眠り姫の巡遊・手掛かり

『わあ凄い、宝石のようです。食べるものですか』
「真菰からの差し入れだ。お前の分」
 机に粗雑に置かれたのは光り輝くケーキだ。
 冨岡のところに居候するようになりしばらく、ある程度の文明の利器というものを把握するようになっていた。壁際に置かれたテレビとか、やけに小さい電話機とか。手のひらの大きさの板で電話ができると言われた時は冗談か何かだと思ったくらいだが、慣れてくると受け入れることができてしまう。
 たった百年でここまで様変わりするのかと感心するくらいだ。テレビに釘付けになっていたしのぶを見ながら、子供はテレビに齧りついて見るなどと何やら意図を含んだような言葉を投げかけられた。咳払いをしてソファに座るふりをしながら落ち着いて見るようになったのが面白かったのか、小さく笑ったように感じたので振り向いたのだが冨岡は澄ました顔のままだった。
 まあ、しのぶの少々呆れる行動のことは良い。
 冨岡の昔馴染みはどこぞの有名な菓子店に赴き、宝石のようなケーキをしのぶのために買ってくれたのだというのだ。最初こそ驚かれてしまったが、冨岡が説明すると納得してここに顔を出してくれた。謝られて挨拶をされ、よろしくと朗らかな笑みを向けられた。まあ目は合わなかったのだが、やはり可愛らしいとしのぶの目から見ても思え、自然と口元が綻んだのだ。
『こんな綺麗なお菓子、嬉しいんですけど勿体ないです……冨岡さんの分は?』
「それ」
 指したのはしのぶにと差し出されたケーキだ。さてはしのぶにお供えした後食べるのか。
「半分こしろという話だ」
『半分こ……。成程、そうですか。ふふ、それはそれは。では私が全部食べるのはいけませんね』
 何だか妙に嬉しくなりしのぶは有難く手を合わせた。お下がりというつもりではなく仲良く半分こをしろと真菰は言ったらしい。生きていればいくら冨岡とはいえ殿方と食べ物を半分こなど考えられなかっただろうが、今はそんなことは気にする必要もない。
「……大正の人間の霊は前にも関わったことがある」
 視線を向けると冨岡はぼんやりと書類を眺めて頬杖をついている。
 大正を生きた若い女学生。馬車に撥ねられ亡くなり地縛霊となっていたらしい。やり残したことが沢山あるのだと要求を色々と飲まされたのだそうだ。
「食べたいものがあれこれ多かった。大正の人間はそういうものか」
『私は食べ物に執着してるわけではありません。というか何ですかその言い草は。婦女子とは殿方にそんな覚えられ方しても恥ずかしいだけなんですから、気をつけてください』
 何やら真菰は霊はもやにしか見えないのに霊媒体質らしく、体に憑依させて街中を歩くのに付き合わされたのだという。その女学生も恋愛に興味津々だったそうだ。いや別に、しのぶは後学のために聞いただけだが。いつ役に立つのかは知らない。
『……もしかして冨岡さんが恋仲の振りを?』
「他にいなかったからな。錆兎も仕事だったし」
 何と、依頼であれば幽霊でも恋仲の振りをするらしい。人の体を借りているとはいえ、望みが叶った女学生は満足して成仏したのだろう。随分優しい除霊屋だ。まあしのぶは除霊屋など生前も会ったことはないのだが。
「こんにちは義勇さん! テスト終わりました!」
 恋仲の女性とはやはり真菰のことではないのか、それとも幽霊のことではなかろうか。そう揶揄おうとした時、扉は急に開かれた。
 足音は確かに聞こえていたが、戸を叩くこともなく元気良く現れた少年にしのぶは瞬いた。
「あ、すみません。来客中でしたか。匂いがないので気づかなかったです」
「良い。ただの居候だ」
 何だか雑に扱われたような気分でしのぶは少々眉を顰めたが、それよりも目の前の少年に目がいってしまう。
 現れた少年はしのぶの良く知る顔だった。冨岡同様しのぶと目が合いはしても、やはり見ず知らずの霊だというような反応である。小さく名を呼ぶと冨岡が視線を向けてくるが、少年は不思議そうにするだけだった。
「……知り合いか? 例の百年前の鬼退治か」
「鬼退治? 百年前?」
『……ええ。後輩、部下、そんな感じでした。冨岡さんの弟弟子さんでしたよ、炭治郎くんは』
 そう、現れた少年は竈門炭治郎。冨岡の反応から名前も間違いないのだろう。朗らかで優しい少年は百年前冨岡の弟弟子だった。こうして気安く声をかけてきたところから、今もそうなのかもしれない。
「百年前の知り合いだそうだ」
「義勇さんのですか?」
「お前も」
 炭治郎には声は聞こえていないらしい。笑みを向けると少しばかり頬を染めた炭治郎は、会釈をしながら冨岡のそばへと近寄った。
「胡蝶しのぶ。覚えは?」
「うーん。聞き覚えはないです。会っていればわかると思うんですけど……何というか、凄く綺麗な人ですから」
 あらまあ。驚いたしのぶは口元に手を当てて炭治郎を見つめた。照れたようにはにかむ様子は見たことがあるような気がして、やはり彼もしのぶの知る炭治郎とそう変わりない性格のような気がする。
 正面切って見た目を褒められるようなことはなかったが、今の時代はそれも普通なのかもしれない。
 機械から紙が排出され、冨岡はそれを炭治郎へと差し出した。目で追う炭治郎の隣で同じように覗き込もうとすると、またも照れたように頬を染めた。
 しのぶは生身ではないというのに、どうやら思春期なのかもしれない。
「……はあ、百年前の生霊ですか。凄い話だなあ。じゃあ今も生きておられるんですね」
『生きてないですよ、それは冨岡さんの見解でしょう』
「本人は百年前に死んだという。……生霊のはずだが、大正の記憶のままなのがおかしい。何なのか良くわからない」
「義勇さんにもわからないことがあるんですね」
 盲信とも思えるような言葉を口にした炭治郎に、当たり前だと冨岡は眉を顰めた。
『でも、恐らく一年近く浮遊しているのに、体があったとしても生きているんでしょうか?』
「死ねばその糸が消える。少なくとも息はしてるだろう」
 ほつれのような胸元の白い糸。頼りなささえ覚えるような弱々しい糸だ。何かの拍子に千切れてしまうのではないかとも思うが、千切れたら千切れたで冨岡に成仏させてもらえば良いかとしのぶは考えている。体が生きているなら戻りたくはあるが、やはりあまり信じられないというのが本音だ。
「俺たちに害はないが、本人の体はまずいだろうな。明日産屋敷家に面会する」
「了解です。ああ、自己紹介をしてませんでした。俺は竈門炭治郎、義勇さんの一番弟子です!」
「弟子じゃない」
『成程、何となくわかりました』
 溜息を吐いた冨岡とにこやかに笑う炭治郎を見て、しのぶは微笑ましい気分になっていた。冨岡のところに押し掛けてでも来たのだろうと容易に想像がつくのは、きっと百年前の二人を知っているからだろう。
 何を言おうと追い出したりしない時点で、冨岡は弟子と自称する炭治郎を嫌ってはいないことが良くわかったし、炭治郎自身もそれに気づいているのだろう。

 産屋敷家は百年前の鬼殺隊本部を思わせる大きな屋敷だった。
 しのぶが物珍しさに目を輝かせた街中の建物とは違う、懐かしささえ感じる家屋。冨岡より少し年上に思える女性が招き入れてくれた。
「お祖父様のお話は聞き及んでいます。百年前に解散した鬼殺隊のことは書物にも」
 どうやら産屋敷の令嬢はしのぶが見えないらしく、冨岡と炭治郎がしのぶを指しても目が合うことはなかった。それでも霊障を信じてはいるようで、しのぶのいる方向へ頭を下げて挨拶をしてくれた。
 こちらとしては末裔といえど産屋敷家の息女に頭を下げられるのは慌てるほどのことである。見えていなくても必死になって止めたが、顔を上げた女性は満足げに笑っていた。
「こちらが鬼殺隊に関する書物です。量がありましたので最後の一冊ですが」
 産屋敷家の当主たちがしたためていたものだという。耀哉は隊士の名前を全て覚えていたし、いつどのようにして亡くなったかも記録してあるそうだ。静かに頁を捲る冨岡の両隣から、炭治郎としのぶは覗き込んでいた。
「祖父が生きていたらもっとわかることがあったはずですが……」
「いえ、充分です」
「最後の戦死者……しのぶさんの名前がありますね。上弦の弐との戦闘で殉死……」
 少しばかり寂しげに翳った炭治郎の顔色を視界に入れ、しのぶも書物を目で追った。
 しのぶの知らないことも書かれたそれには、階級と無限城での戦闘結果が書かれている。上弦の壱との戦闘で時透無一郎、不死川玄弥が殉死。鬼の首魁、鬼舞辻無惨との戦闘で悲鳴嶼行冥、伊黒小芭内、甘露寺蜜璃が殉死。他にも一般隊士たちの名が連ねられている。
 これを書いたのは輝利哉を含めた当主たち。最後の当主であるあの幼子がこうして殉死者の名を連ねることがどれほど辛かったかと思うと何も言えなくなってしまった。
「わ、本当に俺の名前がある。え、……禰豆子も?」
 炭治郎の声に視線を動かすと、帰還者としての隊士の名が書き綴られていた。
 不死川実弥、冨岡義勇。竈門炭治郎、栗花落カナヲ。特務隊士として竈門禰豆子。他にも知っている名がある。そうか、冨岡は生き残ったようだ。何ともいえない気分になりながらも、仲の悪かった二人の名前が並んでいることに少し笑ってしまった。
「祖父は何かが見えている人でした。霊的なものではなく、先見の明といいますか。祖父の代で鬼の呪いを断ち切ることができたので、私たちには受け継がれていないのだと」
「……そうですか」
「祖父はある孤児院に出資していたのですが、時折捨てられた赤ん坊に名前をつけたり、不思議なことをしていました。……冨岡さんの名前も、きっと祖父は何かを見たからつけたのでしょう」
 女性の言葉に冨岡は目を丸くして、炭治郎も同様に驚いた顔を見せた。
 孤児院。それは家族のいない孤児がいる場所だということはしのぶにもわかる。ということは、目の前の冨岡は家族がいなかったのか。
 鬼のいない世界であっても、様々な要因で独りになることがある。しのぶは目を伏せた。
「……名付けの話は聞いたことがありませんが」
「ええ、祖父は誰に対しても名付け親だと名乗りはしませんでした。何かが見えてその通りにしても、思うところがあったのかもしれません」
「あの、俺と妹の名前ももしかして……」
「恐らくそうでしょう。あなたのご家族がつけたとお聞きでしょうけれど」
 鬼殺隊に縁のある者の名を、輝利哉は見たとおりに授けていた。それは人生を縛るものになるのではないか、良くないことではないかと悩んだことがあるのではないだろうかと女性は口にした。
「それとも、もう一度お会いしたかったのかもしれません。でも名乗るほどの勇気がなかったのかも。祖父の交友関係はあまり詳しく聞いていませんが、孤児院ならば紹介は可能です。後は……鬼殺隊の隊士が眠るという墓地でしょうか」
 縁のあった者たちと同じ名をした者たちに、鬼殺隊など関係のないところで知り合いたかったのではないか。女性はそう想像もしたようだ。
 孤児院と墓地。しのぶがこの時代に孤児だったかはわからないが、縁のある者ならばいつか来るかもしれないという。予想外に自分の起源のようなものを知ったらしい冨岡へちらりと目を向けると、困惑しながらも冷静さは失っていないようだった。
「よろしくお願いします」
「はい。では場所と連絡先をお伝えします。孤児院にはこちらからも伝えておきますね」
「ありがとうございます」
 深く頭を下げた冨岡とともに、しのぶも頭を下げて礼を告げた。

『冨岡さんは孤児院で育ったんですか?』
「ああ。孤児院の先生が後見人、炭治郎も同じ孤児院に来た」
 産屋敷家に向かった翌日、学校に行っている炭治郎を置いて冨岡は墓地へと足を向けた。
 炭治郎が孤児院に来た時彼にはすでに名前はあったという。ということは亡くなったと聞く家族が輝利哉と面識があったのだろうか。
 何とも不思議な話だ。彼らが生まれ変わりであることを輝利哉は見たのかもしれない。確かに産屋敷の当主は不思議な人ではあったが。
『ああ、藤の花が……』
 満開の藤が墓地を守るように咲いている。時が経っても荒らさせはしないと言われているようで、しのぶはあるはずのない涙腺が緩むような気分を味わった。
 並び立てられた墓石は古く、確かに百年経っているようだった。一つ一つに刻まれた名前が存在を示して、しかししのぶは骸が残らなかったのだからと少々寂しくも感じていた。
「胡蝶しのぶの墓」
『え、』
 一つの墓石の前で立ち止まった冨岡が呟いた。
 墓の下には何もないはずのそこには、間違いなくしのぶの名前が刻まれている。何を埋めたのか不思議だったが、その気持ちは有難かった。
「ここに百年前の俺の墓もあるのか」
『さあ……どうでしょう。戦後も生きていたようですから、どこかのお嬢さんと同じ墓に入っているのでは?』
 それとも人付き合いの苦手な人だから、誰ともそんな仲にはならなかったかもしれない。冨岡の生家の墓にいるのかもしれない。仮説はいくらでも湧いてくる。
 しのぶの墓前でしゃがみ、手を合わせた冨岡に複雑な気分になりながらも、しのぶはその様子を眺めていた。
「———、きみは」
 手を合わせていた冨岡が顔を上げ、声が聞こえた方向へと目を向けた。桶を持って立ち竦む様子はあまりに驚いている。同様にしのぶも驚いていたが。
「……その、墓は」
『悲鳴嶼さん! 悲鳴嶼さんじゃないですか。目が見えるんですか!?』
 しのぶへ視線を向けた冨岡が知り合いかと問いかけているようだった。
 産屋敷家で見た鬼殺隊記録の中に、悲鳴嶼の名前も間違いなくあった。鬼舞辻無惨との戦闘殉死者の一人であること、悲鳴嶼行冥という名を口にすると、思い出したように冨岡は瞬いた。
 しかし、しのぶがこれほど騒いでも気づくのは冨岡だけだった。悲鳴嶼は全く霊感がないようだ。寂しい。
 会釈をした冨岡を見て視線を揺らした悲鳴嶼は、少しばかり寂しげに見える表情をして目を伏せた。
「……私は良くこの墓地を掃除しに来るのだが、きみとは初めて会ったな。良くここへ来られるのか?」
「いえ、初めてです。……自分の名付けのことを少し聞き及びまして、興味本位で」
 しのぶのことを調べている流れでここに来たのだが、初対面である悲鳴嶼に突然事実を伝えても不審がらせるだけだと判断したのだろう。
 しのぶの生きた時代、鬼の存在を信じない人も多くいた。霊障の話も信じない人はいるのだという。確かにしのぶは霊についてあまり考えたことがなかったが、生きていた時に言われてもすぐには納得しなかっただろう。
 しかし、悲鳴嶼の先程の反応は、何だか訳ありなのではないかと思うのだが。
「……そうか、名付け、興味本位……。ああ、すまない、私は悲鳴嶼行冥という。きみの名前を伺っても良いだろうか」
「冨岡義勇です」
 不思議だ。そうそう狼狽えることなどなかった悲鳴嶼だが、今の時代では落ち着きがないようにも思える。鬼のいない世界は悲鳴嶼すらも変えるのか。
 冨岡を訝しむよりも嬉しがっているような。それでいて寂しがっているような。不思議な感覚だった。
「私の名前はここにあるんだ」
 しのぶの墓から少し離れた墓石を指し、悲鳴嶼は冨岡を呼んだ。近寄ると墓石には悲鳴嶼行冥と彫られており、同じ名前なのだと悲鳴嶼は教えてくれた。
「名付けの話を聞いてここに来たのなら、産屋敷家から聞かれたのだろう」
「……そうですね。輝利哉さんが名付けてくれたのだと」
「私もそうなんだ。きみが拝んでいた墓の者も」
 冨岡が反応したと同時にしのぶも驚いて悲鳴嶼を凝視した。
 冨岡が拝んでいたのは他ならぬしのぶの墓前だった。しのぶの骸はそこにはないが、それでも自分の墓であると理解している。墓の名前と同じ名を持つ、名付けられた者が他にもいることを示唆していた。冨岡が探していた手掛かり。
「……胡蝶しのぶさんとお知り合いですか」
「ああ、知っている。きみは胡蝶しのぶに会いに来たのか?」
 会いに来た。そう言われると少ししのぶは悩んでしまったが、冨岡はしのぶの様子など見向きもせず悲鳴嶼へ頷いた。本体を探して元に戻そうとする冨岡は確かに会いに行こうとしているのだろうが、しのぶはここにいるので妙な気分にもなる。一応茶々を入れずに見守ってはいるのだが。
「……何故しのぶに会いたいのか、聞いても良いか」
「………。……返さなければならないものがあります」
「返す? 何をだろうか」
「……それは、言えません」
 しのぶが見えていない悲鳴嶼では、ここに生霊がいるなどとは信じられないだろう。もしかしたら悲鳴嶼ならば信じてくれる可能性もあるが、それをここにいる冨岡は知らない。確実に会いたいのなら適当に方便でも使えば良いと思うが、何とも馬鹿正直だ。
「ここに来てもしのぶは来ない。……会わせることはできない。すまない」
『怪しまれたんじゃないですか?』
 じとりと視線を向けても冨岡は素知らぬ振りだ。見えていない悲鳴嶼の前で妙な素振りをすれば不審がられるのはわかるが、彼が霊障を信じていれば伝えても問題ないのではないかと思う。何とか信じているのかいないのかがわかれば良いのだが。
 しかし、悲鳴嶼はこの時代のしのぶを知っているというのは大きな成果である。生身があり生霊であるというのはあながち間違いではなかったのだろう。
「きみはしのぶと知り合いではないようだな。知らないようだから伝えておくが、……しのぶは一年前からずっと眠っている」
 俯いて目を伏せた悲鳴嶼は小さく呟いた。
 しのぶの目から見ても不審な冨岡の言葉に耳を傾ける悲鳴嶼は、聞き捨てならない言葉を口にした。
「事故に遭ってからずっと眠ったままだ。会わせることはできない」
「……成程」
 事故に遭った拍子に魂が抜け出てしまい、こうして浮遊霊のようなしのぶが現れたのだろうか。しかしそれでも腑に落ちないことは残る。大正を生きたしのぶがこうしていることについては何も理由が見つかっていない。
「赤信号で横断歩道を渡ろうとして撥ねられたんだ。普段そんなことをする子ではなかった。手術は成功したという話だったが……それから目を覚まさない」
 命に別状がなければしのぶも戻れているのでは。結局のところしのぶの体は死にかけているということか。いや自分の体ではなくこの時代のしのぶなのだが、手掛かりが見つかったと思えば別の問題が浮上してくる。しのぶが体に戻って解決といくのかどうか怪しかった。
「……病室に入らなくても構いません。一目見ることは可能ですか?」
 冨岡の問いかけに悲鳴嶼は目を丸くした。目の前の悲鳴嶼は百年前に増して感情豊かだ。
 対して冨岡は相変わらず澄ました顔をしていたが、ここで得た手掛かりから手を離すつもりはないようだった。しのぶとしても有難くはあるが。
「………。しのぶは藤襲病院にいる。連絡をくれれば都合の良い日を伝えよう」
 胸ポケットから小さな板を取り出した悲鳴嶼は、冨岡に連絡先を教えるよう口にした。
 これは例の電話ができる機械だ。やはり街の人間たち同様に悲鳴嶼も持っているらしい。
「……俺が言うのも何ですが、信用し過ぎでは?」
 悲鳴嶼の態度に思うことがあったらしい冨岡は、苦言のように言葉を告げた。
 悲鳴嶼は恐らくしのぶと浅からぬ仲なのだろう。しのぶを子と呼んだ様子は気安く、しのぶから見ても怪しく感じるような態度だった冨岡に近づかれるのは警戒もするだろうに。どこか窺う素振りは見せても、怪しむ様子は見られなかった。
「ははは、人を見る目はあるんだ。きみはしのぶに害を与えたりはしない」
 困惑しているのが良くわかる表情を見せた冨岡に、悲鳴嶼は楽しそうに笑った。
 それがあまりに柔らかく嬉しそうに見えて、しのぶも思わずつられるように笑みを向けた。