はざまに立つ

 聞いていたとおりの霧の深い山だった。
 山頂付近から罠がそこかしこに張ってあるらしく、地形を利用した修行には確かにうってつけだ。
 注連縄の飾られた大岩の付近で立ち止まり天辺を仰ぐ。成人した己よりも大きな岩は、生半な鍛錬では斬ることはできないだろう。繁々と眺めながら、最後の試練としてよく出来ているものだと感嘆した。
「……きみは誰だ?」
 視線を上に戻し岩の天辺に座る少年を見つけ、気配に気づかなかったことに驚いた。いつから居たのだろうか。瞬きする前に見上げたときは影すらもなかった。
「鱗滝殿の弟子だろうか」
 狐の面を被ったまま無言を貫く。まるで初対面の誰かのようだ、と頭の片隅で考えた。
 見たところ炭治郎や千寿郎ほどの歳頃の子だろうと目星をつける。狐の面から見える髪は淡く、珍しい色をしている。人のことは言えないが。
「きみはなかなか筋が良いようだ。気配がまるでなかった。俺も修行が足りん」
 返事はない。一人で話している気分になるが、それには充分慣れている。狭霧山まで連れ立ってやってきた相手は静けさを具現化したかのような人間だ。会話をするまでに要した時間は両手でも足りなかった。
「きみもこの岩を斬らなければならないのだろう」
「俺はもう斬っている」
 存外すぐに返答があったことに些か肩透かしを食らった気分だったが、素直に少年の言葉に笑みを返した。
「そうか。それは素晴らしい」
 賛辞を贈るも少年の空気は和らぐことはなかった。己を警戒しているように見えたが、目の前にいる者が鬼殺隊の隊士であることに気づいていないのかもしれない。
「きみも鬼狩りになるのだな」
 ここで修行をしているということは、例に漏れず鬼に身内を殺された者なのだろう。鱗滝は孤児となった子どもたちを引き取り、鍛錬を積ませていたと聞いている。前途有望なこの少年もそういうことなのだろう。
「俺はここに来たのは初めてだが、気分が落ち着く。空気が澄んでいて心地が良いな」
 少年の腰に木刀が差してあることに気づく。すでに岩を斬っていると答えたのだから、今は刀鍛冶が来るのを待っている最中だろうかと考えた。
 彼女が炭治郎以外を弟弟子として扱うことはなかった気がしたが、この少年の存在を知らないのかもしれない。冨岡自ら手引きして狭霧山へと足を踏み入れた炭治郎とは、双方が師を同じくしていることをしかと心得、互いに大事に想っていることはよく伝わってきた。この少年は冨岡を通さず鱗滝自身が迎え入れたのだろうか。
「ここへは何の用で来た」
 堅い声音で少年が口にした。狭霧山に足を踏み入れるのは、鱗滝に用があるからに他ならない。知ってか知らずか少年は己の言葉を待っていた。
「鱗滝殿に挨拶をな」
「挨拶?」
「彼の弟子を貰い受けに来た」
 息を呑んだ少年の空気は戸惑いのような揺らぎを含んだものに変わった。口にした“彼の弟子”が何を指すのかを正しく認識し、ぼかして伝えた己の言葉の意味はしっかりと伝わったようだった。どうやら彼自身は、鱗滝の弟子が誰なのかを把握しているらしい。
 揺らいだ空気からやがて落ち着きを取り戻し、終始警戒していた堅い声音が柔らかさを含んだものに変わった。
「……そうか」
 その一言は、少年が発するには余りにも多くの感情が混じり合ったものに聞こえた。不思議な感覚だった。姿かたちは五つも六つも歳下の少年であるはずなのに、まるで同年代の人間と相対しているかのような錯覚を受ける。己に対し歳の違いを感じさせない話し方をする故か。
「お前は何の呼吸を使うんだ」
「炎の呼吸だ」
「炎……そうか。きっと強いのだろうな。気配でわかる」
 腰に差す木刀の柄を撫でながら、少年は噛みしめるように呟いた。会話というより独り言に近い。彼は己に聞かせるつもりで口にしているわけではないのだろう。
「だがきっと、お前の言う先生の弟子も」
「ああ、強いぞ。柱となって何年も経つ。半端な腕では生き残れないのだからな」
 そうだな、と口にした少年の警戒がようやく解けた。岩の天辺で肘をつく様子は、歳相応の少年のものに見える。
「きみは何を待っているんだ」
「何も」
 少年を見上げて問いかけるも、にべもない言葉が突き返された。ふん、と鼻を鳴らして向き合っていた顔が逸らされた。狐の面で顔は見えないが、どことなく拗ねているような気配だった。
「お前のせいで待っている必要がなくなった」
「む。俺が悪いのか」
「そうだ。長く待つつもりでここにいたんだ」
 隊士になるつもりはなかったのだろうか。この狭霧山から動くつもりのない物言いは、岩を斬ったと誇らしげに口にしたわりには、鬼狩り以外を目的としているように感じる。何を待っていたのかは知らないが、必要がなくなったのならば、ここを離れてどこか遠くへ行くのだろうか。
「後は先生の傍で過ごすさ。ここにいることには変わりないけどな」
「鬼殺隊には来ないのか」
「行かない」
「残念だ。きっと腕の立つ隊士になるだろうに」
 鱗滝の年齢をはっきり聞いたわけではないが、長く歳を重ねているのだから、離れたくない理由があるのかもしれない。その理由は、同門の者には伝えなくても良いものなのだろうか。
 どうやら思考が表情に出ていたようで、狐の奥からくぐもった笑い声が聞こえた。
「先生は元気だよ、これは俺の気持ちの問題だ。最後まで一緒にいる。勝手に決めたことだけど」
「きみがいるのなら鱗滝殿も安心するだろう」
 そうかな。そうだと良い。そう呟いた少年の声音は優しく、やはりこの歳頃の子供にしては大人びていた。不思議な子だ。
 ふと己を呼ぶ声が聞こえたような気がして振り向くが、人影はなかった。貰い受けに来たと言っておきながら、そういえば鱗滝の居住地にはまだ顔を出す前だったことに気づいた。鱗滝の住む小さな家を視界に収めたまでは良かったものの、途中に見つけた立派な大岩に目を向けてしまい、気づけば少年と会話を楽しんでしまっていた。少年が顔を上げ、先生を待たせるなと口にする。
「お前も用があって来たんだろう。俺も暇じゃない」
「ここに住んでいるなら一緒に行けば良いだろう」
「それはできない。早く行け」
 はっきりとした言葉だった。すぐそこであるはずの鱗滝の住まう家に、己とともに連れ立っては行けないらしい。
 それならば仕方ない、と踵を返しその場を離れるために歩き出そうとした。
「義勇を泣かせるなよ」
 目を離した数秒にも満たなかったはずのうちに、大岩の上から少年の姿は影すらも消えていた。
「何をしてる」
 立ち止まっていた数歩先に、隣を歩いていたはずの冨岡の姿が見える。訝しげにこちらへ視線を向けていた。
「俺はどの程度立ち止まっていた?」
「数秒程度だが。何かあったか」
「……いや」
 何でもないと口にして、先を歩く冨岡の傍へと足を動かした。
「何でもないが、そうだな。身の引き締まる思いだ」
 狭霧山には見守る者がいる。
 伝えるべきか悩んだが、名を口にしたにも関わらず隠れるように消えた少年を思えば、己だけに用があったのだろうと考えた。
 だがいずれは伝えてやるとも。きっと彼女にとっても大事な者なのだろうから。目に留まった羽織を眺め、同じ模様を身につけた少年の姿を思い浮かべた。