子宝
痣者の症状など全く言い伝えがなく、どんな異変が起きようとも受け入れる覚悟はしていたようだった。しかしここ最近の体調の悪さに義勇自身も辟易していた時、杏寿郎は医者に行こうと口にした。
嘔吐や頭痛、食欲不振。よもやこのような症状があるとは思いもしていなかったが、代償ならば仕方ないと受け入れていた義勇とは違い、杏寿郎は諦めるつもりは更々なかった。さじを投げられたらお前は諦めるのか、と問いかけられようとも、否しか返すつもりはないのである。
「痣とは別の原因があるやも知れんからな。きみが苦しんでいるのを眺め続けるつもりはない」
「しかし……」
「まずは診てもらう。今後のことはそれからだ」
有無を言わさぬ杏寿郎の勢いに押されながらも、義勇は渋々頷いた。
帰路は無言だった。よく通る八百屋の店主が驚いて目を剥くほどには珍しい光景だ。おしどり夫婦と揶揄されていることは知っていた。しかし全くもって想定していなかったことだ。
よもや体調不良の原因が妊娠だったなど。
しかしまあ、よくよく考えてみればそうであった。月のものが来ず嘔吐や目眩、食欲不振。それは悪阻であると医師が笑って告げたのである。そして、どうするかを考えるようにと。
生きることにおいて、何を選択しても正解などはない。何かを掬えば必ずどこかで手からこぼれ落ちる。列車の乗客を鬼から守りきる代償に己は何を失ったか。全力を出す身体を失った。杏寿郎は命があることに感謝したが、そうではない者もいる。
義勇は己から選択できないだろう。どちらを選んでも、死は杏寿郎より先に義勇を連れて行く。残される立場にない義勇が決めようと考えもしない。
そんなことはないのに。
死が目前に迫っていようと、今を生きる立場は同じだ。死の淵に居ようと彼女の考えは尊重されるべきであるし、己はそれを聞きたいと思っている。
それでも言葉にできないと言うのならば、先に思いを口にしてやろう。
喜ばしいことだろう、命が生まれることは。
「義勇。産んでもらえるだろうか」
迷子のような不安げな顔を見せ、義勇は俯いた。頷くことも断ることもできないと考えているだろう。
静かな湖を思わせるこの眼から、どれほど感情を読み取れるか躍起になっていたことを思い出した。出会った頃に比べれば、彼女の眼は誰の目にもわかるほど雄弁になっていた。
俺だけがわかればいい、とも思ってはいるが。彼女の周りはそうもいかない。
「先のことは心配しなくていい。ただきみは生きてくれれば。あわよくば長生きしてくれ」
子が出来なければそれでもいいと思っていた。家のことなどどうとでもなる。父も弟もわかってくれていた。だがそこに宿ったと言われては、殺してしまうことなどできない。血を分けた己と義勇の子なのだから。
凪いだ湖から雫が溢れ出し、義勇は静かに泣いていた。往来だろうと構わず抱き寄せると、肩口に顔を埋めた。
「……子がいると再婚しにくくなる」
「何故再婚の話をする! 俺は一生きみだけでいい。きみだけが良いんだ」
何が楽しくて義勇以外の女性との生活を考えなければならないのか。全く意味がわからない。己は祝言を挙げたくて義勇を選んだのではなく、義勇だからこの先の生を謳歌したいと思っているのだから。
「それで、義勇はどう思う。俺はきみに似た子を産んでほしいと思っているが」
「……長生きは約束出来ないが、私もお前の子を産みたい」
ようやく口にした望みは、杏寿郎にとって一番といえる言葉だった。
屋敷に戻って報告をした直後の様子は、家族二人のあまりの狼狽ぶりに正直言って少々面食らっていた。
己自身露程も考えていなかった体調不良の原因であったために、呆けてしまったことは事実である。だが当事者ではない者がここまで慌てふためくと、こちらは逆に冷静になるというものだ。
「落ち着いてください、父上」
「俺は落ち着いてる。早く安静にさせろ」
無駄に廊下を行ったり来たり、傍の部屋の障子を開けたり閉めたりと忙しない。安静にさせたいのはやまやまだが、まずは二人を落ち着かせるのが先決だろう。
「羽織も着ずに行ってしまったんですか!? 布団を出しますから、義姉上は早く上がってください! 先にお風呂でしょうか! お粥なら食べられますか!?」
「千寿郎落ち着け」
「落ち着いていられますか!」
怒鳴られてしまった。ばたばたと奥へと引っ込み、恐らく布団を準備しているのだろう弟の様子に、父は平静を取り戻したようだった。
「あー、……瑠火の時は果物しか食べられなくなっていたんだが」
「まだ何が食べられるか調べていないので、そこからですね」
母の悪阻も重いものだったらしく、ひどい時は布団から起き上がれない時もあったらしい。そこまでひどくはないと義勇は言う。悪阻も腹が大きくなればなくなっていくと医者は言っていた。
「孫かあ……」
何やら複雑な声音で一言聞こえてきたが、千寿郎を落ち着かせなければならない。杏寿郎は義勇を連れて部屋へと向かった。