抱く感情は同じ・2
「名簿を見てわかったのですが、杏寿郎と稽古をなさった冨岡義勇さん。書道教室に少しの間通われていたようですね」
居間の扉を開こうと手を掛けたところに母の言葉が聞こえてきた。
幼い頃は父や母に様々なことを習っていた。今の千寿郎のように、子どもたちに紛れて竹刀を持ち、机に向かいながら書道を学んでいた。母が知っている生徒のことならば、己も関わったことがある可能性は高い。廊下で聞き耳を立て続けるわけにもいかず、杏寿郎は扉を開けて両親の前に顔を見せた。
「印象が変わっていたので気づきませんでしたが、思い出しました。十年前にご両親がお亡くなりになって辞められた子です。お姉さんと一緒に半年ほど来られていたようですね。杏寿郎も良く話していたでしょう」
外に居たのを気づかれていたらしく、母は言葉を続けた。十年前ともなれば、小学校に上がるか上がらないかの頃だ。ずっと交流の続いている者の顔は覚えているが、短い間通っていた子どものことまでは覚えていなかった。せっかく剣道以外の接点を教えてもらったというのに、杏寿郎は己の記憶力に些かがっかりした。
「………、良く話していたのですか、俺は」
「ええ。彼女も昔はもっと、お姉さんと良く笑っていたと思います。杏寿郎のことも可愛がってくださっていたかと」
「ご両親の死を機に辞めているのなら、笑わなくなったのもその頃なのかも知れないな」
そうなのでしょうね。母が少し落ち込んだような声音で言った。
うちでのことを覚えていないようだったから、思い出したくないことかも知れないと二人は頷き合っている。杏寿郎もそれには同意を示した。
冨岡に聞くようなことはしないが、それでもせめてどんな子どもだったのかは思い出したい。高校で初めて会ったと思っていたが、想定していなかった昔に接点があったことは素直に嬉しいものだった。何とかして記憶の引き出しを探り当てるべく、杏寿郎はむう、と唸りながら腕を組んだ。
立ち上がった母が部屋から出て行き、父の晩酌を眺めていると、杏寿郎が書道を習っていた時は、生徒数が今より多かったらしいと父が口にした。
「案外世間は狭いものだな」
「確かにそうですね」
全く思い出せませんが! 残念に思いつつ笑った。呆れたような視線が父から向けられる。
暫くして戻って来た母は大きなアルバムを抱えており、ありましたよ、と弾んだ声が父と杏寿郎へかけられた。
「一度だけ生徒たちと一緒に写真を撮ったことがありました。この子が義勇さんと蔦子さんでしょう。こうして見ると面影があります」
「ほお。本当だ、笑っているな」
可愛らしいですね、と呟いた母の声を聞きながらアルバムの写真を見つめた。真ん中に笑みを浮かべる今より少し若い母がおり、横に幼い自分が写っている。少し離れた端に寄り添って写る姉妹らしき二人を母の指が示した。
満面の笑みを浮かべる年上の少女にしがみつくようにして、はにかんだ顔を向けている子どもがいた。
ぎゆう、義勇。ああそうか、そうだった。他の子どもたちより大人しく、だが熱心に母に教えを請うていたこの少女に良く話しかけていたことを思い出した。
「お姉さんも熱心に励んでくださっていましたね。義勇さんも綺麗な子になっていましたから、きっと姉妹で美しく成長しているんでしょうね」
「そうだなあ……もう結婚しててもおかしくないくらいじゃないか?」
「最近の方はお早い方も多いですから、確かにそれもあり得ますね」
両親が話した結婚の二文字を耳にした時、ふいに幼い話し声が脳裏に過ぎった。声の内容を理解した途端、杏寿郎は勢い良くアルバムから顔を上げた。父と母が驚いて杏寿郎へと目を向け、瞬きをしてどうしたと声をかけてくる。顔が真っ赤ですよ、と母が言い、父はまた呆れたような表情をしていた。
「、何でもありません」
「何でもない顔をしていませんよ」
「いえ本当に」
ただ思い出してしまっただけだ。幼い自分が同じく幼かった冨岡へと言った言葉を。子どもの言葉など移ろいやすくその場限りのものである。よりによって先輩である冨岡に対して口にしたのを思い出した。
「間違って酒でも飲んでしまったか」
「そんなことはしないでしょう」
少しずれた助け舟のような父の言葉も虚しく、己へ信頼を向ける母は何事かと杏寿郎を気にし始めた。今だけはやめてほしい。羞恥に熱を持つ顔を隠すことも、見られた後では今更である。子どもの頃の己がそれを口にした理由は、幼い冨岡の行動が原因だったことも思い出してしまった。
「いや、あれは子ども同士の良くある行動で、」
気にするほどのものではないはずだ。父譲りの地声の大きさも相まって、小さく呟いたはずの言葉は丸聞こえだった。母の目が好奇心に輝いたのが見えた。
「ひょっとして、この頃何かあったのですか」
あった。あったにはあったが、それを己の口から伝えるには激しく羞恥が邪魔をする。思い出したばかりでまだ昇華しきれていないのだ。どうか今ばかりはそっとしておいてほしい。瑠火、と嗜める父の声が俯いた己の耳に届き、震えを抑えた声でおやすみなさい、とだけ口にして慌ただしく自室へ走って行った。
書道教室の話をすると、懐かしいわねと言葉が返ってきた。
首を傾げると姉は少しだけ寂しそうな顔をして微笑み、十年前のことを教えてくれた。
両親が亡くなる少し前に、書道教室に通いたいと姉がねだり、姉が行くのならと義勇も一緒に通い始めたこと。美人で素敵な先生がいて、その子どももまた優しく朗らかな良い子であったこと。教室に通う生徒たちも元気が良く、人見知りをする義勇はいつもの通り姉の傍から離れなかったけれど、先生の子である少年は良く義勇を気にかけてくれていたこと。耳を傾けながら考えているのだが、いまいちピンとくる話ではなかった。
「何ヶ月かして事故が起きたから、すぐに辞めちゃったのよ。義勇は覚えていなくても仕方ないわ」
突然いなくなった両親のことで頭がいっぱいで、暫く姉から片時も離れないことがあった。その頃から感情が顔に出にくくなったことは自覚している。鱗滝が養父となり、姉ばかりに心配をかけてはいけないと剣道を始めたことを思い出した。
おかげで腕っ節は強くなったが、感情は相変わらず顔にはなかなか戻らなかった。それほど気にすることもなくなったから良いのだが、姉はまだ少し心配しているようだった。
両親のことは突然で、当時は確かに塞ぎ込んだ時期があった。もう十年も前の話だ。嘆いてばかりいられないからと鱗滝に稽古をお願いしたのだから、心配せずとも自分は大丈夫だと言ってはいるのだが、肉親である以上、姉の抱える心配事は当たり前にあるものなのかもしれない。
「あの男の子元気かなあ」
姉の言葉に後輩の顔が思い浮かび、部活の後輩がそこの子どもであったことを口にした。それを聞いた姉が嬉しそうにはしゃぐ様子に少し驚きながら、この間子どもたちを送って行った時に知ったことを伝えた。
「義勇を良く気にかけてくれていたのが嬉しかったなあ。義勇も嬉しそうだったし」
覚えていないことの話に相槌を打つことはできなかったが、普段の煉獄の様子を思うとありありと想像できた。
熱心に稽古をしたがる姿ばかりが目に留まるが、煉獄は良く己に声をかけては色んな話を振ってきた。部内でも少し部員と距離があることは自覚していた。会話をすることは得意ではないし、姉のように笑えば友人もできやすいのだろうが、感情を表に出すことは苦手になってしまい、嫌われなければ良いと開き直ることにしたのだった。そうして少し部員との距離を感じていたものだから、己の無表情を気にもせず話しかけてくる煉獄は珍しかった。だから少々勘違いしてしまった。
剣の腕を認めて慕ってくれていることは知っているが、おかげで煉獄に好意を持つのは自然な流れだったと思っている。好意を全面に押し出してくる者に好意を返すなというのは難しい。ただ、煉獄の敬ってくれる気持ちとは違うものを抱いてしまったが。
どうやら子どもの頃にも気にかけてくれていたことを知り義勇は嬉しく思うものの、覚えていないことを少しばかり悔しく思う。
つらつらと考え込んでいるうちに落ち着いた姉が、先の予定を確かめるためにスケジュール帳を確認した。
「今度は私も一緒に行こうかな」
「姉さんと最近会ってないと言っていたから、錆兎と真菰が喜ぶ」
ぱっと明るくなった顔を見せて、じゃあ二人で行こう、と姉が笑った。
*
大人しくて人見知りで、誰かの後ろに隠れていることが多かったからか、友達は小さい頃から作るのが苦手だった。入学した小学校のクラスには皆の中心のような子どもがいた。最初のうちは良く話しかけてくれた。どう返そうかともじもじしていると、子どもの興味は持続せずすぐに別のものへと移っていった。そうして声をかけてくれる機会は減り、うまく返答もできなかった己は輪から少しだけ外れてしまっていた。
新しい環境に慣れるのが遅い義勇は、姉と一緒とはいえ新たに習い事をするのも少し億劫だった。
書道教室に初めて顔を出してみれば、クラスにいる人気者よりも元気な子どもがそこにいた。
己ののんびりとした返答に飽きることもなく、子どもは根気良く待ってくれた。兄になるからしっかりしないといけないのだと教えてくれた子どもは、義勇の取り留めのない話を好んで聞いてくれた。大人しい自分の話など面白くないのではないかと聞いてみたことがあったが、子どもの返答は否だった。
「きみの話は楽しいから好きだ」
己との会話で好意的な返事をされたのは初めてだった。落ち着きのない子どもであれば、義勇が何かを口にする前にどこかへ行ってしまう。追いかけるべきなのかもわからないまま佇んでいたら、それだけで遊びの時間は過ぎ去ってしまっていた。
楽しいという言葉に嬉しくなり笑みを漏らすと、同様に子どもも義勇へ笑いかけた。書道教室へ訪れる日は必ず子どもは先に机に向かっており、いつしか姉の傍を離れて自分から子どもの隣に座るようになっていった。
姉より先に終わった時は待ち時間を子どもとともに過ごす。初めてできた友達だったように思う。姉と同じくらい好きだった。
「俺も好きだ!」
自分が好意を向けた相手から好きだと返されれたのも、初めてだったように思う。嬉しくて頬に当てるつもりだったはずが、少し位置がずれて口同士が当たってしまった。大事にしなさいと姉は言っていたけれど、義勇にとっては好きな相手なのだから、大事にすべきものをあげたとしても、まあ良いかで済む程度には大した問題ではなかった。ただ子どもの同意は得ていなかったから、嫌だったかと恐る恐る聞くと、嫌ではないとかぶりを振った。きみは俺のお嫁さんになるのか、と問いかけた子どもを見つめて、お嫁さんとはどんなことをするのかと聞き返した。
「父上と母上が毎日している」
さっきみたいなやつをだ、と得意げに話す子どもは、親戚の結婚式でもやっていたのを見たのだと言った。結婚するときにやるものだと両親が教えてくれたらしい。
「先にしたらいけなかった?」
不安になって問いかけると、子どもは唸りながら小振りな体で腕組みをした。わからない、と一言口にして、手を引っ張って歩き出した。
「母上!」
綺麗で優しい先生の元へ寄って行き、どうかしたかと問いかけてきた答えとして、子どもはたくさんの疑問を投げかけた。
結婚する前に口を合わせてしまったのは、ひょっとしてまずかっただろうか。父と母は毎日しているけれど、それは結婚してからのことで、結婚する前はしていなかったのか。大きくなったら結婚すると約束してしまえば、順番が違っても許してくれるのだろうか。
普段は微笑んだり無表情だったりしていたのに、先生の顔は真っ赤に染まっていた。大丈夫なのかと不安になって声をかけるが、真っ赤になったまま問題ありませんと言葉が返ってきた。
「私としては歓迎致しますが、あなたのご家族がどう思われるかでしょうね」
隣で手を握ってくれる子どものことを良い子だね、と言っていたから、きっと姉は喜んでくれるだろうと思う。ちょうど傍に寄ってきた姉に事の顛末を伝えると、文字通り飛び跳ねて喜んだ。父と母も優しいから、義勇の気持ちを優先してくれるのではないかと口にすると、お父さんは悲しむかもね、と少しだけ困ったように姉が笑った。
父を心配してそれはいけない、と子どもが慌てたように義勇の顔を見た。同じように慌てた姉が違うのよ、と口にした。
「女の子ですから。お父上の気持ちは複雑なんですよ」
首を傾げた子どもに、先生は言い聞かせるためにしゃがんで目線を合わせた。父が複雑な気持ちになる理由がわからない。いつも姉と義勇を好きだと言ってくれ、二人の気持ちを大事にしてくれるのに、何故複雑になるのだろう。
「杏寿郎。結婚したいのなら、あなたが大きくなってから彼女のお父上とお話をしなければなりません」
「今はしないのですか」
「今でも構いませんが、相手方にも心の準備というものがあります」
良くわからないが、父のことを気遣ってくれていることは理解した。姉の顔を見れば、先程と変わらない困った笑顔を見せている。きっと姉には先生の言葉の意味がわかったのだろう。義勇にも大きくなったらわかるのだろうか。
とにかく良かったと子どもが言った。順番が変わってしまったことは特にお咎めはないようだった。繋いでいる手を眺めてから、視線を上げて隣を見ると、満面の笑みで子どもは義勇へ顔を向けた。
じゃあ、約束だ。小指を出して指切りをしていると、胸を押さえて屈み込んだ先生の姿が目に映った。
鳥の囀りが聞こえる早朝、滅多に出さない叫び声を上げて飛び起きた義勇の顔は、風邪でも引いたかと疑う程の熱を帯びていた。原因などわかりきっているが、見ていた夢に何だったんだと文句を言いたくて仕方ない。
あれはただの夢ではなく、奥底に眠った記憶が昨夜の姉との会話で掘り起こされたのだろう。過去あったことを夢として見ていたらしい。何故思い出してしまったのだろう。この後どんな顔をして煉獄と会えば良い。朝練があるんだぞ。
俺も好きだじゃないだろう。その言葉を聞いて、嬉しくなって行動に移した。いくら頬に当てるつもりだったとはいえ、当時の自分に行動力がありすぎるのではないか。
昨夜姉が嬉しがっていたのは、この件を覚えていたからだろうか。子ども同士の微笑ましいじゃれ合いだと、傍観者として見ていたならば義勇も可愛らしいと思えただろう。当事者でないならば。
寝癖でぼさぼさの頭を更にぐしゃぐしゃにしながら大きく深呼吸をした。姉が朝だと伝えてくる声が部屋の外から聞こえてくる。本当に、何故、よりによって煉獄に仕出かしたのか。いや、そんな幼い頃の些細なはずのやりとりをした相手に、覚えていないまま再び好意を持った己に驚いた。
手のひらで顔を覆いながら、羞恥で涙が出そうになる感情を抑え込もうと落ち着かせる。深呼吸がいつの間にか大きな溜息に変わり、顔色も赤いまま部屋の扉を開けて姉の元へと向かった。
鉢合わせぬようにとぎりぎりの時間に剣道場へと向かった。いつも煉獄は来るのが早い。だが部活が始まってしまえば、稽古もなかなか回ってこないはずだ。無心で練習だけをして、話しかけられる前に帰れば良い。そう考えて、スカートが捲れるのも厭わず剣道場へと全速で走った。こういう時にこそ鉢合わせるのは漫画であればお約束なのだろうが、それを己に向けなくても良い。向けないでくれ、今だけは。
剣道場の扉を押そうとする己以外の手が見え、走るスピードを落として顔を上げると煉獄が立っていることに気づいた。今朝方の夢を思い出し義勇の顔に熱が集まるのを自覚し、焦って顔を背けたのだが、己と同じくらい顔を真っ赤にした煉獄が視界の端に映った。何故そんなに顔色を変えたのか疑問に思って視線を向けてしまったが、恐らく煉獄も同じことを考えたのだろう。顔を見ないよう画策していた義勇の思惑は潰え、林檎のように真っ赤な顔を突き合わせるという事態になってしまった。
混乱して視界まで赤くなってきたような錯覚に陥り、思わず義勇は踵を返しその場を逃げ出した。