卒業とやり直しと告白、そして不運

 カナエたち三年の卒業式は二月二十四日。しのぶの誕生日である。
 式が終わりクラス全員で遊びに行く者たちもいれば、気心知れた数人の友人同士で帰る者たちもいる。四人は冨岡の家で卒業を祝う予定があった。
「あ、しのぶ!」
 三人の姿を見つけて駆け寄るしのぶに、カナエは手を振って呼び寄せた。在校生として卒業式に出席していたしのぶが祝いの言葉をかけると、カナエは嬉しそうに礼を口にした。
「泣いてる人が多くてつられそうに、………。あの、ボタンはどこに?」
「……ああ、それは」
 冨岡のブレザーの真ん中のボタンが外されていることに気づいたしのぶは少し眉を顰めながら指摘した。答えようとした冨岡の言葉を遮って割り込む声があった。
「義勇くん帰るの?」
「ああ」
 小学生くらいの女の子と、その後ろには冨岡の友人。抱き着いた女の子を受け止めながら頷いた冨岡に、女の子は手に持っていたものを見せびらかした。
「あのね、錆兎のと一緒にして飾っとくね」
「真菰もいい加減俺のことは兄ちゃんと呼べよ」
 通した紐を握り締めて二つのボタンがぶら下がっていた。嬉しそうにしている女の子の頭を撫でてから冨岡は離れ、二人に手を振って見送った。
 あの子は以前、猫の姿で会ったことがある。冨岡の友人の妹だと言っていたのを思い出した。
 どうやら数日前に学生服の第二ボタンの話を知ったらしい女の子は、ブレザーであるにも関わらず兄と冨岡のボタンを強請ったのだそうだ。小学生を羨ましがりそうになったしのぶは、ひと呼吸してから反省した。
 周りからすれば羨ましいことこの上ない立ち位置だろう。本人が知り得ない話の一つに、冨岡は意外と女子人気があるというものがあった。黙って見つめられて勘違いする女子が割といる。彼自身は口数が少なくカナエも同じクラスになるまで気づかなかったらしいが、しのぶが話しかけると時折視線を感じることに気がついた。カナエはクラスの女子から付き合っているのかと問いかけられたことがあったと言っていたし、鈍い本人の耳に入らないところで、冨岡の噂は割と色々あったのだ。一度も気づくことはなかったし、これ幸いとしのぶはカナエに背中を押されていたわけだが。
 第二ボタンというものは真っ黒な学生服のみの話だったような気がしたが、それでも憧れというものはある。心臓に近いからとかいう理由で上から二番目のボタンを渡すのだ。何やら思いついたらしいカナエが口を開いた。
「ごめんね冨岡くん、ちょっと失礼。はい、しのぶ。代わりにこれ貰っちゃえ」
 冨岡の首元に手を伸ばし、カナエは笑みを見せたままネクタイを奪い取ってしのぶへと手渡した。鳩が豆鉄砲を食らったとでも揶揄できそうな表情を見せた冨岡と、同じくぽかんとしていたしのぶの頬が熱くなってきたのを自覚した。
「べ、別に欲しかったとかじゃ、……何してるのよ」
「うん。……よし、似合うわよしのぶ!」
 しのぶの胸元のリボンを外してネクタイを結び、ばっちり可愛いとカナエは太鼓判を押した。頬を染めて困り果てたしのぶを冨岡に見せびらかすようにされ、冨岡も困惑したような顔をしていたが。
「何でつけるのよ、校則違反だし」
「良いじゃない、指定のネクタイだから違反じゃないでしょ」
 外そうとするしのぶの手を掴まれたので、何の意味があるのかと小さな声で問いかけた。楽しげに笑ったカナエはしのぶの耳元で小さく口にした。
「あるわよ、しのぶの告白避け」
「泣き縋られてたのに?」
「続いてますアピール。卒業するんだからもう一緒にご飯食べられないしね」
 情けなくハの字になっているだろうと自分の眉のことを考えつつも、そんなことは冨岡も同じだと口にしてむくれるように唇を尖らせた。子供のような仕草をしてしまったが、カナエはただただ可愛いとしのぶに言うだけだった。
「……姉さんも思い出に何か貰ったら? 不死川さんに」
 しのぶの言葉に目を瞬いたカナエが振り向くと、ぎこちない動きをした不死川が怖い顔をしていた。
 良い加減こちらも進展してもらわなければ、学校が変わってしまえば会えなくなるのはカナエと不死川もである。毎日見ていた顔が見られなくなり、新たな出会いに目を向けることになるのだろう。この辺りで一歩踏み出しておかなければカナエは恐らく気づかないだろうし、周りはカナエを放っておかない。
 さて、二人のことは任せておいて、しのぶも何か渡そうかと考えてみた。巻かれた男子用のネクタイに少々照れてしまうが、さすがにまだ使用するリボンを渡すのは躊躇する。
「うーん。じゃあネクタイ交換する?」
「………、いや、俺がリボン持ってたら変態じゃねェか……」
「そんなことないわよ、可愛いわよ」
 しのぶが躊躇したリボンを首から外し、カナエは不死川のネクタイを外して自身のリボンを巻きつけた。非常に恐ろしい顔をしてわかりやすく不死川は固まっていたが、ひっそりしのぶはエールを送っていた。今日が最後なのだからと。
「ほら可愛い! 今日で最後だし良いじゃない」
「可愛くねェし……」
「不死川実弥!」
「あァ?」
 相変わらず態度のよろしくない返事をした不死川が顔を向けると、卒業生の花を胸につけた男子生徒が近寄ってきた。冨岡とともに黙って様子を窺おうとしていると、男子生徒は意を決したように口を開いた。
「俺が勝ったらそのリボンをください!」
「………、はああァ?」
 口元が引き攣った不死川を見て男子生徒はたじろいだものの、前言撤回することはなかった。不死川が凶悪な笑みを浮かべて指の骨を鳴らし始めると、カナエは少々焦ったように止めようとしていた。
「ちょ、ちょっと、喧嘩は駄目よ」
「胡蝶さんのリボン争奪戦!? 俺も参加させろ!」
「待て、俺もだ!」
 門前にいた生徒から声が上がり、カナエは不死川の腕を掴んだ。一瞬固まったもののすぐに手を外され、不死川は男子生徒数人を睨みつけている。
 公衆の面前でネクタイ交換なんてするからこういうことになるのだ。しのぶはカナエがどれほど学校で人気があるかを知っているし、何なら自分もそういう話題に挙げられることもわかっている。まあカナエは友人間でのプレゼント交換のような気分だったのだろうけれど。
「やらせてあげたら? 不死川さんなら負けないでしょ」
「危ないわよ、怪我したらどうするの」
「その時は姉さんが手当してあげて」
 まあ確かに、最後の日に問題を起こすのはまずいとは思うが、不死川もそこまで馬鹿ではないだろう。いや、頭に血が上るとそういえば自分の体質がばれる危険も顧みずプールに冨岡を投げ込んでいたのだった。とはいえしのぶが止めるのは少し迷ってしまう。何せ元凶はカナエのリボンなのだから。不死川だって本心は欲しいと思っていることは間違いない。
「こんなところで交換するからよ。家でやれば良いのに」
「そんなあ、どうしたら良いの」
「帰っても良いと思うけど、待ってあげたら? ああ、一言伝えてね」
 カナエに駆け寄り耳打ちをした言葉に、そんなことで喧嘩が収まるのかとカナエは不安げだった。そう簡単に収まりはしないだろうが、自制はできるかもしれないし。しのぶは笑みを見せてさあと急かした。
「ええ……不死川くん、負けないでね」
 これで良いのかとしのぶへ目を向けるカナエに、大きく頷いて不死川を指した。カナエが目を向けた時、不死川の顔は茹でダコのように真っ赤になっていた。
「不死川さん連れてきてね。行きましょう冨岡さん」
「ええっ、置いていくの!? ちょっとしのぶー!」
 カナエの叫びを無視してしのぶは冨岡を引っ張り学校を後にした。

「……不死川は胡蝶のことが好きなのか」
「今頃ですか?」
「……前にしのぶのことが好きなのかと思ったことがある」
 学校を出て連れ立って歩き始め、人通りの少ない住宅街へと足を踏み入れた時だった。
 前とは。そういえば責任云々の話になっていた時、冨岡は不死川がどうたらと言っていたことがある。あれはそういう意味で口にしたのかと思い至り、しのぶは小さく笑ってしまった。
「あんまり奥手だから応援しちゃうんですよねえ」
 姉に近づく男子などすぐに蹴散らすところではあったが、強面があんなに初心な反応を見せるものだからやきもきしてしまうのだ。少しずつでも関係を変えていければ良いのだが、不死川ではもう少しかかるかもしれない。
「ところで、渡すものがないんです。何か欲しいものはあります? プレゼントとか」
 カナエが無理やりネクタイを奪ったような状態だったが、返すには勿体ない。冨岡もしのぶに渡すことには問題ないようなのでそのまま着けているのだが、在校生であるしのぶには代わりになるものが手持ちにはなかった。
「欲しいもの……ある」
「あるんですか。何ですか? 渡せるものなら良いんですけど、もしかして今渡せます?」
 鞄を広げて中身を見せようと顔を上げた時、近づいてくる冨岡の顔が視界に映った。
 以前の青い袋のように、作れるものならまた手作りを渡しても良いのではないか。欲などなさそうな冨岡が何を欲しがるのかと期待していたのが一瞬で吹き飛んで、しのぶはただ茫然として見つめていた。
 今、何を。驚くほど顔が近かった。唇に当たったものが何であるかを理解した時、一気に顔が熱くなるのを自覚した。
「な、な、何」
「やり直しを希望してたから」
「………!」
 今? 何で今。冨岡には良い雰囲気に見えたのか。やり直しはしのぶが希望したことで、欲しいものとは別ではないのだろうか。冨岡はしのぶが希望したものが欲しかったのか。あんまり急過ぎて何も言えなくなり、唸りながら両手で顔を覆った。
「……可愛いな」
 そんなこと今まで言ったことがあっただろうか。冨岡は猫のしのぶにはスキンシップを良くしてきたが、元の姿で自分から近づくことなどなかったのに。機会を図っていたのだろうか。それにしたって今なのか。
 可愛いと思われるのは嬉しいけれど、心の準備はさせてほしい。ここまで真っ赤になるのは初めて名前を呼ばれた時以来だった。あの時も予想以上に心臓に悪かったが。
「ごめん」
「いえ、別に……びっくりしただけで」
 深呼吸を繰り返して何とか気を落ち着かせ、頬の熱はまだ収まってはいないが平静を装うことにした。
「……姉に今から言うわけだが」
「は、はい」
 卒業パーティと称して集まるのは四人だけ。冨岡の家には今日姉もいるというので、その時に挨拶することは一応決めていた。しのぶの両親にはカナエのごり押しにより戸惑いながらも一応了承は得ている。体質を理解してフォローしてくれるし、何よりしのぶが良いと言うならと渋々納得していた。後は冨岡家に伝えるだけである。
「お前の体質は言っても良いのか」
「あ、そうですね……そうですよね。はい、それは」
 不安になってきた。突然現れたまだ十六になったばかりの小娘が、更に妙な体質を持っているのは冨岡の姉にとっては心配ではないだろうか。いずれは言わなければならないのなら早いほうが良いとしのぶも思うけれど。
「姉さんなら大丈夫だ」
 不安げなしのぶの様子を感じ取ったのか、冨岡は少し気にかけるような言葉を口にした。
 大丈夫。冨岡が言うならそうなのだろう。きっと驚きはするだろうけれど。
 目と鼻の先に迫った冨岡の家の庭で、猫のしのぶに優しく触れてくれた女性がいるのが見えた。
「あっ! 義勇おかえり。ごめんね、誰も通らないと思って」
 ホースを持っていることに気づいてすぐに逃げるべきだった。注意が散漫になっていたのは間違いなく冨岡のせいだったが、しのぶは滴る水滴と散らばった制服と荷物を地面に落としたまま、猫の姿でげんなりとした。
「あら? さっき女の子いなかった? ……あら、しーちゃん」
 隣を見上げると冨岡も水を被ったらしく、髪から雫が落ちている。卒業という晴れの日だというのにしのぶの不運が伝染ってしまったのではないかとぼんやり考えた。だとしたら申し訳ない。小さく鳴き声を漏らすと道端に落ちている服や荷物に不審がる女性が顔を向けていた。
「……風呂貸しても良い?」
「貸す? そうね、かかっちゃったもの。洗ってお家に帰さないと。ごめんね」
 相変わらず下着を見ないようにして服を拾い上げてくれる冨岡を眺め、もしやこのまま体質のことを教えるのかと考えた。確かに口頭で説明されても信じられないだろうけれど。ちらりとしのぶへ目を向けた冨岡が、どうすると小さく呟いた。
 先延ばしにしても良いことなどない。責任を取ってもらうなら必要なことである。しのぶが答えるようにひと声鳴くと体を持ち上げられ、冨岡の姉に手渡された。
「洗ってやって。服は……置いとく」
「良いけど、服? ごめんね、寒いでしょ。義勇も早く着替えてね、風邪引いちゃうわ。友達も来るんだし」
「うん。……たぶん驚くと思うけど、良い子だから」
 疑問符が大量に浮かんだのがわかり、女性に申し訳ない気分のまま浴室に連れて行かれた。
 家族以外でしのぶの体質を知っているのは冨岡と不死川だけだ。不死川は同じように姿が変わってしまう体質だし、すぐに理解を示していた。冨岡には偶然知られてしまったが、あれも教えるつもりなど毛頭なかった。今から体質を見せるとわかっていて浴室に行くのは緊張する。大丈夫だと言った冨岡を信じることにして、湯を出しているシャワーを甘んじて受けた。
「えっ!?」
 湯気の中から現れた全裸のしのぶに冨岡の姉は目を剥いて驚いていた。まあ当たり前である。何を言うこともできないようで、着ている服がシャワーに当たり濡れてきていた。
「す、すみません、こんな姿で……」
「………、え、え? 猫ちゃんは?」
「……私です」
「ええ? えーっと……あなたは、どなたかしら?」
 顎が外れるのではないかと思うほど唖然としている冨岡の姉に申し訳なく思いながら、しのぶは一応問いかけられたことに答えるべく名前を告げた。
「水、かけてもらっても良いですか?」
「………、え、水? 寒くない?」
「大丈夫です、慣れてるので」
 こんな時でも気遣ってくれる冨岡の姉に、冨岡が優しかったのは目の前の姉がいたからなのかと少しばかり微笑ましくなった。頷くと不安げにしながらも温調ハンドルへ手を伸ばした。
「!?」
 時期が時期なので寒くはあるが、これも理解してもらうためだと我慢した。更に驚いた冨岡の姉はシャワーヘッドを持って固まっていたが、やがて水を止めしのぶへと手を伸ばした。
「……しーちゃん、もしかして、猫娘なの?」
 かの有名な漫画に登場する妖怪のことだ。いや違う、しのぶは決して妖怪ではないし人間である。抱き上げてしげしげと眺めてくる冨岡の姉に何とかもう一度湯を出してもらえるよう必死に温調ハンドルを示そうとした。
 伝えたいしのぶに気づいたのか、抱き上げていた体を下ろした冨岡の姉に見えるよう温調ハンドルを前足で叩いた。湯を出せば良いのかと問いかけられ、伝わったらしくしのぶは安堵したように一言鳴いた。
「………、す、凄いのね、妖怪さんて」
「いえ、妖怪ではないです……」
 兎にも角にも体質のことは伝わったらしい。無理やり伝えたとでも言えそうだが、慌てて給湯器のボタンを押して浴槽に湯を貼ってくれる冨岡の姉に、優しいとじんわり心が温かくなりながら言葉に甘えて入浴することにした。

「そういうわけで、猫の正体がしのぶだ」
「驚き過ぎて顎が外れるかと思ったわ」
「すみません……」
 冨岡の服と新品だという蔦子の下着まで貸してくれ、突然現れた全裸の女に嫌な顔一つせず彼女はただ驚いたと口にした。
 今まで冨岡家に来ていた猫が人間であることを知り、蔦子は一生分驚いたと呟きながらしのぶへ目を向けた。
「しのぶちゃんは、ええと、知らない人に知られても良いの? 私は義勇の家族だけど、あなたからしたら関わったことのない人よ」
 何となくの人となりは把握できるくらいには知ることができているが、それでも知り合ったばかりであることは間違いない。しのぶの心情を慮ってくれようとする蔦子には、驚かせてしまったが伝えられて良かったとしのぶは思っている。
「いえ、その」
「責任は取るから大丈夫」
「せ、責任!? 義勇は何かしたの!?」
 うら若い女の子に一体何をと慌てた蔦子がしのぶに問い質すように叫んだ。もう少し段階を踏んで説明したほうが良いのではないかと普段なら窘めるところだが、焦った蔦子にしのぶもつい慌てて口を開いた。
「いえ! 助けていただきました! 体質を知ってもずっと気遣ってくれて、あの、わ、私、冨岡さんのことが好きでしたから、嬉しくて」
 廊下の窓から見える屋内プールで、誰よりも静かに速く泳ぐ姿を見ていた。カナエが友達だと紹介してきた時から妙に気になっていた。話す度に楽しいと感じるようになっていた。もっと仲良くなれたら良いと考えるようになっていた。そんな矢先に冨岡の家に辿り着き、風呂に入れられ体質がばれてしまったのだ。案外優しくしてくれて、離れ難くて迷惑をかけていたと思うけれど。
「何だ、そうなの? 可愛いわねえ、青春だわ」
「聞いてないんだが?」
「……言ってないですから……」
 しのぶの言い募る言葉を嬉しそうに受け止めた蔦子と、目を丸くしてしのぶを見つめた後不満げに呟いた冨岡に、いたたまれなくなって顔を覆った。
 言うつもりなんてなかったのに、冨岡が段階を飛ばして責任の話をするから口から飛び出てしまったではないか。
「そうなの。好き合ってるんなら良いのよ、しのぶちゃん、義勇をよろしくね。この子わかりにくいけど良い子だから」
「は、はい。知ってます」
「お邪魔虫になっちゃうから姉さん部屋に戻るわね。他の子たち来たら紹介してね」
 頷いた冨岡に笑みを向けて立ち上がった蔦子は、何かを思いついたらしくそうだと口にした。
「しのぶちゃん、たまに猫ちゃん触っても良い?」
「あ、はい……」
「良かった! 猫娘さんと会うのは初めてよ、凄いわ」
 鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌に見える蔦子がリビングから出ていく様子を眺め、説明したはずが勘違いされたままであることを知った。
 まあでも、無事受け入れてくれたわけで、むしろ好意的でいてくれているわけで。猫の姿を触られるのも、冨岡の姉である蔦子なら構わない。乾かしてくれた時のように優しく撫でてくれるのなら、しのぶも嫌がるつもりなどなかった。
「大丈夫だと言っただろう」
「……結構強行してましたけどね」
「実際に見ないと信じ難いのは間違いないから。それより」
 隣に座る冨岡がテーブルに頬杖をついてしのぶへ目を向けた。
 そういえば結構な時間経っているが、カナエと不死川はまだ着かないようだった。二人で過ごしているのなら邪魔するわけにもいかないが、何時頃に着くのだろうか。
「好きだったとは知らなかった」
 カナエから連絡でも来ているかとスマートフォンのロックを外した時、冨岡の言葉にびくりと肩を震わせた。
 いや別に、当初カナエが言ったことを深く考えていればばれたとは思うし、隠そうとしていたわけではないのだが。自分から言うのが何だか恥ずかしかっただけだ。
 冨岡の知り得ない話がもう一つある。それは今し方ばらしてしまったしのぶの気持ちのことだった。
 冨岡が気になると口にした時、不死川からは見る目がないだのとぼやかれたこともあるが、ひっそり人気があるから他の女子より先に仲良くなろうと提案したのはカナエだった。だからせっせと話しかけて人となりを知ろうとしていたのだ。
「いちいち蒸し返さないでください」
「……それこそ不死川のような良い男がもっといたと思うが」
「いませんよ」
 いたところでしのぶは冨岡が良いと思ったのだから知らない。知ろうとも思わない。知りたいと思ったのは冨岡しかいなかった。
「何度も迷惑かけても何度も助けてくれるのは、冨岡さんだけで良いです」
 裸を見ないようにしてくれたり、下着を隠して服を拾い上げてくれたり、しのぶが持っていろと手渡した袋を律儀に鞄に忍ばせていたり。周りにはそんな人が何人もいるかもしれないけれど、しのぶが知っているのは冨岡だけだ。しのぶが気になっていた男の子がそんな人だっただけだ。
「私の話はもう良いでしょ。冨岡さんはいつ好きになってくれたんですか」
「………。名前を呼んだ時だと思う」
 曖昧な言葉がついているが、振り返って考えた時にそう気づいたのだという。しのぶとしては狼狽えた記憶が思い起こされてあまり嬉しくないのだが。
「……俺が呼んだだけで照れるのが可愛かった」
 その狼狽えた反応が決め手だったのはどうかと思う。こちらは忘れてほしいというのに、忘れてしまったらしのぶへの気持ちもなくなりそうではないか。むすりとしたしのぶをぼんやりした目が眺めていたが、やがて堪えきれないとでもいうように笑みを見せた。笑顔を見るのは良いのだが、笑われるのは何だか癪だ。しのぶの髪へ伸ばされた手に緊張しながらも逃げないでいると、頬杖をついていた腕をテーブルから離してしのぶに近寄ろうとする。緊張と羞恥と期待を込めて目を瞑ろうとした。
 ぴんぽーん、と無機質な音がリビングに鳴り響き、固まったまま目と鼻の先にある冨岡の顔を見つめた。タイミングが良いのか悪いのか、恐らくカナエと不死川が来たのだろうことを察した。
「……遅かったな」
「……手こずったんでしょうかね」
 平静を装い二人して椅子から立ち上がりながら、ちらりと目を向けると少々不満げな表情をした冨岡がいた。しのぶも急いで顔を冷やそうと仰いでいるが、そんな顔を見せられては一向に落ち着かない。今のタイミングで邪魔が入ったことが不満なのかと思い至って、嬉しいのと恥ずかしいので熱が収まらなかった。
「ごめんね遅くなって。お邪魔します」
 何とか少しの頬の赤みまで抑え込みながら二人を出迎えると、何やらこちらも二人して真っ赤な顔をして玄関に立っていた。何事かと驚いたが、不死川は怒っているわけではないようだった。
「さてはうまくいきました?」
 しのぶの一言に不死川の肩が驚くほどびくつき、これ以上赤くなるなど無理だろうと思うほど首筋まで真っ赤になっていた。しのぶより照れている人間がいて落ち着きが戻ってくるという事態になっている。周りのことにまで気が回らないらしい二人は、しのぶの頬が赤いことに気づいてもいなかった。それならそれで非常に助かる。
「不死川さんは奥手過ぎますよ」
「うるっせェ……」
 大して顔色の変わらない冨岡よりは見応えもあるわけだが、ここまで照れられると相手もどうして良いかわからなくなってくるだろう。カナエはつられるように真っ赤なままだし、一体何をしたのやら。どうせ告白しかしてないだろうとは思っているのだが。まあ、手ぐらいは繋いだのかもしれないけれど。