眠り姫の巡遊・別れ

 個室に眠らされているというしのぶの体との面会日程を悲鳴嶼が組んでくれたらしく、冨岡はこの時代のしのぶが眠る藤襲病院へとやってきた。
 しのぶは自分と対面するなどという状況に少しばかり妙な気分になりながらも、とりあえず依頼したのは自分なのだからとついてきている。今日その場で体に戻ることができれば一番早いのだが、冨岡は何も言わなかった。しのぶの複雑な様子を見て何かを察したのかただ一言、居辛くなったら離れても良いとだけ口にした。
「冨岡くん、こっちだ」
 病院へと辿り着いた冨岡を扉の前で待っていたのは悲鳴嶼だった。受付を通り院内を見回していると、扉の横にあるボタンを押した。勝手に開く扉の奥は小さな部屋がある。冨岡に会ってから何度か乗ることのあったエレベーターというものだ。二人が乗り込むのを眺めながらしのぶもついていくと、悲鳴嶼がボタンを押すと扉は閉まった。
 普段から交代でしのぶの様子を確認するために誰かが来ているらしく、今日は悲鳴嶼が当番だと言う。
「ここだ」
 エレベーターを降りて廊下を進み、胡蝶しのぶと書かれた病室の前で立ち止まった。少しばかり緊張したような気分になりながら、扉を開ける悲鳴嶼に続く冨岡についていった。
 部屋は白く清潔で、寝台には一人の女性が眠っている。そこかしこに管が繋げられ、しのぶは少し眉根を寄せた。
 眠っている姿は細く頼りない。だが間違いなくしのぶの体であることを一目で理解した。
 浮遊霊のしのぶのほうが健康に見えるのではないかと思えるほど顔色は白く、生きているのかと疑うほどだ。黙り込んだ冨岡へ目を向けると、眉間に皺が寄っているのが見えた。
「何か、感じるものでもあっただろうか」
「……いえ。無事目覚めることを祈ります」
 険しい顔のまま悲鳴嶼の問いかけに答えているが、表情と言葉が一致していない気がする。冨岡の目にはしのぶがどう見えているのかわからないが、表情を曇らせるほど何かあるのだろうか。
「……しのぶは不思議な子だった。子供の頃は良く夢の話をしてくれた」
 家族が知らない誰かの名前を、夢で見たと言って教えては不思議がらせていたのだという。呼んでみたり会いたいと言ったり、とにかく見た夢に興味ばかりを募らせていたのだそうだ。
「呼んでいた名前を覚えてますか?」
「……墓地にあった名前を良く呼んでいた。私とも夢で会ったと」
 夢というのが鬼殺隊で過ごした今のしのぶの記憶ならば墓地にあった名前も呼ぶかもしれない。まさかしのぶは目の前のしのぶが見ていた夢から抜け出てきたとでもいうのだろうか。
『私は夢ではありません。現実に生きていました』
「子供の頃は時折夢と現実を混同しているような素振りもあった。成長してそれは鳴りを潜めたが、昔は……きみの名前を多く呼んでいたから、私も覚えてしまった。不審に思われるだろうから隠していたが」
『は、な、何ですかそれは』
 突然の話にしのぶは驚いたが、眉間に寄せた皺を和らげた冨岡は澄ました顔をしたままだった。
 この眠っているしのぶが夢で見た冨岡の名を多く呼んだなど、妙なことを言うものだ。
「単に物珍しかったんでしょう」
「……知り合いのように話すんだな。本当はしのぶと面識があったのか?」
 あ。冨岡の表情が少しばかり顰められた。さては浮遊霊のしのぶと話していたせいで混同してしまったのではないか。想像だと口にして、冨岡は初対面であることを告げた。それはそれで他の者からすればおかしいと思われそうだが。
「それとも、……きみもしのぶのように夢を見ていたか」
「……いえ。そういったことはありません」
 ほんの少しだけ翳った表情を浮かべた悲鳴嶼は、気を取り直すかのようにそうかと呟いた。そのまま窓際にある花瓶を持ち上げて、席を外すと口にして出ていった。いつも様子を見に来ていると言っていたから、普段通りに世話をするのだろう。
「……恐らく夢で見てたのは記憶だろう。所謂前世というものの」
『それは何となくわかりますが、何故その記憶がこの通り浮遊霊になるんでしょう』
「最初から言ってる通り、お前は生霊だ。事故の衝撃で魂が体から抜け、恐らく前世の記憶がくっついてきた。何でかは知らん」
 突き放された。霊障に詳しいはずの冨岡にわからないならば、そうそう理由は見つからない気がする。
「そもそも前世の記憶など残っているのが稀だが。……このままでは体が死ぬな。生気が全くないのがわかるか」
『……ええ、顔色も白いどころか無いに等しいです』
「今すぐでも戻してやりたいところだが、患者に触れる不審者など通報案件だ。彼に見られたらたぶん俺は社会的に死ぬ」
『社会的に……? 大丈夫じゃないですか? 私が目覚めて説明すれば良いんですから』
 大袈裟な溜息を吐いて額を押さえた冨岡は、安易過ぎるとしのぶへ呆れた目を向けた。
 どうやら魂を体に戻してすぐ目が覚めると決まっているわけではないらしい。目の前の体は恐らくしのぶが死んだ頃とそう変わりない年頃で、そんな娘に触れる初対面の男はどう考えても変質者である。そもそも悲鳴嶼が一時でも二人きりにすることが危機感がないのだという。この時代の冨岡は非常に体裁を気にするようだ。
『それなら除霊屋であることを伝えればわかってもらえませんか? 夢の話と同じ名前の人と知り合って、悲鳴嶼さんなら信じてくれるかも』
「……そうだと助かるが、」
 足音が立ち止まり扉が開く。花瓶を手に持った悲鳴嶼が窺うように冨岡へ目を向け、眠るしのぶの体を見つめた。
「話し声が聞こえたからもしやと思ったんだが、独り言だろうか」
「……すみません」
 しのぶと会話をしていたせいで独り言の大きい男であると勘違いされたようだ。言いたいことを飲み込むことの多かったあの冨岡が、そんな勘違いをされてしまうのが少々おかしかった。背を向けた悲鳴嶼の目を盗んで冨岡がじとりとしのぶへ目を向けた。笑っているのがばれたらしい。
「……産屋敷家に保管されていた書物を読みました。鬼殺隊という組織の記録です」
「………。ああ、私も拝見したことがある。墓地にある名前と同じものが羅列されていたな」
「前世というものを信じるかは人次第ですが、しのぶさんの夢は恐らくその類でしょう」
 固まった悲鳴嶼が唖然としているのが見えた。
 鬼殺隊の記録を見ているのならば、前世の記憶といえるものの存在を信じても良いものだが、そうはいかないのだろうか。しのぶは少々不安になりながら行く末を見守っていた。
「……きみは、記憶が、あるのか?」
「俺に、ですか。百年前のことは話に聞く程度です」
「そ、うか。そうだな、前世の記憶を夢に見ていたと思えば確かに」
 妙に狼狽えた悲鳴嶼を訝しみながらも、冨岡は更に言葉を続けようと口を開く。少々逡巡したのがしのぶにはわかってしまった。冨岡がこれから言うであろう内容は、霊感のない者には信じ難いことだろう。
 それでも前世という言葉を受け入れた悲鳴嶼ならば、悪いようにはならないのではないだろうか。
「俺が知ってるのは、百年前の記憶を持った生霊の胡蝶しのぶです」
「……何だって?」
 これ、失敗したのでは? しのぶは悲鳴嶼の今までとは違う反応にまずいのではないかと慌てた。
 もう少し信じやすい言い方でも考えればと思うのだが、あまりにはっきり事実を口にしてしのぶは頭を抱えてしまった。昔の煽る言い方は酷かったが、今は口下手は多少緩和しているのだと感じたのに。
「その手の問題を生業としています」
 名刺を差し出した冨岡から悲鳴嶼は恐る恐るというような手つきで受け取り、しげしげと文字を眺めている。除霊屋、と呟いた声音が心底驚いていることを物語ってくる。不安になりながら悲鳴嶼へ近づいてしのぶは必死に事実であると騒いだ。ここにいるのだと伝えたのに、悲鳴嶼にはやはり聞こえていない。
「きみがここに来たのは……」
「胡蝶の依頼を受けたからです」
「そ、……しのぶは一体どういう状況なんだ?」
 聞く耳は持ってくれるらしい。
 事故に遭った衝撃でしのぶの魂が体から分離し、その際何故か百年前の記憶も一緒に抜け出た。浮遊霊として彷徨うしのぶが冨岡の事務所に辿り着き、元に戻る依頼を受けてここまで手掛かりを追ってきた。冨岡の見解がどこまで悲鳴嶼を信じさせられるのかはわからないが、下手に嘘をつくよりはまだ良いのかもしれない。
「しのぶが起きないのは、魂が抜けているのか? 魂はどこにいるんだ?」
「悲鳴嶼さんの隣に」
 冨岡が指した先に顔を向けた悲鳴嶼は、寂しげな表情をしのぶに見せた。目を伏せた悲鳴嶼はかぶりを振り、自嘲するような声音で呟いた。
「……見えないものを見るのが不得手になってしまった。……いや、信じる。私は生まれ変わりも信じている。きみが言うならそうなんだろう」
「………」
「心配無用だ、誰の言葉も信じるわけじゃない。夢の中のきみのことはしのぶが話してくれていたし、何より会って話して感じた結果だ。きみは嘘を言っていない。……そうか。しのぶが、百年前のしのぶがいるのか」
『………、悲鳴嶼さん』
 何だろう。悲鳴嶼の嬉しそうな顔がしのぶの魂がいることに対してではなく、百年前のしのぶに対して向けられているような気分になった。
 盲目だった百年前の悲鳴嶼が目の前にいるような、そんな気分を味わっていた。
「しのぶは魂が戻れば起きるのか?」
「すぐかどうかはわかりませんが、少なくとも中身がいないことによる死の危険は避けられます」
「そうか。それならすぐにでも」
 悲鳴嶼の了解を得た冨岡は、今度はしのぶへ目を向けた。
 依頼は元に戻ること。元に戻ったら記憶はどうなるのだろう。今の百年前のしのぶと別の記憶がこの体にはある。浮遊霊だった頃の記憶も一緒に取り込まれるなら良いのだが。
『記憶はどうなります?』
「さあな。結合されるか片方が消えるか。生身に残る記憶は恐らくそのまま残るだろうが」
『今の記憶はともかく、百年前の記憶も危ういんですか……? 私にとっては別人のようです』
 眉を顰めた冨岡は、しのぶが戻りたがっていないと感じたのかもしれない。冨岡の言葉と様子に悲鳴嶼も少々心配そうに眺めていた。
 悲鳴嶼にとっては一人で話し始めた冨岡に見えるが、言葉の内容に何かを感じ取ったらしい。
『でも、元々百年前の記憶があることがおかしいですし、仕方ないですね。私が魂を奪い取ったようなものでしょうし、お返ししなくては』
 冨岡を見つけてから少しの間だったが、しのぶは間違いなく満喫していたのだ。楽しかったと思う。愛想がなくても冨岡は会話をして、親切でもあった。
『生き返らせてください。お世話になりました』
 深く頭を下げて礼を口にして、顔を上げるとほんの少しだけ口元を綻ばせて冨岡はしのぶを見つめていた。控えめな笑みに応えるように、しのぶは満面に笑みを乗せて見せた。
『今度はきちんと知り合いましょう。きっとお礼に伺います。依頼料も払わなくてはなりませんから』
「……期待はしない」
 つれない返事をした冨岡が胸元から出る糸を引き、何やら片手を広げるとしのぶの体がこね回される気分を味わった。どうやら体が火の玉のような形にされてしまったらしい。悲鳴嶼に向けて一言失礼しますと口にした。
 眠る体の胸元に向けて手のひらの大きさのしのぶごと押し込まれるように抑えられ、抗うこともなくじわりと染み込んでいく。ぎりぎりまで近づけてはいるが、冨岡はどうやらしのぶの体には触れないようにしているようだった。そんなところまで律儀にならなくても、しのぶもきっと悲鳴嶼も文句を口にしたりはしないだろうに。
 相変わらず不器用で真面目である。含み笑いを残してしのぶは思考を放棄した。

*

「しのぶの魂は戻ったのか?」
「……一応」
 白い顔色はほんの少しだけ赤みが戻ってきていた。目を開けることはなく、未だ眠り続ける胡蝶を眺めながらも、冨岡は依頼完了と一先ず息を吐き出した。
 冨岡の言葉に悲鳴嶼は頷き、礼と労いの言葉をかけてきた。お人好しの権化のような人物である。
 自身が面倒を見ている年頃の女に会いたいと言い、除霊屋などと名乗る男が何をしたか見えていなかったはずなのに。
「目覚めた時は連絡するから、会ってやってほしい」
「……機会があれば」
「そうか、忙しいんだろうな。しのぶも喜ぶだろうし、私もきみとは仲良くしたいと思っている」
 悲鳴嶼は冨岡を気に入ってくれたらしい。それに関して嬉しくはあるが、生霊だった胡蝶のことを考えると見舞いに来るのは難しいだろう。
 体から魂が離れていた時の記憶は殆ど残ることがない。見てきた全てがそうだったわけではないが、期待はしても無駄だろう。百年前の記憶は残ったとしても、冨岡と知り合ってからのことは恐らく胡蝶は覚えていないと予想していた。霊からの依頼料など支払われたことなどなく、感謝の気持ちを貰うだけのものだ。霊から懇願されて付き合う依頼は基本的に無償の働きである。それ自体は良くあることでさほど気にしているわけではないが。
 さすがに前世の繋がりなどというものが目の前に現れるとは思っていなかったせいで、ここしばらくの胡蝶との時間は冨岡にとっても忘れ難いものとなってしまった。
 無事返せたのだからそれで良い。いつもの一度限りの依頼料を踏み倒す依頼人として終わるだけだ。
 悲鳴嶼とは良い関係でいられたら良いとは思うが、わざわざ覚えていない胡蝶と知り合う必要もない。元々その予定もなかった人間なのだから、胡蝶の人生に冨岡が現れるのはおかしいことでもあるだろう。
 仕事は終わったからと悲鳴嶼に挨拶をして病室を出た冨岡は、ぼんやり考えながら歩いていた。
 自分のルーツが産屋敷にあったことには少なからず驚いた。
 冨岡義勇という名前、炭治郎の名前。その中に混じって知った名があったことにも。
 こればかりは固まるほかなかったのだ。冨岡が良く知る彼らの名が、まさか鬼殺隊という百年前の組織の頃から縁があったなど思いもしなかった。
 だからといって何かをするつもりはないが、興味があれば教えてやろうと考えるくらいには衝撃を齎していた。

 あれから一週間ほど経った頃、悲鳴嶼から胡蝶が目覚めたと連絡をもらった。
 詐欺か何かだと思われなくて助かったが、最後に挨拶ができなかったとしょげる炭治郎を連れて藤襲病院へと足を向けた。悲鳴嶼には来ることは伝えていないので、様子を伺った後顔は出さずに帰るつもりである。
 炭治郎は魂が抜けてから体に戻るまでの期間、記憶が残ることは殆どないことを知っている。挨拶はしたいができないということも理解しており、顔を見るだけでもできればとついてきていた。霊と仲良くなっても終わりがあるのは少し寂しいと口にしながらも、出会いは無駄ではないと普段から言っていた。前向きな奴だ。
「ほら、しのぶがいつも夢の話を書いてた日記。またつけてみたら? 起きない間も見てたりしたんじゃない?」
「見てないわよ、見てても覚えてないし」
「そう? 残念。でも良かった、無事目が覚めてくれて。どうして赤信号で飛び出したりしたのか覚えてる?」
「……うん、ごめんなさい。あんまり覚えてないなあ……何か見つけたような気はするけど。何だっけ……」
 扉の向こうで聞こえる会話に息を潜め、冨岡は気配を消して隙間の開いた扉の奥へ目を向けた。
 白いベッドに体を横たわらせた線の細い女がいる。横顔は生霊だった時よりもやつれているような印象を受けるが、眠っていた時よりも顔色が良かった。そばに髪の長い女性の後ろ姿が見え、二人で話している様子に冨岡も安堵した。
「……行かないんですか?」
「覚えてないからな」
「残念です」
 扉から離れて歩き出した時問いかけてきた炭治郎に答えると、少し寂しげに表情を翳らせた。
 仲良くなれたのに会えなくなるのは寂しい。だが目覚めたことは喜ばしい。そういう複雑な感情が炭治郎の表情を曇らせていた。
「あまり気に病むな。お前はすぐ同調するからな」
「でも義勇さんも寂しそうなので……」
 また何か察されてしまったが、冨岡は無視してそのまま病院を後にした。元々悲鳴嶼に行くとは伝えていなかったが、今日は病院に来ているわけではなかったようで安心した。
 冨岡は炭治郎を連れてこのままもう一度墓地へと向かうつもりだった。悲鳴嶼と鉢合わせないよう注意しておかなければ、病院に逆戻りする可能性までありそうだった。何せ彼はお人好しだし、良かれと思って我を通す奴は冨岡の隣にもいる。
 生霊経験など本来ならする必要のないことを経験し、そんななか出会った人間など胡蝶の人生に関わりがなくて良いものだ。感謝してもらえるのは有難いが。
「次は藤の花が咲く墓地ですよね。義勇さんのお墓もあったんですか?」
「全部見てないからわからない。あそこは殉職者の墓地だというし、もしかしたらないかもしれない。お前のも」
「そうか、生還者に名前がありましたもんね。義勇さんのお墓見たら複雑な気分になりそうだなあ」
 満開の藤の花を思い浮かべながら、冨岡は炭治郎とともに墓地へと向かった。