眠り姫の巡遊・再会

「しのぶ!」
 踏み外した階段から足が離れる感覚に、しのぶはつい衝撃に備えるように目を瞑った。
 せっかく退院だというのにまた逆戻りかと頭の片隅で考えたが、痛みの代わりに何かにぶつかって抱えられる感覚に驚いて目を開けると、階下にいた誰かに抱き止められていることに気がついた。思わず顔を上げると、目を丸くした男がしのぶを眺めていた。
 この顔。覚えがある。知らない人なのに知っている。矛盾した思考を抱えて固まっていると、大丈夫かと問いかける声が聞こえてきた。
「………、冨岡、さん」
 片眉が上がり、表情を顰めた男がしのぶの靴裏を地につけさせ、我に返ったしのぶは慌てて頭を下げて謝った。降りてくる姉と悲鳴嶼を背後に感じながら、しのぶは男をじっと観察するように眺めた。
 無意識に呼んだ名前が、本人の名前であると確信していた。知らない人でも間違いないと感じている。妙に気になった名がこの男の名前であると顔を見た瞬間何故か理解した。
「来てくれたのか、冨岡くん。助かった、ありがとう」
「……どうも」
 悲鳴嶼が声をかけたことで姉は知り合いであることを察したようだった。悲鳴嶼が名を呼んだことで名前は正しかったことを確認し、会釈をした彼はそのまましのぶへと視線を戻した。
「しのぶには以前名刺を見せたが、世話になった冨岡くんだ」
「……見せたんですか」
 少々困ったように眉を顰め、気にせず悲鳴嶼が外へ促すと渋々といった様子でついてきた。男を眺めていたしのぶと不思議そうにする姉をよそに、悲鳴嶼はうちに招待したいと口にした。
「いえ、それはお邪魔になるでしょうから」
「そんなことはない。しのぶとも話をしてほしいし」
 遠慮する冨岡の言葉を遮るように悲鳴嶼が言い募る。さほど食い下がることのない悲鳴嶼としては珍しいが、この時のしのぶはそれに気づく余裕がなかった。脳裏に過ぎる光景が更に混乱を招いていたからだ。
 どこかのどかな風景の朝日のなか、派手な着物を纏った後ろ姿。それが誰なのかしのぶは知らないはずなのに、目の前の彼がその人であると無意識に感じた。
 呆れるような感情とともに、尊敬や楽しいという感情が一気にしのぶの心中を巡った。
 脳裏に浮かぶ光景をこの男は知っている。何故かはやはりわからないがしのぶは確信していた。
 話をしたい。浮かぶ光景が何なのかを教えてほしい。礼をしなければならない気分になる理由が何なのかを。
「四人なら乗れるから是非」
「いや、俺も車で……」
「ああ、そうか。なら帰りはここまで送って来よう」
 眉を顰めたまま口元を手で覆い隠し、少々思案するように黙り込んだ。やがて諦めたのか冨岡は頷き、悲鳴嶼が誘うままに車へとついてきた。
 助手席へと促された冨岡は会釈をしつつ乗り込んだ。姉にとっては初対面の男性、しのぶにとってもそうなのだが、知り合いであることを確信しているのであまり初対面とは思っていない。悲鳴嶼は元々知り合いであり、妙に嬉しそうにも見え、冨岡に話しかけ始めた。
「墓地にもあまり来てくれなかったな。事務所に行けば迷惑にもなりそうなのでやめたんだが」
「いえ、まあ……そうですね。空けていることも多いので」
「成程、やはり忙しいんだな」
 車内では悲鳴嶼の問いかけと控えめな返答をする冨岡の二人の声が響いていた。しのぶはひっそり二人の会話を聞いていたし、姉は悲鳴嶼の知り合いだからか黙っていた。
 そうしてしのぶたちの家へ辿り着いた車は車庫に入っていき、来客の背を押して悲鳴嶼は玄関を開けた。
 リビングに通した冨岡に椅子を勧め、その間に悲鳴嶼は紅茶を用意し始めた。少々困惑しているのは姉ものようだが、彼女は悲鳴嶼を手伝うようにキッチンへ立っている。話したいと感じたのはしのぶなのだし、話さなければならないだろう。しかし、何と言って切り出すか。
「……しのぶは冨岡さんのことを知ってるのよね?」
 黙って立っていたしのぶを見兼ねたのか、姉が控えめに問いかけた。普段なら口篭ることもないのだが、整理できていないままで口を開くのは少し悩んでしまう。
「たぶん……知ってると思うし、お世話になった、気がする」
 要領を得ないしのぶの言葉に姉は視界の端で首を傾げたが、しのぶを眺めていた冨岡が小さく口角を上げたのを目にした。
 その瞬間、奇抜な羽織が愛想のない顔を振り向かせた光景が脳裏に浮かんだ。同時にどこか病室のような場所で自分に向けて今のように笑う光景も。
「……世話はしたことがないな。話すのは初めてだ」
「……ま、まさかしのぶ、逆ナンっていうやつを」
「違うわよ!」
 誤解を生んだしのぶの行動が姉には相当俗なものに映っていたらしい。慌てて否定しているのが面白かったのか、悲鳴嶼が小さく吹き出したのを耳にした。
「名刺を拝見しました。冨岡さんは霊障に詳しいんでしょう。教えてほしいことがあります」
 片眉を上げた冨岡がしのぶへ視線を向けた。不思議そうにしたカナエに悲鳴嶼が懐を探る。少々困ったように眉尻を下げた冨岡は、名刺を取り出して姉へと差し出した。
「信じない者も多いですが」
「除霊屋?」
 小さく頷きしのぶにも手渡した。
 見えないものを相手とする仕事は、しのぶも以前口にした通り胡散臭いと言われてしまうようなものだ。悲鳴嶼は本物だと言っていたが、言葉だけではしのぶも信じようとはしなかっただろう。
 昔から見ていたらしい夢は日記には書いていたけれど、しのぶはそれを思い出すことができなかった。ここ最近脳裏に浮かぶようになった光景が夢で見たものだったのだろうことは何となく理解しているが、それは思い出したというよりは急に頭に浮かんだという印象だった。それが思い出しているというのならそうなのかもしれないが。
「知らない光景が頭に浮かぶようになって、どこかの屋敷とか、藤の花とか。……誰かの後ろ姿とか」
 目の前の顔が振り向いた瞬間とか、笑顔とか。良くわからない映像が何なのかを知りたいのだ。
 夢だったのか、現実だったのか。覚えていない何かがあったのではないかと良くわからないまま考えたのだ。
 ちらりと悲鳴嶼に視線を向けた冨岡は、小さく口を開いて言葉を溢した。
「悲鳴嶼さんには夢の話を聞いた」
「夢かどうかは……わかりません。ただふとした拍子に頭に浮かんで」
「どんな時に?」
「………、ええ、と……誰かの顔を見た時」
 少年と男性が話しているところを見た時と、冨岡の姿を見た時だ。今のところはそれだけだったが、この先はもっと増えるのかもしれないし、これ以上はないのかもしれない。
「事故による記憶障害はないとも聞いたんですけど、何だか……古いのか最近の映像なのかも良くわからなくて。風景の他に、さっきは後ろ姿と……」
 奇抜な羽織を纏った冨岡が振り向いた光景と、もう一つ。これを言うのは何だか恥ずかしい気がするが、詳しく聞こうとしてくる冨岡と興味を向けてくる姉の目がしのぶへ向けられる。悲鳴嶼はいつも通りだが、何だか見守られているような気分だった。
 夢と同じものかどうかがわからなかったのは、この映像があったからだ。
 むぐ、と口篭ったしのぶは、頬が熱くなるのを自覚して少々眉を顰めた。
「……あなたが、たぶん病室で私と会ってる映像です」
 目を丸くした冨岡がしばし動きを止め、やがて視線を彷徨わせた後また悲鳴嶼へと目を向けた。何やら訳知り顔でうんうんと頷く悲鳴嶼は嬉しそうに笑みを見せた。
「通常生霊というのは彷徨ってる間の記憶がなくなってるものだが」
「えっ? い、生霊?」
「何? わかっていたのか」
「……すみません」
 悲鳴嶼が咎めるような口調で問いかけると、冨岡は罰が悪そうな顔をした。二人の間で通じることがあったらしいが、しのぶと姉には全くわからない。
 除霊屋らしく生霊などという言葉を口にした冨岡に、しのぶはどういうことかと問いかけた。
「……事故の影響で魂が抜け、目覚めるまでの間街を彷徨っていた。……信じろとは言わないが」
 驚いている姉に目を向けながら冨岡は一言付け足した。
 生霊など、しのぶこそ想定していなかった話だ。悲鳴嶼だけが知っていたような反応を示していた。
 事故に遭って彷徨っている間にしのぶは冨岡の事務所に辿り着いたらしく、何故生霊なのかも家や病院の場所も、何なら事故のことも忘れて浮遊霊となっていたのだという。運良く手掛かりを見つけて悲鳴嶼と知り合い、こうして無事元に戻ったそうなのだが。
「で、でも、あなたさっき話すのは初めてだと」
「……今のお前と話すのは初めてだ」
 冨岡の話を鵜呑みにするならそれはそうなのだろうが、何だか納得がいかない。根拠もなく何か隠していることがあると何故か確信したが、しのぶは除霊屋など胡散臭いと感じるようなタイプの人間だったし、冨岡はきっとそれをわかっているのだろう。だから教えてくれるかはわからなかったが、しのぶは疑問を投げかけた。
「今の? 生霊だって私だったと思いますけど」
「………、百年前の胡蝶しのぶだ」
「はっ?」
 百年前だと。そんな時代に生まれていないしのぶは、ふいに日記に書いていた夢の話と脳裏に浮かんだ景色を思い出した。
「信じられなくても仕方ない」
 ぽかんとしていたしのぶを尻目に、言葉とは裏腹に楽しそうにも見える笑みを冨岡は浮かべた。
 また笑ってる。いや皆笑うわよ、普通のことだわ。無意識に浮かんだ言葉に内心で突っ込みながら、しのぶが信じなければただの詐欺師のような者に成り下がるのではないかと考えた。
「生霊はどこに行ったんです?」
「目の前に」
 体に戻って無事目が覚め、こうして快復して歩き回れるようになった。いやまあ、それは良い。信じ難くとも悲鳴嶼はやたらと頷いているし、臨死体験のようなものだろう。
「じゃあ百年前の私は?」
「そもそも百年前の胡蝶しのぶというのは今の世には存在しない」
「ええ……?」
 どこかはぐらかすようなことを口にする。信じないと思われているのか、それとも説明ができないとかだろうか。良くわからないけれど、本人に混乱させるつもりがなさそうなのは何故か察することができた。
 悲鳴嶼が信じた除霊屋。騙されているのではと思いもしたことがあるのに、顔を見てしのぶは無条件に信じられると感じていた。
 脳裏に過ぎる冨岡が、しのぶに害を齎すものではなかったからだろうか。
「彼の話は霊感がなければ難しく感じるだろうが、しのぶは彼に助けられたんだ」
「……そう、なんでしょうね。病室で……たぶん」
「………。戻してほしいと依頼を受けただけだ」
「いつかちゃんと思い出せるんでしょうか。百年前とか、助けられた時のこと」
「必要のない記憶だ。忘れても良いだろう」
 確かに今のしのぶに必要のない記憶なのかもしれないし、思い出さなくても問題のないものではあるのだろう。だがしのぶは何となく、ぼんやりと、忘れてしまうのは寂しいと思ってしまったのだ。
「……あなたと関わっていれば思い出しますか?」
「さあ。記憶のことは専門外だ」
 思い出すかそうでないかはわからない。しのぶの記憶のことなど冨岡でなくともわからないのだろう。自分にだってどうなるのかわからないのだから。
「そうですか。でもお世話になったのは事実のようですし、依頼料を支払わなくてはなりませんよね。おいくらですか?」
「………」
 目を丸くした冨岡がしのぶを見つめ、大きく瞬きを一つした。悲鳴嶼はどこかそわそわと落ち着きがないような気配を醸し出して、姉ははらはらと見守っているのを感じた。
 記憶はなくとも信頼する悲鳴嶼が世話になったのだと言うし、目の前の冨岡は信じられると感じるのだ。百年前の自分がした依頼を受けて完遂してくれたのだから、きっちり代金は支払わなくてはならないし、しのぶの気が済まない。
「……霊から支払いの話をされたのは初めてだ」
「私、生きてますけど」
「自分は死んだと言い張ってた」
「それは百年前の私なんでしょ。私は生きてます」
 しのぶが知らない自分の話は何だか聞くのが恥ずかしい。思い出したらそれも楽しく聞けるのかもしれないが、それはとりあえず後回しだ。しのぶは今冨岡の目の前にいる自分であり、こうして生きていて息をしている。支払い能力だってある。まあ、あんまり法外な値段だと困りはするけれど。
「俺が知ってるのは百年前の胡蝶しのぶだ」
「じゃあ今の私を知ってください。ちゃんと代金はお支払いします」
 百年前のしのぶは存在しないとか言っていたくせに。しのぶの言葉を聞いて俯いた冨岡が、じわじわと眉根を寄せて悩むように目を瞑って黙り始めた時だった。何か言いなさいよ、としのぶもまた眉根を寄せた時、ふいに脳裏に浮かんだ映像に固まった。
 どこかの横断歩道の向こう側に、覚えのある姿を見た。
 点滅する青から赤へ変わった信号に気づかないまま、街を歩く姿を見つけた。それを見つけた瞬間走り出したように揺れた視界。夢でしか会えなかったはずの冨岡が、この世に生きていたのを見つけたからだと理解した。
「………!」
「……しのぶ?」
 不機嫌を出していたしのぶが突然唖然として固まったことに悲鳴嶼と姉は驚いたようだが、答えられるほどの余裕が持てなかった。
 そんな、姿を見たから後先考えずに走り出すなんて、そんなのは。
 唖然としたまま頬を赤くしたしのぶは、事故に遭い生霊になったのがそもそも冨岡に会うためだったと気づき、心配そうに様子を窺う三人に何も答えられないまま、恥ずかしさでその場に蹲るしかできなかった。