噂と呼び名と下着の話

「まだそんなのがまわってるのか」
「知らねェ奴にまで弁解なんざできねェだろ」
 胡蝶の妹を巡っての痴情のもつれだとかいう噂は、不死川が凄んでクラス内は一応落ち着きを見せていた。錆兎も聞かれた時は否定してくれているらしく、理解してくれる友人はいつも有難かったが、これほど拝みたくなる気分になったのは初めてだった。
 睨みを効かせた不死川を恐れ、義勇に問い質してくる男子は多かった。特に同学年の者たちは顔色を変えて聞いてきていたので弁明をしようと口を開くと、胡蝶が口を挟んで女子は目を剥き、男子は落ち込んで戻っていく様子が目の前で繰り広げられた。痴情のもつれではないことだけを伝えようとしても、胡蝶はついでとばかりに妹とそういう関係なのは義勇だけだと笑みを浮かべて付け足すのだ。不満げに睨んでも堪える様子も見せず、万人が見惚れるような笑みを見せて事実だからとにべもなく突き放す。不死川から存分に否定されたことで、彼が妹を恋愛対象として見ていないということは納得したらしい。
 それはそれで良いのだが、本人はここまで姉自ら話を触れ回っていることはどう思っているのだろうか。
「しのぶから聞いてない? 噂出てから物凄く告白増えちゃったのよね」
 大変そうだ。義勇は人気のある者たちの噂事情など知らないが、どうやら義勇と不死川よりも自分が幸せにできるなどと口にして言い寄ってくるのだそうだ。成程、と頷くと胡蝶は少し困ったような顔をした。
「冨岡くんだったら減るかなって思ってたんだけど」
「何で減ると思えるんだ」
「うーん。やっぱり痴情のもつれが駄目だったのかしら」
 義勇の問いかけには答えないまま、胡蝶は考え込みながらぶつぶつと呟いて歩いている。胡蝶は今日不死川と昼食を取るから食堂に向かうと一言口にして、二人と別れた義勇はまた歩を進めた。
 食堂よりも人が少ないとはいえ、中庭という場所にも人の目はある。会話を聞かれてとんでもない尾ひれがつくのは嫌なのだが、胡蝶も妹もそのあたり加味してはくれないようだった。
「冨岡さん。えっ、何ですか?」
 それなら人気のないところで食べれば良い。義勇が胡蝶の妹と昼食を摂ることはもう決定事項のようで、断るという選択肢は与えられなかった。それは別に良いのだが、一挙手一投足を観察されているような気分になるのはもう勘弁願いたい。中庭付近で見つけた胡蝶の妹の背中を押し、人気のない非常階段で食べることを提案すると困ったような顔が頬を染めて義勇を見上げ、照れたように目を逸らした。
「もう尾ひれがつくのは嫌だ」
「……ええ、そうでしょうね」
 今度は少し不機嫌そうに唇を尖らせたが、胡蝶の妹は義勇が促すままに非常階段へとついてきた。
 秋も深まり肌寒くなりはしたが、昼間の日向は暖かい。日陰で風が吹けば寒く感じるが、天気が変わっても階段には屋根があるから問題はなさそうだ。小さく息を吐いて階段に腰を下ろすと、妹も義勇の隣へと座った。
「尾ひれって?」
「……胡蝶の妹が不死川の暴力に耐え兼ねて俺に泣きついたとか」
 吹き出した妹が取り繕うように口元を隠して顔を背けた。あのプールにぶん投げられた日から不死川とは割と言葉を交わすようになり、案外女子には優しい人間であることも知った。胡蝶や胡蝶の妹には更に優しく、妹が暴力を振るわれるというところに笑ったのだろう。まあ義勇ならば恐らく殴られることもあるだろうが。
「成程、そんなことになってるんですね。道理でやけに言われると思いました」
 何を言われたのかと問えば、暴力的な男もそれを止められそうにない男もやめて自分にしておけと懇願されることが増えたらしい。告白が増えたとは聞いたが縋りつかれて泣かれるのは初めてらしく、妹は困惑しながら断っていたのだそうだ。
「冨岡さんされるがままでしたからね。何もできないと思われても仕方ないかと」
 義勇は運動部ではあるが武道や格闘技を習っているわけではない。殴り掛かられたとしても力任せで止められなければ手など打ちようもなく、胸ぐらを掴む不死川の力がやけに強かったことを思い出した。
「まあ不死川さんは殴り合いの喧嘩したら良い勝負できそうだとか言ってましたけど。ああ、これは黙っておくように言われたんでした」
 うっかりです、と呟いた妹を見ながら首を傾げると、どうやら不死川は不死川で義勇の体幹に驚いていたらしい。普通に立っていただけだし、結局不死川に引っ張られていたのだから勝ち負けでいえば負けている。別に腕力で不死川に勝ちたいとも思ってはいないのだが、何となく認められているような気分になってしまった。
「お前といると驚くことばかりだ」
 慣れない噂に名前が上がり、突っかかられることの多かった不死川と話すようになり。姉の作った弁当を開けて手を合わせると、隣から興味深そうに覗き込んでくる。綺麗に敷き詰められたおかずが珍しいのか何なのか、眉を顰めて何だと問いかけると、妹は何でもないと引き下がった。
「私といるの嫌ですか」
「嫌じゃない」
 噂になるなど初めてのことだし、更に相手が胡蝶姉妹のような目立つ者たちであれば、近くにいる義勇にも視線が向くのは良くわかる。事務的なことを話しかけられるだけで一身に視線が集まっていたし、もうそういうものなのだろうと思っていたが。
 視線の中身までは気にしていなかったが、殺意も感じたし噂の内容も割と下世話だ。面倒ではあるが、別に胡蝶の妹自体が嫌というわけではなかった。
「不死川と話すようになったのは嬉しい」
 むっとしたまま呆れたような溜息を吐き、相槌を打った妹は箸を動かし始めた。何やら機嫌を損ねたらしいが、一緒にいるのは嫌じゃないと伝えたばかりである。何をやらかしたのかわからず、義勇は隣を気にしながらも弁当へと意識を向けた。
「ところで」
 食べ終えた弁当箱を袋に詰めながら、胡蝶の妹は眉根を寄せて笑みを見せた。明らかに不機嫌ですと言いたげな表情に、義勇は片眉を反応させて目を瞬いた。
「私の名前知ってます?」
「知ってる」
 胡蝶の妹の胡蝶しのぶだ。今更何を問うのかと思ったが、義勇が答えると良かったと口にしたものの、不機嫌さは残ったままだった。少しばかり不穏さを感じて眉を顰めると、一層笑みを深くする妹の顔が見える。なのに少しも楽しくないだろうことが伝わってくるのは不思議だった。
「お前とか妹とか、いい加減ちゃんと呼んでほしいんですけど」
「……ああ。悪かった、胡蝶」
「いや、名字……クラスメートの妹なんですから、ややこしくなる呼び方はやめましょうよ」
 こめかみに青筋が立つのが見えたが、深呼吸して頭を押さえる胡蝶の妹は苛立ちなのか呆れなのかもわからないような反応をした。
 確かに、クラスメートである胡蝶の妹という認識でしかなかったせいで、良く考えれば一度も名前を呼んだ試しがなかった。特に呼ばなければならない場面もなかったからだが、失礼だったことは反省しなければならないだろう。
「しのぶ」
 こちらが驚くほど肩を震わせて、頭を押さえたまま動かなくなった。大丈夫かと声をかけても、腕で顔を隠しながら何でもないと口にする。
 何でもないようには到底見えない。首筋も何やら赤くなっているし、無理やり顔を覗き込むと真っ赤な顔が泣きそうに顰められていた。
「……や、やっぱり名字で良いです」
 日陰なのに熱中症にでもなってしまったかなどと、馬鹿みたいなことを考えかけていた義勇は目の当たりにした反応にしばらく思考が固まった。
 首筋まで赤く染めて照れる様子に、そこまで照れなくても良いのではないかと頭の隅で小さく考えたのに、脳の大半を感想に費やしてしまった。たった一言しかなかったのに。
「……ああ。いや、ややこしいのは間違いない」
 だから今後も名前を呼ぶ。殆ど無意識に呟くと、しのぶは真っ赤な顔のまま怒ったようにむくれた表情で頬に手を当てた。
 瞬きをしても思考を再開させてみても、義勇の目に映る人物から全くもって目を離せなくなった。たった一言、それを考えたことは今までに何度もあったはずなのに、今まで以上にそれしか考えられなくなってしまった。ただの感想、出会った当初からわかっていたことだったはずだ。
 まあ、義勇が名前を呼んだだけで真っ赤になった胡蝶の妹が可愛いなど、今初めて知ったのだが。
 見ていたくなったから名前を呼ぶことにしたのであって、別に嫌がらせというわけではない。目を見てわかってくれるのは姉と錆兎だけであり、義勇の心情など本人には伝わっていないかもしれないけれど。

*

「……運がないな」
 小さな毛玉が目の前に現れた時、義勇は無意識に身構えた。
 見覚えがある白黒の猫は、毛皮がしんなりと濡れたまま恨めしげに義勇を見上げていた。水に塗れて路地裏に散らばっている服を眺め、水分で色の変わったアスファルトを眺め、窓が閉められる音を聞いた。
 歩いていた義勇の目の前に飛び出してきたのは胡蝶しのぶだ。運悪く窓から捨てられたらしい水を引っ被り、幸い路地裏という人通りの少ない場所で猫になったようだ。たまに義勇も通る道は学校からの近道でもあり、偶然通っていたところに水を捨てられたのだろう。厄日か何かかとぼんやり不憫に思い、溜息を吐いて鞄を弄った。
 さすがに女子の制服を手に持って道端を歩く勇気はないが、都合良く袋があるわけでもなかった。仕方なくジャージに包んで持ち帰ってやろうとしたのに、スカートを掴んだ時叫ぶような鳴き声を上げて義勇の腕に飛びかかってきた。
 勘弁してほしい。いくら中身はしのぶだとしても動物であることに変わりはなく、一介の猫のような仕草をされては義勇も困る。大人しくしてもらいたくて引っ掻かれた腕も無視してスカートを持ち上げると、ひらりと白い何かが落ちた。
「………っ、」
 暴れる猫を制して目にしたのは、人間ならば大抵は皆身に付けているものだった。スカートの下から出てきたのもまあ理解できる。年頃の女子の下着など、見られて恥ずかしいから引っ掻いてしまったのも。
 白か。いや違う。となれば上着とブラウスを拾う時も恐らく現れるのだろう。考えると羞恥で頬が熱くなり、額を押さえてできるだけ見ないようにしながら拾い上げ、靴もついでにジャージへと包んだ。
「傘を常備したらどうだ」
 眉を顰めて呟くと、にゃあにゃあと文句を言うように猫が騒ぐ。乱雑に鞄に突っ込んでしのぶの荷物も拾ってから適当にタオルで体を拭いてやると、気分は落ち着いたのか義勇の肩へと乗ってきた。
 これはしのぶだ。猫の形をしているがクラスメートの妹である。目を瞑って自ら思い込ませるように何度も脳裏で呟き、息を吐いて義勇は立ち上がった。
「頭に乗るな」
 前足を頭に乗せられる感覚に思わず注意すると、猫は大人しく引っ込めて肩に寝そべるように落ち着いた。首筋に巻きつく尻尾に何ともいえない気分になりながら歩き始めた。
「あ、義勇くんだ! わー可愛い! 猫飼ったの?」
 歩道の先から声をかけてきた小学生は、義勇と肩の猫を見てはしゃぎながら飛び跳ねた。触りたいと騒ぐ少女を歩道の端へと誘導し、生垣に腰かけて手が届くようにした。
「知り合いの猫だ」
「義勇くんに懐いてるの? 美人だねえ」
 手の甲を近づけて匂いを嗅がせるのが猫相手の礼儀らしいが、嗅ごうとしないしのぶに首を傾げつつ少女は指で猫の額を撫でた。大人しくされるがままになっているが、逃げ出したらまた何か起こるかもしれない。さすがに道端で湯を被るようなことはないだろうが。
「あまり触ると嫌がる。無理をさせるな」
「動物なのに優しいね義勇くん。友達になれたの?」
 懐いてるもんね、と楽しそうに猫を覗き込みながら問いかけてきた少女の言葉に、義勇は少しばかり考えた。
 関係性でいえば友達などすっ飛ばして良くわからないことになっているが、仲良くなっているとは思う。昼食を一緒に食べるようになったし、色々と話をすることも増えたし、眺めていると可愛い。最後のはあまり関係ないが、見つけたら保護してやろうと思うくらいには以前より関係は深くなったのだろう。
「そうだな。大事だから優しくしてくれ」
「ふふ、引っ掻かれてる。わかった!」
 少女は控えめに猫を撫で、満足したのか義勇に手を振って別れた。どうやら友達と遊びに行くらしく公園に行ってくると告げ、義勇も手を振り返して家路に着いた。
 近かったから家に帰ってきたが、良く考えれば胡蝶家へ送ってやれば良かったのかと思い至った。どうせ今日も蔦子はいないのだからまあ良いかと思い直し、風呂場へ直行して浴槽の縁へ猫を下ろし、蛇口を捻りシャワーから湯を出した。タイルの上にシャワーヘッドを置き、そのまま浴室を出て脱衣所でタオルを用意する。制服はどうするかと悩み、濡れているので洗濯機に突っ込もうとしてまた悩んだ。あれだけ暴れて引っ掻いて来たのだから下着を見られるのは嫌だろう。もう元に戻っただろうかと考えて声をかけた。
「制服は洗濯して良いのか」
「あ、あの、私が見ますから大丈夫です。置いといてください」
 慌てたような声音が聞こえ、義勇はわかったと声をかけて脱衣所を出た。着替えが必要であることに気づき、部屋へと戻って荷物を置いてから適当に服を取り出した。脱衣所へ服を置きリビングへと戻り、ようやく義勇は大きな息を吐き出した。
 風呂から上がったしのぶは居心地悪そうに眉をハの字にして、もじもじと服の裾を掴みながらすみませんと謝ったあと礼を口にした。すでに体質は知っているし、被りたくて水を被ったわけではないだろうこともわかっている。首を振って問題ないことを示したが、しのぶの表情はあまり変わらなかった。
「さっきの子は妹さんですか?」
「真菰は錆兎の妹だ」
 義勇の友人のことは認識しているらしく、名前を告げると納得したように頷いた。昔から知っている錆兎の家には良く遊びに行っており、その際年の離れた妹がいることも教えてもらっていたし、何なら三人で遊ぶことも良くあった。真菰は人見知りもなく物怖じせず、義勇とも良く話をしたりと仲良くしている。
「そうですか……」
 風呂上がりだからか頬が赤く、落ち着きのない素振りを見せたしのぶに首を傾げたが、何でもないと手を振って話を逸らすように話題を挙げた。
「そ、そういえば冨岡さんの視界が高くて、ちょっと羨ましいですね。頭の上に乗ろうとしたら断られてしまいましたが」
 頭に前足を乗せたのは視界の高さを確認したかったかららしい。義勇は特別背が高いというわけではないが、胡蝶よりも背が低いしのぶとしては憧れるものがあるのだそうだ。そういうものかと頷くと、背が低くて得をしたことがないと呟いた。猫の姿も小さいのは元々の体格が反映されているのだろうか。不死川の身長は義勇と数センチメートルの差しかないが、大きな犬だったとぼんやり考えた。
「あと、すみません。また引っ掻いてしまって……」
「……ああ」
 思い出して腕を見ると、また血が滲んで線が走っていた。慌てていたのだから仕方ないと思っているが、しのぶはまた責任を感じてしまっているらしい。
「別に、部活でも怪我はするから気にしてない」
 水泳部に所属している義勇はたまにふやけた足を引っ掛けて流血することもあるし、何なら普段の生活でも包丁で指を切ったこともある。腕や顔に傷がつこうと男なので大して気にはしないのだが、まあ蔦子が見れば心配するので気をつけるようにはしている。とはいえ猫に引っ掻かれた傷など心配するようなものでもない。動物に手を出して怪我をしたと言えば、蔦子は恐らく笑うだろうし。
「また傷物に……」
「その言葉はおかしい」
 相変わらず妙な言葉で義勇への申し訳なさを伝えてくる。眉を顰めて頭を押さえた義勇は、迷惑ばかりかけていると呟くしのぶへ視線を向けた。水にさえ気をつければ日常生活は問題ないようだが、やはり今日のように突然何かが起こることもあるらしい。
「理解者という話だった」
 瞬いた目が義勇を眺め、違ったかと一言問いかけた。少し迷うように視線を彷徨わせたが、綻ぶような笑みを見せた。
 少し前から本当に、しのぶを見ていると驚くような顔を見せる。ただの笑顔で顔を見るたびに浮かべていたはずなのに、毎度初めて見るような気分になっていた。
 眉を顰めて目を逸らした義勇に不思議そうにしたものの、在処を覚えたらしいしのぶが救急箱を取り出して義勇の腕を掴んだ。
「引っ掻き傷で消毒は……」
「黙っててください、気が済まないだけですから」
 促されて椅子に座り、消毒液に若干の痛みを感じながらしのぶを眺めていた。

sideしのぶ

 大事だから優しくしてくれ。
 そう口にして小学生に笑みを向けた冨岡を眺めて、しのぶは文句を言うこともできず固まった。
 大事。大事って? 肩に乗って視界の高さに感動していたら小学生の女の子と親しげに話し出し、生垣に座ってしのぶを触らせようとした。誰なのかと気にはなったが中身がしのぶであることは冨岡も知っていて、注意を受けた小学生は言われたとおりに優しくしのぶの額を撫でた。楽しそうに笑う女の子は可愛らしく、冨岡とも仲が良いようで、苦手なはずの動物が肩に乗っていることに不思議がっていたものの、友達になれたのかと微笑ましそうな顔をして問いかけていた。
 和やかな会話の中で口にした冨岡の言葉は、しのぶにとって驚きをもたらしたしどう向き合えば良いのか迷ってしまった。
 そりゃあ、責任を取ってくれるという話に落ち着いたのだから、好かれていないとは思っていない。まだはっきりとしのぶに恋愛感情を向けているとは言い難いけれど、嫌われていないことはわかっている。自分の体質で迷惑をかけ続けるのはしのぶとしても申し訳ないのだが、下着を見ないようにしながら服を拾ってくれたし、扱いは雑ではあったが体を拭いてもくれた。優しいと思うし気遣ってくれてもいることは理解しているし、嬉しい。
 まだお子ちゃまの感情しか向けられていないと考えていたのに、大事などと言われてしまってはしのぶも困った。そういうのは面と向かって本人に言ってほしい。まあしのぶはその場にいた上に、言われても恐らく狼狽えて照れるだろうけれど。
 持ち帰られて風呂場に直行した冨岡は、しのぶを浴槽の縁に下ろしてシャワーを出して浴室を出ていった。すでに全部見られたあとで、実はそのまま湯をかけられてまた見られるのではないかと不安になっていたのだが、冨岡はしのぶが自ら湯を被れるようシャワーを出して準備しただけで出ていったのだ。縁からタイルの上へ軽やかに降り、シャワーに当たると本来の自分の体が戻ってくる。座り込んだしのぶはシャワーヘッドを手に取りながら、頬の熱が収まらないのを自覚していた。
 雑な扱いをするくせに、しのぶに配慮して気を遣う。迷惑をかけているのだから放っておかれても文句など言えないのに、心中唸り声を上げたしのぶは心穏やかではいられなくなった。
 しのぶのことが大事。鈍い冨岡は気づいていないのだろう、自分がどれほどとんでもないことを口にしたか。
 運のない自分などどうでも良くなるほど、しのぶは冨岡の言動で頭がいっぱいになってしまった。
 その後、制服の洗濯は家ですることにして、脱衣所に放置されたジャージに包まれた自分の服を拾い上げた。水に濡れた制服で鞄が汚れないようにするためのものなのだろうが、何ともいえない気分で抱え込んだ。
 靴も巻き込んでいるのでジャージは確実に汚れてしまっているし、これもしのぶは持ち帰って洗濯することにした。今日洗って明日の朝返せば授業があっても大丈夫だろう。またも引っ掻いてしまった冨岡の腕を思い出しながらしのぶは脱衣所を出た。顔を見ると目を合わせづらく、少々落ち着きがなくなってしまったが、手当をしてからは少しましになっていた。
 姉の趣味らしい紅茶を淹れ、しのぶへ差し出した冨岡へ礼を告げてカップを口に運ぶ。
 安堵するような息を吐いて受け皿に戻すと、冨岡の目がぼんやりとしのぶを眺めていた。美味しいと感想を口にすると、そうかと気に留めた様子のない返答をした。
「一人で出歩くのは止したほうが良いんじゃないか」
 都合良く誰かに荷物を拾ってもらえない場合もあるし、良からぬ輩に服を拾われて売り払われたりされても困る。
 だからといって四六時中誰かと一緒にいるなど難しい。姉は言えば一緒にいてくれるだろうが、彼女にもプライベートな付き合いというものもあるはずだ。それは誰に頼もうとも同じなのだが。
「まあ、それもわかるんですけど。登下校は誰かと一緒にいるべきでしょうか……」
 猫の姿を知っているのは家族と冨岡、不死川くらいだが、冨岡はともかく不死川に落とした服や下着を拾われるのは嫌すぎる。冨岡にだって触られたくはないのだが、もう今更な気もするし責任は取ってくれるのだから諦めることにした。羞恥が収まるわけではないが。
 むしろ姉は不死川と一緒にいることをおすすめしたいので、やはり必要以上に姉妹で行動するのはやめておくべきだろう。妹がいては不死川も動き辛いだろうし、こちらも要らぬお節介を焼きたくなってしまうだろう。
 ふと目の前の冨岡に目を向け、理解者という言葉を脳裏に過ぎらせた。そうだ、それならば冨岡がしのぶと一緒にいてくれれば良いのではないだろうか。まあこれ以上迷惑をかけるのは忍びないのだが、お詫びに何かできることならしのぶもしてやりたいし、配慮してくれるとはいえ下着も裸も見られてしまったあとである。また面倒事を持ち掛けるのは申し訳ないが、しのぶも色々と考えることがあるのだ。不死川の恋を応援したいし、冨岡以外に下着を見られるのは嫌だし。
「冨岡さん、次から一緒に登下校しませんか」
「……放課後は部活がある」
 そうだった。知っていたことを口にされ、しのぶは思い出して少し落ち込んだ。
 水に近づけないしのぶは校舎の廊下の窓から眺めることが多かったが、放課後は水泳部の練習があった。見ていれば時間は過ぎるから待つのも良いのだが、さすがにそこまでしては気になってしまうだろうか。
 大きな飛沫を立てる周りに混じって、やたらと静かに泳ぐ姿を良く見ていた。
 クロールだったのかと驚くほど飛沫は最低限で、飛び込んだと思ったらいつの間にか反対側の壁へと着いている。ヒレでもあるのかと馬鹿なことを考えたくらい、速く静かに泳ぐ姿はしのぶの目に珍しく映った。
 それを眺めるのは嫌いではなく、むしろ進んで見るくらいには楽しみにしているのだが。
「大人しく待てるのか?」
「私別に大人しくしてないから水被ってるわけじゃありませんよ」
 そうかと一言呟いて、何を考えたのかふと口元を綻ばせた。落ち着きがないと思われていてはしのぶも文句はあるのだが、見せられた笑みにぐ、と言葉が詰まった。笑われたことに不満を感じたのに、言い返すには少し勿体ないと思ってしまった。珍しく愛想を出しているせいである。
「まあ、集中していればすぐですよ」
 しのぶが所属する手芸部は運動部よりも早く終わるが、残りの待ち時間は図書室ででも潰せば良いだろう。
 本当は園芸部に入りたかったのだが、水を扱う部活はやはり避けるに越したことはない。もし見られて校内新聞にでも載せられたらたまったものではないし。
 部活のない日は姉の時間をしのぶに貰おう。週に二日程度だし、しのぶのいない時に仲を深めてくれれば不死川の邪魔をしても構わないだろう。
 今日はジャージを袋代わりにさせてしまったことを思い出し、しのぶは部活中、袋でも縫おうかとぼんやり考えた。冨岡に渡して鞄に潜ませておいてくれれば、水を掛けられて猫になっても荷物の回収ができる。まあ、手間はかけさせてしまうことに変わりはないのだが。
「冨岡さん、好きな色とかあります?」
 首を傾げた冨岡は悩むように天井へと目を向け、短く青と呟いた。似合うな。想像しなくても納得できる。誂えたかのように冨岡には青が似合うと感じていた。
 成程、と呟くと眉を顰めた冨岡は何かを言おうとしたようだが、結局何も言葉にしないまま口を閉じた。