抱く感情は同じ・1

 書道教室に連れて行ってくれ。
 面倒を見ている子どもたちを送っていってほしい。帰りは儂が迎えに行く。世話になっている恩人から頼まれて義勇は深く考えず頷いた。
 両親のいない己と姉を良く気にかけてくれた人の頼みを断るはずもなく、錆兎と真菰の手を繋いで週一回通っているという書道教室に向かった。錆兎は年頃なのか手を繋ぐのを嫌がったのだが、真菰は嬉しそうに義勇の右手を掴んだ。
 聞けばその書道教室は、学校の友達の母親が営んでいるのだという。すごく綺麗な人なんだ、と真菰が教えてくれた。
「そんなに笑わなくてちょっと怖そうだけど、本当は全然怖くないの。義勇みたいだねえ」
 鱗滝と同居している錆兎と真菰は初対面こそあまり話してくれなかったが、良く遊びに行っていたためか、義勇と姉を慕ってくれるようになっていた。今では二人が義勇たちの家に泊まることもある。最近は錆兎が随分早い思春期に突入しているような気がして寂しい気分だが、二人が楽しそうにしている姿を見るのは義勇としても嬉しかった。
「書道の先生に失礼だろう」
 自分の表情が乏しいことは自覚している。その己と同じようだなどと言われては、先生も迷惑だろうと思う。
「なんで? 貶してないよ。ねえ錆兎、すごく綺麗な先生だよね」
「そうだな」
 嫌がっていた錆兎の手を無理やり掴んだからか、少々元気がなくなっていた。そこまで拗ねなくても良いだろうと心中で肩を落とすが、子どもは周りの反応に敏感だ。年上の女と手を繋いでいたなどと、クラスメートに見られたら一気にからかわれるのかもしれない。それは確かに嫌だろうが、大通りの車も通る道を一人で歩かせるのは危険だと、鱗滝が感じたからこうして二人を送っているのだ。我慢しろ、錆兎。
「あ、あそこだよ。書道教室!」
 繫いでいた手がするりと抜け出し、真菰が道路の反対側にある家へと走り出した。危ないぞ、と慌てて義勇と錆兎も走り出す。車は通っておらず、無事三人で敷地の前へ辿り着いた。急に走り出すな、と一応注意をするのは忘れずに。
 書道が楽しみなのか先生に会うのが楽しみなのか、真菰は義勇の注意に一言謝ったあと、率先して門を開けた。広々とした庭の端に物干し竿が二本並んでいる。庭の奥に住居らしき家が見えた。左の離れが教室らしく、ひっそりと書道教室と看板が立て掛けられていた。
 広い家だ。なんだか見覚えがある気もする。
 砂利を踏み鳴らしながら三人で看板のある離れへと歩いていく。引き戸を開けて元気良く真菰と錆兎が挨拶をして、慌てて義勇もこんにちは、と口にした。
 玄関の先の磨りガラスから人影が動いた。勝手知ったるように二人が靴を脱いで上がり込む。音を立てて戸が開き、女性が出迎えてくれた。
「こんにちは」
 綺麗な人だ。薄っすら口角を上げて錆兎と真菰を部屋へと入らせ、義勇へと目を向けた。会釈をして宜しくお願いします、と伝えた。
「お姉さんですか?」
「違うけどそんな感じだよ」
「? では親戚の方でしょうか」
「鱗滝さんの知り合いなんだ。でも家族だよ」
 真菰の言葉は時折人に伝わりにくい。己も口が達者とは言えないが、義勇とは違う方向にわかりにくい時があると錆兎が言っていたことがあった。鱗滝から話を聞いていたのか、女性は納得したように頷いた。
「そうですか。では迎えも貴方が」
「いえ、帰りは鱗滝さんが来ます」
 えーっ。真菰からがっかりしたような声が聞こえた。帰りは鱗滝が迎えに来ると伝えていたはずだが、義勇も一緒に帰るものだと思っていたらしい。
「義勇も鱗滝さん待ってようよ。蔦子さんは今日遅いんでしょ」
「ここでか? 流石に邪魔になる」
「中は俺たち以外いないぞ」
 部屋の奥で鞄を置いていた錆兎が玄関まで戻って来て言った。だからといって生徒でもない見ず知らずの人間が居ていい理由にはならない。
「他にご用がないのでしたら、お待ち頂いても問題ありませんよ」
 変わったことはしませんが、と顔色を変えずに女性が口にした。女性の言葉を聞いた真菰が義勇の手を引っ張り、部屋へと入らせようとする。どうしようか、と悩む義勇の背後から、誰かの足音が聞こえてきた。
「母上、差し入れです! む、」
 義勇の後ろから溌剌とした声がかかる。どこかで聞いた声に振り向くと、見知った顔が驚いた表情でこちらを見つめていた。

「冨岡先輩」
 驚いたように漏らした言葉に瑠火は瞬きした。
 書道教室へ熱心に通ってくれる子どもたちの家族だという少女は、真菰の言葉を踏まえると家族ではあるが血は繋がっていないようだった。鱗滝と子どもたちの関係を話には聞いていたので、恐らく彼女も彼が親となり世話をしていたのだろう。差し入れを持って来た息子の知り合いだとは思いも寄らなかったが。
「煉獄」
 少女も驚いているらしく、暫し二人で見つめ合って動こうとしない。自身も表情があまり変わらないと言われては怖がられることがあるが、彼女もまたわかりづらいように思う。
「先輩は書道教室に通っていたのか?」
「違う。二人を送りに来た」
 二人? と不思議そうに真菰と錆兎へ視線を送った。じっと息子を眺めていた真菰が口を開いた。
「大きい千寿郎だ」
 目を輝かせて引っ張っていた少女の手を揺さぶった。すごい、そっくり! とはしゃぐ姿は可愛らしく、後ろで眺めていた錆兎もおお、と声を漏らしている。
「千寿郎の友達か」
「そうだよ。同じクラスなの。ここに来るようになってから仲良くなったんだよ」
 一歩中へ足を踏み入れ、杏寿郎が真菰の頭を撫でた。錆兎と真菰が来る時は千寿郎も一緒に書道を習いにやって来ることが多い。休憩時間には三人で仲良くおやつを摘む姿が見られ、瑠火の密かな楽しみになっている。
「千寿郎が言っていたのはきみたちのことだったのだな。楽しそうに話していたぞ」
 嬉しそうに真菰は笑い声を上げた。もう少ししたら千寿郎も来る、と伝えて中へ上がるよう促した。
「義勇も早く」
 お邪魔します、と口にして少女が靴を脱ごうとする。真菰は譲りそうにないからと諦めたように見えた。来客用の湯呑は離れに置いていただろうかと思考を巡らせていると、息子が少女へ問いかけた。
「今日から習うのか」
「いや、待っているだけだ」
「鱗滝さんが迎えに来るから皆で帰るの」
「そうか。なら待っている間稽古はどうだろうか。うちは剣術道場もやっているんだが」
 成程。どうやら部活の知り合いだということが理解できた。息子は比較的誰でも剣道に誘う節があるが、彼女の腕前は如何ほどなのだろうか。ただ座って見ているよりも、体を動かしているほうが時間の巡りは早く感じるだろう。
「義勇さんでしたね。杏寿郎の誘いがお嫌でなければどうぞ道場に。終わりましたら声をかけに行きますので」
「負けるなよ義勇」
「頑張ってね」
 少女が何かを言う前に子どもたちの声援がかかった。稽古だというのに錆兎は試合前のような言葉を送っている。初めてここに来た時から書道よりも夫の営む剣術道場に興味を示していたような子だ。本当は見たいしやりたいのかもしれない。
「何も持ってきていない」
「道場だからな。一式揃っているぞ」
 腕を引っ張り外に連れ出す様は我が息子ながら少々強引に見えたが、これ以上玄関先でまごまごしているわけにも行かない。ここは書道教室で、生徒にはきっちりと教えなければならないのだからと、そのまま二人を見送って引き戸を閉めた。
 門下生が減ったおかげで夫の背中は寂しげだったから、彼女が行けば気持ちも上向きになるかもしれない。あわよくば剣術道場に通ってもらえれば夫も嬉しいだろうが。
「大きい千寿郎は強いのかな」
「義勇が負けるはずないだろう」
「義勇さんはお強いのですね」
 強い! と二人は声を揃えて口にした。成程、息子が強引に連れ出した理由がわかった。強さを認めた相手ならば、これ幸いと稽古をしたがるのも納得する。杏寿郎は強い者と手合わせをするのは楽しいと以前言っていた。
 綺麗な子でしたね、と瑠火は考えた。しかし、義勇。どこかで聞いた覚えがあった。どこで聞いたのだったか、顔も見たことがあるような気がするのだが思い出せない。最近のことを忘れるほど耄碌しているつもりはないが、昔に会ったことがあるのだろうか。
 息子は何と呼んでいたか。先輩という言葉が耳に残り、その前に呼んでいたはずの名字が思い出せない。むむ、と考え込んでいると、眉間に皺が寄っていたようだ。真菰が小さく笑い声を漏らしていた。
「やっぱり先生、義勇みたい」
「やっぱり?」
「来る前もね、言ってたんだよ。綺麗な人だけどあんまり笑わなくて、怖そうだけど本当は全然怖くないところとか、義勇と似てるねえって。さっきも皺がここに寄ってて、怒ってるみたいだったよ」
 先程感じた印象は間違っていないようだった。表情がわかりづらいのは初対面だからではなく常日頃かららしい。瑠火自身は顔に出していると思っているのだが、他人から見ればあまり動きがなく、怒っているように見えるらしく、子どもから怖がられることがあり少々寂しい気分になる。それでも家族はわかってくれるが、彼女は己よりも表情が乏しいかもしれない。
「そうですか」
「義勇も書道好きって言ってたなあ。一緒にやれば楽しいのにね」
「義勇は部活があるから駄目だ。忙しいからな」
 嗜めるように口にした錆兎の言葉に真菰は唇を尖らせた。真菰には時折兄のように振る舞う錆兎ではあるが、まだまだ大人になりきれない部分が多々あることを知っている。
 引き出しから名簿を取り出しこっそりと生徒の名前を確認する。教室に通っていたか定かではないが、名前に聞き覚えがあるならば一応確認はしてみることにした。
 さほど生徒数の多くない教室だから、その名前はすぐに見つかった。やはり生徒で間違いなかった。冨岡。そうだ、そのような名字を息子は口にしていた。
 冨岡蔦子、冨岡義勇。並んで書かれている名前に記憶の引き出しを探す。鱗滝が連れてきたのだろうか。しかし十年前の日付が書かれた欄からは、半年も経たず退会していることがわかった。十年前であれば錆兎や真菰と同じ年頃だろう。彼女は初めて来たような態度だったが、昔のことならば覚えていないのも無理はない。書道を習いに来ていたのならば、教室を瑠火に一任している夫に聞いても知らぬと返されるだろう。
 息子は知らないようだった。杏寿郎も書道をここで習わせていたから、十年前であれば同じ時期に通っていたはずだが、やはり記憶は曖昧で忘れるものだ。
 冨岡、冨岡。子どもたちが書道に集中しているうちに考え込む。やがて思い至りあ、と口から漏れてしまった声と同時に引き戸が開く音がした。
「遅くなりました、母上」
「千寿郎。二人とももう来ていますよ」
 友達を目一杯出迎える二人を落ち着かせ、道場から戻って来た千寿郎に座るよう促した。楽しそうに笑い合う子どもたちの顔を見るのは瑠火にとっての癒しである。
「道場に義勇が行ってるの。後で迎えに行くんだよ」
「義勇さん? どなたですか」
「家族だよ。あのね、お姉さんじゃないけどお姉さんなの」
「道場にいたんだろう、見てないか? 剣道が凄く強いんだ」
 真菰の言葉に理解が追いつかず、疑問符を掲げたまま首を振る千寿郎に肩を落とした錆兎は、早く見に行きたいと呟いた。
「錆兎は剣道がやりたいんだよね」
「そうなんですか。一緒にやれたら楽しいですよ、きっと」
「やりたいけど、鱗滝さんに聞いてみないと」
 今度は錆兎の唇が尖る。
 三人並んで長机の前に座り、早く終わらそう、と真菰が錆兎を励ました。強いと口にするわりには見る機会が少ないのだろうか、そわそわと集中が途切れてしまったようだった。
「これを済ませば連れていきますから、早く終わらせてしまいなさい」
 はあい、と返事をした三人を眺めて、瑠火は開いていた名簿を引き出しへ仕舞い込んだ。

 とても美しい太刀筋を見ました。
 高校に上がって部活を見学してきたらしい杏寿郎が興奮気味に伝えてきた言葉だった。
 己が厳しく指導した息子の剣の腕は、身内の欲目を差し引いても群を抜いていた。杏寿郎が他の同年代の者に遅れを取るはずはないと信じていたところに、頬を上気させながら口にした言葉は驚くものだった。
 女子の腕を引っ張りながら道場に顔を出した杏寿郎にも驚いたが、部活の先輩だという少女は面を渡されても困惑したように立ちすくんでいた。せめて着替えさせてやれと伝えると、そうでしたと慌てて更衣室へと案内していった。
 あのように慌てる杏寿郎を見るのは珍しい。さては好きな相手か、と野暮な想像をしてしまうが、そう思ってもおかしくないほどに杏寿郎は浮かれているようだった。
 剣道着に着替えて道場へ顔を出した少女は、流れるような動きで準備した防具を着けていく。面を着け終えて竹刀を持つと、纏う空気が冷たく張り詰めたように感じた。感心したように己の口からほお、と声が漏れる。この者ならば杏寿郎と良い勝負をするかもしれない、と期待した。

 試合稽古は三本勝負で行われた。結果だけを見れば杏寿郎が二本取っていたが、粘り勝ちのようなものだった。三本目は公式試合ならばとっくに制限時間は超えており、稽古だというのに見応えのあるものだった。おかげで勝敗が決まるまで止めようとはしなかった。男女の戦い方の差はあるが、少女の太刀筋は洗練されており目を見張るものがある。真摯に剣に打ち込んできたことが手に取るように伝わった。
 杏寿郎が言った美しい太刀筋を持つ者というのは少女のことだろうと確信した。このような者が通ってくれれば、道場ももっと活気付くのではないか、などと考えてしまう。
「きみはどこで剣道を習ったんだ?」
「養父に習いました」
 気になったことを問いかけると、面を外した少女が答えた。
 初対面の身で彼女の師について詳しく聞くのも悪い気がして、そうかとだけ口にしておく。
 杏寿郎が腕を引っ張って連れてきた理由は納得のいくものだった。
 幼い頃から頭角を現していた杏寿郎は、同年代ではもはや敵無しの状態だった。大人相手にも勝ちを奪うような子どもだったから、高校で同年代のライバルとなり得る彼女と知り合えたのは良い出会いだっただろう。是非ともここに通ってほしいものだが、師がいるならば難しいかもしれない。
「彼女は試合をしに来たのか?」
「いえ、子どもたちの書道教室が終わるのを待つと言うので、無理を言って稽古をお願いしました」
 半ば引き摺るような体制だった。息子に限ってないと信じているが、通りを歩いていて誘拐のようにいきなり引っ張り込んだとかではなかったのは安心した。
「ああ、千寿郎の友達か。仲良くなったと聞いている」
 瑠火から複雑な家庭環境の子どもたちが書道教室に通っていることは聞いていた。子どもたちの知り合いならば、養父と口にしたこの少女も色々と複雑なのだろう。稽古が終わって急いで出て行った千寿郎を見送ったのは少し前のことだ。書道教室が終わるにはまだ時間がかかるだろう。
「今日は門下生も来ないから、好きに道場を使ってくれて構わない。俺ももう少し見たいんだが」
「ではもうひと勝負といこう、先輩」
 少女の返事も待たずに面を被りながら杏寿郎が嬉々として口にした。
 学校の剣道部は人数が多いと聞いたことがあった。普段の部活動ではなかなか彼女を相手にできないのかもしれない。生き生きとする杏寿郎を見るのは悪くない上に、二人の試合は見ていて飽きない。待っているという子どもたちの習い事が終わるまで付き合うことにした。

「終わった!」
 筆と硯を片付けて錆兎は両手を上げた。
 早いよ、と呟いた真菰を急かしながら半紙に書いた鱗滝宛のメモを己の鞄の上へと乗せた。千寿郎は驚いたように錆兎を眺めるが、一緒に行く気である錆兎は千寿郎にも急ぐように声をかけた。
「待ってください」
 筆と硯を箱に仕舞おうとするのを手伝った。早くしないと義勇の稽古が終わってしまう。鱗滝が義勇に稽古をつけるところは何度か見たことがあるが、誰かと試合をするのは数えるほどしか見ていないのだ。
 鱗滝が褒めた義勇の太刀筋は、剣道を習ったことのない錆兎の目から見ても綺麗だった。千寿郎の兄がどれほど強いかはわからないが、きっと義勇なら負けないはずだ。
「先生、ありがとうございました」
 律儀に挨拶をする真菰に倣って錆兎も頭を下げる。お疲れ様でした、と口にした先生の手を、じゃあ行こう、と真菰が引っ張った。

 竹刀のぶつかり合う小気味良い音が外まで聞こえていた。走って来たおかげで息が乱れているが、整えるよりも先に道場に目を向けた。
「義勇、かっこいい!」
 嬉しそうに声をかけた真菰に気づき、打ち合いをしていた二人が動きを止めた。面を外す姿を視界に収め、やめちゃうのか、と呟いてがっかりと肩を落とした。
「終わったのか」
「うん。急いだから鱗滝さんはまだだよ」
「急いだ? なんで」
 義勇の剣道が見たかったの。その言葉に和らいだ表情を見せた義勇は、もう終わったと口にした。
 最初に試合稽古をやり終えたらしい。何試合かはしたものの、急いでも見られなかっただろう事実に錆兎は溜息を吐いた。
「部活でまた試合はあるから」
「うん……」
 義勇の想定以上に落ち込んでいるのがわかったのか、手をおろおろと彷徨わせてから錆兎の頭に乗せた。義勇から子ども扱いをされるのは少々気恥ずかしいのだが、項垂れている錆兎は甘んじて受け入れた。
「もう一回試合しないの? 錆兎楽しみにしてたよ。私も見たい」
「錆兎と真菰を待ってただけだから」
 空も薄暗くなっている。俺は構わないが、と千寿郎の兄が口にするものの、義勇は首を振った。
「お前とやるとすぐに終わらない」
 鱗滝が迎えに来る時間のことを気にしているのだろう。待たせるのは確かに悪い。仕方なく錆兎は了承した。
「錆兎はねえ、義勇が目標なんだよ。だからいっぱい試合見たいの」
「真菰!」
 鱗滝に剣道を習いたいとまだきちんと伝えていないのだ。竹刀も握ったことのない錆兎のことなど、義勇からすればど素人どころか赤子も同然だろう。馬鹿にして笑ったりなんかしないけれど、ずっと真剣に剣道をやってきた義勇を見てきたのだから、義勇に対して失礼に当たるのではないかと不安になる。せめて剣道を習い始めてから知ってほしい気持ちだ。
 年上だからかいつも錆兎と真菰を大事にしてくれるが、男なのだから己がしっかりしなければならないと思っている。錆兎は義勇より強くなって、いつか鱗滝諸共、まとめて家族を守りたいと常日頃思っていた。だから強くなりたいのだ。
 それからもう一つ。同い年でずっと一緒にいる真菰に、凄いと思われたいという邪な気持ちがあることも自覚している。いずれはちゃんと伝えなければと思っているのに、真菰はいつも義勇がかっこいいと騒ぐのだ。そりゃあ剣道をしている義勇は錆兎の目から見ても見惚れるほどかっこいいとも。だけど男である錆兎は、特別好意を寄せる女の子には、義勇と同じかそれ以上にかっこいいと思われたかった。
「鱗滝さんに頼むのか」
「うん! 俺も剣道がやりたい」
 試合を観に行くたびに魅了されたかのように視線は釘付けになった。普段荒事を好まないはずの義勇が、稽古の間はとても楽しそうに見えたのだ。鱗滝と義勇、家族の二人が好きなものを自分も知りたい。剣道をやりたいと思う理由を挙げるならば、至極単純なものが三つめの理由だった。

 何度か通った道を歩いて子どもたちが通う書道教室へと辿り着いた。立て掛けてある看板の横の引き戸を開け、声をかけながら中を覗くが、そこには誰もいなかった。
 疑問符を掲げつつも、入口付近に見慣れた鞄が二つ置いてある。錆兎と真菰はきちんと教室には来たようだった。何かあったのかと不安になるが、鞄の上に文字が書かれた半紙が置いてあった。
 錆兎の文字だ。道場にいるから来てほしい、という内容が書かれてあり、鱗滝は安心したように半紙を懐に入れて教室を出た。
 敷地を全て案内されたわけではないが、奥にある住居から更に歩いた先に道場はあった。教室側と道場側で入口が二箇所あり、道場の門下生は反対側から出入りするらしい。少しだけ開いている扉から顔を覗かせると、錆兎と真菰の後ろ姿を発見した。
「義勇もいたのか」
 剣道着を着て錆兎の前に座り込んでいる。己の言葉に振り向いた子どもたちが走り寄って来た。
「鱗滝さん! 俺も剣道がしたいです」
 世話になっている書道の講師とその家族に会釈をして、しがみつきそうな錆兎の頭を撫でた。
 以前から義勇の試合に興味を示していたが、やはり錆兎は自分でもやりたかったらしい。
「通いたいのか」
「本当は義勇みたいに鱗滝さんに教えてもらいたいけど、仕事があるから」
 特別忙しい仕事ではないのだが。真菰もそうだが、錆兎はこうして己や義勇を良く気遣う子だった。その気持ちは嬉しく請われるままに教えてやりたい思いはあるものの、資格はあるとはいえ実際に指導したのは義勇だけだ。きちんと稽古をつけてくれる場が良いのではないかとも思う。
「あなたが彼女に剣道を教えたのですか」
 師範らしき男と、その男に似た少年が近寄り問いかけてきた。頷いて答えると、素晴らしい試合を見せてくれたと手放しで義勇を褒めた。少し離れた位置に立っている義勇が、少々居心地が悪そうに目線を下げる。
「儂は基本を教えただけで、義勇が自分で研鑽を積んで強くなったんです」
 試合は見られなかった、と残念そうに二人で顔を見合わせた錆兎と真菰は、義勇の部活の試合に連れて行くと、いつも興奮冷めやらぬまま帰り際に騒いでいた。この男も似たような反応を示していた。お前も負けていられんぞ、とすぐ後ろまで詰め寄っていた少年の頭を乱暴にかき混ぜた。
「錆兎くんでしたか。彼もあなたのような方に指導されるならさぞ強い子に育つでしょう。まあ本音を言えばここに通って頂きたいものだが、良く相談なさってください」
「ああ、すみません。そうだな、一度門下生のいる時に見学させてもらうか」
「はい!」
 嬉しそうに返事をする錆兎の頭をもう一度撫でる。義勇へ着替えてくるよう伝え、更衣室へと向かう後ろ姿を見送る。真菰が走って義勇の後を追った。師範に似た子どもが嬉しそうに女性と笑い合っていた。
「錆兎少年は剣道が好きなのか」
「うん。それに俺は強くなりたいんだ。守りたいものがあるから」
「守りたいもの?」
 誰にも言うなよ、と小声で口にして、錆兎が少年の耳元に近寄った。
 錆兎の守りたいものは大体予想がつく。錆兎が家族と称する者たちの中に男は鱗滝と錆兎だけだった。常日頃威勢良く男だからと口にして、彼女らに見苦しいところは見せるまいと、苦手なものも克服していこうとする姿はいじらしく、頼もしくも見えた。
「――だから、義勇より強くなるんだ」
「成程。それは素晴らしいことだ」
 少し頬が赤くなっているが、少年の言葉に錆兎の表情は明るくなった。男だからな! 日頃良く聞く口癖を声高に叫ぶ。
「千寿郎が兄は強いと言ってたけど、義勇より強いのか?」
「どうだろうな。二本勝ちしたことはないが」
「二本勝ち? 義勇から一本取るのか?」
 驚いて少年を凝視しながら錆兎が呟いた。
 錆兎が見に行った試合では義勇はすべて勝っていた。負けることを想定していなかったのだろう。
「先輩から一本取っても二本目は必ず取り返される。制限時間内では勝敗が決まらない」
 互角ということだろうか。身内の欲目がなくとも義勇の剣の腕は抜きん出ているが、彼の実力も素晴らしいものらしい。打ち合いが見られなかったことに少しばかり悔いを感じた。
 黙り込んだ錆兎は少年へ複雑な視線を向けていた。義勇を負けさせることができる少年と戦ってみたい気持ちもあるのだろう。
「ここに通ったらお前と手合わせできるようになるか?」
「きみがしっかりと学んだならな。いくらでも相手になるぞ」
 何やら葛藤しているらしい錆兎がむむ、と唸りながら眉間に皺を寄せている。でも鱗滝さんに、と呟いて更に大きな声で唸りだした。道場ならばしっかりとした指導を受けられるし、同年代の良い競争相手もできるだろう。秤にかけるほどのものではないと思うが、錆兎にとっては重要なことらしい。
「今度見学に来るのだから、今日決めなくても良いだろう」
「……はい」
 ようやく唸り声を止めて錆兎が返事をした。着替えて出て来た義勇と真菰の姿を目に留め、帰るかと声をかけた。
「先輩もまた遊びに来てくれ。部活だとなかなか俺まで順番が回ってこないからな」
 暫し考えた後に頷いた義勇を満足そうに眺め、少年は家族とともに鱗滝たちを見送った。