き取ったのだと聞いているが、蔦子や顔も知らないぎゆうもまたそうなのかもしれない。妹だと言っていたから、蔦子とは血のつながった家族なのだろう。
「私達は両親の家もあるからね。いつまでもお世話になるわけには行かないから」
 何やら複雑な環境らしく、深く聞くことは憚られた。複雑であろうと仲睦まじく過ごしているのだから、部外者である炭治郎には何かを言えるはずもなく、そんなことを考えるのも烏滸がましい。
「ごちそうさま!」
 手を合わせた後いそいそとテレビの前へ向き直り、錆兎は途中で止めていたDVDを再び起動させた。慌てて真菰も手の中のあんドーナツへかぶりつくが、鱗滝にゆっくり食べなさいと注意されてしまう。
「俺も見ていい?」
「良いぞ。これは義勇が中一のときのらしい。このときからもう強かったんだ」
 今ぎゆうという人物がいくつかは知らないが、今の炭治郎と同い年のときの試合らしい。このときからというならば、今も相当強いのだろう。剣道のルールや強さまではわからないが、右側に佇む選手に自然と目線が向かった。ちらりと錆兎の顔に視線をやると、わくわくと聞こえてきそうなほどに笑みが溢れている。余程楽しみにしていたのだろうことがわかり、微笑ましい気分になった。
 審判の声の後、竹刀の打ち合う音が聞こえ、炭治郎は視線を画面へと戻した。
「あんまり近づくと目が悪くなっちゃうわよ」
 蔦子の注意も聞こえていないのか、錆兎は食い入るように画面から目を離さない。隣りにいる炭治郎が離れさせるべきだったのだろうが、炭治郎の目は錆兎と同様に画面へと縫い付けられてしまっていた。
 凄い。剣道のことなど、ルールも知らない素人であるはずなのに、何故か目が離せなかった。右側にいる選手の動きは、素人の炭治郎から見ても段違いであることがわかる。流れるような動きから瞬く間に一本を取り、続く二回目も開始と同時に一本掻っ攫っていく。
 何が起こったのか理解しきれずあんぐりと口を開けたまま、炭治郎は動かなくなった。その様子を見ていた蔦子と鱗滝が、どこか誇らしげに見ていたことに気もつかず。
「す……凄い! 一瞬で終わっちゃった。俺剣道はさっぱりだけど、それでもこっちの人が凄く強いことがわかったよ。とにかく凄い」
 語彙がすっかりなくなってしまったが、炭治郎の様子に興奮気味だった錆兎が勝ち誇ったような笑みを見せた。自分の家族が褒められて良い気分なのだろう。
「そうだろう! 義勇は凄いんだ」
「もう! 錆兎のせいで見られなかった」
「DVDだから、心配しなくても何度でも見られるわよ」
 あんドーナツを食べ終え、砂糖まみれになった手を洗いに行っていた隙に試合が終わっていたらしく、真菰は地団駄を踏みそうなくらい憤っていた。
「他にもあるのに真菰を待っていられない。俺は義勇より強くなるんだからな」
「ぎゆうさんが目標なのか?」
「義勇見て剣道やり始めたんだもんね。錆兎はねえ、いっつも義勇の試合見たがるの」
「真菰もだろ。だってかっこいいんだ。お前もそう思うよな」
「うん。かっこよかったね、さっきの試合」
 ぱっと表情が明るくなり、錆兎と真菰が目を合わせて笑い合った。

 何枚か目のDVDを入れ替えようとしていたとき、玄関から音が聞こえてきた。来たわね、と蔦子が口にして席を立つ。どの試合も圧倒的だった件のぎゆうさんがやってきたらしい。今日も部活だったんだ、と錆兎が口にして、この時間に来た理由に納得がいき、もうこんな時間かと炭治郎は驚いた。
 随分長居してしまったが、錆兎や真菰と過ごす時間は楽しかった。試合動画の合間にも色々遊んだりしたのだが、結局テレビの前へと戻ってきてしまう。錆兎や真菰と同様に、炭治郎もすっかりぎゆうの試合の虜となってしまっていた。
 板の引き攣るような音とともに、居間の扉が開く。蔦子の後ろに長物を抱えた女の子が立っていた。
「……あっ!」

 そこに居たのは、店で何度か見かけた歳上の少女だった。
 深く考えれば気づいたことだった。最初に彼女を見かけたのは鱗滝と一緒に店に来たときだ。いつも持っている長い袋には、動画で見た竹刀が入っていたのだろう。言われてみれば彼女はぶどうパンをよく買っていたような気はする。彼女が店に来るとどうも緊張してしまって、どぎまぎと焦りながら品出しをする羽目になるのだ。母の手が空かずレジを頼まれたときなどは、初めてでもないくせに袋を焦ってぐしゃぐしゃにしたことがあった。おかげで彼女が店から出て行ったあとは安堵のため息を吐き、何を買って行ったかなど眺める余裕などなかった。
 店員と客以外の突然出来た関わりに、炭治郎は驚いたまま暫く思考が停止した。
「義勇、竈門ベーカリーのパンよく買うでしょ? この子そこのお店の子よ」
「竈門炭治郎です! 毎度ありがとうございます」
 ついいつもの癖で来客時の対応のような返答をしてしまい、蔦子が口元を抑えて笑い出した。それにつられたかのように、少女の口元が綻んだ。
「冨岡義勇。よろしく」
「口数は少ないけどとっても優しい子なのよ」
 すたすたと居間の奥へと入り込んでいく義勇を尻目に、蔦子はフォローするかのように炭治郎へこっそりと囁いた。無口な人はそれだけで誤解されやすい気がするから、きっと蔦子も気にしているのだろう。炭治郎は人の優しさの部分を見抜くのが得意である。
 とはいえ流石に時間も時間だ。まさかこれほど熱中するとは思わず、炭治郎は鱗滝へ帰る旨を伝えた。えーっと残念がる真菰と錆兎の声に嬉しく思いながらも、頭を下げてお邪魔しましたと口にした。
「また来ても良いですか?」
「絶対来てね! 義勇の試合まだいっぱいあるから」
「!?」
 驚いたようにこちらへ振り向く義勇に、伝え忘れていたと炭治郎が口を開いた。
「義勇さんの試合凄くかっこよかったです! 俺剣道はよく知らなかったんですけど、それでも凄いことはわかりました! 何個か見せてもらったんですけど、どれも圧倒的で、飛び出てくる技が綺麗で」
 見ていたときの勢いのまま言い募ると、義勇は俯いて黙り込んだ。褒められてるよ、と真菰が彼女の腰辺りへ抱きついた。照れてるのよ、と蔦子がそっと炭治郎に耳打ちする。炭治郎にもそれは分かり、少し勢いをつけすぎたかも知れない、と少々反省した。
「引き留めすぎたな、送ろう」
「あ、大丈夫です。まだ明るいし、道も覚えてるので」
 そのまま玄関で靴を履き、お邪魔しましたと口にした。手を振る二人の子供に振り返し、鱗滝へ会釈をした。蔦子と義勇へ声を掛けようとすると、顔を上げた義勇が口を開いた。
「……その、ありがとう。また二人と遊びに来て欲しい」
 綻んだ口元は、先程見たときよりも嬉しそうに見えた。