うぬぼれ
下駄箱を開けると上履きの上に乗せられた手紙が目に入った。一昔前にはあったのだろう風習は、いつの時代にも通用するもののようだった。
取り出して封筒の裏側を見ても、可愛らしい字で宛名は書いてあるものの差出人の名前はない。古風なことをするものだ、と煉獄は少々興味を惹かれた。
中身は想定通りのものだった。きみのことが好きだから、昼休みに指定の場所まで来てほしい。この手の呼び出しは手紙では初めてだったが、何度かされたことはある。高校に進学してからは二度目だ。
少しばかりの期待が頭をもたげるが、あるはずもないとかぶりを振る。最近は視線も合わせず避けられすぎて、ひょっとして意識されているが故かもしれないと思いはするものの、如何せん己も少々気にしすぎているためか、以前よりも満足に会話ができていない。何故避けられるのか理由がはっきりとわからなかった。
己が過去の発言を思い出し顔を見られなくなったとき、視界に映った彼女もまた顔を真っ赤にしていた。その時は何故と思う余裕もなく、逃げる彼女の背中を見送っただけだったのだが。
あの時の反応の理由が知りたい。
彼女は己の顔を見て驚いていなかったか。煉獄自身も顔を背けたのではっきりとしたことはわからないが、あの場には煉獄と彼女しかいなかった。目が合ったはずが背けられた。もしや相当妙な姿をしていたかと考えるも、その後会った部員たちには何も言われなかった。いや、顔が赤いとは言われたが。
何とかして以前と同様に話をする関係に戻りたい。あれから十日ほど経ったが、部員が喧嘩でもしたのかと気にするほど彼女は煉獄を避け続けている。最初の二日ほどは自分も話しかけられなかった。いくら微笑ましい思い出だろうと、当事者になると恥ずかしいものは恥ずかしい。だが話が出来ない、顔が見られないのは恥よりも嫌だった。
持っていた手紙にしわが寄るほど握り締めていたことに気づき、ついてしまったしわを伸ばすよう手紙を撫でた。そしてふと思いついたように手紙を見つめ、煉獄は彼女と会話ができるよう画策することにした。
「煉獄さん、おはよう!」
振り向くとクラスメートである甘露寺が、背後に花が見えるほどの笑顔で立っていた。挨拶を返せば更に舞い飛ぶようなほどの花が見えている気がする。
穏和で明るく皆に優しいと評判の甘露寺は、クラスの友人たちの話題に良く上がる。売店で買い込んできた昼食の量には誰もが顔色を失ってはいたが、煉獄自身も大食漢であることは自覚しているので、あの程度ならば俺にも食べられるな、と感想を口にすれば、周りとは些かずれた思考をしていたらしい。
「ああ、おはよう」
「どうしたのその手紙?」
仕舞わず手にずっと持っていた手紙を視界に収めた甘露寺は、当たり前のように問いかけてきた。きっと見つからないように下駄箱に潜めたのだろうに、悪いことをした、と名も知らぬ送り主に心中で手を合わせた。
「あっ。ごめんなさい気になってしまって。詮索する気はないのよ」
煉獄の気まずい表情の理由を察したらしく、甘露寺は慌てて謝ってきた。彼女は常日頃恋の話が好きだと良く口にしていたが、根掘り葉掘りと無理やり聞きたいわけではないらしく、そしてその手の察しの良さは誰よりも早かった。
助かる、と手紙はさっさとかばんに仕舞い、連れ立って教室へと向かって行った。その間先程の問いかけに関連するようなことは口にせず、こういう細やかな気遣いが人に好かれるのだろうなと好感を持った。
手紙について声を掛けたとき、煉獄はしまったという顔をした。今朝会った場所は下駄箱。メールも電話もある今ならば頻度はぐんと減っただろうが、恋の話にそれは付き物だ。少女漫画にだって出てくるし、連絡先を知らなければやっぱりそれは重要な呼び出し方法だと感じる。だけど自分の周りでまさかあるなんて思わなかったから、つい聞いてしまったのだ。その手紙をどうしたのかと。
甘露寺にとって恋は、人生において勉強よりも大事なことだった。恋をしているだけで女の子は可愛く見えるし、男の子も格好良く見える。周りで恋が成就していくのを見ては、胸が締め付けられたり高鳴ったりと落ち着くことがない。いつか自分も、自分だけに向けられる温かい感情で、胸の高鳴りを感じたいと思うのだった。
煉獄はモテる。あの溌剌とした性格や、優しい気配りもそうだし、勉強も運動も何でもできる。入部している剣道部では、部員内で一、二を争う腕前なのだと聞いたことがあった。呼び出し方は違えど、以前も女子生徒に声を掛けられていたことがあった。
でも。
――煉獄さんには、好きな人がいるんじゃないかしら。
無理やりな詮索はしないようにはしているが、甘露寺は人が恋をしていることに何となく勘づいてしまう。ふとしたときの表情や、口にした言葉で。隠していそうな恋だって、ぼんやりと気づいてしまうのだ。
煉獄が心の内の気持ちを隠しているのかはわからないが、授業中にふと見かけた横顔は、窓の外を見て柔らかい笑みを浮かべていた。
きっと視線の先には煉獄にとって、見ているだけで笑みが溢れてしまうような人が居たのだろう。それは甘露寺にとって、最も大切だと思う感情が出ていたのではないだろうか。
だからその後に繰り広げられた光景を目の当たりにして、甘露寺の瞳は驚きとともにきらきらと煌いた。やっぱりそうなのね煉獄さん、と自分のことのようにどきどきと鼓動を鳴らす胸を抑えたのだった。
廊下を勢い良く生徒二人が通り抜け、びゅう、と風が空を切る音が聞こえた。皆一様に通り過ぎた先を見つめ、何が起こったと騒がしく噂し始める。
一体何だったのか、カナエは近くで見ていたクラスメートに問いかけた。
前を走っていた、スカートが見えたから女子生徒と、それを追うように走る明るい色をした頭の男子生徒。なぜ廊下で追いかけっこをしているのか、よく分からないままカナエは首を傾げた。
「前走ってたの冨岡だろ」
「そうだった? 顔まで見る暇がなくて気づかなかったわ」
ため息を吐くクラスメートに返答しつつ、去っていった先の廊下へ目を向けた。
「冨岡と煉獄」
「煉獄……ああ、剣道部の子ね。話には良く聞いてるわ」
「あいつ話しすんのかァ……」
するわよ、とカナエは言い返した。
冨岡とはカナエの友人の名前である。
高校一年の頃からクラスが同じだった。口数の少ない冨岡義勇はほとんどクラスメートと話をする様子を見せず、入学して一週間足らずですでに浮いた存在になりかけていた。そんなことは気にもせず、単純に義勇がどんな人間なのか興味があったカナエは、周りの遠巻きにする視線を無視して話しかけた。そうすると案外回答は返ってくる。単語だったり言葉少なにではあったが、カナエを無視することは一度もなかった。
暫く近くにいて気づいたのは、義勇は独特な自分の時間――空気感というのだろうか、とにかく周りよりも反応が一拍遅い気がした。振られた話の内容に考え込み、何を口にするかを選んでいるような間があった。まあ要するに、おっとりしていてのんびりしていて、マイペースということなのだろう、と結論づけた。
周りから似た指摘を受けることは少なくなかったカナエだが、せっかちな人には確かにこれは苛々するのかもしれない。生憎カナエはせっかちではなかったので、義勇といる時間は少しも苦にならなかった。
カナエはクラスの女子に良く話しかけられるが、その度に義勇にも話を振っているおかげか、義勇は遠巻きにされることはなくなった。二人揃って天然扱いされていることには気づいていないけれど。
「女子で集まってても声聞こえねェし」
「率先して話はしてないけど。話しかければ答えるわよ」
話す用事はない、と興味もなさそうに口にした男子生徒は、頬杖をついて二人が走り去った方角へ視線を向けた。
彼はあまり義勇のことを良く知らないようだが、目立った行動をしていればそれはそれで気になるようだった。周りも何があったのかと騒がしくしているままだ。
「不死川くん剣道部のこと詳しいのね」
「部活してるとシャワー室が混雑するんだよ。帰る時間がどこも似たりよったりでな」
そこで良く見かけるのだと彼は言った。運動部である彼らは部活が終わるとシャワー室で汗を流して帰るのだという。目立つ頭と大きな声ですぐ顔を覚えたのだそうだ。
「冨岡とは正反対な奴だよなァ」
「追いかけっこするくらいだもの、正反対かもしれないけど仲は良いのよ」
「この歳で追いかけっこて……」
戻って来たら理由を話してくれるだろうかと、カナエは楽しみにして席へと戻った。
彼女と話をするためにどう動くべきか、思考を巡らせようとしていた目論見はもろくも崩れ去った。
手紙に書かれていた場所にやって来ると、すでに誰かが佇んでいた。失礼ながら顔を覚えておらず、話をしたこともない、隣のクラスの女子生徒だと言う。
頬を赤らめて必死に想いを伝えようとする姿はいじらしかったが、煉獄の答えは決まっていた。できるだけ穏便に、気持ちは嬉しいということだけはしっかりと伝えなければ、と思いながら告白を聞いていると、背後から砂利の音と小枝が割れる音が響いてきた。
誰もいないと思っていたが、見られてしまったか、と煉獄は振り向いた。向けた目線の先には、ここ数日顔を見ることもままならなかった相手が立っており、驚いたようにこちらを見ていた。
――なんと間の悪い。
誤解されても仕方のないタイミングで彼女は現れた。邪魔をした、と小さく呟き、慌てたように踵を返し走り去っていった。
思わず追いかけようと体ごと振り向いたところで、女子生徒のことに意識を向ける。
傷つけないよう穏便に断りの文句を伝えるはずだったのだが、今の煉獄にそんな余裕は欠片も持てなかった。
「すまない! 俺には好きな人がいるから、きみの気持ちには応えられない!」
体はすでに走り出しながら、精一杯誠実に謝った。それから逃げた彼女に追いつくために全力で足を動かした。
「何故追いかけてくる!」
「先輩が逃げるからだろう!」
早い段階で手を伸ばせば届きそうなほどの距離まで詰めたはいいものの、煉獄はなかなか義勇を捕まえることが出来なかった。昼休みだから外に出ている生徒は多く、そこかしこでぶつかりそうになりなかなかスピードを上げられない。加えて義勇の運動能力は高い。何故障害物をするすると避けられるのか、捕まえたいのに手放しで褒めちぎりそうになる自分を抑えた。
「逃げていない。邪魔をしたから移動するだけだ!」
「もう話は終わっている! 俺は先輩に言いたいことがあるんだが!」
「私にはない」
追手である煉獄を撒くためか、義勇は校舎内へと入って行った。廊下を走るなと小学生の頃から言われていたことも覚えているが、今は構っていられなかった。
一年のクラスが並ぶ廊下を走り抜け、階段を上って二年の階へと移動していく。通り抜けた後ろは喧騒で溢れていた。こんなことをしていては悪い意味で有名になってしまうだろう、と義勇の背中を睨みつけるが、スピードが落ちる気配はない。煉獄もまだ余裕はあるものの、体力速さともに素晴らしい身体能力である。
廊下の途中にある階段へ急に進行方向を変更し、義勇が勢い良く下りていく。昼休みが終わる前に捕まえなければ、授業に出ると教室へ戻られたら終いだと感じる。
そうなればもう義勇の誤解は解けなくなってしまうような気がした。ちょうど人影の少ない校舎裏へと入り込んだところで、煉獄は更にスピードを上げた。
背後の煉獄へと視線を向けて注意を払ったおかげか、義勇の速度が一瞬緩まった。その隙に背中側へと振り上げられた腕を掴んで、二人同時に地面へ倒れ込んだ。
ランニングならば常にしているが、短距離走のようなスピードでの競争にはさすがに距離が長すぎる。激しい運動をした直後に言葉を発せられるはずもなく、酸素を取り込むために荒い息を繰り返し、暫くしてようやく二人の呼吸は落ち着いた。
「……見るつもりはなかった。すまない」
あそこを通ると食堂が近いから、と目撃した理由を告げた義勇を眺め、煉獄は一人納得した。
教室の位置によるのか一年長くこの学校に通っていたがためか、とにかく煉獄やあの女子生徒には思ってもいなかった抜け道だったようだ。
誰にも言わない、と口にした義勇を見つめながら、本来考えていたことを実行するには、今なら絶好の機会であることに気がついた。予想以上に疲れているが、煉獄を見て逃げようとしなくなった義勇と話をするのは今が最適かもしれない。十日ぶりにまともにつき合わせた義勇の顔を見つめながら、煉獄は口を開いた。
「俺は今も昔も先輩が好きだ」
「は?」
訝しげにこちらを眺める義勇と目を合わせてから、煉獄は今しがた口にした言葉を反芻した。そしてあ、と声が漏れる。
「しまった、順番を間違えた! ここ最近目も合わせないのは何故なのかを聞きたかったんだ」
慌てて言葉を付け足すものの、煉獄は己の顔に熱が集まっているのを自覚し、隠すように手のひらで顔を覆った。何も言わない義勇の頬に、じわじわと赤みが差していくのが指の隙間から目に映った。
「昔……?」
「そこを拾うのか……」
両親を亡くし、その頃の記憶は思い出したくないかもしれないと、父と母も言っていた。聞くつもりなど毛頭なかったはずだった。自分から言ってどうするのだ。
だが疑問を持たれてしまった手前、誤魔化そうにも上手い言い訳が思いつかない。諦めて煉獄は口を開いた。
「……いや、そうだな。先輩はうちの書道教室に昔通っていただろう。それをこの間思い出したんだが――」
まだ体力が残っているのか、言葉の途中で義勇は勢い良く立ち上がった。表情は強張った状態で、頬の赤みだけが広がっていく。逃げられる前に急いで手首を掴み、煉獄も立ち上がった。
「忘れろ」
「それは無理だ。思い出した以上、俺にはただの思い出話で終われそうにない。俺の初恋は先輩で、今好きなのも冨岡先輩だ」
髪を一つに結んでいるおかげで、顔を背けた義勇の首元までが赤くなっているのが見えた。逃げ出したくてたまらないらしい義勇の腕が、掴んでいる煉獄の手から逃れようと足掻き始める。
やがて離れないと悟ったのか、腕は段々と力を弱めていった。
「あれは、子供のお遊びだ。今も引きずるようなものじゃない」
覚えているのか、思い出したのか。言いたいことも聞きたいこともあるが、ひとまず煉獄は義勇の言葉を飲み込んで返事をした。
「お遊びと思われても構わないが、引きずっているんじゃない。もう一回好きになったんだ」
好きだったことを忘れたまま、煉獄は今の義勇を好きになった。流れるような剣技も、足りない言葉も、時折見せる穏やかな表情も。全てこの高校で再会してから見たものだった。
「先輩はどう思っている。好かれてる気はしないでもないがよくわからん」
「……さっきの女子は」
「ああ、告白されたのだが置いてきてしまった。好きな人がいると一応断りはしたのだが」
好きな人、と呟いた義勇の横顔は、赤みが引いてきてはいたがまだほんのりと色付いている。煉獄が置いてきた女子生徒のことを何やら気にしているらしい。
「誰に誤解されても構わないが、先輩に誤解されるのだけは避けたかった。先輩が好きだから追いかけ――グッ」
「も、もういい」
何度も言うな。義勇の手のひらが張り手のように煉獄の口元を攻撃した。手加減してはくれなかったらしく、少々肌がひりついて痛い。
開き直って感情をそのまま口にすることにした煉獄を、義勇はどう対応すべきか持て余しているようだった。言葉通りに受け止めて、知ってくれれば良いだけなのに。答えを急かしてしまったところはあるが、それくらいは多目に見てもらいたい。また何日も避けられることになったら、もう耐えきれる自信はない。
辛い記憶を思い出させてしまうかもしれなかったが、今の義勇を見ていると、辛いというよりも別の感情が色濃く出ているのではないかと感じる。
どう思っているのかわからない。確かに先程そう口にしたが、今はもう手に取るようにわかった気がした。この昼休みまでは掴みきれなかった義勇の心情を、今は表情で読み取ることができる。
己の自惚れでなければ、だが。
「先輩、」
言葉を発すると同時に昼休みの終わりを告げるチャイムの音が鳴り響いた。弾かれたように顔を上げ、義勇の口から小さく授業、と呟かれた。
「ああ……仕方ない。とりあえず、昨日までのように避けることはやめてもらえないだろうか。話もできないというのは少々悲しくなる」
「わ、わかった」
「それから」
どこか安堵したような表情を見せた義勇を見て、掴んだままの手首を離す前に煉獄は付け足した。
「俺が先輩を好きだというのは事実だ。それを覚えていてくれれば良い」
――今は。
心中で付け足した言葉は義勇には伝わらない。
口を小さく開けたり閉じたり、何か言いたげな様子を見せたものの、義勇はただ頷いた。良かった、と満足気に笑みを向け、教室に向かうために歩き出す。
今はひとまず置いておく。第一目的であった元の関係に戻ることは何とかなりそうだ。それだけでも全力で追いかけた甲斐はあった。
欲を言うならば彼女の口から気持ちを聞きたかったけれど、それはもう少しだけ後回しにすることにした。