不運は続くよどこまでも
毛のある動物が苦手だ。
できるだけ知られたくない事実ではあるが、動物を見ては逃げ出してしまうのだから必然的にばれるということもある。不死川には思いきり叫び声を上げてパニックを起こし雨の中走ってしまったし、冨岡には隠そうとしたけれど姉がばらしてしまった。まあ動物から距離を取っていたのでいずれはばれただろうけれど、冨岡も苦手だというので少しばかり安堵していたこともある。
不死川の犬の姿は頭ではわかっていてもやはり体が反応してしまう。これは不死川であると思い込んでも、でも犬よ、と頭の隅で小さく囁くのだ。おかげでいつまでも慣れないし、不死川にも申し訳なかった。
そんな不死川の背中に乗っていた小さな毛玉。
どこぞの公園で見かけたという茶色い子犬は、どうやら人間を怖がって怯えているらしい。姉が見つけたがなかなか近寄ってこず、仕方なく不死川は犬の姿で近づいた。ようやく出てきた子犬を背に乗せて胡蝶家へと戻ってきたのだそうだ。
なぜうちに。不死川の家に行けば良かったのに。怯えて鳴く子犬にしのぶは目眩を覚え、ふらつきながら玄関から離れた。家の前を通ったトラックが水溜りの上を走り、もはや溜息も出ないほどげんなりとしたしのぶは家から逃げ出した。
どうせ家の前だし、姉も不死川もいたし。姉なら服も荷物も拾っておいてくれるだろう。元々特に幸運とも思ってはいなかったが、ひょっとして自分は相当運が悪いのではないだろうかとまたぼんやりと考えて少し泣きたくなってしまった。
厄というのは良く続く。泣きたくなった時点で冷静さを取り戻していれば。目に入った窓がどこへ続くものなのかを調べていれば。とにかく注意も何もかも散漫だったのは間違いない。それもこれも全てこの体質が悪いし、しのぶが動物を好きではないことも起因している。
冨岡の家に走ってきたしのぶは開いている窓を見つけ、とにかく子犬がいなくなるまで匿ってほしくて飛び込んだ。何なら家に泊めてほしいくらいだったのだが、そのあたりは冨岡の都合も考えなくてはならないと、薄っすら残った冷静な思考がひっそりと考えていた。窓の縁に足をかけた時、その場でブレーキが掛かれば何とかなったところなのに。勢いがあり過ぎてそのまま窓の奥へと体が浮いた。白い靄が湯気だと気づき、その下に見えた驚いた目がしのぶを捉えた時、顔を歪めたのが見えた。
「、違っ、これは、」
「………っ、見ないから出ろ!」
ぼちゃんと飛沫を上げて水中に落ちた体が浮遊したのを自覚して、浴槽に張った湯から顔を出して冨岡へ言葉を掛けようとすると、目元を覆って掴んだシャワーヘッドをこちらへ向けていた。冨岡がしようとしていることに勘づいて弁解する暇もなく恥も忘れて浴槽から上がり、冷たい水が向けられるのを黙って受け入れた。水を止めてほしくて鳴き声を上げると、ようやく冨岡は不機嫌そうな目をしのぶへと向け、それはそれは大きな溜息を吐いた。
「……何でうちに来るんだ」
そんなの冨岡の家だからに決まっている。事情を知っていて理解してくれているのだ。少々甘え過ぎていたかと反省し、謝ろうと声を発した。しのぶを見つめた冨岡が眉を顰め、呆れたような溜息をもう一度吐いた。
「何を言ってるのかわからん」
疲れたような目を向けたまま、浴槽から手を伸ばした冨岡はしのぶの顎を指で撫でた。猫扱いに少々不満を感じながらもつい気持ち良さに喉を鳴らすと、目を瞬いてしのぶを観察するように見つめ、背中へと手を伸ばした。
誰かに何かを聞きでもしたのか、大きな手が背中を擦り尻尾の付け根を触り始める。抗議したくて声を上げても、優しく叩かれて無意識に腰を持ち上げてしまい、媚びるような声を発してしまった。
やめて。本当に。しのぶは猫になっているが猫そのものではない。なのに体が反応して気持ち良さに撫でるのを催促してしまう。必死に声を荒げようとしても口から漏れるのは蕩けたような声ばかりで、好奇心に満ちた冨岡は力の抜けたしのぶの背中から手を離さず、成程と納得したように一言呟いた。何が成程だ、中身はしのぶであることを知っているくせに。
「義勇、何騒いでるの?」
気持ち良い、と頭がそれだけになりかけた頃、脱衣所から女性の声が聞こえてしのぶは我に返った。冨岡の手が撫でるのを止め、腑抜けたしのぶの体を掬い上げてドアを少しだけ開けた。
「あら可愛い! どこで拾ったの?」
「窓から入ってきた。拭いてやってほしい」
「あらあら。この子と知り合いなの?」
脱衣所の先へしのぶを押し付けるように手を差し出し、朗らかに笑う女性はタオルを広げ、恭しくしのぶを抱えた。一体誰なのかとぼんやり鳴き声を漏らした。
「義勇が触れる子は珍しいわね。どこかの飼い猫なの? 綺麗な猫ね」
「ああ、ええと……胡蝶の猫」
へえ、と納得したような声を漏らした女性はドアを閉め、しのぶを包んで脱衣所を出た。
リビングのソファに座り、ようやく落ち着いたしのぶは優しい手つきで体を拭き始める女性を観察した。大丈夫だからね、とこれまた優しい声音でしのぶへと語りかけ、全身をタオルが包み込む。いつの間にか用意していたらしいドライヤーのプラグをコンセントに差し、しのぶが怯えないよう抱えながら声をかける。
「怖くないからね」
普通の猫なら逃げることもあるのだろうが、中身はしのぶである。ドライヤーが乾かすためのものであることもわかっているし、女性が配慮しながら風を当ててくれていることもわかる。ただ、猫の姿でドライヤーの音を聞くと、確かに逃げたくなる気持ちは理解できた。物凄く煩いのだ。
冨岡の撫でる手に媚びた猫っぷりを披露してしまったが、今回ばかりは猫のように引っ掻くことも逃げることもできなかった。恐らくこの女性は件の冨岡の、あの綺麗に敷き詰められた弁当を作る姉なのだろう。優しげな口調と微笑みが安心感を与えてくれる。愛想もなく口数も少ない弟と違い笑みを浮かべてしのぶへと声をかけてくれる。どんな人なのだろうと気にはなっていたが、こんなに愛らしい女性だったとは。
「はい、終わり! 良く頑張りました、良い子ね」
しのぶの体に顔を近づけてふわふわと呟く女性から離れる気にもならず、しのぶはされるがまま大人しく腕の中に収まっていた。義勇が動物好きだったら絶対飼ったのに、と小さく口にして、しのぶに笑みを向けて内緒よ、と人差し指を唇に当てた。
「どうしたの、そんな変な顔して」
「別に……」
眉を顰めてしのぶへ目を向けた冨岡が、少々疲れたような顔をしてリビングへと現れた。
風呂に突撃するなどというはしたないことをしてしまった身としては、気まずくていたたまれなくて申し訳なかった。元に戻ったらきちんと謝ろうと考えていると、女性は立ち上がり冨岡のそばへと近寄っていく。
「ほら、乾いて綺麗になったわよ」
抱きかかえていたしのぶを冨岡の目の前へと持ち上げ、女性はそのまま距離を詰めるようにしのぶの顔を冨岡へと近づけた。
「本当にこの子は大丈夫なのね」
「……まあ。大人しくしてくれるから」
「そう。義勇に会いに来たのかしら」
思考が止まったしのぶは動きも固まったが、野良だったら飼えたかもしれないと呟く女性は気づいていないようだった。女性の言葉に首を傾げた冨岡は悩むように唸り声を漏らしたが、そんなことよりしのぶは心中でパニックを起こして収まらなかった。
今、ちゅーさせられたんですけど。
猫の中身がしのぶであることを知っているくせに、冨岡は何も気にしていない様子を見せた。何故そんなに普通の態度でいられるのか。こちらはファーストキスだったというのに。あれか、姿が猫だからか。
唇に指を当て、眉を顰めて何かを摘んだ。毛が付いたと冨岡が恨めしげに呟くのを聞き、元に戻っていたら間違いなくしのぶは真っ赤になっているはずの顔を隠したくて、悶絶しながら女性の腕の中へと潜り込んだ。
「帰してくる」
「あら、もう帰しちゃうの? 残念。またおいで」
まだ悶絶している最中だというのに、冨岡は女性からしのぶの体を掴んで顔を覗き込んできた。不満を表して鳴き声を上げると、首を傾げて顎を擽られた。
そんなことでなかったことになどできるはずがないのに、喉を鳴らしそうになったしのぶは恨みがましく声を漏らして肩へと飛び乗った。
「猫の触り方聞いたの?」
「錆兎が教えてくれた」
「そう。懐いてるみたいだけど……今は何だか怒ってるみたいね」
前足で頬を何度も叩くと少し表情を歪めた冨岡は、しのぶの足を掴んで肉球を触り始めた。
だから、猫扱いをしてないでちゃんと中身のことを考えてほしいのだが。ふにふにと触れる冨岡の目が輝いて、どうやら初めて触った肉球の感触に感動しているらしい。そんなことをしのぶで試すなというのだ。
「にゃんっ」
手を振り払って肩から飛び降り、床に姿勢良く座って睨み上げると冨岡は少し罰が悪そうな顔をした。猫の触り方を試し過ぎたことを理解したのか、ごめんと一言謝ってきた。
「仲良いわねえ。私も仲良くなりたいわ」
「……姉さんなら大丈夫じゃないか」
「そう? だったら嬉しいわ」
指を差し出して呼びかけてくる冨岡を睨みつつ、しのぶはもう一度肩へと飛び乗った。良く考えなくても、そもそもが冨岡の入浴中に風呂に突撃したことが悪いのだ。気を落ち着かせて肩を借りて体を預けた。
そういえば慌てていて何も考えられなかったが、冨岡の裸をしのぶは目にしたのだった。湯気や入浴剤で湯に色がついていて殆ど見えなかったのが少しばかり不満だった。
いや別に、見たいというわけではないし見たくて飛び込んだわけでは決してない。だがこちらは余すところなく見られているのに公平さが足りない。女性に悪気があったわけではないがキスまでさせられて、慌てているのはしのぶばかりのような気もして何だか納得がいかなかった。
まあ、裸を見ないように目を隠してくれたし、かなり焦っていたようだし、湯に浸かっているからではない頬の赤みが見えた気もしたけれど、それでもやっぱり羞恥の頻度は公平ではないだろうと思う。
靴を履いて玄関から外に出て、操作していたスマートフォンをポケットに仕舞いながら、冨岡はしのぶを肩に乗せたまま歩き始めた。
「……誰かといても駄目なようだな」
ぐ、と喉をつかえさせ、しのぶは無視して尻尾を揺らした。首筋に巻きつけると眉を顰めたが、冨岡は何も言わず歩き続ける。一人の時間を減らしてこれではもう対処のしようがない。厄落としでも行くべきだろうかと少し落ち込んだ。
「ごめんね冨岡くん。相変わらず運がないみたい」
「……もう逃げ出さないようにしてくれ」
自宅の玄関先をきょろきょろと見回していると、もう帰ったわよ、とカナエは可笑しそうに含み笑いをした。だったら良いのだが。借りていた肩から姉の腕の中へとジャンプして振り向くと、冨岡はげんなりとしのぶを眺めていた。
「不死川か?」
「ええ、不死川くんと子犬ね。連れて帰ってもらったわ」
「子犬……」
「怯えててね、不死川くんに頼んでわざわざ犬の姿で助けてもらったの。しのぶは離れてたんだけど、トラックに水溜り引っ掛けられちゃって」
「……災難だな」
「そうなのよ、しのぶって運が悪くて。お祓いとかするべきかしら」
しのぶが考えていたことをカナエも口にした。気の持ちようであることはわかっているが、どうにも厄を拾ってきているような気分になる。少々凹んでカナエに擦り寄ると、落ち込んだかしら、と小さく声が呟いた。
「……次からは玄関から入って来い」
顔を上げて冨岡へ目を向けると、少し眉を顰めてしのぶを眺めていた。
次も行って良いのか。あまりに迷惑をかけて面倒になっていないだろうか。その見返りがあの猫扱いというのなら、尻尾の付け根さえ控えめに撫でてくれれば何とか受け入れる気はあるけれど。
「しのぶったらどこから入ったの?」
「……窓」
「あら、そうなの。ごめんね」
「いや。俺も触り過ぎたと思う」
驚いたカナエが何のことかと問いかけると、冨岡は友人から聞いた猫が喜ぶ触り方をしのぶに試したのだと告げた。あらあら、と口元を手で隠して目を輝かせたカナエの腕に力を込めて押さえても、背中を撫でるだけに留まった。だったら降りようと動き始めても、しっかり押さえ込まれて身動きが取れなかった。
顎を触ると喉を鳴らし、尻尾の付け根を叩くと聞いたとおりの反応をしたと冨岡が口にした。何てことを姉に報告するのか。
「猫の姿だとやっぱり感覚も猫になってるらしいから、気持ち良かったんだと思うわよ。ただ、やっぱり中身はしのぶだから、冨岡くんでも体を触られるのは、……ねえ?」
鳴き声を上げて騒いでも、カナエは手慣れたように顎を撫でて黙らせようとする。姉の手を噛むわけにもいかず、猫のこともしのぶのことも理解しているカナエの手は気持ち良かった。悔しい。
「人の手とか舐めたり嗅いだりしないでしょ?」
「………!」
しばし考え込んだ冨岡の表情が何かに気づいたように変わり、頬に赤みが差したのを目の当たりにした。カナエが困ったような笑みを見せ、しのぶはいたたまれなくて腕に潜り込んだ。
「まあでも可愛いからね、触りたくなるのもわかるわ。あんまり猫扱いすると怒るから、ほどほどに触ってあげて。冨岡くんなら大丈夫だから」
「……いや、うん。……触らないようにする」
「少しなら良いのよ、背中とか尻尾の付け根も。あんまりやると腰砕けになっちゃうから控えめにね」
何を教えているのだとカナエに抗議すると、揶揄うような声音で軽く謝ってきた。
どの程度触ったのかを知らないカナエは笑っているが、すでに腰砕けになってしまったところを見せてしまったしのぶは一刻も早く逃げたかったのに、相変わらず押さえ込まれてどうにもできなかった。
口元に手を当てて目を逸らす冨岡に、もしかしたら気づいたのだろうかと少々緊張してしまう。少しも狼狽えなかった冨岡に焦れてしまったものの、いざキスをしたことを自覚されたらそれはそれで恥ずかしい。しかも冨岡の姉にさせられたことだったし。
用は終わったとばかりにそそくさと帰る冨岡の背中を見送り、カナエはようやく家の中へしのぶを下ろした。喚くしのぶに笑みを向け、何を言っているのかさっぱりわからないと揶揄ってくる。風呂場へ向かうとドアを開け、湯の張っている浴槽へと飛び込んだ。
「泊めてくれても良かったのに。律儀ねえ」
「変なことばかり言わないでよ!」
「何が変なの? しのぶの触り方を教えただけよ」
触り方など教えなくて良い。友人から聞いたという猫の撫で方は、身を任せたくなるほど優しく気持ち良かった。恐る恐る手を伸ばして固まって、力加減に困っていた頃とはまた違っていた。あられもない声がしのぶの口から漏れていたわけだが、猫だったので冨岡にはただの鳴き声と判断されていた。
「冨岡くん家に着替え用意しておいてもらう?」
「……お姉さんに大変な誤解をさせそうだわ」
今日は冨岡の姉がいたことを伝えると、だから猫のまま帰ってきたのかとカナエは納得した。実際は風呂に飛び込んで容赦なく水をかけられ追い出されたのだが、あれも姉がいたのと冨岡自身の苦肉の策だったのだろう。
「どうせ責任取ってもらうんだし、良いんじゃないかしら」
「……さすがに段階を踏んで挨拶したいわよ」
どこから忍び込んだのかと印象を悪くしそうだし、そういうのはやはりきちんとしておきたい。いくら優しそうでも悪印象を持たれるのは嫌だった。
*
インターホンが鳴って玄関を開けると立っていたのはしのぶだった。目を丸くして見つめると、玄関から来たと昨日口にしたばかりの言葉を告げられ、納得した義勇は家へと招き入れた。
風呂場に飛び込むだけならまだしも、浴槽に落ちるのだけは勘弁してほしいと思っての発言だったのだが、在宅かどうかの確認はされていたものの、しのぶが元の姿のまま現れるということを失念していた。これを言えば不機嫌になるかもしれないので黙っておいたのだが、訝しむような目を向けられ気づかれたのかもしれないと少し身構えた。
「……すまない。姉が、余計なことを」
何ともいえない気分になりながら複雑な表情を浮かべて謝った義勇は、蔦子のしでかしたことを申し訳なく思いしのぶへと謝った。不機嫌そうな表情は変わらないのに、頬を染めて目を逸らしたしのぶは照れているのだろう、眉根を寄せながら呟いた。
「……冨岡さんは嫌そうでしたけど」
「いや、猫だったから……」
義勇にとって猫は苦手な動物だ。顔に近づけられて怖がらなかったのは中身がしのぶだからに他ならない。猫になっても人の声や話の内容はわかっているようだし、大人しくしてくれるしのぶは非常に助かりつい長々と触ってしまったが、しのぶであることを知っていてもやはり猫であることが頭に残る。蔦子の行動は止めるという思考にも行き着かなかったせいで口が当たってしまったが、義勇の試したい気持ちを優先させて触ってしまったことは反省していた。
「猫じゃなかったら違いました?」
「当たり前だ」
突然何を言い出すのか。目の前のしのぶの顔が更に近づいたら義勇としても非常に狼狽える。いくら姉がいて多少女子に慣れているといっても、しのぶの下着など視界に入れただけで狼狽した。どんな認識をしているのか知らないが、義勇は健全な男子高校生である。
「……ファーストキスだったんです」
カップをシンクで取り落とし、陶器がぶつかる音がした。眉間に皺が刻み込まれるのを自覚しながら義勇は額を押さえた。
姉に悪気はないが、だからといって自分が悪いのだろうか。まあそんな発想にならず止めなかったのは悪かったのだろう。息を吐いてしのぶへ目を向け、悪かったと一言謝った。
「別に良いんですけど。反応が普通だったから腹が立っただけで」
「猫だったからな」
胡蝶に言われるまで猫であることのほうが思考の比重が大きく、義勇はしのぶだとわかっていても当てられただけとしか認識しなかった。送り届けて自宅に帰ってきてからというもの、撫でてふにゃふにゃになっていたしのぶを思い出しては、あれは気持ち良かったのかとぼんやり考えてしまっていた。
胡蝶の言葉をふいに思い出すと、猫ではなく人の姿で腑抜けているしのぶの妄想が脳裏に過ぎってしまう。大きく首を振って必死に妄想を追い出すという行動を昨夜はしていた。今後は気をつけなければ、こちらとしても身が持たない。まあ、運がないのは間違いないようなので、一応無下にするつもりはないし、頼るために義勇の元へ来てくれるのは嬉しかったりする。
「これ、お姉さんに渡してください。手間を取らせたお詫びに」
飼い主からだとでも言って渡してほしい。菓子折りを差し出したしのぶが呟き、姉は猫を触れて喜んでいたし別に良かったのに、とひっそり思ったが、義勇はとりあえず受け取ることにした。その後も鞄を探っているしのぶを眺めていると、義勇の部活を待つ間の時間潰しに手芸部で作ったという青い布製の袋を見せてきた。
「前にジャージで制服を包んでくれていたので、袋があれば良いんじゃないかと思って」
「……水を被る前提だな」
「そりゃまあ。何もないなら良いんですけど、運がないので。私の服入れなくても、冨岡さんが使ってくれても良いですよ」
水溜りを踏んだトラックのことはもう仕方ないと諦めているらしく、今後また避けきれない何かが起こった時のために準備したらしい。
義勇が個人的に使うことも許してくれるらしく、手渡された袋を受け取って眺め、気分が浮ついたのを自覚した。
「……そうか」
もしかしたら口元が緩んでしまっていたかもしれない。礼を告げるとしのぶは目を逸らし、唇を尖らせてもじもじと指を遊ばせていた。
妙に目についたしのぶの唇に視線が向かうのを自覚して、義勇もつられるように目を逸らした。要らぬ情報を聞いてしまったのを思い出し、溜息を吐いて袋をテーブルへと置いた。
ファーストキスとかそういう情報は胸の内に仕舞っておけば良いのに、しのぶはやはり恨んでいるのだろうか。別に良いとは言ってくれたが、女子にとって初めてというのは何事も大事だと姉も確かに言っていたことがある。それなのに猫の姿で、相手は義勇、姉に持ち上げられて無理やりだったことは確かに嫌だっただろう。
責任を取るべきだろうか。しかし、これ以上どう責任を取れば良いのか。全部見た結果が今の二人の関係なのだから、それに含めてしまって良いのだろうか。
「……相殺にならないだろうか」
「え? 何がですか?」
義勇の思考はしのぶには伝わっておらず、首を傾げて不思議そうにした。
良く考えれば風呂に飛び込んできたしのぶは義勇の全部を見たのではないだろうか。男なのだから見られても大して気にはしないが、さすがに急所を見られた可能性があるのはいただけない。風呂場に飛び込んできた詫びということで姉の所業は相殺にしてもらえないだろうか。
「……それとも風呂に飛び込んできたしのぶが被害者になるのか?」
「………? あ。い、いえ! 冨岡さんの裸は見てませんから! 見えなかったですし……」
若干の残念さが滲み出ている気がするが、男の裸などしのぶが見ても喜ぶわけがないと思うし、姉の入れた入浴剤が仕事をして見えなかったようだ。それならそれで助かったが、ということは別に責任を取らなければならないのかもしれない。
「相殺って、どういうことですか?」
素直に口にするのは憚られたのだが、聞かなければどう許してくれるのかもわからなかった。目を見れば言いたいことをわかってくれる錆兎が恋しくて仕方ない。
「……ファーストキスだとか言っただろう。責任が発生するのかと」
頬を染めたしのぶが固まり、動くまで待っていると少々胡乱げに義勇を見上げてきた。機嫌を損ねたように見えて、何か駄目なことを言ったのかもしれないと考えた。
「冨岡さんのお風呂に飛び込んだこととファーストキスが相殺になると? いえ、悪かったとは思ってますけど、私は何も見えなかったのに」
「いや……見たかったのか?」
「そんなわけっ、……いえ、ないです」
ならないかなあと思っただけで、しのぶが駄目だと言うのならそれは諦めるつもりもある。そういう考えが不機嫌にさせる原因だったとしたら、最初から義勇はしのぶを怒らせているのだろうが。
「これ以上どう責任を取れば良いのかわからない」
「いえ、迷惑をかけてるのは私ですし……」
「触り過ぎた」
遠慮なく触ったことを反省してもいるので、そのあたりのことを踏まえるとやはり義勇は何か埋め合わせをしなければならないのではないだろうか。しのぶは頬を染めて怒ったような顔を見せたが、相変わらず少しも可愛さ以外の性質は存在していないような奴だった。何故怒りを見せてすら可愛いのか理解できない。
「責任……責任というなら、やり直しを要求します。何とも思わなかった罰として」
義勇の反応が不満だったらしい。それに関してはもう胡蝶から言われて理解したが、猫の姿だとどうしても気持ちが猫を見る目になってしまうのだ。しのぶであることはわかっているし、しのぶでなければ猫を触ろうとすることもない。
大体、罰というがそれは義勇には罰にはならない。そのあたりは良いのだろうか、考えなくても。
据え膳扱いをしても。
「……今か?」
相手が自分で良いのかと思うことは何度もあるが、義勇でなければ言わなかったというのだから、それについては信じることにした。こうしてやり直しを要求するくらいには好かれているのだろうし、しのぶがしたいというのなら拒む理由もない。正直触りたいと思うのは義勇も同じで、彼女のことは。
そこまで考えて義勇は思考を止めた。口元に手を当てて考え込んでしまい、頬を赤くしたまま義勇を覗き込むしのぶが視界に映っていたが、何かを口にする余裕がなかった。
彼女のことは、何だ。人気のある可愛い女子であるしのぶに言われては誰も断ることなどしないのだろうとは思っていたが、それとはまた少し違う理由があるような気がする。思考の続きを思い出すように追い、義勇は眺めてくるしのぶを無視して黙り込んだ。
据え膳だとか罰だとかいう以前の話。健全な男子である義勇にとって、したいと言われることに否を突きつけるほど聖人君子ではない。眺めていると可愛いし、好きだとも思っている。触りたいと、まあ思うこともある。今までしのぶ以外にそう考えるほど女子とは仲良くなかったのだが。
彼女のことは、好ましいと思っているし、一緒にいたいと思っている。名前を呼んでも照れなくなってしまったのが残念で、またあんなふうに義勇のしたことで真っ赤になる様子を見たいと思っていたのも。
目にすることを待っていた真っ赤な顔を目の当たりにして、義勇は今ようやくしのぶに向ける感情が特別なものへ変わっているのを自覚した。
「冨岡さん?」
「………、……何でもない。やり直すのか」
「……聞かないでください。そ、そういうのはもっとこう、雰囲気のできた時に……何ですかその顔。夢見がちとか思ってます?」
「思ってない」
突っ込まれた自分の顔がどんな表情をしていたのかは義勇にはわからなかった。ただみっともなく悶絶しそうになるほど可愛いと思っただけだが、それを表情の下に隠しきることができていなかったようだ。
別に、可愛いと思っていることは隠さなくても良いのかもしれないが。