泉下

 ただ生きてくれればいい。あわよくば長生きしてくれ。
 悔いの残らぬように。
 家族を失い、友を失い、鬼殺に明け暮れていた己にもう一度家族をくれた男と共にいて、悔いが残るなどあるはずもない。
 信じて疑わなかった。
 何もなかった己が欲を持つなどあるはずがない。今享受される幸せは身に余るものだと思っていた。
 それでも人とは身に受けた幸せをより多く欲してしまうことを、身をもって知った。
 ――義勇。
 五体満足の軽い体。目の前には死んだはずの姉が笑みを浮かべて立っていた。振り向けば俯いたままの伴侶の姿と、他人として眺めることのないはずの己の見慣れた姿があった。
 ――そうか。
 生き長らえた己の生はようやく幕を閉じたのだ。
 空虚であったはずの己に未練などあるはずがなく、与えられた幸福以上に欲することなどあってはならない。そのはずなのに今義勇には、俯いている男の傍を離れたくないと願ってしまっていた。
 ――幸せだったのね。
 嬉しそうに笑う姉の姿は、あれほど会いたいと願っていたはずだった。
 ――ごめんね、迎えに来てしまって。
 頬に触れられ泣いていることに気がついた。
 姉が謝るようなことではない。本来己が享受すべき幸福ではなかった。運で生き残り、人との関わりを避けていたのに、この男は易々と境目を飛び越えてきたのだ。義勇に人の幸せを与えてくれた。その優しい男が、己の死に悲しんでいる。
 姉の言葉に首を振り、すべては自分自身の招いたことだと口にした。この未練は男に心を許した故の痛みだ。悔いではなく、好いた者の傍を離れるのがつらいだけだ。この痛みは誰の胸にもあるものだろう。
 俯いた背中に触れようとしても、伸ばした手は容易にすり抜けた。もう触れることも視線を合わせることも出来ない。
 背中に抱き着く真似事をしながら、義勇は名残惜しくもその場を離れた。姉に向き直ると男に向かって深く頭を下げていた。
 ――行こう。
 これ以上居ては身動きが取れなくなりそうだった。姉が義勇の手を取り、静かに歩き出す。どこへ向かうというのだろう。血に塗れたこの手は、姉と同じところには行けそうもない。
 それでも迎えに来てくれた姉を信じ、義勇は露と消えていった。

 誰かの気配がする。
 伴侶の気配ではない。きっともうこの場には居ないだろう。彼女は潔いところがあるから、未練を感じる前に去っていったかも知れない。せめて悔いを感じていなければ良いと願う。
「……きみが迎えに来たのか」
 ――義勇の姉が連れて行った後だ。
 狭霧山で感じた空気が流れている。顔を上げれば狐の面を斜めに被っており、今ようやく少年の顔を見ることができた。
 ――感謝していた。お前が義勇に幸せを与えたことを。
「俺は何も与えていない。彼女が自分で見つけてきたものだ」
 誰より長生きしてほしかった者を亡くした人間が、他者に何を与えられるというのか。
 ――義勇は名残惜しそうにしていた。暫く動かなかった。
「……何だ、慰めにでも来たのか?」
 迎えが少年ではないのならば、彼は何をしにここに来たのか。繋がりは義勇だけだが、それほどに彼の心残りだったか。
 ――俺にできなかったことを易々とやってのけたのだから、労いに来ても罰は当たらんだろう。
 はて、どこの部分に言及しているのか。彼の言う与えた幸せが己の言動のどれに対して言っているのか。
 ――わかっているくせにしらばっくれるな。全部だ全部。柱になったこと、鬼狩りとして他者を守りきり生きたこと、誰より義勇を好いて幸せにしたこと全部。お前にしかできないことだ。
「きみは、義勇を好いていたのか」
 黙り込んだ少年の表情は、仮面をずらされ見えなくなっていた。これは確認だ。本当は勘づいていた。
 ――そうだよ。俺は義勇を幸せにしたかった。ずっと一緒に居たかったんだ。
 だけどできなかった。少年の声音は悔しそうにも聞こえた。
 ――でも俺が生きていても、お前は義勇を諦めないんだろうと思ったんだ。
 どれだけ鉄壁に彼女を守ったとしても、隙を付いて掻っ攫っていきそうだと少年は言った。
 それはそうだ。彼女の感情の機微に合わせていたことは事実だが、かといって逃がすつもりなど更々なかった。手を変え品を変え、どうにか己に意識を向けさせ、ようやくこちらへ足を止めさせたのだ。
 勿論本気で嫌がられるようならば諦めることもあっただろう。彼女が己を本気で拒否しなかったからこそできたことだ。それは偏に彼女が孤独だったからに他ならない。
 付け入った自覚はある。褒められたことではないだろう。それでも彼女とともに居たかった。どこまでも清廉で静かな水面を、己の手で波打たせたかった。
 初めて顔を合わせた任務の日、己を見つめる彼女の目が一瞬だけ縋るように揺れ動いた気がしたのだ。
 だが、話しかけてみても乾いた墨のように揺れ動くことはなかった。なぜだか見間違いとは思えなかったが、執着する原因となったあれを一目惚れと呼ぶのなら、それでも構わなかった。
「きみが生きていたら、苦労しただろうな」
 少年は己の心中に気づいているのかもしれない。
 彼女に幸せを感じてほしかったことは本心だった。己とともに生活していくにつれ、どんどん感情が表に出て来ていたことも喜ばしいと思っていた。ただ彼女や周りが思っているよりほんの少し、狡猾だったであろうことは間違いないだろう。
 ――敵にまわしたくない男だな。
「そうか。俺はきみを敵にまわしたくないがな」
 彼女の心の半分を占めていたように感じられた。羨んだことも勿論ある。彼女の弟弟子であろうと、己の弟ですら妬くのだから、独占欲というのは人より少し強いだろうと自覚している。
 ――正々堂々としているくせに、妙に狡いことをする。読めない男だ。
「それは彼女にだけだ」
 これまでの人生でどう生きようとも正しくあろうと努めていたことはあっても、執着も嫉妬も独占欲も、すべてただ一人にしか向けられなかった。それを異常だと断じることも、西洋のいう愛なのだと論じることも、己にとってはどうでもいいことだった。ただ彼女と生きたいと願った結果なのだから。感情にわざわざ名を付けるなど必要ない。
 ――義勇には、お前の気持ちは届いている。
 顔を上げると、狐の面はまた斜めにずれていた。
 ――お前がどんな欲を孕んで義勇に近づいたとしても、義勇にとってお前は義勇が好いた男でしかない。抜けてるからな、深く考えないだろう。きっと“そうか”で終わるぞ。あいつはあいつが好きになったら割と何でも良いんだ。たぶん。
「何だ最後のたぶんは」
 ――嫌がらせだ。
「嫌がらせ?」
 ――お前が義勇の一等を奪ったから、腹が立った! それだけだ。
 一等好きな男、ということだろうか。好きになったら何でも良いとは、義勇が好きになった煉獄杏寿郎ならば、どんな欲を持っていても受け入れるということだろうか。少年の嫌がらせでたぶんがついているが、それは己を喜ばせるのに充分な言葉の響きだった。
「俺といることは苦労ではないのだそうだ」
 ――何?
「いや何、祝言前のことを思い出してな。言葉が足りんがきみの言っているようなことを言いたかったのかと思ったんだ」
 ――………。帰る。
「ははは。少しくらい俺も嫌がらせしてみても良いだろう」
 ――お前、人生の半分傍にいてまだそんなことをするのか……。
「なにぶん俺は独占欲が強く嫉妬も激しいようだからなあ」
 大きな溜息を吐いて少年は立ち上がった。生身でないはずなのに妙に草臥れた様子に、杏寿郎は少々やり過ぎたかと考える。
 彼にこんなことを言うつもりなど毛頭なかった。少年に八つ当たりなどしても彼女が生き返ることはない。喪失したものの大きさを噛み締めるように、大きく深呼吸をした。
「八つ当たりだ、すまなかった。気が紛れたのは確かだ。話し相手になってくれたこと、感謝する」
 ――お前、なぜそこで謝る。嫌えないだろう。
「きみとは、そうだな。もっと違う形で会ってみたかった。きみの心情を顧みずに口にするのは間違っているかもしれないが」
 ――……お前は俺の望む正しい男の姿だったよ。お前のようになりたかったんだ。
「ありがとう。それを言われると、頑張ってきた甲斐がある」
 ――長生きしろよ。
「父上より長生きしてみせよう」
 ――もっとしろよな。義勇が怒るぞ。ああ、あいつには早すぎると怒っておくからな。
「まるで保護者のようだな」
 空気が普段のものに変わり、少年の気配は消えていた。
 同時に薄れていた喪失感が押し戻ってくる。
「俺がきみの一等か」
 静かに目を瞑り横たわる伴侶の姿を眺め、杏寿郎は静かに呟いた。