卒業式後のお泊り
蔦子に挨拶をした二人、特にカナエは持ち前のコミュニケーションで早々に蔦子と連絡先を交換していた。
何故しのぶではなくカナエに。納得がいかずついしのぶも連絡先を交換してもらった。嬉しそうにした蔦子はごゆっくりと口にしてリビングを出ていった。
それからは四人で卒業祝いとついでにしのぶの誕生日祝いだ。といってもまだ未成年であるのだから酒など以ての外で、ジュースやコーヒー、皆で食べられるような出前や菓子をつまんで話すだけの、友人間である集まりと変わりない。
宴もたけなわ、すっかり夜になった頃、しのぶは手洗いを借りて廊下を歩いていた。卒業式の準備や何やらで少々眠くなってきていた。それが言い訳になるかはわからないが、リビングに戻ったしのぶはカーペットに座る冨岡の膝を枕にして丸くなった。弁解のしようもなくぼけきっていたのは間違いない。
「わあ、しのぶったら大胆だわ!」
「お前、それは、おかしいと思うぞォ……」
一気に目が覚めて体を離した。間違えたと慌てたしのぶが冨岡へ目を向けると、何やら行き場がなさそうな左手が宙を迷っているのが見えた。何その手。もしかして撫でようとしたのだろうか。不死川は指摘していたが、冨岡ももしかしてしのぶの体質に慣れきってしまったのか。
「ま、間違えただけですから……」
「準備大変だって言ってたもんねえ、眠いのよ。もうしのぶ泊めてもらえば? 片時も離れたくないんだろうし」
「違うわよ!」
「私父さんたちに説明しとくわよ。私は二人に何かあっても良いんだけど」
全員の驚いた目がカナエを凝視したが、本人はどこ吹く風といった具合だ。蔦子も許してくれるのではないかと提案する。何故か泊まる方向へ向かわせようとしているカナエをじとりと見やりながら、そういえば公認になったのかと少々考え込んでしまった。
「おいおい、何で考え込んでんだよォ」
「……そうね。泊めてください」
「………。水は被れよ」
「あらら。残念ねしのぶ。もう遅いし私たちは帰りましょうか」
カナエは少し残念そうにしていたが、不死川はあからさまにほっとした顔をしていた。冨岡は何だか不機嫌にも見える表情になっていたが、泊めてくれるというのだから怒ってはいないだろう。毎日顔を合わせるのは最後なのだし、少しくらい良いだろうと考えて口にしてしまったのだが。
「私が不死川くん家に泊まるって言えば自然にしのぶも泊まれると思うのよ」
「………! お前なァ……!」
来た当初は真っ赤になっていたくせに先程から一体何なのか。実際にカナエが泊まるわけではないだろうとは思っているが、爆弾発言に混乱している不死川をそのまま連れて行くカナエを見送り、しのぶはしのぶでシンクに立つ冨岡に近づき、少しばかりの希望を口にした。
「……水被りたくないです」
「………」
頭を押さえた冨岡を見上げた。もう少しくらい話をしたい。猫では意志の疎通も難しくなるのだし。
今日が顔を見るのは最後ということではないことは確かだが、学校が変わると今ほど頻繁に会えるというわけでもないだろう。登下校は一人になるし、どこかで水を被ってしまったらと少し不安にもなる。
「……選択肢は三つある。一、猫の姿で寝る。二、俺がここで寝てお前はベッド」
三つ目は。一旦口を閉じた冨岡に問いかけると、溜息を吐いてしのぶを見つめた。
「三、そのまま俺と同じベッドで寝る」
同じベッド。言葉にされると途端に羞恥がしのぶを襲い、顔が真っ赤になっているのが良くわかった。
明らかにその先どうなるかを言外に伝えているだろうことまで察してしまい、カナエの冗談交じりの言葉などより余程心臓に負荷をかけられた。
「言っておくが、俺は聖人君子でも鉄の理性なんてものもない。手を出さない保証は全くない。というより、……三つ目を選んだら覚悟はしてほしい」
しのぶが泊まりたいと言い、水を被りたくないと言った。それはもう少し話がしたくて離れ難くて口にしたことだが、少しくらいは触れ合うだろうとも考えていた。恐らくしのぶの想定以上に冨岡には思惑があり、詳細まではあんまり頭になかったことだが。
どうせもう結婚できる歳なのだ。握り込んでいた両手に力を込め、しのぶは小さく口を開いた。
「……三番が良いです」
意を決して口にしたのに、顔面から水を被りしのぶの視界は地を這った。何が起こったかわからないまま見上げると、シンクに手を伸ばした冨岡が口元を押さえて俯いていた。しのぶが床にいるので顔が良く見える。何だか照れているような気がした。
「……ごめん」
冨岡たちの卒業式の今日はしのぶの誕生日でもあった。本当に酷い話だ、水を二回もかけられて、しかも二回目は意図的にだ。選んだのは三番だったと文句を言おうとしたのに、しのぶを抱き上げた冨岡が申し訳なさそうな顔をしていて、ほんの少しだけ頬が赤いことに気がついた。
「よし、片付けようか。ごみは持って帰るわ。……あらまあ、容赦ないわね」
「……当たり前だろォ」
しゃがみこむ冨岡に抱き上げられたしのぶを見たカナエと不死川は、状況を理解したらしく別々の反応を示した。残念そうに笑ったカナエと安堵した不死川。溜息を吐きたくても猫の姿ではうまくいかなかった。
「義勇、お風呂はもう、あらしのぶちゃん」
「あ、すみません蔦子さん。妹をよろしくお願いします」
「いえいえ。猫ちゃんなら義勇の部屋にいられるもんね」
元の姿でも部屋にはいられるはずなのだが。
責任を取ると言ったくせに、覚悟しろと言ったくせに。覚悟ができていないのは冨岡のほうではないのか。むすりとしたしのぶの様子に気がついたのか、カナエが笑みを誤魔化しながらも肩を震わせていた。
シャッター音で目が覚めたしのぶは、ベッドの掛け布団の奥から寝ぼけ眼を向けた。
枕のそばにはスマートフォンを持って謝る蔦子の姿があり、何故ここにいるのかとしばらくぼんやりした後、そういえば冨岡の家に泊まったのだったと布団の下で伸びをした。
ああ、思い出してきた。部屋に泊まろうとしたしのぶに水をかけられ猫にさせられ、不満があったしのぶはベッドに入ろうとする冨岡の懐に潜り込んだのだった。潰すとか何とか言っていたが、枕の横で寝た時よりも濃い冨岡の匂いにくらりと目眩がした。これじゃ変態じゃないの、とひとりごちながらもそこから動かず寝入っていたらしい。
隣がもぞもぞと動き出し、普段の半分も開いてない目がしのぶを捉えた。おはようと声をかける蔦子にも唸るような声を漏らすだけだった。前に寝起きを見た時はもっときちんと起きていたはずだったが、今日はあまり眠れなかったのだろうか。
「しのぶちゃんもご飯食べて帰るでしょ? 用意する間お風呂入っててね」
蔦子に手招きされるがまま、しのぶは寝返りを打つだけで起きない冨岡の懐から抜け出した。
いたれりつくせりで申し訳ない限りである。服まで洗ってくれていたらしく、風呂上がりに深く頭を下げるとそもそも水をかけてしまったのは自分だからと蔦子は笑った。触らせてくれたからそれで、と先程風呂に行くまでの間にしのぶを抱き上げて撫でまわしたことで手打ちにするということらしい。
そんなことで良いのかと思うが、蔦子が楽しそうなのでしのぶも食い下がるのは気が引けた。喜んでくれているのならまあ良いかと考えることにした。
冨岡の部屋に戻ってドアをそっと開けると、布団にまみれてまだ寝転んでいる冨岡の背中が見えた。
疲れていたのか寝付きが悪かったのか、良くわからないがぐずっているようだ。何とも珍しい姿である。
「眠そうですね」
ぼんやり目を開けた冨岡が、ようやく伸びをしてゆっくり起き上がった。普段見ることのない様子が見られて少々気恥ずかしくなりつつも、気の抜けている冨岡はやっぱり珍しくて見ていたかった。
「お前が三番なんか選ぶから眠れなかった」
寝不足の理由はしのぶのせいらしい。自分の所業が衝撃だったと聞かされて恥ずかしくなった。
確かに選んだのはしのぶだが、選択肢に挙げたのは冨岡だろうに。しのぶだけのせいではないと思うのだが。
「選んでも水かけてきたじゃないですか」
「あれは、……ごめん。驚いてつい」
「え? かける気なかったんですか?」
「……選ばないと思ってたから」
試すように三番を挙げておいて、しのぶが選んだら想定外だったというのか。覚悟云々と言うが、やはり冨岡こそ覚悟が足りていないのではないか。しのぶとしては責任を取ってもらえる相手になら何をされても構わない、いや、何でもは許せないかもしれない、やっぱり。
だが昨夜しのぶは手を出されることを許したのだから、そこは構わない部分なのである。直接口には絶対にしないけれど。
「びっくりしなければ三番実現しようとしたんですか?」
「誰もいなければな」
狼狽えて水を飛ばしてきたくせに。まあでも確かに、すでに連絡網ができあがっている二人の身内にばれるのは恥ずかし過ぎるし嫌過ぎる。しのぶがここに来る時カナエにばれるのは仕方ないが、蔦子にまでばれるのは嫌だ。何というか、義理の姉という立場になる人だし。
「お前が、三番選ぶくらい心の準備があるんなら、……今度は姉さんのいない時に来い」
「………、……猫じゃなくても泊めてくれます?」
真っ赤になっているだろう顔で、視線を彷徨わせながらしのぶは小さく問いかけた。
冨岡の口元が弧を描き、立っていたしのぶの腕を掴んで引っ張られ、重力に沿って冨岡の腕に収まる形で座り込んだ。
「どっちでも良い」
猫でも人でも。どっちでも良いのか。しのぶならそれで良いのか。未だに冨岡はしのぶ以外の動物を触れないというのは知っていたが。まあしのぶもそうであることは置いておいて。
抱き締められたことに照れてしまう前に、冨岡の言葉で何ともいえない満足感を味わってしまった。ぎゅう、と腕をまわして抱き着くと、体勢を直した冨岡はしのぶを足の間に座らせた。
「え、ちょ、これは」
「座りたかったんじゃないのか」
「違っ、……ち、違くもない、ですけど」
昨日間違えて膝枕にしたことを言っていると気づき、しのぶは猫と人を混同していたのだと心中で言い訳しつつ、離れたいわけではないので妙な言葉を口にした。
「誰もいなければ間違えても良いが」
何故そんな混同してしまっているのかを冨岡はわかっているのかいないのか。別にわかってもらわなくて全く問題ないのだが、耐えきれなくなったしのぶは落ち着くために胸元に顔を埋めてすん、と鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。
「嗅ぐな」
「だって、匂い好きです」
触れていた冨岡の体が一瞬固まり、項垂れるようにしのぶの肩に頭を預けた。大きな溜息が首筋というか鎖骨の付近に当たるのが気になって唇を噛んだ時、冨岡の耳が赤くなっていることに気がついた。
「ちょっと、照れてるんなら顔上げてください」
顔の近くで首を振られ、癖のある髪が頬に当たる。寝起きで気が緩んでいるのか、甘えられているような気分になった。恥ずかしさはあるものの、珍しい様子を見るのは素直に嬉しい。
歳上でいつも愛想のない顔をしているせいで、しのぶばかりが焦っているような気分だったが、冨岡は冨岡で内心はいつも焦っているのかもしれない。それならそれで、まあもっと表に出してほしいとは思うけれど、しのぶは満足げに笑みを見せた。
「………! や、やだちょっと! 蔦子さん何を撮って」
「……完全に猫だな」
二つのスマートフォンが振動して同時に確認すると、ベッドに眠る冨岡の寝顔とその懐で丸くなって眠るしのぶの画像が送られてきた。先程シャッター音が聞こえたのはこれか。慌てたしのぶとは違い、冨岡はどこか諦めたような顔をしてスマートフォンをベッドに放り投げた。
「どうせ胡蝶にも送ってる」
「ええー! 困ります、こんな飼い猫みたいなだらけた姿、姉さんが見たら大喜びしちゃうじゃないですか!」
「飼い猫……」
蔦子は食事を準備し終えたから送ってきたのだろうか。冨岡もそう考えたのか、しのぶを離してベッドから這い出て立ち上がった。
「飼い猫はちょっと……如何わしいな」
「な! へ、変態です!」
「変態で結構」
普通の文句を口にしただけなのに、如何わしさなど感じ取るのがおかしい。何で変態という悪口を受け入れるのか。恥ずかしくて困り果てたしのぶはスマートフォンを握り締め、眉根を寄せながらダイニングに促す冨岡の後を追った。