連理の枝
煉獄さん家に行こう。
見舞い品の包みを抱えて炭治郎が言った。そういえば見舞いに行こうと以前声をかけられていたことを思い出し、任務や怪我やらでなかなか顔を出していなかったことに気づいて、随分経ってしまったなあ、と善逸は頷いた。
暴れると稽古をつけてくれないぞ、と脅して伊之助を大人しくさせ、炭治郎は箱を担いでさあ行こうと急かした。
炭治郎が赴いたことのある煉獄家は、武家屋敷のように立派だったそうだ。そのような家柄の知り合いは今までおらず、何か粗相をしないだろうかと善逸は緊張した。それが伝わったようで、炭治郎が背中を叩いて笑みを見せた。
「俺なんか頭突きを食らわせてしまったから大丈夫だ」
「お前さ、何でいつも初対面の人間に攻撃するの? 案外手が早いよな」
う、と焦った炭治郎が弁明でもするように口を開くが、やがて肩を落として溜息を漏らした。どうやら毎度後悔はしているらしい。
「しかも頭突きって……伊之助が伸されたやつじゃん」
「俺は負けてねえ!」
負けたんだよ、と容赦もなしに口に出せば、伊之助もひっそりと肩を落とした。普段より大人しくしているおかげで、事実を伝えた善逸が悪いことをしたような気分だった。事実であろうと口に出してはいけないこともある、とは誰に聞いたのだったか、今頃そんな言葉を思い出した。
「そ、そういえば話にはちょっと聞いてたけど、煉獄さんの弟ってどんな人なんだ?」
暗くなってしまった空気をどうにか持ち直させる為に善逸は話題を探し、向かっている煉獄家のことを炭治郎に問いかけた。
一言で言い表せぬほど一風変わった人であった炎柱の煉獄と、その家族。一度しか関わったことはないが、煉獄自身は強くて優しい人だということは知っている。炭治郎の姉弟子とのことが衝撃過ぎて、家族まではあまり想像したことはなかった。
「そうだなあ……煉獄さんに似て優しい人だよ。それから義勇さんのことが大好きみたいだ」
ごめんください、とよく響く声で煉獄家の門前から大きく叫んだが、暫く経っても誰も出て来なかった。今日行くことは伝えていたはずだと炭治郎が不安そうに眉尻を下げる。何かが動く音も気配もなく、どうしよう、と三人で顔を見合わせた。
「ギョロギョロ目ン玉いねえのか」
「急用か何かで空けてるんじゃないの?」
「千寿郎さんはいるような気がしたけど……」
輪になって門前で立ち止まる姿は道行く人には珍妙に映るだろうが、三人は気にせず相談し始めた。誰もいないなんてことは想定しておらず、炭治郎も困り果てていた。
「む、きみたちは」
通りかかった人力車の後部席から声がかかる。丁度顔を見に来たはずの煉獄と、煉獄によく似た壮年の男性がこちらを見下ろしていた。
「煉獄さん! 槇寿郎さんも」
「何故外でたむろしてるんだ。千寿郎はいないのか?」
出かけていたらしい家人が降りて善逸たちの前に立つ。
善逸が会うのは列車の任務からこれで二回目だ。生死の境を彷徨っていたとは思えないほど煉獄は元気だった。人力車から降りる時は手を借りてはいたが、地面に足をつけた煉獄はすっかり以前と変わりないように見えた。
実際はそうでもないのかもしれないけれど、ここまで回復するのにどれほど苦しい訓練があったかは想像してもしきれない。お久しぶりです、と口にすれば笑みを見せて頷いた。こちらが父だ、と紹介された煉獄似の男が、炭治郎の頭突きを食らった相手だったらしい。
「留守を頼んだはずだが、どこかへ出てるのか」
はて、と首を傾げながら三人を中へと案内してくれた。買い忘れでもあったかと槇寿郎が呟く。
「でも匂いは、ありますね。家にはいらっしゃるんでしょう」
炭治郎の言葉に驚いた槇寿郎がこちらを見るのにつられたのか、煉獄もまた炭治郎を凝視した。先ほどから小さく聞こえるこの音が千寿郎の音なのだろうか。どこかで聞いた似たような音や、何かと混じっているようでわかりにくいが、規則正しい呼吸音を耳が捉える。成程、出てこないわけだ。煉獄の弟君は、只今眠っている最中であることが善逸にはわかった。
「たぶん寝てるんじゃないかな……」
匂いの話をした炭治郎に驚いていたものだから、善逸は一先ず理由を言わずに思い当たった内容を口にした。それで迎えがないのか、と納得した家人二人は、そのまま玄関の引き戸を開けて上がり込んでいく。
お邪魔します、と口にして善逸たちも草履を脱いだ。走り出しそうな伊之助を捕まえつつ、物珍しげについ家の中へ視線を走らせてしまう。蝶屋敷は人が入れ代わり立ち代わりするからか広かったけれど、煉獄家の玄関も広い。先祖代々続く家系だと聞いて想像したとおりの大きな屋敷だった。
「千寿郎」
自室らしき一室の障子を開けても誰もいない。似たような顔立ちの二人が疑問符を掲げつつ顔を見合わせた。寝息はどうやらもう少し奥から聞こえているらしい。
「居間で寝ているのか?」
煉獄が廊下の先にある障子を開ける。大きく開け放とうとしていた手は途中で止まり、ここにいたのか、と小さく呟いた。
煉獄の背中越しにこっそりと覗くと、白い布が視界に入る。敷布を掛け布団にして、縁側から倒れ込むようにして眠っている。洗濯物を取り込んでいる最中に眠気が襲ってきたような状態だ。
傍に立っている煉獄家の二人と同じ髪色をした少年の体の上に、寝かしつけるように誰かの腕が重ねられていた。黒い頭が見えている。敷布が音を立てて風になびいた。
「義勇さん」
ようやく足を踏み入れた室内で、二人は寄り添うように眠っていた。任務帰りでよほど疲れているのか、炭治郎の姉弟子はまだ目を覚まさなかった。
「起こしづらいな」
頭を掻いて槇寿郎が呟いた。煉獄は嬉しそうに眠る二人を眺めている。労りたいという気持ちが流れてくるようで、本当に仲が良いということが深く伝わってくる。
ごく個人的な感想を言えば、なんと羨ましい状況なのだと歯ぎしりをしたくなるほどなのだが、どちらも大変気持ち良さそうに眠っている。家族の二人が微笑ましげに眺めるのも納得がいくほどだ。
「怪我はなさそうだが」
「千寿郎につられて眠ってしまったのかもしれません」
とはいえこのままにしておくわけにもいかない。洗濯したてであるだろう敷布や衣類を布団にし続けるのは憚られる。とりあえず取り込むか、と槇寿郎が残りの衣類がはためいている庭へと降りるために、眠る二人の方向へ足を向けた。
縁側の板が体の重みで音を鳴らした。健やかな寝顔を見せていた千寿郎の眉間に皺が寄り、ぼんやりと瞼が上げられた。
「よく眠っていたな、千寿郎」
大きな目が音が鳴りそうな瞬きをした。兄上、と寝起きの声で呟き、敷布を見て覚醒したように目を見開いた。
「わ、帰ってらしたのですか。すみません! 天気が良くてつい、」
掛け布団にしていた敷布を纏め上げようと体を起こして、ようやく隣に眠る冨岡の腕に気づいた。敷布で隠れていた顔が見えた時、隣で誰が眠っているのかを理解したようだった。
瞬間、耳を劈く悲鳴が上がった。善逸は手を当てて耳を塞ぎ、伊之助はうるせえ! と叫び、炭治郎も驚いて千寿郎を見ていた。悲鳴で冨岡の目が覚めたらしく、千寿郎の隣の白い布が勢い良く持ち上がった。
「どうして義姉上が一緒に寝てるんですか!」
顔を真っ赤にして叫ぶ千寿郎の音は、驚愕と羞恥でいっぱいになっていた。自分自身が眠ってしまったことも、家族以外の人間に見られたことも含めて恥ずかしいのかもしれない。
「……気持ち良さそうだった」
普段よりもぼんやりとした声音で口にした言葉に、起こしてください! と千寿郎がまた叫ぶ。すまなかったと呟いたものの、冨岡の音はまだ睡魔に揺られているようだった。
「まあ良いだろう、家族なんだし」
未だ覚醒していない冨岡の腕を掴み、煉獄がまとわりついている敷布を奪い去った。納得がいかない顔をして千寿郎が煉獄を見上げる。
「物心がついたら駄目だと」
兄上が言いました。そう口にした千寿郎を見つめて煉獄は声を上げて笑った。駄目って何が、と伊之助が不思議そうに問いかける。こいつは本当に理解していないが、炭治郎は困ったように笑っていた。煉獄が言ったという言葉は炭治郎には意図が伝わったらしい。
「あの時は家族ではなかっただろう」
「そうですけど、」
「あの時?」
首を傾げたのは炭治郎だけではなく、善逸と槇寿郎もだった。どうやら兄と弟だけが知る内容らしい。
「昔千寿郎が一泊した日があったでしょう。義勇の屋敷に布団が一式しかなく一緒に寝たと報告されました」
兄上! と焦った千寿郎が煉獄を呼ぶが、構わず父へしっかりと伝え終えていた。勿論客人である善逸たちにも聞こえる声量だ。だから何その羨ましい状況。涙目になっている千寿郎へ、思わず善逸の口から妬みを含んだ言葉が漏れる。覚醒して聞いていたらしい冨岡が口を挟んだ。
「あれは仕方なかった」
「責めているわけではないぞ。二人とも風邪を引かずに済んだのだからな。羨ましくはあったが!」
何で煉獄さんまで羨ましがっているんだよ。心中でぼやくものの、家族ではなかったと言うのだから、二人の気持ちが通い合う前のことなのだろう。自分と同じように嫉妬を感じたりもする、何というか煉獄もまた普通の人間なのだなあ、と善逸は不思議な気分だった。
「あ、あれは幼かったからで、今なら兄上の言ったことも理解していますし、だからこそ義姉上が隣で眠るのはいけないと言っているんです」
「だからそれはもういい。本人も気にしていないのだからな。俺は嬉しいぞ、家族仲が良いのは良いことだろう」
「そうですよ、仲良くしているのは俺たちが見ていても微笑ましくなりますし」
「俺は妬ましい」
「善逸!」
言葉を遮るように炭治郎が善逸を呼ぶが、千寿郎の表情は色々な感情が複雑に入り混じっていた。誰と寝ようがどうでもいいだろ、と興味のなさそうな声が伊之助から聞こえてきた。
「どうでもよくはない、猪頭少年。例えば千寿郎の代わりにきみが隣で寝ていたら、俺は見た瞬間に引き剥がすぞ」
だよなあ。大きく何度も頷いて同意を示す。炭治郎だって善逸が禰豆子と一緒に寝ようものなら、般若の形相で引き剥がしに来るのだから。善逸とてそうだ。本当なら伊之助と仲良く遊んでいるところを見るだけでも、割って入って邪魔したいくらいなのに。
「炭治郎は温かそうだが」
「竈門少年も駄目だ」
「何故だ。弟弟子だぞ」
家族だと言っていたと続けるが、にべもなく却下されたことに冨岡の表情が動いた。突然話題の中心になった炭治郎は千寿郎よりは落ち着いてはいたが、困った顔に赤みが増している。稽古に訪れた水柱の屋敷で、疲れて二人で寝こけるなんて有り得そうなものだが、女の子と添い寝などなんと羨ましい。実際はそんなことは全くないのだろうけれど。
「駄目。俺で我慢してくれ」
きゃあ。乙女のような悲鳴が漏れたのは善逸からだったが、炭治郎も声にこそなってはいなかったが息を呑んだのが聞こえた。先ほどとは違う理由の赤みが頬に差している。なんてものを見せつけるんだこの人は。好き合っている二人の睦まじいやりとりなど滅してしかるべきなのに、何故か善逸まで照れてしまう。己の口から舌打ちが出て来ないなんて初めてだった。これが知り合いの夫婦仲を見た時の気持ちなのだろうか。
ああ成程。音が聞こえて理解してしまった。煉獄は炭治郎に嫉妬しているらしい。確かに姉弟子だからと炭治郎が冨岡の話題を出すのは頻繁にある。きっと冨岡もそうなのだろう。冨岡にとっての大事な人の位置づけに、炭治郎が割って入って来たように感じるのかもしれない。
「とはいえ、帰って早々寝てたのははしたなかったと思う。反省してる」
ひと晩任務にあたっていた隊服のまま、洗濯物を犠牲に眠りこけていたことは、冨岡としても恥を感じるものだったらしい。妙齢の女性にあるまじき行為だと世間は言うかもしれないが、それだけ冨岡にとっても煉獄家は気を抜ける場所なのだろう。人の気配がしても眠っていられるほど、安心できているということだ。
冨岡との接点はほとんどないけれど、普段蝶屋敷で見かけた時の音は、波紋もほとんど広がることのない張り詰めた水のように静かだった。今もその音は聞こえているけれど、同時に安堵の音がずっと鳴り響いている。表情に違いはなくとも音はずっと正直だ。それは炭治郎にも伝わっているだろう。
この話は終いだと切り上げようとする煉獄を眺めつつ、千寿郎は赤い顔のまま苦悶を浮かべていた。ずっと守ってきた言いつけが反故にされたのは、彼にとって困惑する出来事だったのかもしれない。役得だと喜んでおけばいいのに、なんて善逸は考えてしまうが。
「何だっていいけどよ。俺はギョロギョロ目ン玉と勝負しに来たんだよ!」
「ははは、勝負か。良いだろう」
我慢の限界だったのか、伊之助がそわそわと騒がしく話しかける。庭先から草履を脱いで冨岡が屋内へと入り、千寿郎が洗濯物を慌てて部屋の隅へと押しのけた。
「半々羽織には今日こそ一撃入れてやるぜ! 首洗って待ってろ! ギョロギョロ目ン玉の後に相手してやる」
「少しはましになったのか」
止めに入る間もなく冨岡から容赦のない言葉がかけられ、伊之助は憤慨して地団駄を踏んだ。すぐに斬りかかろうとしないあたり、ここに来る前に言われた脅しのような言葉が効いているようだ。それとも冨岡の問いかけどおり、野生児から少しはましに成長しているのかもしれない。
「あの! 俺も良いでしょうか煉獄さん!」
伊之助に触発されたのか、炭治郎も稽古に名乗りを上げた。笑顔で了承する煉獄を見ながら、己はどうすべきかと善逸は悩んだ。
本来見舞いに来たのだから稽古をつけてもらう必要はなく、すっかり元気そうには見えるけれど、体のことを考えると三人も相手をしたら無理がたたるかもしれない。そう思うと炭治郎に続くように手を挙げることも出来ず、かといって俺はいいです、などと言おうものなら心象は悪くなるのではないかとも思ってしまう。どうしよう、と挙げかけた手を彷徨わせていると、ふいに冨岡と目が合った。
聞き間違いかと思うほど本当に微かだが、少し拗ねた寂しそうな音が鳴っている気がした。善逸の同期二人が煉獄に稽古をつけてもらうのが、もしかして寂しいのだろうか。伊之助は後から冨岡とやる気満々ではあるのだが。それとも炭治郎が、姉弟子の冨岡を差し置いて煉獄と稽古をするのが気に食わない、とか。冨岡が腕の立つ柱であることはよく知っているが、性格や思考を読むには冨岡の表情筋も己との関わりも乏しく、この想像した理由が当たっているかはわからなかった。
「えっ……と、煉獄さんの体の調子も気にかかるし、冨岡さんに稽古、お願いできないでしょうか……?」
薄っすら、一拍の短い間だったが喜んだ時の弾む音が聞こえた。試しに言ってみたのだが、寂しがっているというのは間違っていなかったらしい。
美人だけどよくわからなくて怖い人という印象は少し塗り替えられ、美人で意外と人間味のある怖い人に変わった。稽古が厳しいことは炭治郎からも聞いていたし、伊之助に聞かせる言葉は抜身の切っ先をつきつけているようだ。鍛錬に関して手を抜かないだろう冨岡は、善逸にとっては怖い人であることに変わりはなかった。
だが煉獄同様に、人間らしい部分が垣間見えると以前と違う気持ちが生まれる。きっとそうして二人ともお互いの好きなところを見つけてきたのだろう。ああなんて羨ましいのだろうか。早く自分も禰豆子と通じ合いたいものだと思いを馳せる。
「てめー! 俺が先にこいつをやる!」
「物騒なんだよお前は! 順番てものがあんだろ」
「じゃあ順番を決めよう。じゃんけんでいいか?」
俺も義勇さんに稽古をつけてもらいたい、と炭治郎が腕まくりをしてじゃんけんに臨む姿勢を見せる。結局三人とも二人に稽古をつけてもらうことを考えていたのがよくわかった。
伊之助は戦闘狂のような節があるし、冨岡のことを強い奴だと認識しながら斬りかかるのは何度か見た光景だ。炭治郎は言うまでもなく、姉弟子である冨岡と稽古をすることに楽しさを見出している。寂しがらなくとも皆お相手願いますよ。こいつらはあなたのことも大好きなんだから。慰めの言葉を胸の底で考えた。
「お前たちの手合わせも見せておけば勉強になるんじゃないか?」
「それは良いですね。では順番が決まるまでの間にでも」
「兄上、それでは炭治郎さんたちが見学できません」
少し前に一拍だけ聞こえた弾んだ音が、今度は随分と長く聞こえてきた。ええ、そうなの? まさか。不正はなしだと炭治郎の鼻をつまんだ時だった。その音は煉獄と冨岡の手合わせを、と槇寿郎が提案した直後に鳴り始め、同意を示した煉獄の言葉の後はずっと響き続けている。
ひょっとして、本当にまさかとは思うのだが、じゃんけんもそっちのけにじっと冨岡を観察した。善逸には表情の違いがわからないのだが、顔を見るより音が素直でやはり驚く。まさかまさかもしかして、この人煉獄さんにも俺たちにも、全員に妬いたの? そんなことある? いや伊之助はちゃんと最初から、あなたと手合わせしたいと言っていましたよ。それでも妬くんですか、と心中で驚愕のままに問いかける。それとも伊之助には妬いていないのかまではわからないけれど、善逸は思わず隊服の胸元の辺りを握り込む。あまりに予想外のことで、不覚にも禰豆子以外の女の子にときめいてしまった。
表情の変わらぬ鉄仮面の下でぐるぐると思考していることに気づいた善逸は、それをもう少しだけでも表に出したら、きっと皆喜ぶと思うのに。特に煉獄さんが、と一人呆れたように冨岡を見つめた。