弟弟子の意地

「では、始めよう」
「はい!」
 煉獄家にある道場で向かい合っているのは、義勇の弟弟子である竈門炭治郎と、煉獄家長男の杏寿郎だった。道場の端には当主である父、槇寿郎と弟の千寿郎、そして冨岡義勇が並んで座っている。その隣には炭治郎の同期である我妻善逸と、道場の扉から見える庭の木にぶら下がっている嘴平伊之助がいた。
 事の発端は数時間前だ。杏寿郎は我が家へと来ていた義勇と、治療訓練の名目のもと手合わせをしていた。勉強になるからと千寿郎を伴って二人座って眺めていた。打ち合いは思っていたよりも重いもので、義勇の実力もさることながら、全力を出そうにも出せぬはずの杏寿郎は、体のなまりをものともせず受けきっている。我が息子ながら大した回復力だと感心していたところに、溌剌とした声でごめんください、と聞こえてきた。
「今のは竈門少年か?」
 ばたばたと千寿郎が出迎えに走った。来訪の予定があったかはわからないが、皆顔見知りなのだから特に諌める必要もない。これが夜中であったなら小言の一つも言っただろうが。
「すみません、ご無沙汰してます」
「息災そうだな。準備運動は終わってるぞ」
 どうやら杏寿郎と約束があったらしい。水柱である義勇との手合わせを準備運動と言い張るあたりに、負けん気の強さを感じられる。義勇自身は気にした様子はないように見えた。
 炭治郎の背後に立っている黄色い頭の少年の後ろから、獣が飛び出し義勇へと斬りかかるさまに驚き思わず立ち上がりかけたが、歪な鋸のような二刀を木刀で素早くいなして首の後ろに打ち込んだ。容赦がない。うわあ、と千寿郎が小さく声を漏らした。
「出直してこい未熟者」
 頭に猪を被った半裸の、体つきを見たところまだ少年である相手に対し義勇は言い捨てた。何だ知り合いか、とほっとして浮かせた腰をまた下ろす。妙な知り合いがいるものだ。
「何やってるんだ伊之助!」
 うつ伏せに倒れ込んだ少年を炭治郎が引っ張るより早く、義勇は首根っこを掴んで庭へと降りた。どこから出したのか縄で縛り、そのまま樹齢数百年の松の木へぶら下げる。ついでとばかりに木の近くの地面へ少年の刀を突き刺した。その様な飾り物は要らないんだが。
「お前とは後で相手をしてやる」
 手のひらを払いながら道場へ戻ってきた義勇は、千寿郎の隣へと座った。真っ青になって立ちすくむ少年へ目を向け、座れと促した。
「元気があって良いな!」
「すみません……」
 子のやんちゃに苦労している親のような顔をして炭治郎が謝った。友人なのだろうと思うが、なかなかあくの強い少年である。
「構わん。きみとの手合わせが終わったらそこの猪頭少年も相手をしよう」
「手合わせ? 稽古ではないのか」
 稽古に訪れたものと思っていたが、手合わせというからには杏寿郎は本気で相手をするつもりなのだろう。めきめきと実力を伸ばしているらしいとは姉弟子の義勇から聞いたことはある。身内の欲目でなければ、柱に届くほどに炭治郎は強いのか。
「今日は鱗滝さんの代行と、義勇さんの弟弟子として来ました」
「………?」
 義勇と千寿郎の頭上に疑問符が飛んでいるのがわかった。義勇の弟弟子として、とはどういうことだろうか。義勇自身も理解していないようだった。
「義勇さんと一緒になるなら、俺を倒してからにしてください!」
 なんで?
 普段は全く読めない顔をしておいて、こういう時だけはしっかりと伝わる。
 そわ、と義勇の体が揺れた。隣に座らせた黄色い少年――我妻善逸に答えを促すように見つめるが、曖昧に笑って誤魔化している。さっぱりわからないのは槇寿郎と千寿郎もだ。覗き込むように前のめりになり、三対の瞳が善逸を見つめた。
「いやその、一度くらいは煉獄さんにお相手願いたかったらしくて」
「いくら何でも杏寿郎が不利なのではないか? 病み上がりだぞ」
「そんなことは、ないと思うんですけど」
 引きつった笑みを見せる善逸に顔を見合わせる。いち早く我に返ったのは千寿郎だった。
「兄上が炭治郎さんに負けたら、義姉上になっていただけないのですか」
 びくりと肩を震わせた義勇を見上げ、千寿郎が口にした。ひえ、と口から声が漏れたのは善逸だった。
「………。……いや、」
「それはいけません! 兄上、絶対勝ってください!」
「ははは、絶対か! 荷が重いな!」
 既に始まっていた二人の打ち合いは、成程手合わせと呼ぶに相応しかった。全力を出せずとも杏寿郎は次々と炭治郎の剣を受け止めていく。炭治郎もまた眼を見張るほどの剣さばきだった。軽く躱しているように見えるが、杏寿郎の息が上がり始めた。
「だがきみに勝てぬようでは確かに俺は相応しくないだろうな」
「煉獄さんは、俺にとって憧れで目標です。相応しくないとかそういうことじゃないんです。何というかその、気持ちの問題というか……俺の恩人を昔から知っていて、対等に肩を並べて、背中を預けて戦えて、きっと色んな面を知っていて、その、」
 深呼吸をした。杏寿郎は静かに言葉を待っている。見守る四人も固唾を飲んだ。
「……凄く羨ましいなあって思いました!」
 何言ってんだ炭治郎! と善逸から悲鳴のような野次が飛んだ。要するに、嫉妬でこのような打ち合いを頼んできたのか。いや、鱗滝の代行だとも言っていた。義勇の身内として杏寿郎を試しに来た、ということだろうか。
「そうか」
 杏寿郎が木刀を正眼に構え、炭治郎の攻撃を待つ。踏み込む機会を伺うように、炭治郎の足がじりじりと前へ動く。
「俺はきみが羨ましい」
 踏み込んで打ち込んだ炭治郎の右手首を目掛け杏寿郎の剣先が入る。堪えきれず木刀を落とすまいと炭治郎が意識を向けた一瞬をつき、首へと杏寿郎の剣先があてがわれた。
「俺の勝ちだな」
「……ま、参りました」
 やっぱり凄い人だ、と呟いた善逸の言葉を聞きながら、槇寿郎は心中で溜息を吐いた。炭治郎は今見た限りでも、相当の腕を持っている。いくら全力が出せぬとはいえ、気で怯ませるのは大人げないぞ、と杏寿郎を思う。だがまあ、それほどに負けられなかったのだろう。それはそうだ。自分の伴侶が賭けられているのだから。
 少々自分の血気盛んな頃を思い出し、中身は亡き妻に似ていると思っていた息子が、案外己にも似た部分があることに今更気づいた。
 この手合わせの原因ともいえる義勇を蚊帳の外に二人は笑い合っている。正直発せられる空気が痛い。千寿郎はちらちらと義勇を気にし、向こう隣に座る善逸はまた真っ青になっている。
 だん、と床を踏みしめる音がした。杏寿郎と炭治郎は同時に音の方向へ顔を向ける。勿論端に座っていたこちらへ。
 立ち上がった義勇に短い悲鳴を上げた善逸と、いつも以上に眉尻の下がった千寿郎が呆然と見上げた。正直なところ、槇寿郎とて胃が痛かった。
「義勇さん。怒って、ますね」
 今日はとてもわかりやすいな。逃避するように義勇の表情筋のことを考えた。このまま日に日にわかりやすくなっていけば、いつかは満面に笑ったり泣いたりしてくれるのではないだろうか。してくれると良いんだが。頑張ってくれ杏寿郎。ああ、思ったより息が切れているな。やはり万全ではないから体がついていかないのだろう。
「炭治郎」
「はいっ!」
 背筋を伸ばして返事をした。隣に立っている杏寿郎へ目もくれず炭治郎へと話しかける。
「人をダシに手合わせなどという名目を使って道場破り紛いのことをしたな」
「や、その。いえ、すみません。でもどうしても譲れませんでした!」
 さすがに義勇を餌にして杏寿郎と一戦交えるのは駄目だったようだ。そもそも知らされていなかったようだから、二人を眺めている間は呆然としていた。ようやく我に返って怒りが湧いてきたのだろう。
「手合わせか。そういうことは言っておけ」
「えっ」
 虚をつかれた二人は目を丸くして義勇を見つめた。木刀を持って炭治郎たちの正面に立つ。
「試すんだろう。構えろ」
「ぎ、義勇さん。それはちょっと違います」
「………? 相応しいかどうかを見極めるんだろう」
 そうだけどそうじゃない。
 頭痛を耐えるように頭を抱えた者が数名いた。いや、何に怒ったんだきみは。ダシに使われたことか、それとも杏寿郎を試しに来た炭治郎が義勇には何も言わず、自分が試されるための準備ができなかったとかだろうか。彼女を試すつもりで来ていないのだから当たり前だが、怒りの沸点がどこなのかいまいちわからなかった。

(炭→義描写)

「……凄く羨ましいなあって思いました!」
 いや、本当に何言ってんだ。善逸は本気で友人を止める気で叫んだ。
 一定を保って微かに聞こえていた音に雑音が混じる。お前はどうしてそう痛いところへと向かっていくんだよ。柱の二人を素直に祝福できないのは炭治郎のせいだ。善逸の視線は炎柱と向かい合う友人へ向けられた。
 冨岡の話をするたびに、いつもの優しい音に紛れるように聞こえた雫が落ちるような音に、少しも炭治郎は気づいていなかった。鼻が良いなどと言いながら、己のことには全く気づかないのだ。善逸ですら聞き間違いかと感じるほどの小さな音なのだから、仕方ないといえば仕方ないのだが。
 那田蜘蛛山での一件の後、蝶屋敷で療養していた時に聞こえたのが最初だった。
 恩人二人が炭治郎たちの為に命を懸けたと聞いた時は、驚いたと同時に羨ましく感じたものだった。たった一度しか会ったことのない姉弟子が、恩師とともに命を差し出した。きっと炭治郎が優しいから、周りに優しい人間が集まるのだろう。何をして返せば良いのかと呟いた炭治郎の目尻には水分が滲んでいた。
 その時聞こえたあの微かな音に善逸は驚いた。
 出会った女の子からも聞いたことのある、これは正しく思慕の音だ。
 だってお前、相手は柱なんだろう。俺たちとは天と地ほど実力も地位も差のある、ついでにいえば美人だっていうではないか。更には六つも歳上の、高嶺の花の、お前の姉弟子だよ。ああでも。
 どうした、と善逸を気遣う炭治郎を見やりながら、もしかしてこいつならば、自覚したら真っ直ぐ姉弟子に想いを告げてしまうのかもしれないなと考えた。相手を詳しくは知らないけれど、命をくれるほどの優しい人だ。炭治郎を好きになったら、一緒になる約束をしてくれるかもしれない。きっとあの人にとっても炭治郎は特別なのだ。炭治郎の想いが成就するのは、ひょっとしてとても可能性が高いのではないか。
 初めてできた友人が喜ぶ様子が思い浮かび、それは何やらとても嬉しいことなのではないかと考えた。
 早く自覚して、早く想いを告げてしまえ。そうしたら善逸は諸手を挙げて喜んで、大層羨ましがってやるのに。ずっとそう思っていた。
 でもそれはもう駄目だ。だって冨岡はとても幸せそうな音を鳴らしている。炭治郎が尊敬する炎柱と一緒になって。
 こうなればもう、善逸は最後まで気づくなと願うほかなかった。優しい友人の失恋は目に見えているのに、無責任に自覚しろなどと言えるはずもない。
 家族と言うたびに雫が落ちた先の地面を踏み躙るような音が、どうか誰にも気づかれませんように。
 もし気づいた時は、そうだな。俺も一緒に泣いてやろう。ひっそりと善逸は決心した。